2011年12月30日金曜日

12/29

レビュー『トを削ぐ』

年末になり、東京にいる友達と連絡をとったところ、こころに効くくすりの話をするのでびっくりした。思考の循環を断ち切ることができるのだ、と。生きているというのは別にしょうもないかもしれないけれど、そういうしょうもなさ、退屈さがいいんじゃないの、と言うと、そういうことを思うことも過ぎた、と言う。確かに僕が言っていることは、「かっこいいことはなんてかっこわるいんだろう」というような、価値が転倒することを良しとするレトリックのように見えてしまうような、それ自体が弱点を持った言い回しだったかもしれない。

その日はなんとなく手持ち無沙汰で、古本屋をうろちょろしていた。ビルの前で、合唱団が組織して愉快な歌を歌い出しており、町中はやはりクリスマスっぽいのだな、と楽しくなる。講談社から出た藤枝静男の新刊『中野重治・天皇・志賀直哉』には、朝吹真理子の解説があったので、おもしろい組み合わせだと思い、立ち読みする。藤枝静男は、冷めた眼、死人の眼をもっており、だから写真のギョロッとした眼をした彼の姿というモノを見ると、不思議な気がしたとか何とか書いてあった。感情とか、例えば楽しい、と思ってもどうしようもないわけで、それこそ、何にもならない。何かを作り出すとか、それ以前に、ただ見ている、ということを意識しないと、どこにもたどり着けないよな、と思い、うんうんと思いながら店を出ようとすると、「その了見が慊(あきたらな)いよ。大きに、慊いよ」という、西村健太の、雪のように白い本についている帯が目に付いて泣く。

高橋源一郎の「恋する原発」を読んだ。いつもの軽さを持ちながらも、存在する怒りがそこに現れていることを自覚しつつ書かれているといった、一筋縄ではいかないものであるように思う。

消費されにくさ。目にみえないことを書くことということは、簡単に指し示すことができるようなものではダメで、言葉を常に外国語で書くように使うというのはよく言われることかもしれないけれど、言葉は常に、言葉以前のもの、言葉になっていたかもしれない言葉、存在したかもしれない存在、水子の言葉に対して、耳を澄まさなければいけないし、対決しないといけないし、その言葉以前の中へ潜っていかなくてはいけないと思うけれど、それは同時に多くの人が発する多くの声を聞き取って、多くの声を採集する場を作るものとしての作品、小説を書くことにすなわちなることにもなるし、つまりそれはどちらも徹底的な他者と接することになるから、同じようなことにもなるだろうし、つまりこの二つを満たすことにもなる。

輪るピングドラム」でも、石井裕也監督の「ハラがコレなんで」でも、そのようなことが考えられていたような気がして、素直に元気になるような作品が、いつの時代にもボコボコっと誕生するみたいで、嬉しい。

 いつも適当に見えて笑われるけれど、目的を持って勉強しているような、そんな人と呑んでいると、終電がなくなったらしくて、オールして呑む。野村さんのことだ。

人と話をすることは、そもそもそういうところからしか何を生むこともできない、と思っていたりもするけれど、単純に、人と話をすると嬉しくなる。自分はちっぽけだから、何か他者との関係性から、何か大切なものを生み出していく、その物語をキャッチしていかなければいけない、と常日頃思っているような気になっているけれど、言い訳かもしれない。恥ずかしいことを言うようだけれど、僕は誰かに理解されるために、受け入れられるためにそういう関わり合いを持とうとするだろうし、そのようなことを諦めきれずにはいられない。だけれど、最近よく経験することだけれど、人と熱心にしゃべっていても、だいたい二時間ぐらいで、話すことはなくなる。僕が本当に伝えたかったことというのは、本当はなくて、だからいつもどこにいても場違いに感じるのかもしれない。僕は少しお酒を飲むことができるので、そういう時はお酒を飲むことができる。だけれど本当は、何も伝えたいことがないとき、人は歌を歌うことができる。谷内くんの新しい音源は、このような時、お酒が飲めないかわりに、歌を歌うことができることが、豊かだと、感じる。
よべばふむまえのあざやかな かげのいろ
たえずながれだしたいのちと とけいのはりを
とめて みせたひと すすめて みせたひと
 歌は、何かしら不具なものでありつづけるだろう。 留まり続けるために、人は歌い出す。

2011年12月27日火曜日

12/24

12/24
本屋へよるが、何もなかった。
図書館で高橋源一郎の「恋する原発」を読む。とてもすばらしい。
12/25
ライブを見に行く。
とても楽しかった。
12/26
ずっと寝ていたので、しまった、と思った。

2011年12月23日金曜日

12/22

微妙に気持ちが悪い。わりと大きな仕事が終わったので、近いうちに風邪は引くかな、とは思ったが、中途半端だ。起き抜けにどんべえを食べたのがいけなかったのかもしれない。それとも、割と濃いコーヒーを作ってしまったからだろうか。

12/21
久しぶりに、心置きなくぐっすり寝た。こういう言い方をしてあれだが、心置きなくぐっすり寝てしまうと、寝起きを引きずって、あまり元気が出なくなることがある。マラソンでもするか、と、常々思うのであるが、今年はそれを行動に移すことがない。近くにプールでもあれば、僕は水が好きなので、泳ぐことが出来るのだが、と思い、近くに温水プール場があるかどうか調べたこともあった。どうも子供のスクール色の強いところしかないらしく、市内をずっと南に下ればあるみたいだが、まぁ、そこまであれすることもないわけで、そのままになっている。しかし、先々月あたりに「テクノお茶会」という妙なイベントがあったのだが、それはある大学の分館でやらせてもらったのだが、その分館の二階は温水プールであることにびっくりした。だから、あのお茶室に雨漏りがあったのか。

12/22
昨日と同じような起き方をしたので、寝起きを引きずって、あまり元気が出ない。これではいけないと思い、何か食べようと思い立ち、近くにある、行っていない定食屋さんに行き、奮発して、700円ぐらいの定食のごはんを、何か食べよう、と思うのだけれど、中途半端な時間だったので、どこも準備中で、閉まっていたので、仕方ないので牛丼屋さんでカレーうどんを食す。これでも大奮発だ。
ついでに、今日は木曜日なので、いつもスーパーの前でやっている古本市に、久しぶりに顔をだすことにする。割と遅い時間に来たので、この古本市に毎日八時頃から来て、命がけで本を発掘する人間たちに良い本は取られているかなぁ、と思ったのであるが、妙におもしろそうな本が残っており、珍しい。尾辻克彦『父が消えた』中沢新一『はじまりのレーニン』ボルヘス『砂の本』後は柄谷行人と岩井克人の対談集を買う。
ついでに本屋に寄り、最近岩波から出た『碧梧桐俳句集』を買う。本屋にいくたびに気になっていたので、そういうものは買った方が、世界が広がるから、買った方が良いと、思い買った。
家に帰って坂口安吾の「青春論」を読む。安吾ちゃんは、意外と言ってることがまともというか、僕と近いようでいて、何か気持ち悪い。そういうのも込みで、興味をそそらなくもない。
先輩にあたる人とお話をする。岡山は不思議な所だと。葬式や墓の形が村によって違うし、たたり神が存在し、ある村から嫁いできた女性と離婚すると、たたり神に食われてしまうことがある、人間が迷い出すとすぐに神を見いだす県民性があるから、岡山にはたくさんの新興宗教が存在する、そのわりに教育の意識が高く、岡山の武士が浪人になっても、大阪に行けば普通に先生になって食っていける、など、不思議な話をしてくれた。そういえば、先輩は、さくらこに似てなくもない。さくらこの家には、僕たちが騒いで豆腐まみれにしてしまったことがあるが、またしゃべる機会もあるだろう。
家に帰って中沢新一の『はじまりのレーニン』を読む。とてもおもしろくて、久しぶりに熱中して読んだ。友達が呪いのような、でも特に呪いを意識している風でもない、そう思うとかわいらしいクリスマスソングをプレゼントしてくれた。僕の友達にはイケメンが多いから、恋人の心配はないのである。だから呪いということもあるまい。

12/23
寝起きの悪さという意味では、かなり悪いのではないだろうか。仕方がない。どんべえを食す。体をシャキッとするために、コーヒーを作るが、濃いのを作りすぎたのだろうか。
昨日の続きで、『はじまりのレーニン』を読む。この本はもしかしたら、とても良い本なのではないだろうか。
適当に肉を買ってきて、それをかいわれ大根と一緒に食すのが、最近の自炊、こういうのを自炊とはいわないのかもしれないが、の定番なのである。今日もそれをしました。今日もありがとうございます。かいわれ大根だけを買うのもあれなので、恥ずかしいと思い、何か買おうと思ったら、1割引のシュークリームがあったので買うと、そのシュークリームはクリスマス仕様だった。なるほど。どうりで今日のお惣菜コーナーは若干豪華で、若干光っていたのだな、と思い、少し楽しい気分になる。

2011年12月22日木曜日

12/21

母校にて

どうもご紹介に預かりました。谷内です。今日は木村さんのイベント「上級生と遊ぼう」に呼んでいただいてありがたいです。この人は前に、パフュームのプロデューサーである、田中ヤスタカ、をリスペクトする、テクノキッズと共に、テクノ茶会というのを開いていました。ダンスミュージックと茶会との融合と言うのは、とてもおもしろかったです。ギャグセンスが冴え渡る、すばらしい茶会に、千利休も踊り出すのではないでしょうか。大学生は楽しそうで、いいですね!

みなさんに一言ずつお言葉を頂戴する、ということで、私も何かいえたら、と思いましたが、今日は、パラレルワールドについて、お話しする、という題目を頂きました。先日も月食があったということで、みなさんそういう方向に向かわれているのでしょうか?(笑)いや、しかし共同体を志向するのであれば、宇宙的なことは、欠かせないですよね。サンラしかり、シュトックハウゼンしかり、白樺派しかり、ワーグナーもそうかもしれません。というか、普通にキリスト教だとか、そういうものが既に宇宙的なものを志向しているところがありますが、宗教だから当然かもしれません。とりあえず、これらの人たちは、世界のオルタナといいますか、もう一つの可能性を信じて、努力してきたわけですね。端的に言うと、コミューン的です。

よく私は、ロマン主義であるとか、物語を否定している、嫌悪している、と思われることがあるようです。確かにアンチロマンを標榜したこともあるかもしれません。私は、短気ですから、私は常に怒っているようなものです、そういうことも言ったかもしれません。僕は、世界が一つの世界の可能性(可能世界)しかないことにアゲインストしています。音楽畑の人はオルタナを想起してくれると、僕が思っているのはそういうことなのです。そこからなんとかずれ込みたい。何か違和感、あるいはハーモニーを持ち込みたい、と思う、そこから、開かれた世界の声を聞きたい、と思う人間です。僕がいままでやってきたものというのは、挑発であったり、ケンカを売ったりすることと何も変わらないことかもしれません。そもそも僕には自己がないので、僕には、さまざまな人の声を聞くことしか出来ません。さまざまな声に勝るものなんか、ないんじゃないか、とそう思います。それならば、それに従うだけ、それに従い、それの意見を聞き、それをうまく、損なわないように、汲み、対象化する。それが、例えば作品を作るときには、役に立つ考え方なのではないだろうか。私が持つものというのはそれだけです。そういう意味で、物語を強く打ち出すことが、恥ずかしい、ということはあります。だけれども、アンチロマンというのは、語義的に間違いでした。物語なんか自然に出てくるものなので、関係性があれば出てくるものなので、単に無視すれば良かったのです。書くことなら、書くことに意識的になればよかったのです。

2011年12月21日水曜日

12/20

手紙

ワーグナーしかりリストしかり、19世紀ロマン派の人は女性遍歴がヤバく、生活が普通でないのはなんなのか、という話から、ヤクザの話になった。
例えば、バッハは、教会から生活が保証されていた、お雇いのオルガニストだった。モーツァルトが、音楽家は自立しなきゃ、といって、あんな借金まみれのどうしようもない生活をしていたのは、あれはどう考えても堕落であり、モーツァルトは最初にヤクザになった音楽家ともいえるそうだ。神が居なくなった時代、芸術家は社会から排除されるようになると、芸術家はまた新たな共同体を作る風に目指す。ベートーヴェンの理念的な作曲はそういう志向があるし、詩人は怪しげなサークルを作り出そうとする。(そういうサークルは、サンラに至るまであるよなぁ。)それか、女神を祭り上げる、と。まぁ、そして、そういうグループはまぁ、ホモソーシャルみたいな傾向になるんだと、根無し草という不安は、血の結束的な集団をつくるのだと、それか、全てを受け止めてくれる女神を崇拝するのだ、と、そういう風な話を聞く。 文学部に入るようなやつは半分カタギの世界から身を引いているのだ、という話も聞いた。そうだよなぁ。大学院の人とか若干ヤクザっぽいし(坂口安吾とかやってるからか?)、教授とかもボスっぽい人もいるだろう。舎弟を抱えて、僕たちは血のワインを飲むのです。メリークリスマス!

