年末になり、東京にいる友達と連絡をとったところ、こころに効くくすりの話をするのでびっくりした。思考の循環を断ち切ることができるのだ、と。生きているというのは別にしょうもないかもしれないけれど、そういうしょうもなさ、退屈さがいいんじゃないの、と言うと、そういうことを思うことも過ぎた、と言う。確かに僕が言っていることは、「かっこいいことはなんてかっこわるいんだろう」というような、価値が転倒することを良しとするレトリックのように見えてしまうような、それ自体が弱点を持った言い回しだったかもしれない。
その日はなんとなく手持ち無沙汰で、古本屋をうろちょろしていた。ビルの前で、合唱団が組織して愉快な歌を歌い出しており、町中はやはりクリスマスっぽいのだな、と楽しくなる。講談社から出た藤枝静男の新刊『中野重治・天皇・志賀直哉』には、朝吹真理子の解説があったので、おもしろい組み合わせだと思い、立ち読みする。藤枝静男は、冷めた眼、死人の眼をもっており、だから写真のギョロッとした眼をした彼の姿というモノを見ると、不思議な気がしたとか何とか書いてあった。感情とか、例えば楽しい、と思ってもどうしようもないわけで、それこそ、何にもならない。何かを作り出すとか、それ以前に、ただ見ている、ということを意識しないと、どこにもたどり着けないよな、と思い、うんうんと思いながら店を出ようとすると、「その了見が慊(あきたらな)いよ。大きに、慊いよ」という、西村健太の、雪のように白い本についている帯が目に付いて泣く。
高橋源一郎の「恋する原発」を読んだ。いつもの軽さを持ちながらも、存在する怒りがそこに現れていることを自覚しつつ書かれているといった、一筋縄ではいかないものであるように思う。
消費されにくさ。目にみえないことを書くことということは、簡単に指し示すことができるようなものではダメで、言葉を常に外国語で書くように使うというのはよく言われることかもしれないけれど、言葉は常に、言葉以前のもの、言葉になっていたかもしれない言葉、存在したかもしれない存在、水子の言葉に対して、耳を澄まさなければいけないし、対決しないといけないし、その言葉以前の中へ潜っていかなくてはいけないと思うけれど、それは同時に多くの人が発する多くの声を聞き取って、多くの声を採集する場を作るものとしての作品、小説を書くことにすなわちなることにもなるし、つまりそれはどちらも徹底的な他者と接することになるから、同じようなことにもなるだろうし、つまりこの二つを満たすことにもなる。
「輪るピングドラム」でも、石井裕也監督の「ハラがコレなんで」でも、そのようなことが考えられていたような気がして、素直に元気になるような作品が、いつの時代にもボコボコっと誕生するみたいで、嬉しい。
いつも適当に見えて笑われるけれど、目的を持って勉強しているような、そんな人と呑んでいると、終電がなくなったらしくて、オールして呑む。野村さんのことだ。
人と話をすることは、そもそもそういうところからしか何を生むこともできない、と思っていたりもするけれど、単純に、人と話をすると嬉しくなる。自分はちっぽけだから、何か他者との関係性から、何か大切なものを生み出していく、その物語をキャッチしていかなければいけない、と常日頃思っているような気になっているけれど、言い訳かもしれない。恥ずかしいことを言うようだけれど、僕は誰かに理解されるために、受け入れられるためにそういう関わり合いを持とうとするだろうし、そのようなことを諦めきれずにはいられない。だけれど、最近よく経験することだけれど、人と熱心にしゃべっていても、だいたい二時間ぐらいで、話すことはなくなる。僕が本当に伝えたかったことというのは、本当はなくて、だからいつもどこにいても場違いに感じるのかもしれない。僕は少しお酒を飲むことができるので、そういう時はお酒を飲むことができる。だけれど本当は、何も伝えたいことがないとき、人は歌を歌うことができる。谷内くんの新しい音源は、このような時、お酒が飲めないかわりに、歌を歌うことができることが、豊かだと、感じる。
よべばふむまえのあざやかな かげのいろ歌は、何かしら不具なものでありつづけるだろう。 留まり続けるために、人は歌い出す。
たえずながれだしたいのちと とけいのはりを
とめて みせたひと すすめて みせたひと
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