11/28
ライブハウス「ネガポジ」で目覚め、その頃には日が明るかった。しゅーさんと飯を食って、帰るという、いわゆる、いつものパターン。
少し眠る。
今週はライブばかり見て、呑みまくってしていた感じだったので、今日は銭湯でゆっくり過ごし、毒を出す。
ぼぅーと、やっぱりテニスコーツよかったよなぁ、とか思いながら、いろいろ余韻に浸る。
工藤冬里(マヘルの主宰)の詩集が届く。ありがとうございます。ぼちぼち読ませていただきます。
今日は半額のおさしみとカボチャの天ぷらで夕餉。とてもおいしくいただきました。ありがとうございます。
聖書の引用が多かったので気になっていたけれど、どうも工藤冬里はクリスチャンらしい。マヘルのコミューン的なラディカルさだとか、それは、疎外されても仕方がないようなものなのだけれど、その、その演奏をそのまま全肯定して、スタッフにバカにされるほど(それがバカにされても当然なんだ!)、危ういけれど、それゆえすごいポップ性を獲得してしまい、そういう様のどうしようもなさが強い感動を生むのだけれど、冬里の目に移る、その一回性の美しさ、取り返しのつかない、それは具体的にマスターオブミステイクの称号(?)を貰うことになる目だけれど、ことを全面的に支持する姿勢は確かに宗教的でもあり、それはとりさらわてしまうこと、社会、文化システムの前提から、始めからなかったことにされてしまうような世界を汲み取ることになるわけだから、工藤はここで、すべての世界線を肯定して、無限の可能世界、こうであったかもしれないその曲、演奏を見ているのだろうな。とことんスカムでポンコツなんだけれど。
小説のマスターピースが一つ出来上がる、それを例えば雑誌に掲載したり、本にしたり、つまり世に出る。そうやって発表された小説の裏には何枚も、反古にした原稿用紙がある。これは違うと、ゴミ箱入りした物語がある。だけれど、その、完成された小説は、そういう反古になった物語を想像させるようなものでなければ嘘だ。小説はそのように反古にして反古にしてマスターピースを目指していく運動体のことだからだ、と保坂和志さんはおっしゃった。 工藤冬里は、これのゴミ箱入りした音楽を、ひっくり返して、パッケージしている。それがいいことなのか、わるいことなのか、僕にはわからない。
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