2011年11月17日木曜日

ルーティ

11/16
かなり寝坊してしまった。

昼から天井という、音楽ユニットの曲づくりをしていた。適当に作ってる筈なんだけど、こういうのは結構時間食ってしまう。

自由律の俳句について議論する場があった。私はわりと俳句好きの友達に囲まれているせいもあって、例えば放哉の句には親しみがある。しかし、大橋裸木の句には僕は本当に衝撃を受けてしまった。俳句の場合、この句の何がいいか、というのは説明しづらい。谷内くんは、俳句は睡眠に似ている、とか、俳句はゴミ、と言っているが、なるほど、本当にそうだな、と思う。俳句というのは、言葉の支配を越える瞬間を捉える言葉の表現に結果的になって、それがどうして起こるのか、というのは、何気なさ、例えば他の、いわゆる詩のように言葉の革命、言葉との闘い、みたいになりがちな表現とは違って、自動人形、俳句マシーン、俳句システムに自分がなるようなところがあったり、自動書記に近い。かといってシュールレアリズムなんかでは決してない。本当になにもならない。本当にしょうもない。こんな句つくりやがってぇ、と嬉しくなる。もうそこで毒が回っている。もうその句は頭から離れない。

 墓のうらにまはる(放哉)
ぼーっと歩いてたら、これは墓の裏にまわるということをしてることに気づいて、あ、俺は墓の裏にまわってるわ、へぇそんなこともあるんだな、という感じだろうか。この時、俳句は確かに催眠に近い!こういうのを作品として詠んでしまうのがさらにおかしい。また、こういうのが存在して残ってしまうことがさらにおかしい。この存在が僕のところまで届いてしまうところがさらにおかしい。喜びの瞬間である!

陽へ病む(裸木)
今回は、本当に衝撃を受けた。この句は、全く見通せない!いったい、この句を詠んでしまった人は、どうしてしまったのだ。 なぜ、こんな句を詠まなければならなかったのか。なぜ陽「へ」なのか!累々の俳句がズラーと並べられている中で、この俳句あると、明らかに異様だ。それで詠ませるのも異様だ!俳句は座の文学の延長線上にある。座というのはコミュニティー的なものだが、同傾向の人々が集まって、句会に出、句集を編む。裸木が句会に出て、この句を詠むとどうなる。そんなことが許されていいのか。この句が成立することで、俳句、いや言葉は崩壊してしまう。それで詠ませるのが危険だ!どうして俳句はこんなことになってしまったのか。わからない!ただ、この句にいまにも決壊せんとする物語が溢れている。だが、全く見通せない!

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