そうやって何も考えずに歩いていると、日頃お世話になっている野村さん(仮名)に会う。彼は卒論がヤバいそうなので、本当に急がしそうだ。資料のコピーに十万ぐらいつぎ込んだらしい。どういうことなのか。森鴎外は恐ろしい。

僕の友達はたいてい彼女持ちで、それでいて、彼女ぐるみのおつきあいをさせてもらうことが多い。ちょうど会ったので、月食の話や彗星の話をする。それにしても、周りにキャバクラで働いている女の子が多い。やっぱりこういう系はカタギではないのか。あんま関係ないか。例えば、歌舞伎というのは高いけれど、ああいうところには、永井荷風ばりの、粋な老人が女の子をつれてバリバリやっていると思う。遊びの名人か。文化なんてそもそもしょうもないものなのだから、消え失せてしまえ、というような意気込みで、その文化に乗りながら、遊ぶことは、断然に教養人だと思うけれど、カタギじゃないかもしれない。ましまろを食べる。

野村さんが忙しそうなので、手伝う。書庫で、雑誌をひたすら集める作業を一時間ほどする。それをいざコピーしようという段で、書庫がしまったので、この作業は全く意味をなくしてしまった。舞姫だけに、私たちは、踊らされたわけである。

舞姫だけに、きりきり舞いである。

2011年12月19日月曜日

12/12〜12/19

谷内氏への手紙

今日もあたたはリズムに乗って踊りを踊るための練習をなされていたのでしょう?わたしにはわかるのです。いつもわたしはあなたの歩くのを追い越して、遠くから微笑みかけているのですから。あなたはいつも文章を書くための、お話ばかりなさる。その文章であなたがどうなることでもないような嘘を持ってして、嘘にはたいてい意図があるのだけれど、意図がない嘘をつく人は初めてなので、あなたはもしかしたら寝ぼけていたのではありません?(後略)


12/12
大変な一週間を過ごす予感がする。この一週間を乗り切るには、山本精一の本を持っておきたいと思ったので、街へ、ギンガを買いにいくが、ギンガはあったのだが、新品なのにボロボロだったので、別に本の装丁を気にする人ではないのだが、なんとなく気にかかって、これは、アマゾンで買おう、ということにした。せっかく街にでたので、先日、バンバンボリーズでベースを担当している、佐伯さんと一緒に行こうとして、お客さんがいっぱいでいけなかったラーメン屋でチャーハンセットを頼む。このラーメンは黒いけれど、おいしかった。ありがとうございます。またバンバンボリーズの佐伯さんと来ようと思います。

やらなければならないことが山づみだ。なんとかなるんじゃないか、と思って過ごしている。

12/13
朝起きて、図書館で資料を集めにいく。火曜日は用事もあるので、時間は限られている。とりあえず、深沢七郎の批評のある雑誌をひたすらコピーする仕事をしている。
その用事用にも、いろいろと準備しなければいけないものがある。まさに東奔西走右往左往。縦横無尽に駆け巡りました。


12/14
 深沢七郎の研究のコピーは、30本100枚ぐらいは普通にあるような勢いであるが、これを一気に読む。何もかもバックレて一気に読む。深沢七郎を好きで選んだので、嫌ではないような気もしなくはないのだが、しんどいは、しんどい。ミスタードーナッツで何杯もコーヒーをおかわりしながら、読む。チュロスおいしかったです。ありがとうございました。深沢の一環で、加藤典洋の『日本風景論』も読む。

12/15
深沢七郎の研究はまだまだぜんぜん把握できていないような気がする。書庫に籠り、雑誌を漁りまくり、 コピーしまくり、読みまくる。頭が蒸発しそうだ。もうどうなってもいい、と思い、ラーメンを食べるなど、やけになってお金をつかいまくる。その一環で山本精一の『ゆん』や、大谷能生の『持ってゆく歌、置いていく歌』などをアマゾンで買いまくる。

12/16
金曜日なので、おちついて深沢七郎が読める。コピーしまくって読むのみ。大学生の盛り場にくり出すと、みなさんはシュウカツをしはじめているそうだ。出版社に行きたいというハードコアをやっている友達に、出版社はバイトから始めるんだよ、と、変なことを言う。

12/17
今日は土曜日である。時は近い。神様。僕をちゃんとした身分にしてください。
今までの論文を紹介し、まとめる文章を書く。書き終わると燃え尽きる。ああ。
ところで、やっぱり桑田ケイスケはいい。桑田ケイスケのソロは今でも、中学校の時に、一人でよくわからん踊りをしていたように、それと同じ踊りをしていることに気がつく。一人でこういうなんかよくわからん、よく考えてみると発狂してるような踊りをするのが楽しい。そして、桑田ケイスケのソロは、一番踊りが決まる。桑田ケイスケの今年出た新譜も良かった。桑田ケイスケのあのふざけた精神には、批評精神があるんじゃないか?そういえば、12/14に、あの忙しい合間を縫って、『アルテス』という音楽雑誌を買いにいったが、(そんなものを買っているから、余計忙しくなるのだ。)この雑誌はほかのどの雑誌よりも豪華ですばらしい。是非買おう。日頃お世話になっている岡田暁生先生や、高橋悠治、坂本龍一のインタビューや、大友良英、佐々木敦、山崎春美などなどなど、豪華すぎるのである。僕のためにある雑誌だ。僕のためにある雑誌ということは、おそらくあなたのためにある雑誌でもあるかもしれない。
その雑誌の中に、加藤典洋の桑田ケイスケ論が書いてあったのだが、これがとてもすばらしい。

(桑田が「売れ筋」について悩むことがないことについて)桑田に、事前にこの国とぶつかるべき自分の音楽性というものが、もたれていないということを語っている。 ここに言う自分の音楽性とは、自分はこういう音楽を作りたい、というような前もって定められた方向性のことである。たとえば、スピッツの草野マサムネにはそういうものがあった。
全部引用したいが、時間がない。つまり、スピッツはブルーハーツにやりたい音楽をやられて、一旦挫折するが、桑田は周りの音楽的刺激にいつまでも答えを出さずに、サーファーのように身を委ねるのだ。そして出来上がる音楽が、リスナーの音楽性の底部をなす無意識にどこまでも近づいた形で手にされる。ここで、売れ筋とは似ても非なる、なんだかまがい物みたいなものができる。そして桑田はへらへらしてる。う〜ん。良い批評だ!というか加藤典洋が音楽批評をやっていたことにびっくりだ!
 図書館で、仲良くしてもらっている先輩と合い、先輩の作業を手伝う。先輩は卒論に追われているそうだ。僕の資料の何百倍もの本を抱えてコピーしてる。森鴎外はもはや人じゃない。そのままマクドへ。警察が多すぎる。警察が僕に敬礼してくれたようにみえたので、僕も敬礼しようとした。

12/18
ここまでなぜ、論証を書かなかったのか。普通に書けると思っていたからである。でも、前日まで取っておくことはなかったなぁ。ほんまに書けるのかなぁ、という感じで、手探りで書いた。佐々木中の本を使っちゃった。書き終わった時は、あまりにも解放されて、夕ご飯を食べにいこうと自転車をこぎまくって、街の端、銀閣寺のあたりまで、無意味に来てしまった。仕方がないので、せっかくなので、古本屋に行く。よく耳を澄ますと、山本精一の新譜がかかっている。こういうところで山本精一を聞くと、長居してしまうよね。そんなこともないか。なんとなく恥ずかしいけれど、『ユリイカ』の菊地成孔特集を買う。山本精一のアンケートだけやたら長くて、フランスではボリスヴィアン以降スノッブはいないけれど、日本に現れとるわ、とか顔が好きやわ、とか、絶賛していておもろい。別の本屋でベンヤミンのボードレール論と、蓮實重彦の『フーコードゥルーズデリダ』を買う。帰宅途中、僕の大好きな和風で、独自の展開をみせるラーメン屋でチャーハンセットを頼む。ああ、めちゃくちゃうまいぃ。今日もありがとうございます。店のおばちゃんが、シューマイをサービスしてくれて、それもまたおいしいです。ありがとうございます。

12/19
そして今日である。
発表は無事すんだ!以上!

2011年12月12日月曜日

12/12

12/12
ネットで黒沢清の短編作品をひたすら見る。現実逃避気味。

テレビのホラードラマなのであるが、テレビのホラードラマがこんなにレベルが高いとは思わなかった。(ニコニコで黒沢清で検索!)

こんなんじゃいけないので、パソコンを使う所に出向き、 ひたすら作業する。

お昼ご飯は、松屋でチゲ鍋です。おいしゅうございました。ありがとうございます。

昼の後も作業。チゲ鍋が辛すぎたのか、疲れなのか、集中が完全に切れてしまったので、家に帰ってうとうとしている。

家に、誰か来たかなぁ?と思ったら、帰っていった人がいた。暗くて良く見えなかったが、服を置いていったようなので、母がいきなり尋ねてきたのかなぁ、と思い、びっくりするが、後にメールが来て、バンバンボリーズの佐伯さんが遠いところをわざわざ持ってきてくれたことを知る。いやぁ、これにはマジでありたいです。

昼寝すると、起きたのが二時とかだったので、早速佐伯さんからいただいた服を着る。おお、温かい!いいなぁ〜と思ってポケットに手を突っ込むと、ポケットではなくなっていた。HAHAHA

最近できた、新しい24時間営業のスーパーに行き、半額ものを漁る。今日はカキフライが手に入り、ウハウハと食事をする。今日もありがとうございます。今日も一日、がんばるぞ!

2011年12月11日日曜日

12/9

12/9−10
起きたらもう、わりとライブのリハの時間に近かったので、曲順だけ決めて、まったりしてる。

人の入りは、割と良かった。ありがたいことです。生き仏の人やテレフォニアの人も来ていただいて、嬉しい。そもそも、ライブをやらせてくれることがとてもありがたい。

ネガポジでライブをする。前回に比べても、なんだか受けが良くて、やっていて楽しかった。温かい人たちばかりだ。

〜セットリスト〜
1、おれはさむらい
2、人間のやることじゃない
3、ファイアー点火
4、橋の上まで競争さ
5、のぐそのうた2
6、ランデブー(バンバンボリーズのカバー)
7、宗教
8、コードブックス
9、ひる

ライブ後の様子
録音できなかったのが残念。何やってるか、自分でも、あんまりよくわからないので、どんなことやってるのか聞きたかった。

対バンの人たちも、おもしろい人たちばかりで、今日はいい日だった。焼酎、泡盛、ワインを呑みに呑んだ。いつもおいしいお酒をいただいてありがとうございます。

楽しいペチカさんは、楽しいファンクバンドでとても楽しかった。マグナム本田さんは、いつもお世話になっていたので、見れて良かった。噂に聞いていた通り、彼は伝説の男であり、今日もまた一つ、伝説を作ったのである。

ライブ後は、みんなでガブガブ呑んだので、みんなで、とても陽気でいた。調子に乗りすぎて、パンツや服が破れてしまった。

いつの間にか店じまいみたいになったので、また、例のごとく、王将で食べる。このコースは、鉄板だと思っている。

家に帰って、iくんとおしゃべりする。その顛末はここに詳しい。少し引用する。

 野口君の家では、ラブジョイいいなあ、マヘルはほんまどうしょうもない*、スピッツは凶悪だ、やっぱり羅針盤はいいなあ、などいろいろ話した。吃音の話がおもしろかった。
吃音に 陥っている人に限らず言葉が出ないときというのはある。そういうときはウソを喋るしかない。そういうウソというのはウソなのかな。そもそも本当のこととい うのがなにかすらわからないのにウソをウソといえるのだろうか。正直にしゃべればいいのだろうか。そうだとしたらエラく簡単で、とてもうさんくさいように 思える。しゃべることで、それがまわりの諸物と混ざり、なにかの形になるので、ウソとか本当とかはどうでもいいような気もするけど、そうするとしゃべるこ と自体が本当に無駄なことのように感じてくるのでおもしろい。やっぱり人間、正直がいちばんですよ!なんていうのは、ウソっぱちである。
*マヘルの主宰、工藤冬里のどうしようもなさを如実に示すのが、この動画である。


これは、危機である。ダメである。それだからこそ、いい、というわけでもない。こんなことは、やってはいけない。でも、ちょっと忘れられずに、また見てしまう。ズルいのである。マヘルを聞くときは、こういう危険さを意識しないと、自分までダメになってしまう。(注釈は、私)

何か新しいユニットを組もう、という話になり、わくわくする。

エアコンをつけてみたが、どうやら、風が冷たい。これは、クーラーだったのか!勘弁して欲しい。今となっては、割と普通に動く。

いつの間にか寝てしまい、起きると、ものすごく遅かったので、とても悲しかった。こんなことでどうするのだ。僕は、ある資料を作らなくてはならないのに、こんなことでどうするのだ、と、押しつぶされれば、おしつぶされるほど、やる気がなくなっていく。こんなことで、僕はどうなる?

