朝:ごはん ソーセージ お漬け物を食べる。いつもありがとうございます。図書館から延滞していたタブッキの『フェルナント・ペソア の最後の三日間』を読む。とても良い本です。タブッキは久しぶりだったので、本当に効いた。出会った、という感じ。ペソアの変名との対話というのがいいじゃないですか。ペソアの変名それぞれの機能がそれぞれ物語を持つというのは、まさに小説ができる小説だ、と。
遅ればせながら、田中小実昌の『ポロポロ』を読み始める。その通り、ポロポロっと書いてある小説だ。ただ、コミさんの小説を読むと、なんとなくよくわかんなくなってきて、頭がくらくらる。特別になってしまうことを排して小説を書くというのが本当にすばらしい。その、特別さを排除する姿勢は、写実に専念するだとか、「アンチロマン」だとかでは決してない。この小説はなんなのか。小説でしかないのか。小説でしかないのだろう。こうして考えると自分がアホになったように思えてしまうけれど、やっぱりアホなのか。コミさんがアホなのか。コミさんはアホなフリをしているという感じはある。むしろ、何かと戦っているようなラディカルささえある気がする。そういう意味では狡猾なのかもしれないけれど、コミさんに狡猾という言葉は全く似合わない。素朴なのか。素朴というのもおかしい。何ともいえない違和感を保持しつつ、ギリギリのところをさまよいつつ(彼らは何のために歩いているのだ?)、どうしてだろう、小説が出来上がっているのが面白いし、やめられない。それこそ、ポロポロっと読んでしまう。
本を読むということは、何の得にもならないし、本に毒をもらってしまうことだってあるらしいのだけれど、やめられない。そもそも得だとか意味だとかでなく、例えば祈りなんかでも全くないのだけれど、やめられない。これはどうしようもない。これはどういうことなのだろう。やっぱり、そこに残っているからだろうか。そこにどうしようもなく存在しているからだろうか。そういうのに何となく励まされるというか、あいさつするということはあるのかもしれない。
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