2012年12月2日日曜日

彼は怒り狂ったその骨はいけないここにあってはいけない桐乃塚峠というところでずっと神のふりをしていた松本という男が一ヶ月かけて集めた自分の吐瀉物で十字架をつくった時その骨を一番真ん中にして十字を折り返したのだ彼は最後の会合という名目で裁判をして裁判官の1人がマッチポンプもう1人がイドという女、カレイドは狂ったように全身をクネクネとひねらせ「言ったな!?ああもうダメだお前は死ぬのだ懲役135年!」と主張した すべてが拍手をした椅子も拍手くつも拍手した私も拍手その建物(千葉高等裁判所)自体も拍手をした鼻と花の隙間にある小さな血管の中に住んでいる巨人津田の相方も拍手をしたその拍手がだんだんと手拍子となりつまり裁判が死に絶えたマーチングとなって郡の人から国の人までお役人をみんな呼んで会食が開かれた美味そうな料理が並び空には光り輝く星が見下ろしていた月はなかった会食は夜半すぎまで続いた人々は裁判の事など何一つ覚えていなかった一体誰が搾取されたのか当事者は誰だったのかそれどころか裁判されるということ自体を忘れてしまった町には犯罪が蔓延した詐欺恐喝押領海賊物価高騰物資不足貧困死亡その結果としての動く死体なとが溢れかえった死体が溢れれば当然異臭も溢れ女子たちはガードレールなくしては心のなかの車を運転できなくなったのでみんな自前のガードレールを用意して臀部に装着し、カマキリのような感じでビョコピョコと連なって行進した 目が見えない人たちだけが助かった大して影響受けなかったからだ、ところがそこで目が見えない人たちはわれしめた!とばかりに助かったことをチマン氏とともに喜び合って独裁をはじめた見える人々を椎茸で叩き打ちのめし奴隷としてクリアな言葉を覚えさせ、小突きまわした 目が見えない者たちはいつもどおり蟻のように並んで行進するのをやめた 本当は目が見えない自分たちではなくて目が見える人々を並ばせて歩かせることを強制するというやり方が正しいのだとついに気づいてしまったのであるそれが全ての間違いだった だって目が見えない人たち以外はみんな困っていたのだから 2人組のろうあ者はとても住みにくい世界になったんだなぁと嘆きながら出かけ、北海に面した崖から飛び降りてその下にあったわずかな出っ張りに両手でしがみついて助かったもののこれでは手話ができない!手話がもうできない!両手が塞がっていては手話はもうないのだから!と叫び合う謎の寸劇を繰り返していた あーもう行くところがないこのままではすることもないそんなふうにシリアスに考えていた人々は裁判をみたび回復させようと目論んだそれらの人々は裁判転じてサイババンドラ派と呼ばれ過激派と穏健派と」に分かれた過激派の筆頭の「消え入るうーごー」という男か穏健派のリーダーだった女教皇を処刑し結局限られた民である3 9人だけが細胞分裂の中に裁判を取り戻して、また裁判の意味がわからない、理由がわからないと泣くのであった(谷内)

2012年11月26日月曜日

一念発起して銭湯に行った帰りにコンビニによりケーキを買う。少し前に誕生日を迎え、ごほうびだ、おめでたいのだ、と思い買う。これで今週買ったケーキは三個目になる。おめでたい気持ちにも締まりがない。締まりがなければあふれてしまう。今週買ったケーキは三個目になる。ケーキを食べる。そこらへんにおいてあったコーヒーを淹れる。ケーキを食べる。今週買ったケーキは三個目になるが、ショートケーキは初めてだったので、わくわくして食べる。おいしい。学食で食べたモンブランもおいしかった。モンブランには栗が入っているものだとばかり思っていたので、びっくりはした。古い校舎で食べた黒いケーキもおいしかった。固かったので、質量があったのだろう。今週から数えて三個目のケーキを食べる。おいしい。イチゴの乗ったケーキを食べることなんていつぶりだろう。しばらくすると、酔ってきた。なんかあんまり気持ちのいい気分ではない。この町の冬は寒い。寒いせいで酔ったんだな。しゃっくりというのは、暖かいのと冷たいのが同時に現れて、筋肉が痙攣することで起こる。

やっぱりケーキのせいなんじゃないかな、と思う。ケーキに多分に含まれている糖分が、僕の心臓を、何らかの作用で、動かしているのではないだろうか。ケーキなんか食べるんじゃなかった。おめでたい時に、わざわざおめでたいことを、三回もする必要はなかったんだ。おめでたいときは、いつも常に、人がいるようなものだ。おめでたい、というのはそういう言葉なような気がする。いつも常に、おめでたくある必要はないはずだが、そういうことは本当に強く訴えかけてもいいと思う。