夕ご飯を食べに天下一品に行ったら、月が、まるく、欠けていた。こんな風にさりげなく、どこでもないけれど、どこか別の場所へ移動して生きてきたのかもしれない。僕はどこか別の場所に行きたい、と思っているのかもしれない。だけれども、僕はどの場所も、どんな歌も好きで、すべての歌を肯定する心構えみたいなことを、できれば、持ちたい。全ての歌を集めていきたい。

2011年12月9日金曜日

12/8

12/8
ひたすら作業をするけれど、不安は消えない。こんなんで大丈夫なんだろうか…。

図書館になんとラブジョイの「あの場所へ」があったので、借りてくる。すばらしいことだ。

昼寝してジュウマントンという古本屋のイベントである「タミロック」というのに行く。魚民という、しかもチェーンの、居酒屋で、祭り騒ぎをしているのである。

チェーンの居酒屋の座敷を店として、さまざまなクセのある人間が出店していた。なんだこれは!

久しぶりにカジさんに会ったり、「ありの文庫」の店主さんと大里俊晴の話をしたりして盛り上がる。このひとたちらはやはり素晴らしいな!

昆布さんがおでんやをやってると聞き、本当におでんややってるんだ、と思い感動しながら、おでんを食べさせていただきました。めちゃくちゃうまい!実家と同じ具材を使ってるからだろうか。ちゃんと鶏も入ってる。わかってらっしゃる!昆布もとてもおいしかったです。ありがとうございます。

「タミロック」であるから、やはりライブもある。アイリッシュの人たちは本当に盛り上がったなぁ。昆布さんの弾き語りもよかった。弾き語りとはかくあるべきというような、ペロペロの演奏で、ますます好きになったわぁ。そこでまた後輩にも出会い、大いに盛り上がる。

したっぱ親分や魚雷魚で活躍中の人間にも出会い、これまた多いに盛り上がる。昆布さんのおでんや「どんずまり」で、多いに呑む。おかげでおでんも完売みたいな状況になってみんな幸せになった。

最後に魚民の店長の、シンセをつかった咆哮のパフォーマンスで幕。すべてのチェーン居酒屋はかくあるべき。四条河原町の摩天楼にはようわからんエキセントリックな状況が展開していたのである。

2011年12月8日木曜日

12/7

12/7
一日中ずっと寝込んでいた。なんなんだろう、僕は鬱なんだろうか?

風邪になったので、ポカリスエットを大量に飲み、一気に飲み過ぎたため、ポカリスエットがなくなってしまうという夢を見ました。ありがとうございます。

仕方ない。

阿部完一の句を並べてみる。

豊旗雲の上にでてよりすろうりい

鹿になる考えることのなくなる

たすけてほしいのです洋梨くるりくるり

たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる

ろりろりと印度の少女雲を噛む

下界はやみつばうまくて知人働らく

雲と歌撒き富士の裾野を逃げまわる

眠りにつく瞬間をつかんで読んだような句に僕は参ってしまう。僕の友人に、谷内くんという、一日に何時間も寝ている人がいるけれど、彼は、俳句は睡眠だ、と言っている。こういう、ちょっと笑ってしまうような、ストレンジな存在が僕は好きなんだろうな。

2011年12月7日水曜日

12/6

12/6
資料をコソコソと作る。こんな作業でいいのだろうか…?僕はちゃんと生きていけるのだろうか?

お出かけついでに古本屋に行くと、またおもしろい。ドゥルーズの『ニーチェと哲学』『批評と臨床』、ヴァージニアウルフの『オーランドー』、安かったので、『skmt2』も買ってしまった。

カラヤン晩年、80歳のドキュメンタリーを見た。アルプス山脈のふもとで、スポーツカーをものすごい勢いで飛ばしていた。さすが帝王。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』という映画を見た。途中ちょっと寝てしまったけれど、ポップでとても良い映画だった。音の使い方とかゴダールを意識してるような気もしなくもない。というか、そういうもろもろの、この全体的なあざとさは、完全に渋谷系の諸氏とリンクしてるよなぁ。


友達から段ボール二箱、着払いで郵便物が届けられた。
友達から大量のゴミが送られてきた。日本人形、よくわからんスプレー、菓子くず、大量の一円玉、ようわからんビデオ、dvdデッキ、psp、い みわからん形状のレンズなしカメラ、壊れたMac Pro、変なバービー人形、写真現像に使う液体、チューナー、ふりかけ、ようわからんケーブル…。(ツイッター)
これは立派なテロである。読売アンデパンダンの担当者は本当に大変だったろうな。日本人形がやっかいで、2、これは僕の友達の名前であるが、2はやっかいで、めちゃくちゃな人間なので、包装の仕方も知らないため、ケースがわかれてしまって、ぐちゃぐちゃになっていた。そういえば、2は渋谷系の末裔みたいな顔をしている。

いや、日本人形とか、そういう話じゃなくて、最初は、引っ越しするから、在庫処分しよう、という話で、僕が引き取ろうという話になったのだが、僕は確かにスカムが好きだから、そういうのは好きだけれど、2は、そこで、ゴミを送るために、興奮のあまり変な顔をしながら、わざわざゴミをかき集めてきて、ゴミを送ったわけで、そういう所は、なんかはき違えてるような気がしなくもない。まぁ2の存在がどうしようもないし、2の存在自体、というか、2がこういう行動をすることしかできないゴミという意味では、そういうことを愛せなくもない。小山田圭吾となんとなく接している中原昌也の気持ちは、こんなんなんだろうな…。

疲れたせいか、いつのまにか寝ていた。

2011年12月6日火曜日

12/5

12/5
あれから、というのは昨日の日記を付けたときから、佐々木中の『足ふみ留めて』の、読んでいなかった、ライムスターの宇多丸さんとの対談を読む。その後、佐藤友哉の『1000の小説とバックベアード』を読んでしまう。この二人はなんとなく似てる。また後に、何か書くことがあるだろう。

昼まで寝れなかった。昼寝する。

菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール、いい加減にしろ!と思うグループ名なのだが、彼らが出した『new york hell sonic ballet』が良すぎる。こればっかり聞いている。菊地成孔の中でもダントツにいいんじゃないか。ヒンデミット的な、即物的なものがあると思えば、オペラ的なとてつもなく甘いものに変わっていたりして、クールかつ、得体が知れない。強烈である。

これを聞きながら、それまた菊地成孔の『スペインの宇宙食』というエッセイ集を読む。とてもおもしろい。おもしろいけれど、例えば、彼の日記を読むと、食べ物の記述ばかりでとても素晴らしいけれど、結構いいものを食っている、と。ここらへんは、生活の考え方とか、想定するレベルというか、階級、彼は階級を意識しているんじゃないだろうか?まぁ、僕の周りで好きな人が居なくても、仕方ないわな、という気もしなくはない。私にはおばちゃんというか、マダム的な所があるので、そういうのは実は嫌いじゃない。

早朝、本を返しに3キロほど自転車を飛ばす。寒さが身を引き締める。ついでに24時間空いている定食屋で、ごはんを、体質が変わるぐらい食べる。


2011年12月5日月曜日

12/4

12/4
今日も起きるのは遅かった。

牛丼屋でご飯を食べた。今日もありがとうございます。そのついでに、大学の図書館に本を返そうと思ったら、門が徹底的にしまっていて、返すことができなかった。

深沢七郎の研究に際する作業を延々続ける。エクセル的な、表ソフトを使うのが初めてだったので、論文の発表順に並べるための、日付の設定に大分かかる。山本精一の曲を大声で歌いながら、なんとかキレずにすすめることができた。

まだほとんど何もできていないけれど…。

スキをついて、青木淳吾の「いい子は家で」を読む。別にそんなことはないのだが、青木淳吾には因縁があるような気がして、対決するように読む。

大庭みな子の「風紋」という小説で、小島信夫は人間、あるいは人間の行動にしか興味がないと、ナコが、いっていたような気がする。僕は小島信夫をそこそこ読んでおり、彼の小説、『別れる理由』以降に、単行本化された小説で、未読の小説は、ついに「寓話」を残すのみとなった。そのような僕にとって、やはり、青木淳吾は、くせ者で居続けるのだろう。円城塔はリラックスして読めるのにな。あ、じゃあこの小説は僕には気晴らしになっていないってことになるのか。

人が見捨ててしまうような、つまりそれは、私たちの認識の「システム」から捨て去られてしまうような、ということだけれど、そういうところを汲み取り、小説にしてしまう、それは物語というよりも、「小説」という生態系の文章にしてしまう、彼はやっぱり意識せざるを得ないし、最新刊の『私のいない高校』も面白いのだろうなぁ〜、と思うのだけれど、好きじゃないというか、否応なく緊張感を持ってしまうい、そういうのは深沢七郎にもある。 困った奴らだ。

小腹が好いたので、近くに新しく出来た、24時間営業のスーパーに行くが、なぜか今日のこの時間帯だけ、休みで、仕方がないから、3キロほど下ったところにあるこれまた24時間営業のスーパーに行くが、休みで、ここまで来たら、前、バンバンボリーズの佐伯さんと行こうとして行きそびれた木屋町にあるラーメン屋に行こうとしたが、閉店していたので、仕方がないから、そこらへんでやってるチェーンの定食屋に入り、生姜焼き定食を獣のようにむしゃぶりつき、ご飯を三杯、おかわりした。はい、今日はこんな日!

2011年12月4日日曜日

ルーティーン

12/3
友達の恋人を寝取る夢を見て目が覚めた。こういうことを書くと日記に緊張感が出る。

寝たのは確か朝の九時で、起きたのは夕方の五時だ。それでは、朝の九時まで何をしていたかと言えば、友達とスカイプのチャットをしていた。スカイプのコミュニケーションというのは、寝言に近い。友達の家で共寝するとする。そういう時には、ぽつぽつと、タワイもない話をすることがあるだろう。スカイプのコミュニケーションは、それをかなり悪化させたものだと思う。日記にはあまり登場しないけれど、隠れて、結構やっている。それに伴い、天井という音楽ユニットの作業をする。

湯豆腐をこそこそ食べる。ネギやショウガがあるともっとおいしいんだろうな。ごちそうさまでした。ありがとうございました。

それが朝の九時までの話で、気づけば夕方の五時だ。 まぁ仕方ない。

何を思ったか、回転寿しを食べにいく。近場に新しく出来た回転寿し屋は、今まで行っていた回転寿し屋よりも、醤油が甘いような気がする。同じチェーン店なのに、どうしてそんな差が出てしまうのだろう。

tsutayaさんから、波多野&高橋悠治のcdと、菊地成孔のcdが届く。どちらも素晴らしい。菊地さんは本の中で、「例えば、子供の時に鬼ごっこをする時、飽きてしばらく家で休憩して、またしばらくしたら遊びに合流する人がいたじゃないですか。ああいう風に、インアウトを意識できるような人間が、ちゃんとした視点を持って作品を無理なく作ることが出来る。」と、大体そういう意味のことを書いていたと思うが、こういう風なことをマジメな人間が聞くと、怒りだすだろうか。


スーパーで買ってあった半額のさんまで、夕餉とする。サンマは本当においしいです。今日もありがとうございました。そろそろサンマは食えなくなるのかな。

小島信夫の短編集『平安』を読みだすと、一気に読んでしまった。表題作の「平安」は、主人公と友の関係を、夏目漱石の「それから」の主人公と友の関係とダブらせ、「それから」でのその二人の関係は、「とてもあなたを恋し、一体になりつつあるように思われるのです」というような風に思われる。友人関係があり、そのどちらかに異性が関係しているとなると、もう一方の人が、その異性に対して緊張関係をもつ、ということもあるかもしれない。もしかしたら、シットしてしまうことも、あるかもしれない。それとは別に、もう一方の友達は、異性のことを、友達に向ける恋心として、話すのかもしれない。

小腹がすいたので、カップうどんを買いに、新しくできたスーパーへ。店の前で、三人の女性が、男の服をつかんで怒っているのか助けを求めているようにも見える。人間関係がなんちゃら、って言ってる。

ところで、田中研二がオーストラリアから帰国して、先日、三十年ぶりぐらいにライブをしたらしい。しまった!山本精一のライブも日にちを間違えるし、ちょっと歩調が合わない。田中研二は「日本沈没」をやったのだろうか。

追記:田中研二のmyspaceで、田中研二の「音楽舞い戻り初公演」の音源があがっている!
http://www.myspace.com/tanakakenji

2011年12月2日金曜日

12/2
ちょっと寝過ごした。

なか卯で、牛丼とちょっと贅沢に小うどんを合わせて頼む。ちょっと癖になったのかもしれない。

2くんから荷物が届いていたらしい。郵便局までとりにいく。

結構重たい段ボールの中にはたくさんの古本とラクダちゃんのサプライズでうれしい。ありがとうございます。しかし、肝心な本が届いていなくて、困る。

ラクダは、置物であり、 麻雀が強くなるらしい。2くんという人は、こういうのが好きだ。高校の時には、金ものでできた、アンティーク風の、変な地球儀をくれた。

幕末は、最高のエンターテイメント文化が花開いた時期だそうだ。両国では10メートルの関羽やつがいのラクダがおり、寄席は町内に一つは必ずあるぐらいの盛況だった、という話を聞く。

スーパーで、冷凍ぎょうざを買う。早速作るのだけれど、うまくいかなかったのか、そこまでおいしくはなかった。若干お腹に負担がかかった。

お茶でも入れようか。

2011年12月1日木曜日

12/1
ああ。

深沢七郎についての本をポツポツ読む。借りてきた本では、まぁこれぐらいか。折原脩三の『深沢七郎論ー体をゆすっただけの小説が書きたい』がとてもおもしろかった。

回転寿しを食べにいきたかったが、なんとなく、結局なか卯へ。牛丼と、ぜいたくして小うどんを頼んじゃった。おいしかったです。寒いときはうどんが欲しくなる。ありがとうございます。

これから、もしかしたら、ときどき出てくるかもしれない、姫という人が、祇園で働いていると聞いてびっくり。なるほど。

老舗のレコード屋(クラシックのレコードが充実していた)がつぶれた所に立った、24時間営業の、コンビニエンスなスーパーで、総菜を漁る。 すると、うなぎが半額で、260円で売っていたので、お刺身と迷ったけれど、夕ご飯は、久しぶりにうな丼にしようと思い、ウナギを買いました。

米が切れたから、昨日、薬と間違えて、そこらへんにほってしまっていた米を早速使うことに。大丈夫かなぁ、と思いながら、炊き込む。

そんな感じで、ほおばるうな丼は、普通においしかった。ありがとうございます。ウナギを食べると、たまごのお味噌汁が食べたくなる。そんなものはできない。 
11/30
十時過ぎに起きた。

図書館で、大庭みな子の『風紋』を借りる。たまらなく良い。スガキヤのラーメンを食べながら、がっつくように読む。

課題のために、深沢七郎についての本をぽつぽつ読む。こんなのんびりさんで大丈夫かなぁ。

コタツに入って何も考えず暮らすことが多い。頭が回らない。


ああ〜そろそろ期日だなぁ〜。ちゃんとやることやったり、調べなくちゃなぁ、と思いながら、ドキドキしながら、ボーとしている。ボーとして、お茶を飲む。そうすると、お茶が切れる。何も考えずに、次のお茶を作る。そして、お茶をのむ。そんな風にお茶をのみのみしていたら、どうもなく落ち着かなくなってしまった。頻尿になるわ、そわそわするわ…。

例えば、僕は研究者には向いてないのかな。そういうのは、向いてるとか、そういう問題でもない、という気がしなくもないけれど。 ほら、そんなこととは関係なく、何かしなくちゃいけないわけだし。僕はものすごく成功するか、乞食になるか、まぁどうなっても、なんとでも生きてはいけそうだが、どう転ぶかわからない、と言われたことがある。そんな気もする。なんだか、どこに居ても、場違いな気がしなくもない。僕自身としては、いたって人並みにマジメだし、常識人だし、金遣いが荒いわけでもなく、生活が荒廃しているわけでもないのだけれど、どうなるのか。先日の、保坂和志さんとおしゃべりした時も、きみはなにものなんだ、というような風なことをおっしゃった。


 友達に声をかけようと思ったけれど、友達が二人いたので、どちらに声をかけたら良いのか分からなかったので、かけなかったので、自分は、アホウだなぁ、と思う。

いつものようにソーセージと「ごはんですよ」と納豆で、夕餉とする。今日もありがとうございます。

2011年11月29日火曜日

11/29
遅くに起きた。昨日はなんとなく、コーヒーをのんだせいか、眠れなかったので、仕方がないと言えば仕方がない。それにしても、最近は一人でいると、全然生産性がない。といっても、そろそろやらなくてはならないことの期日も迫り、好き勝手に呑みにいったりライブを見に行ったりすることはできない。そろそろ腹をくくらないと。

丸二食堂で、丸二定食を食べようとするが、今日のメニューはソーセージがあったので、いっつも食っとるから、変わったものを食べようと思い、カキフライ定食を頼み、カキフライというものを初めて食べる。これが、うまいですなぁ。フライやのに、そのまま潮の味がする。ああ、海に行きたい。温かい、南のほうの、四国とか九州あたりの海に行きたい。おかげで満腹になりました。今日もありがとうございます。

深沢七郎についての本を読んだり、天井という音楽ユニットの、楽曲を編集する作業をしたりして過ごす。今日の夕食は半額(150円)で手に入れたアジの刺身であります。今日もおいしいです。どうもありがとうございます。

エアコンが故障した事件がありましたが、あれは、僕が元の電源を切っていたから、つかなかったみたいです。だから、故障じゃないです。 今日はそのことに気づけて良かった。

もう少し、本を読んでから寝ます。

2011年11月28日月曜日

11/28

11/28
ライブハウス「ネガポジ」で目覚め、その頃には日が明るかった。しゅーさんと飯を食って、帰るという、いわゆる、いつものパターン。

少し眠る。

今週はライブばかり見て、呑みまくってしていた感じだったので、今日は銭湯でゆっくり過ごし、毒を出す。

ぼぅーと、やっぱりテニスコーツよかったよなぁ、とか思いながら、いろいろ余韻に浸る。

工藤冬里(マヘルの主宰)の詩集が届く。ありがとうございます。ぼちぼち読ませていただきます。

今日は半額のおさしみとカボチャの天ぷらで夕餉。とてもおいしくいただきました。ありがとうございます。

聖書の引用が多かったので気になっていたけれど、どうも工藤冬里はクリスチャンらしい。マヘルのコミューン的なラディカルさだとか、それは、疎外されても仕方がないようなものなのだけれど、その、その演奏をそのまま全肯定して、スタッフにバカにされるほど(それがバカにされても当然なんだ!)、危ういけれど、それゆえすごいポップ性を獲得してしまい、そういう様のどうしようもなさが強い感動を生むのだけれど、冬里の目に移る、その一回性の美しさ、取り返しのつかない、それは具体的にマスターオブミステイクの称号(?)を貰うことになる目だけれど、ことを全面的に支持する姿勢は確かに宗教的でもあり、それはとりさらわてしまうこと、社会、文化システムの前提から、始めからなかったことにされてしまうような世界を汲み取ることになるわけだから、工藤はここで、すべての世界線を肯定して、無限の可能世界、こうであったかもしれないその曲、演奏を見ているのだろうな。とことんスカムでポンコツなんだけれど。

小説のマスターピースが一つ出来上がる、それを例えば雑誌に掲載したり、本にしたり、つまり世に出る。そうやって発表された小説の裏には何枚も、反古にした原稿用紙がある。これは違うと、ゴミ箱入りした物語がある。だけれど、その、完成された小説は、そういう反古になった物語を想像させるようなものでなければ嘘だ。小説はそのように反古にして反古にしてマスターピースを目指していく運動体のことだからだ、と保坂和志さんはおっしゃった。 工藤冬里は、これのゴミ箱入りした音楽を、ひっくり返して、パッケージしている。それがいいことなのか、わるいことなのか、僕にはわからない。

ルーティ

11/27
起きたら真っ暗でびっくり。日の沈むのの早さと、そのための独特の暗さに不安を覚える。人はこういう時に世界の滅亡を考える。僕は一日が崩壊したことを知る。

ネガポジというライブハウスに、今ちゃんさんから誘われていた、例のバンドを見に行く。

今日のバンドセットはとても楽しかった!三組とも、僕をどこかべつのところに運んでくれてしまった。ありがとうございます。

ネガポジでも呑ませていただきました、ありがとうございます。佐伯さんと北さんはまたしてもネガポジに遊びにきてくれたみたいで、みんなで、多いに盛り上がる。


ルーティ

11/26
今日こそは深沢七郎の研究に着手しようとしたが、コタツにくるまり、流れてしまう予感。

長谷川四郎の短編集『鶴』の「張徳義」を読む。古本で買ったので、前の持ち主がこの一編にコメントをつけている。

どうしてこんな悲しい小説を今読まなくてはいけないの。人間って一体何。家族って何。生きるってどういうこと。いっそ一人で生きているなら、たまらない孤独に陥ることはあっても、こんなにも悲しいことはないだろう。なぜならそれは所詮は自分一人のことなのだから。私はもう二度と誤りたくはなかった。それなのに何故、運命は私をいたぶるのか。  57.11-8
まさに、広大な、大陸に、対峙して、消えてしまった、という小説だった。 だから、感情が残るというよりも、人間が、おるわ、というのを見ている。

今日はテニスコーツが同志社にくるみたいなので、見に行く。よかった…。テニスコーツは、この同志社の学祭の喧噪のなかで、かすかではかなげで、同志社の学生さんは、おしゃべりがすぎたのだけれど、だから、テニスコーツを取り囲む環境と言うのは本当に厳しいのだな、マヘル閥はこんなものと対峙して、なんとかしていかないといけないのか、その中で披露してくれた「タマシー」は泣いた。

ライブ後、バンバンボリーズの佐伯さんと合流して、ビスケットを食べながら、彼の友達のバンドを見に、木屋町のライブハウスに。客のウケをよくわかっていらっしゃる人たちばかりで、大いに笑った。

ラーメンを食べた後、ライブハウス『ウーララ』が経営する飲み屋で大いに呑む。 そこで北さんと合流してさらに呑む。メソポタミア文明のマネを命じられる。

その後、カラオケまで行き、さらに呑む。いつのまにか朝になってしまっていた。佐伯さんのCDをレンタル屋に返して、帰る。

2011年11月26日土曜日

11/25
大分寝坊した。景気づけに王将にいって、取り返そうとしたが、お腹いっぱいになってねむたくなってしまった。

一体僕はなにをやっているんだろう。

友達が淡路島あたりを旅行してきたらしい。短歌を見せてくれた。彼女の見せてくれた短歌は、普通に読んでもバシッときまるようなもので、古典の教養を伺えさせる。さらに、折句(たてよみのスゴい版)であ、わ、じ、し、ま、を忍ばせるなど、技巧派であり、宝石のような短歌だったので、感心してしまった。

気づくと、自転車がなくなっていた。どうやら、このあたりは祭りを行うらしく、指定の場所まで移動したらしい。授業受けにきただけなのに、ひどい!結局その日は自転車を見つけることができなかった。

後輩に会ったので、ちょいと呑みにいく。久しぶりのビールはうまい!まぁ一週間前にベロベロにつぶれてしまっているので、そんなに久しぶりでもないのかもしれないけれど。その後輩は、バウハウスとジョイディビジョンとフィッツジェラルドとフロイトにハマっているそうだ。セリーヌとベルンハルトと中原昌也を読みなさい!と、ガラにもないことを言う。

後輩は、一旦広島に帰るらしい。広島とかうらやましい。僕も温かい所に住みたい!

財布はスッカラカンになったけど、もう少し呑もうと思いたち、i氏に電話したけれど、バイトがあるそうだ。そもそも自転車なしでどうやって呑みにいけるのか。その後、夢を見た。i氏がバンドを組み、ぼくはサインウェーブで参加することになったが(sachiko Mみたいな)、i氏がマヘルの曲をやりだしたので、プチ予想外で感動した。かといって、サインウェーブに譜面をつけるなんて、(しかも二曲目と三曲目しかない)ひどいじゃないか!

ところで、坂本慎太郎のソロアルバム、『幻とのつきあい方』が良すぎる。そこまでゆらゆら帝国の熱心なリスナーではなかったのだが。空洞の後の世界を歌っているからかだろうか。坂本チンは終わりからスタートしたのか。その姿勢は買うぞ!

2011年11月25日金曜日

11/24
けだるい感じ。寒いから、けだるい、という感じにもならないもならないのだが。

コタツに入ってボーとしていると、友達からスカイプが来た。そのままスカイプでセッションをした。こんなことが出来るんだね!

その後、ずっとyoutubeで、白石民夫の演奏を聞いていた。このアルトをどうならせばこんなようわからん鳥みたいな音が出るんだろう、なぜこんな音を路上や地下鉄で毎週やっているんだろう、だとか、このパフォーマンスの存在は意味不明出所不明なところがあって、つい笑ってしまうんだけれど、こういうあまりにも都会的な場所に、バチッっとはまってしまっているのを見てしまうと、グッと来る。そういう意味では海童道祖や阿部薫なんかとも全然違う。なにより、彼はかわいい。



今日は会う友達みんながみんな風邪をひいている気がするので、みなさんも気をつけてください。

帰ってきて、午前中のセッションの編集と、天井の作業。天井は夜中までつづきましたとさ。(もっとやらなあかんことがあるような気もするが。 )音楽作業をすることは睡眠に近い。そういう催眠的なを作ってるのが原因かもしれないが。大谷さん、素材3、素材10、素材11、俺は天才、俺はきめ細やか、ファイアー点火、noguso no uta(when i'm thinking nogusoのほう)を仕上げる。

2011年11月23日水曜日

11/23
今とても眠いような気がするので、比較的はやく起きたのだろう。

思い出した。灰野敬二と話し込み、サングラスとったら案外やさしい顔してて、嬉しくなって電話番号の交換していたら、やかんの水をかぶって目が覚めたんだった。これがほんとの寝耳に水である。おねしょではない。

今日こそ深沢七郎研究に手を付けよう、と思っていたが、大里俊晴boxが届いてしまったことで今日一日が大里さんに捧げられてしまうことになるのでした。アーメン。

大里boxは本当にすばらしい。本当にゴミだけど、素晴らしい。 みんな、こういうのにお金をかけないといかんぞ。通勤通学暇つぶしを酔わしてくれる、感覚的な音楽の「消費」もいいけれど、ふと立ち止まってしまうようなものを受け止める「浪費」として音楽を捉えると、世の中がどんどん広がっていくぞ!

ところで、音楽の姿勢を評して「プライドがない」とか言う人がいるみたいだけれど、まぁそういう人間は、なめられるような音楽をしてるもんだから、そう思われても仕方ないけれど、消費の音楽に接近してる人間はプライドを捨てよう捨てようとして音楽をつくってたりするんじゃないのか。別にプライドなんかどうでもいいけれど、そこで「プライドがない」と言うのもなぁ。そういう人は田中小実昌とか読めない。

大里boxはそういうことを考えさせられるくだらなさが満載で、僕は大好きだなぁ〜。6500円もしたけど、それも含めて(?)、嬉しくなる。

大里boxを聞いていると、大里の追悼文集が、今までまあいいかと思っていたけれど、大里box聞いていると、欲しくなってきたので、ガケ書房に買いにいきます。ついでに図書館で古井由吉の新刊「蜩の声」を借ります。(読む時間なさそう)

帰りがけ、京大で学祭がやっていた。うーん良い季節だ!好き屋でおろしぽんず牛丼を喰って帰る。今日もありがとうございました。

大里のboxをひたすら聞いていると、クーラーが壊れたことも相まって、プチ模様替えをするために、コタツを出した。 コタツはいつも立てて、洋風テーブルとして使っていたのだが、コタツにしようと、思い立ったのだ。

コタツは本当にまったりする。下がフローリンだから固いけれど、やっぱりいいものだ。座っていると、なんか腰がいたくなるけれど、まったりするなぁ。なんか書こうとしたけれど忘れたなぁ。コタツだなぁ。

工藤冬里のピアノソロでも聞いて一日をさよならしましょう。




さよなら、さよなら、さよなら…。(淀長)
11/22


朝ご飯は昨日の残りの鯖寿司を。うまいうまいといいながら食べました。若狭の漁師のみなさん、お母さん、神、谷内くん、他、これから登場してきそうな人間さん、ありがとうございます。

月火、とすることはたくさんある、ような気がする。でも、できない。周りの生徒さんや先生を見てつくづく思う。僕は本当にふざけたやつだ。でも、僕の友達はおふざけの極北にいってしまっている。そこにくると、僕は常識人だ。そもそも僕は一番常識人だと思って生きているんだけれど、どうも、このままでは生きていけなさそうなので、常識人でもないのかもしれない。伊賀は霧の多いところだ(隠喩)。

ワーグナーの歌劇で、ジークフリードが伝説の剣を抜き、妹とまぐわるところを見た。ワーグナーを見ると気がわぐな〜(by中原昌也)

今日は久しぶりに会う人によくあった。あって話をした。みんなと呑みに行きたいなぁ。最近会っていないけれど、のっぷんさん元気かなぁ。

マンツーマンで、柳田国男を読んだ。これがとてもおもしろい。カチカチ山は複合された話であり、さまざまな物語がそこに保存されてくっついていたり、あるいは変化したりして出来上がったものだ、ではそれを具体的に見ていこう、という風な論で、ここには文学の発生、生成の仕組みがそのまま現れていて驚いた。こういうさまは青木淳吾と意外に近いんじゃないか。 大塚英志が孫弟子らしいよ、と聞いて、腑に落ちた。なるほど!大塚さんはビックリマンシールの研究だからだいぶ感覚ちがうけれど。

その間に、僕がディスクユニオンで頼んだものが今日届く筈だったらしいのだが、不在で、ポストにご不在連絡票が入っていたことを、私はまだ知らない。誕生日にディスクユニオンで頼んだものが来たら、激アツだったろうなぁ〜と今、思わなくもない。

2011年11月22日火曜日

ルーティ

11/21
月曜日は、諸事情(仕事的なもの)があるわけで、憂鬱なのであるが、実際、疲れた。緊張した雰囲気というのは、いつまでも僕はなれなくて、僕は何を学んできんだろう、と、ふと高校のころを思い出して、今、何年ぶりかに、こんな渦中で、途方に暮れてる、という経験をしていることに気づいた。人は、どうしても、自分の住む世界の中にいる。世界の中にいなければそれは嘘だ。だから、そこで一生懸命になって、周りのもの何も見えず、失敗して、何も見えず、とりかえしがつかなくても、それは仕方ない、と野田口は高校生に声をかける。

小説家の保坂和志さんが、「今月号の群像の自分の連載は読め!」と嬉しそうに話してくださったので、群像の12月号を読む。文章が喜んでいる!いいタイミングでサッと布袋さん(神のほう)の説明が入った具合は、図書館であるのに笑ってしまった。

スーパーで、サバ寿司が半額になっていたので、でも半額でも600円するから、どうしようか迷ったが、まぁ、誕生日だし、と思い、思いきって購入。脂がのってとてもおいしかったです。ありがとうございました。

『暇と退屈の倫理学』を読み終える。この本にはとても勇気をもらった。

充実した、充溢した意思を持って、懸命に導かれる方向を踏みしめることを決断することは、それが正しいとしても、その態度の中に損なうものがあるかもしれ ない。作品を生み出すということは必ずしも正しいことではなく、生み出したから偉いなんてことは実はない。ただ、私たちは、ふとした時に、思考モードに変 身することができる。自分や世界を受け入れ、感性を開く余地があると、変身は自然で、そういうのを養うのが暇で退屈だったりする。文化なんて特別なもの じゃないから、退屈とはうまくやっていけるはず。
山本精一の音楽とかはこういう方向性はあるよなぁ、と思うと、本当におもしろい。これが発展して、くだらないけど愛さざるを得ない作品が出来てくると、いいなぁ。

今日は疲れたので、久しぶりに銭湯に行く。番頭のおばちゃんとはもう顔見知りである。いつもありがとうございます。鍋の話をする。

銭湯で誕生日を迎える。(11/22)何があるわけでもありませんが、こうして誕生日を迎えることが出来ました。ほんとうにありがとうございます。

今日は、友達が日記を付け出していることにも励まされ、友達がツイッターを再開したことにも笑いました(世界平和)。反復を恐れなくなると、何か書けます。日記は食べ物の羅列だけでも、なんか感動します。黒歴史は、とてもおもしろいことです(暗黒微笑)。文章は、残しておくのが気持ちいいゾ。

2011年11月21日月曜日

そうぐ

11/20
寝る前に何となくジムオルークの「ユリイカ」の和訳など。言い回しが映画っぽいらしく、よくわからない。

起きた後もボーっとして暮らす。友達と鍋パーティしよう、という話が合ったような気がするので、行こうとするけれど、スカイプかかってきたので、グダるといつの間にか寝ていた。

そいつはネットビジネスの動画をわんさか紹介してくれた。どういうつもりなんだろう。とにかくありがたい。

もうひとり、谷内くんだけれど、谷内くんは大里俊晴の三回忌イベントに行ったらしく、竹田賢一は神だ、と。youtubeで竹田賢一を見たけれど、これはなんだこれは。


またようわからん刺激を受けてはてしなく音楽漁りをする旅が始まる(至言)。

この一週間は密度の濃い時間を過ごしたのでなんだか夢みたいだ。ほとんど寝て生きてるみたいなもんだからなぁ、とも思うけれど、記憶なんてだいたい夢と同じで、過去に融けて夢と交わるものなのだから、そりゃすばらしいよね。

2011年11月20日日曜日

そうぐ(2)

11/19
カラオケが終わり、保坂さんをホテルまで送った後、古本屋さんであるジュウマントンに帰ってきた。そこで、みんなと文学の話をしたり、音楽の話をしたりして盛り上がる。みんな良い人の上に趣味が良い。ちゃんと考えてくれてはる。僕はとても嬉しくなって、しゃべくり倒す。

そうやってしゃべっていると、いつの間にか朝の十時になってしまっていた。保坂さんがいらっしゃって、お風呂に行きたい、とおっしゃる。ジュウマントンの店主みたいなことをしているカジさんのお友達の町家にお風呂に入らしてもらうのに同行する。なんかこのあたりから、なんだか現実感がない。普通に保坂さんが目の前にいるというのはなんだかすごいことをしてしまったなぁという気持ちもあるが、なんだかありがたい。その店に来ていたアイリッシュの音楽をする女の子を交えてボツボツお話をする。

あまりに面白くて、本当にありがたいと思う。ちょうど街は雨が降り、霧が出ていたのもあるのかもしれないけれど、また、それは寝ていないだけかもしれないけれど、なんだか夢かとも思う。そう思っていると自転車は車にぶつかってしまった。車は時速1キロとかだったので助かった。

少し寝た後、ライブハウスであるネガポジで、ファテリアバンドのライブを見に行こうとするが、起きると体が震え、胃がびっくりするほどもたれるので、アル中かと思う。ああ、実はこんなに呑んでしまったのか、と今思う。あのときは全く平気だったのだが。マクラを頭に押し付けると、頭が回るので、おもしろくはなくなないが、そういうことをすると酔う。

無事ネガポジでライブを見る。改めて、Eさんはすごい人だ、と思う。こういうのがオリジネイターというやつだ。何もかもどん欲に取り入れて、それがバリにキマっているのがマジですごい。

二日酔いということであるが、お酒を呑ませていただく。いつも江添さんは僕によくしてくれて本当にありがたい。ビール瓶2本もいただかしてもらって本当にありがとうございます。二日酔いで比較的すぐに寝てしまって申し訳ない。

ネガポジから王将に行く。声はガラガラであるが、とても気分がいいので、しゅーさんとジムオルークの「ユリイカ」を

 ふぁ〜ふぁ〜ぁぁぁ(トランペットの形態模写)

と歌いながらネガポジから王将に行く。

"Hello, Hello, can you hear me?
Are your skies clear and sunny down there?
Even in this rain the breath of the breeze is reaching me here"

Here on this phone
A quarter a day room for me
And as things stay the same
I'm quickly running out of change
You're thinking on your feet
While you're sitting there on your ass
Fresh crease in your shirts
No stain of sweat on your back
There's no need
There's an employee
To make up for all of your slack
A seed don't make a tree
Without a servant who waters the grass


もしもし、もしもし、聞こえますか?
そっちの国はいい天気?
もし雨の中であるのだとしても、凍えた息はここまで届いているよ。

この電話で
これで僕のために一日の四分の一だけも
同じようなことを同じだけして暮らすことになるなぁ
変わったことがあると思っても別にそんなことなかったわ
あなたはうんこが出てもおかしくないような不思議な座り方で
生意気に僕のことを考えてる
あなたのシャツには新しいしわを見つけたけど
背中には汗のあとがないなぁ
正直なところ、なにも必要ない
雇用者みたいなことにはなってる
寝るのはとても楽しいでしょうが
種をまいたとしても
コップ何杯もの水持ってくる人がいないと
木にはならないですよ

そうぐ

11/19
10時ごろに起きる。10時ぐらいなので、ブランチということでしゃれこもうと思い、丸二定食へフライ盛りを頼みに行く。丸二にはひさかたぶりの人間もいて、話し込む。

隣のグループの会話がゲスかった。東京にいる19歳と付き合っているらしく、膣内射精したら妊娠してしまった。ゴムなし挿入のリスクが7%だとると、なかだしは17%で、ゴムだと5%(!?)になるらしい。しょうがないなぁ、と思いながらフライを食べる。

美術館で、印象派・ポスト印象派展があったので見に行く。この企画は、神企画だった。こんなにスゴい絵ばかり並んだ展覧会を見たことがないような気がする。クールベ、マネ、ドガ、モネ、ルノアール、ロートレック、ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホなど、スゴすぎてシャレにならない面子であり、興奮した。




「日傘の女性、モネ夫人と息子」という絵は、本当に風をつくってしまっていた。モネの「太鼓橋」もすごくよかった。「太鼓橋」に描かれているのは、もはや、どこでもない。睡蓮はどこへも浮かんでしまっている。情報として絵で見ると、その絵のコンセプトや構造が分かり、これこれはこういうことだよね、と語ることができる。「日傘〜」の絵は前々から知っていたが、さわやかだなぁ、と思った。実物を見ると、空調が変わっていた。これがベンヤミンが言う、アウラ(オーラ)というやつだろうか。空気が、具体的に変わっていた。


 私がびっくりしたのが、カサットで、私ははじめて知ったが、この人の絵は、なんともおかしな気持ちになり、びっくりした。基本的に絵画の特性は、ルビーやダイアモンドと同じように、宝物性みたいなのがあって、アリババのような人に持ち去られてしまうものだとすると、カサットの「青いひじ掛け椅子の少女」を例えば家に飾る、という人はどういう人なのだろう、という感があったが、今調べてみると、カサットは女性である。

美術館をこんなに堪能したのは久しぶりである。その後、図書館で大橋裸木の第二句集『生活を彩る』を読む。書庫から出してもらったその本は、とてもボロくて、まさに生活感が出ているとても良い本だった。大橋裸木はいい。一般的(?)な日常生活の場に留まりながら、自由律に詠む句の存在は、どこかおかしく、オーパーツであり、こういうものは生活への問い直しもしてしまう。そういう表現は根っこな気がする。

ジュウマントンという古本屋さんで、保坂和志さんが来るというので、向かった。そこに普通に保坂さん がいたので、いろいろ止まるかと思った。保坂さんはまず比較的講演っぽいことをしゃべった。(第一部)出来上がっている小説は、その小説を作るために、何通りもの小説の原稿用紙を丸めてそこらへんに捨てている。それは、出来上がっている小説は、その出来上がっている小説だけで出来上がっているわけではない。それはつまり、小説は、私たちは一部を読む。その小説の背後には何通りものプロセスがあり、物語のヴァリエーションがひしめいている。小説というのはそういうものであり、そのような背後こそがおもしろいのだ、と言っていた。まるで山本精一やジムオルークだとか、ジャズとかブルースみたいだ。

第二部はお酒を飲みながら始まった。保坂さんは本当に気さくでいい人で、どんどん話す。下世話な話やダジャレみたいなことも話す。 周りの人も個性的で、袈裟を着て、丸坊主で、毎週教会に通っている、PL学園卒の人は、本2pを30秒で読む。保坂さんのサラリーマン時代の同輩は、季節の記憶の本当にいい飲みだった。本当に楽しい。本当に楽しいから、やっぱりお酒を呑んでしまう。「白鶴まるはパック酒の中で本当に上手いよな!」と保坂さんがおっしゃったので、「いや、マジでうまいですよ〜。パック酒は僕はうまくないものだとてっきり思っていましたけれど、実はフルーティーで、白鶴まるはいけますよ!これぇ、すごい!」と申し上げると、「当たり前だろぅ〜。何年行きてるんだよ!」とおっしゃられた。時々サザンやブルーハーツなどを口ずさみ、「ブルーハーツは古典だよぉ!」と言ったり、桑田は歌が下手になったがそれは練習をしなくなったからだ。変わらない人間がいる、それは山下達郎だ!なんとか、いろいろ思い出して胸が詰まる。

その後、保坂さんたちとカラオケに行った。僕はテレサテンの「つぐない」を延々と歌わしてもらった。

2011年11月18日金曜日

ルーティ

11/17
久しぶりに出来た口内炎がひどいことになっている。マクドナルドのポテトを食べ過ぎたせいなのか。ピーマンを大量に食わなければ。

古本市でマンスフィールドの短編集などを購入。100円均一の古本市だからといって侮れない。

友達の会話で何回も出てきた、国分功一郎『暇と退屈の倫理学』を生協で買う。なんか二冊分のスペースを山積みにしている、いかにも話題の書という感じ。

大阪に向かう間、ヘアスタイリスティックスを聴きながら『暇と退屈の倫理学』を読む。聴きながら気づいたけれど、ヘアスタイリスティックスは移動の時に聴くような音楽ではない。

大阪駅の変貌に驚く。これはもはや山だ。地形が変わっている。これは風水師が困る。京都がのんびりしているわけだ。

福島あたりで鶏ガラのラーメンを食わせていただく。とてもおいしくいただきました。ありがとうございます。ビールもおいしかったです。

七時になったので、ライブハウス「シャングリラ」へ。今日は山本精一&THE PLAYGLAUNDのライブがある。山本精一は先日『ラプソディア』というアルバムをだしていただきました。どうもありがとうございます。それのレコ発のイベントという触れ込みだそうだ。椅子が並んでいたので、椅子に座って待っていると、カーテンが開いて、精一さんと千住さんと須原さんがいた。じゃあ一曲目といって「days」という曲をやった。

音があまりにも心地よくて、なんだか寝てしまいそうだった。これはラーメン食べながら聴けない。どちらかというと茫然という感じか。千住さんのドラムがとてもきまっていた。

『ラプソディア』は正直すごいアルバムで、山本精一の代表作みたいな扱いになるんじゃないか、と思っているのだが、『ラプソディア』の曲をライブですると、いやに包み込まれる、というか、抽象的な体験をする、というか、ある種の暴力的(?)体験をするように思う。「mothlight」「ラプソディア」「BE」の畳み掛けが本当に素晴らしかった。こういうのはライブの醍醐味であるなぁ。

2011年11月17日木曜日

ルーティ

11/16
かなり寝坊してしまった。

昼から天井という、音楽ユニットの曲づくりをしていた。適当に作ってる筈なんだけど、こういうのは結構時間食ってしまう。

自由律の俳句について議論する場があった。私はわりと俳句好きの友達に囲まれているせいもあって、例えば放哉の句には親しみがある。しかし、大橋裸木の句には僕は本当に衝撃を受けてしまった。俳句の場合、この句の何がいいか、というのは説明しづらい。谷内くんは、俳句は睡眠に似ている、とか、俳句はゴミ、と言っているが、なるほど、本当にそうだな、と思う。俳句というのは、言葉の支配を越える瞬間を捉える言葉の表現に結果的になって、それがどうして起こるのか、というのは、何気なさ、例えば他の、いわゆる詩のように言葉の革命、言葉との闘い、みたいになりがちな表現とは違って、自動人形、俳句マシーン、俳句システムに自分がなるようなところがあったり、自動書記に近い。かといってシュールレアリズムなんかでは決してない。本当になにもならない。本当にしょうもない。こんな句つくりやがってぇ、と嬉しくなる。もうそこで毒が回っている。もうその句は頭から離れない。

 墓のうらにまはる(放哉)
ぼーっと歩いてたら、これは墓の裏にまわるということをしてることに気づいて、あ、俺は墓の裏にまわってるわ、へぇそんなこともあるんだな、という感じだろうか。この時、俳句は確かに催眠に近い!こういうのを作品として詠んでしまうのがさらにおかしい。また、こういうのが存在して残ってしまうことがさらにおかしい。この存在が僕のところまで届いてしまうところがさらにおかしい。喜びの瞬間である!

陽へ病む(裸木)
今回は、本当に衝撃を受けた。この句は、全く見通せない!いったい、この句を詠んでしまった人は、どうしてしまったのだ。 なぜ、こんな句を詠まなければならなかったのか。なぜ陽「へ」なのか!累々の俳句がズラーと並べられている中で、この俳句あると、明らかに異様だ。それで詠ませるのも異様だ!俳句は座の文学の延長線上にある。座というのはコミュニティー的なものだが、同傾向の人々が集まって、句会に出、句集を編む。裸木が句会に出て、この句を詠むとどうなる。そんなことが許されていいのか。この句が成立することで、俳句、いや言葉は崩壊してしまう。それで詠ませるのが危険だ!どうして俳句はこんなことになってしまったのか。わからない!ただ、この句にいまにも決壊せんとする物語が溢れている。だが、全く見通せない!

2011年11月16日水曜日

11/15
図書館に本を返す日だった…。忘れていた。

起き抜けに王将で焼きそばを食べる。 今日もありがとうございます。

朝から貧血気味。図書館へ、群像12月号を読みに行く。今月号は藤枝静男が特集されている。堀江敏幸・奥泉光・桜庭一樹が鼎談していたのを読む。桜庭さんってあの『ゴシック』の人ですよね。あんなにかわいい作品を作ってくれる人が藤枝静男の合評に出るというは、藤枝静男受容の新しい波を感じる。鼎談を読んでいると、なんだか僕が読んでいた藤枝静男と違っていて、奥泉さんがまとめたあらすじを読んでいても、なんだか別の作品みたいで、不安になる。僕は藤枝静男を読めているのか!?すばらしい鼎談で、最後の方は、涙が出てきた。次のページでまた佐藤友哉が調子乗ってるようなので、また後で読もう。今月は文芸誌に素晴らしい対談が多い。資料を集めに図書館内をうろうろしていると、クラクラした。

こんな調子ではまずいと思ったので、丸二定食でフライ盛りを頼む。唐揚げ、なすのフライ、コロッケ、ぎょうざ、白身魚のフライがたくさん出てきた。久しぶりに満腹を味わった。おいしくいただきました。ありがとうございます。

武者小路実篤が作ったカチカチ山の劇を朗読し合う。 それが面白かった。婆を騙すということは痛快だった。自分が小津の映画に出てくる笠智衆になったつもりで楽しかった。

今日はとても疲れたので帰ってきたなりすぐ寝たが、どうやらネガポジでキャプテンパニックと不審船のギグがあったらしい。せめて呑みぐらい行ければ、と思ったが、今日の早朝に気づいた。すいません、また呑みなおしましょう!

2011年11月15日火曜日

さっm

11/14
友達が、佐々木敦の『文学拡張マニュアル』は持っておいた方が良い、と教えてくれたので、早速図書館に行き、借りてくる。とりあえず保坂和志との対談の部分を読む。保坂和志が80過ぎたあたりの小島信夫はふぬけてて、枠しかない、とかドキリとするようなことをしゃべってる。バッサバッサ切っていくのだけれど、やっぱり面白い、有意義な対談だった。私が保坂さんに対して思う複雑さはここにあって、なんで彼はこんなに自信満々なのだろうと、羨ましく思う。全面的に小説を信頼している、と保坂さんは言ってる。小説の必然に従って小説を書かされにいっている、という姿勢は共感できるし、少なくとも自分が書いてるんだ!と思って書いている人よりはフェアだけれど、そういうのはあんまり押し出すものじゃないんじゃないの、とは思う。ハイデガーっぽいし。小説(の運命?)のことを考えると、社会に向けて発言していかなくてはいけないし、そこに小説の未来が託されている、ということの意味は分かる。

最近映画化するという、川端康成『眠れる美女』の話を聞く。川端が本当に変態で嬉しい。お人形さんみたいな女の子からこういう話を聞く経験というのは、人間としてまた一つ功徳をつんだような気がする。そういう状況でもなかったのだが。

言葉以前に人間は生活しているとすれば、言葉で何かを作る一方、どうしようもない、しょうもなくもある生活みたいなものを一つの批評的な地点として持つべきじゃないのか。言葉の世界と、そこからフッと離れたもう一つの世界を持ちたい。そこに驚きがあり、それは励ましでもある、というと保坂さんもそうだし、しばらく僕は保坂さんを離れられない。

2011年11月14日月曜日

11/13
ああ。13日だ。
今日は天井での活動だけに終始した感がある。

小島信夫の『書簡文学論』を読む。

最近夢をよく見るようになった。というか単にものすごく寝るようになっただけの話かもしれないけれど。夢だから変な夢を見るのは当たり前なんだけれど、僕の夢ななんとも微妙だと思う。ぶっ飛んでたり、ファンタジーだったり、殺したり殺されたりという夢は見ないけれど、なんだか本当に気持ち悪い夢を見る。それは別に悪夢という訳ではないのだけれど。端的に言って僕の夢はなんだかよく分からない。夢と言うものは概してそういうものなのだろうけれど。

今日は上司的存在の人とサウナっぽい、真っ暗な、いささか宗教的なオーラを感じさせるような、それでいて当然そこにあるというような(夢の中の意識は概してそういうものかもしれない)ところでお話をした。そんな風にしていたら妻をおまえたちに寝取られるのは時間の問題だ、みたいなことをその上司的存在は言ってた。

昨日は友達がインド人と遊ぼうとして、インド人の店めちゃくちゃにして、追いかけ回されたので、泣きながら「僕就職活動するわ」といって消えていった。その後僕は軽くなって飛んだ。

夢を語ると言うことは、言葉によって夢を表現している訳だから、言葉にした時点で夢は夢じゃない。夢は記号でも構造でもない。夢をそういうものにしてしまうと、どこかありきたりな部分が残る。それは、なにも表現していないことと一緒だろう。ただ、そういう夢みたいなことを、言葉にするという行為には何か欲望や何かがあるのだろうし、そこに例えば精神分析とやらが発生することは分かる。 夢を言葉にするものというのはどれくらいまで夢と関係があるのだろうか。夢ということにしておいて、何か語らざるを得ないようなことを語っているのだろうか。

2011年11月13日日曜日

野田

11/12
三浦清宏の『長男の出家』を読む。家族の諸相が上手く描けていた。磯崎憲一郎を私小説化すればこういう風になるのか、と思った。三浦清宏は小島信夫と半年同棲していたらしいし、そういう事もあると思う。

田中小実昌『ポロポロ』の残りを読む。さすが、本当に面白かった。最後の2編は物語を名指しして意識しながら戦争を描こうとしている。

従軍した人の口が重いのは、その体験がものすごく悲惨であるからだ、という前に、そこでの体験をことばにする方法がないからなのかもしれない。そこでの「事実」を「物語」にすることはできるかもしれないけれど、「物語」にすることは、そのことを伝えることにはならない。その体験をあえて伝えようとするには、「事実」が「物語」と化すことに意識しながら、ポロポロ語っていくしかない。そうしてできたこの小説を、僕はつっかえながら読み、レクイエムと文字とを往復した。
 と、僕は書いた。事物を「物語」として認識しても、その事物は永遠に分からないのではないか。その事物をあえて伝えるためには、こういう書き方しかないのではないか。

深沢七郎の『言わなければよかったのに日記』を拾い読みする。この人も本当に面白い。かわいい。周りの人物、石原慎太郎でも、かわいく見える。そういうのは実はかなり力のある文章というか、批評の核となる何かを持っていないと書けない文章だろうな。

森敦の『浄土』を読む。彼は本当に良い文章を書く。美しい文章を書く。僕は小説を読むのが苦手で、情景が上手く浮かぶことがないが、いつのまにか、彼のフィールドに入り込んでしまっているのでびっくりする。 非常に大変な人である。他に類がない。

ここまでが朝の8時で、その後、僕はものすごく寝てしまった。自分は友達と変な国に居り、セミナーを受け、恍惚としてる現地人にたかり、彼の店につれてってもらう。友達がその店でめちゃくちゃしたので追いかけ回されたため、坂道を駆け下る。友達はそれに懲りて、「僕、就職するわ」といって消えていく。すると僕は軽くなって宙に浮く。最終的には毒の葉っぱを食べて墜落する。その毒の図解の解説が最後にあって目が覚める。

そんな夢を見ていたら、一日が終わってしまった。

2011年11月11日金曜日

ボア

11/11
朝起きると心臓が痛かった。服を三枚着て寝てしまった。いつの間にか寝てしまった。起きたら12時だった。僕は首を振った。寒かった。

朝は牛丼屋さんに行きました。いつもありがとうございます。

クリントン・イーストウッドの『父親たちの星条旗(Flags of our Fathers) 』を見た。スピルバーグの時も言ったけれど、これぞ映画だ、と僕は感動してしまった。イーストウッドのほうがもっとフォードとか、ルノワールとかの伝統を意識してるのかな、見てるとそういう連想をしてしまった。それは、映画によって世界そのものを映し出しているというか、現実を撮っているという意識が強いからなのかな。人を撮っているというよりも、人々がいて、群衆になって、戦争があって、国威効用のイベントがあって、家族があるんだけれど、それはその世界の中で繰り広げられてるんだなぁ、という所に意識があるからなのか。そういう世界に人々が突入している感じに描かれている。映画の楽しみというのはこういう所にあるなぁ、と感じさせる。

後輩がmacを買って、dtmを始めようとしていると言っていたので、むずかしいよ、と進言させていただきました。dtmが出来るようになったら、僕にも教えてもらいたいな。彼はいつも仲良くさせてもらっている昆布さんと友達らしくて、感動した。また呑みにいきたいな。呑みましょう!

夜になったので、ラーメンを食べにいきます。ありがとうございます。でも、回転寿しにもいきたかったなぁ、と思い出す。

三浦清宏の『長男の出家 新版』がきていたので今から読みます。いつもありがとうございます。

レニ

11/10
意識が遠のいていきなり11日になってしまった感がある。
昨日は、朝早く起きたので、木曜恒例で100円で本を売ってくれる市場が開催されるので、そこに行く。早くから行く人というのは割と同じ顔ぶれで、いつもありえない量の本を買っていく。どういうことなんだろう。

100円なのに、びっくりするような本が、朝にはまだ残っているので、古本市は朝に行きたい。中上健次がいきなり7冊程あったこともある。古井由吉はたいていこの古本市で100円で買いあさっている。今日は石川啄木の『romazinikki』を買った。変な哲学者の日記っぽいのもあったけど、鬱っぽいからいいかなぁと思ったけど、なんかややこしそうなのでパス。またであえるといいね。荒川洋治の『日記をつける』があったのに買わなかったのは今思うと良くなかったとおもう。小林勇の蝸牛庵訪問記』もあったけど、買わなかった。つい買いすぎてしまうから、セーブしようとしたんだけど、セーブしすぎたかなぁ、まぁ結局結構買ってしまった。


いえにかえって、スティーブン・スピルバーグの『ミュンヘン』を見る。これこそが映画だ!という映画だったように思う。本当に素晴らしかった。社会と個人を緊張感を持って描けている作品は本当に素晴らしい。現実を写してしまう映画というシステムを上手く使えているな、とも思った。そりゃ巨匠だから当たり前でしょ!って思うかもしれないけれど、今まであんまりそういうイメージはなかったので、しまったなぁ、そんしたなぁ、という気持ち。前見た『宇宙戦争』もよかった。


あまりに良かったせいか、見た直後に意識をうしなってしまった。寝てただけかもしれないけれど、起きたあと、しんぞうがいたかった。

2011年11月9日水曜日

レニ

11/10
朝吹真理子と西村賢太の対談の動画がyoutubeに上がっている。先日それを見て、面白かった。この二人が並ぶと、どうしても、財閥系のお嬢様と最底辺のおっさんというすごい感じではある。こういう感じであるから、作風も全く違う。朝吹さんの小説は、本当に凄い。『流跡』なんかは本当に読むのが楽しくて、書店で立ち読みしていることも忘れて一気に読んでしまった。古井由吉のような、大作家になるようでわくわくしている。(まさか同世代でこんな人が出るとは!)西村さんもスゴい。悲しくて、どこにも回収されない、どうしようもない生活をあれだけ面白く書けている作品は、素直に希望が持てるような気がする。(それに関して言うと朝吹さんは幸せで満ち満ちている。)こういう風であるから、どうもどちらかが好きでどちらかがものすごく嫌いだ、という人が僕の周りには多い。なんとかならないものか。

朝:ごはん ソーセージ お漬け物を食べる。いつもありがとうございます。図書館から延滞していたタブッキの『フェルナント・ペソア の最後の三日間』を読む。とても良い本です。タブッキは久しぶりだったので、本当に効いた。出会った、という感じ。ペソアの変名との対話というのがいいじゃないですか。ペソアの変名それぞれの機能がそれぞれ物語を持つというのは、まさに小説ができる小説だ、と。

遅ればせながら、田中小実昌の『ポロポロ』を読み始める。その通り、ポロポロっと書いてある小説だ。ただ、コミさんの小説を読むと、なんとなくよくわかんなくなってきて、頭がくらくらる。特別になってしまうことを排して小説を書くというのが本当にすばらしい。その、特別さを排除する姿勢は、写実に専念するだとか、「アンチロマン」だとかでは決してない。この小説はなんなのか。小説でしかないのか。小説でしかないのだろう。こうして考えると自分がアホになったように思えてしまうけれど、やっぱりアホなのか。コミさんがアホなのか。コミさんはアホなフリをしているという感じはある。むしろ、何かと戦っているようなラディカルささえある気がする。そういう意味では狡猾なのかもしれないけれど、コミさんに狡猾という言葉は全く似合わない。素朴なのか。素朴というのもおかしい。何ともいえない違和感を保持しつつ、ギリギリのところをさまよいつつ(彼らは何のために歩いているのだ?)、どうしてだろう、小説が出来上がっているのが面白いし、やめられない。それこそ、ポロポロっと読んでしまう。

本を読むということは、何の得にもならないし、本に毒をもらってしまうことだってあるらしいのだけれど、やめられない。そもそも得だとか意味だとかでなく、例えば祈りなんかでも全くないのだけれど、やめられない。これはどうしようもない。これはどういうことなのだろう。やっぱり、そこに残っているからだろうか。そこにどうしようもなく存在しているからだろうか。そういうのに何となく励まされるというか、あいさつするということはあるのかもしれない。


2011年11月8日火曜日

レニ

11/8
6:30とかに目が覚める。昨日早く寝たからだと思われる。昨日はとにかく眠たかった。
寝起きでスカイプ。むしろスカイプで目が覚めたという感じ。天井のニューアルバムの作業に入る。一曲仕上げた(?)。

今年の日大はすごかったらしい。七尾旅人もテニスコーツも出て、さながら現代版フォークジャンボリーだった。そりゃそっちに流れるわ!いいなぁ。

『ゴットファーザー』のラストシーン30分だけを見るという、考えてみれば謎な体験をした。

リーフェンシュタールの『民族の祭典』をちょこっと見るということもした。

『ホタルの墓』の実写版をみるということもした。中原昌也が怒ってた、アニメ・マンガ的な映画はこういうことなんだな、という映画だった。カメラ、人物造形、演技、空から蟻まで全てがアニメ的な記号で、せめて蛍ぐらいはCGでなく実写でとって欲しかった。カメラが現実を映し出す機械で、それを使った表象が映画であるのに、ここにある世界は全くヴァーチャルで、これはどういうことなんだろう。その点、『ゴットファーザー』や『民族の祭典』は生々しくてすごく興奮した。

ボア

11/7
『彼岸過迄』を読む。探偵とかしだしてびっくり!
スーパーでティラミスを買う。

スポーツの現状の話を聞く。文化というものは、どこともお金の戦いであることは分かるのだけれども、文化なんか何気ない、些細なものだし、そこからはじまったわけで、そこに創出の喜びがあるとするなら、もろに大社会を相手にするよりも、オルタナティブを考えるべきなんじゃないのかなぁ、なんてことを思うんだけれど。なんにもならない、しょうもないことが普通に楽しいはず。

半額おはぎおかぶいか買って寝る。

2011年11月7日月曜日

11/6
小島信夫『暮坂』読了。彼の中でもかなり毒を含んだ連作だと思う。こういう風に並べられると、後半の「暮坂」の話で開放的な感動(?)が引き立つ。

小島信夫を読む周期が回ってきたと思ったので、図書館で小島信夫を数冊借りる。『小説の楽しみ』は小島信夫の世界の楽屋裏のような講演録で、一見何の計算もなくぶっちゃけてるような形で講話が展開されているので、ものすごく面白い。 面白くて、あっという間に読み終わる。

同志社の学祭はテニスコーツが来るそうだ。いつも、学祭のチョイスは自分がちょうど聞きたいと思っているものを出してくるような気がするので、僕の感性もまだまだ同時代というか、案外若くて連続性があるのかもしれない。

いつの間にか寝てしまって2時頃に目が覚める。何時間かボーとしていたが、『彼岸過迄』を読む。

2011年11月6日日曜日

11/5
今日は何か一日中寝てた気がする。油断してスカイプしてたら一日をとんでもない形で過ごすことになる。スカムな一日だった。

友達と天井というユニットを組んでいる。今日、天井のユニットのアルバムが出来た。このアルバムはすごい。気が抜けすぎてどこまでも飛んでいきそうだ。

それと平行して、自分のフォークアルバムみたいなのを作った。ほぼcとgコードしか使っていない、親が泣きそうなものだけれど、まぁいいんじゃないか。ダウンロードできるので、iPodに入れて、聞いてみてください。こういう感じの歌を歌うと、またパンクスに「ヘタウマというレベルじゃない」とかよう分からんけどモダンな地平からバカにされるかもしれないけれど、そういう人間を不安に落とし込むためにやっているようなところもあるのでまぁいいでしょう。そのようところにするには、まだまだ至らない所があるかもしれないけれども、まぁいいでしょう。

小島信夫の『暮坂』であるが、題材がうさんくさいせいか(新興宗教だったり、ようわからん美術評論家だったり)、 なんか不安になる。この小説集はなんだか怖い。スカムとか言って良いのか分からないけれど、この小説集に関してはそうかもしれない。もちろん、ためらうということはスカムでかたつけることの出来ない深淵さがあるわけで、それが不安の種となるわけなのだけれど、それがスカムでない保証はどこにもない。そしてスカムになることを恐れている訳でもない。そもそもそういううさんくさいもの(との関係)からでしか、例えば幸せだとか、悲しみだとか、作品だとかは生まれないのではないのか。「すべてがしょうもないということ」はないだろうし、例えそうだとしても、そういう言い方をすることは間違っていて、それはデカダンでモダンな発想だからだ。それとは違ってこの小説は喜びに満ちたものである。スカムにもそういうものはあるかもしれない。

2011年11月4日金曜日

菅野満子

 11/6ー7
夜の五時ごろ起床。まぁ多少はね?

デリダの『グラマトロジーについて』を読む。よくわからん。この本は何者かへのパロディとして読むべきなのかもしれない。

デリダの読書会の後、魚民へ。潮の匂いがする居酒屋でお魚を食べるのは本当にすばらしいことだ。大分呑んだような気がするが、安い。

その後、シープスでサークル人と合流。割と呑んでしまったみたいではっきり言ってあんまり覚えてないけれど、すばらしい夜だった。一回生としゃべれたのはすばらしいことだ。チープさをコンセプトとしたユニットを組むことを決める。

いつの間にか寝ていたらしく、12時に起きる。そのまま更級といううどん屋に行く。たぬきうどんというものを初めて食したが、とても上手い。あんかけでショウガも入っているからこれからの時期は暖まるだろう。

よくわからないソフトポルノb級マンガみたいなのを読みながらグダグダする。こんなどうしようもなくしょうもないマンガが存在することに感動して泣けてくる。ソフトポルノの方からマンガ界の波は来るだろう。マンガの未来は明るい。

天気がよくてバトミントンのラケット持ちながら帰ってくるぐらい天気がよかったので、吉田山の前を散歩しながら よくわからない音楽の話をする。保坂和志が来るらしく、話を聞きにいこうと思ったが、どうやら僕は日時を間違えていたらしく、悲しい。


2011年11月3日木曜日

ボア

11/2
記憶がボアダムズからしかない。といってもボアダムズのことをことを覚えているわけじゃない。あれは吹っ飛んだ。
ボアダムズには考えることがあるので、対決するぞ!という感じで行ったが、普通に圧倒された。
それは肉体的にも圧倒されたわけで、実際貧血を起こした。
アイちゃんがかわいくて、七尾旅人みたいではあった。彼が率いる20本のギターの指揮は迫力があって、バーンスタインみたいだった。いや、七尾旅人もこんな指揮をしていたかも。
トランス状態みたいになってうわぁーってなってると、久々にあーちゃんまで降臨してしまったので、本当に儀式みたいだった。あーちゃんはこうして東京からときどき京都に帰ってくる。

ボアダムズ後は、みんなですき焼きを食べることになった。すき焼きは何年ぶりだろう、というレベル。おいしいわぁ〜。ホモの話題で盛り上がる。朝までのんで帰ったら、パソコンにメッセージがあって、「そーちゃんはやっぱりクソですね。」サークルの友達が僕の部屋で僕の帰りを待っていたらしい。非常に申し訳ない。でも何となく微笑ましい。また呑もう!

2011年11月1日火曜日

菅野満子

11/1
朝起きたらネガポジだった。飲み会の終わりのみんな寝てる感じだったので起きて帰った。7:00。それから図書館で多羽田敏夫の『滅亡を越えてー田中小実昌・武田泰淳・深沢七郎』借りて読む。さっき田中小実昌の章を読み終わった。よく頑張っていると思う。最初にコミさんを読んだ感じを思い出した。しかし、借りたとき眠くて困った。

『トウキョウソナタ』という黒沢清監督の映画があるが、 ああいう感じになし崩しに不幸が続き家庭が崩壊して不幸になっちゃうけど思い返すと案外生きてられるものでぐしゃぐしゃになったところからでも案外何とかなるという映画があるんだけれども、帰り道、そんな映画を思い出した。

アマゾンから小島信夫の『暮坂』が届いた。ありがとうございます。読ませていただきます。

菅野満子

10/31
庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』についての文章を書く。この小説は何というか気持ち悪いが、そういうのが大学生の思考プロセスを上手く書けているといえるのだろうか。11:00起床。今日は割とみんな優しかった。姫も誕生日だった。それだけでいい日なんだよなぁ。いつも本当に緊張するんだけど。イマイチ慣れない。
夜の七時頃からライブハウスでださい服で鍋大会をするということをみんなでした。思ったよりレベルが高くてとても面白かった。全体的にホモパンクがトレンドだった。鍋もうまくてそうなると酒も進む。久しぶりに会う人も多くて、そうなるとやっぱり幸せだなぁ。


山本精一の『ラプソディア』は羅針盤の『むすび』と感覚は似ているような気がする。どちらも山本精一とドラムで作っているからか。でも『プレイグラウンド』とは違う。『むすび』は山本精一とチャイナしかいない世界になっているようで、究極のラブソング(!)集みたいになってる。『ラプソディア』はそこからラブを抜いた(チャイナじゃないから)冷めた構築の『むすび』みたいになっていて、そう思うと終わっていることから出発しているとも言ってもいい。同じ構成でも『プレイグラウンド』は違う。あれは無作為というか相当リラックスして作ってる。山本精一の曲はどれもリラックスしているといえばそうだけど、『ラプソディア』とか羅針盤とかを無作為とは言えないような気がする。あれは構築されてる。

ポップということでハイポジ(hi-posi)を持ち出すこともあるだろうが、それを聞いてるからポップスがいける、みたいなことは、早川義夫が好きだからポップスが分かっている、と言ってるような違和感がある。ハイポジはポップの前にオルタナだし、それはJポップのオルタナで、渋谷系のオルタナということになるのだと思うが、つまり、そういう形式を借りて全く違うことをやろうとしているというところが彼女の良さで、僕はそれが凄く好きだ。その全く違うことは、彼女が今提唱している『ガーリー風水』ということになると思う。『ガーリー風水』的な「かわいいアンビエント」みたいなのが彼女の姿勢で、曲もどんどんそういう風になっていった気がする。あのふわふわしたトラックは「かわいい」と思うけどポップスではない。ポップスというにはあまりにも「かわいい」。「かわいい」すぎて逆に感情的なノイズがえげつないと思う。

ポップスを持ち出して評価する時は、僕はそれをオルタナとして評価することが多い。それは、例えば「名盤解放同盟」みたいなもので、あそこで解放された音は現在の消費体系とは全く関係ないし、ポップスの系譜としてそこまで組み込まれていない。だから、その音を、今、持ち出してきたことに意味があるし、 その行為がオルタナだと思っている。そういう感じでポップス面白いと思うことはあるけれど、ポップス自体をポップス自体で面白いとは僕は思えなくて、それは僕の欠点でもあるけれど、歌謡曲しか参照点がないのはどうかと思う。かと言って僕はアンチポップスじゃないし、例えば僕はミニモニ。(これはもはやポップスじゃないかもしれないけれど)が好きだし、ユーミンもはっぴいえんども好きだし…。ただ、判断中止的にポップスしているものはよくわからない。


 こういう催しは本当に面白いからどんどんやってほしいなぁ。ちょっとステージに立たせてもらってリクエストがあった「おれはさむらい」と「ひる」と、初おひろめの「のぐそのうた2」を弾き語らせてもらう。そういうことをさせてもらえるのも本当にありがたい。


2011年10月30日日曜日

『菅野満子』

11時起床。朝から古本市に行く。雨が降ってきたので、ぬれちゃった。傘をさしたけれど、ハスミシゲヒコの本がちょっとぬれちゃった。
帰ってきてから、宿題をしなきゃならなかったのだけれども、浅野忠信の手抜きみたいな映画を見た後(二つめの、ゴシック時代劇のショートムービーはよかっ た。 )永井荷風の断腸亭日乗を読む。この本は古本で、付箋がページを埋め尽くさんとしているほどなので、むかしこの本をもっていた人は、永井荷風の断腸亭日乗 をたくさんたくさんよんだのだなぁと思うと、この本を大切にしよう、という気持ちになりまして、買いました。この本を読みながら、チャットで友達としゃべりま す。世の中は便利になったなぁ。物理的には誰にも会っていないのに、ここ二三日は、にんきものになったきもちがします。