というか、コーヒーのせいなんじゃないだろうか。十二時からコーヒーなんか飲むんじゃなかった。安いコーヒーを。嗜好品は選ぶべきなのだ。どちらかというと魔術的なモノに対しては、注意深くしなければいいと、思っていたのだ。東京で出会った人も、父親が10歳の頃、クサは出会うものではあるがハマるものではない、と言っていた。何事も一心同体になるのはろくなことがない。波乱の予感がする。そんなものが幸せであるのならば、俺は幸せにはならないというパンフレットが配ってある。もう僕はしばらく、まともとは言いづらい生活をしていて、まともとは言いづらい環境の中にいて、つくづく、カタギじゃないなぁ、と思って生きていると、おまえは京都人とローマ人の嫌なところを兼ね備えた人間だ!と友達に言われたことがある。まず僕は顔がヤバい。銭湯に行くといつも顔で遊ぶ。顔でマッサージをしている。そうすることによって、豊かな表情を形成しようとしている。もう言葉なんか誰にも通じないのだから!と思って生きていると、思わぬところにアンテナを持っている人がいて、破局へ向かう。常にイライラしている。言葉を憎むことは、例えば牧師さんの話では、ハワイでは、人が死に、人は悲しむ、その悲しみ方として、神を恨む、どうして私の下に?取り返しのつかないことに対しては、どうすればいいのだろうか?どうすることもできない。そういう前に進まなくては行けない。壁にはケンカできない。本当は全てが壁なんだが。僕らは回り道をするべきなんだと思うけれど、それがみんなわからない。僕もわからない。わからないならわからないなりに歩いていたい。ロベルト=ヴァルザーが好きな友達の一人はそういうことを言っていた。「そういうわけで、文章は日記にもならない。進歩が永遠に止まっているような、もちろん近代なんてなかったのだろうし、しかしとりあえず否応なく進んでいく時間に対して責任を持って行動するぐらいしかなく、雨音を聞いていると、止み、電子の継続音が聞こえる。他の世界に対する想像力を鍛えることは、そこにある一つの言葉の世界があるのであれば、なんでだってできる。皆さんが大好きな音楽にだって、本当は他の世界とつながれる可能性はある。ふと、音楽を聴くことを辞めることができるのなら。なぜ、音楽を音楽だけで考えたがる?豊かすぎる世界には、有限な主体でケンカに勝とうなど、そもそもたとえがおかしいと思うのだけれど、そう思うことは情けないことなのだろうか?それが情けないのなら、その情けなさに対して、責任を持てばいいのではないだろうか?統一的な事実として認識したつもりだったことが何度も裏切られて、それでもまだ気づかない!一つの世界の思い込みは心の支えにもならない!」

友達からの私電


違う事は本当は楽しいことなんかじゃない限定されることが本当は楽しいことなんかじゃないもし幻が監獄の方だったとしてもその勧告をつくりあげるための自由は私が獲得するのではなく私とあなたの間にある青白い顔をした人間たちがもっていくのかそれが怖いそれが強いと言ったのはあの吉本さん石本さんと言うのはとっても丸い顔をして食べ物の話ばかりしているそれはそれはそうだったつまり私はソーダ水と炭酸水とキリンレモンの間で常に揺れ動いていた後に二万年くらいしたら即興演奏のことを少しずつ考えていきたいと言ったのは不動産だったか私はそんなことも許されないと思ったマンションの値段は常に変わっていくのか




「いつぞやの男は言った罪は太ったね俺は皮肉を返してやった君は霊長類みたいだね霊長類と言うのはゴリラと猿とボノボがいるけれどボノボの他にほのぼのという冊子を編集している霊長類がいていつが壱番恐ろしいんだ君はそいつみたいだねチミはそいつみたいだね君はそいつのこと体中で知っているみたいだね本当は何か朝ご飯を食べたいんだ朝日が昇ってきたから朝日夜を怖いものなんて1つもないけれど朝ごはんよりもだいそれたがまきりを食った山本周助」







時計の針は逆に回る人をくるくる回り新宿と都営大江戸線牛込柳町駅にあるCoCo壱番屋の永遠を結んだその永遠から入ったまっは2の建物の蓄積建物にも乳首があるなんて知らなかったでも歌にもお父さんとお母さんがいるだからブルースのお父さんとプルウスの子供はきっとたくさんの乳首を持っていたんだろうなぁ



きゃー死んでいった人が映画にきているそういいか教えているそう私はつまらないと思ったあなたもつまらないと思った彼もつまらないと思ったのに全体では面白いと思ったそれはとても喜びに近い感情だった起伏が激しい女の人は皆不幸だと言う固定観念を捨てされここは天国だここは地獄の垂直の客としてある天国ではなく横滑りになった天国だ


Mama mama Mimi Mimi Newman total put up what are you finished your special but I put you walk which to Pacino come to going to stop until I take with your cheetah contributes to Maria Cadiz to bundle my text so you put us I think she's it was tequila to custody else if so what pussy communication with only a test at Lucky's communication what's into the snake communication with the Kaiser nurse to pick you on equipment or my home to

Or my hometown buffet on my welcome donis how to do a night to them about my welcome Tony text you


10 10 10焼肉の音がするこけたこけたこけたそれはどこにいるんだ私のPCはどこにあるんだ私の鼻は体を通って私の口と耳と目とか40先とそれと崎人空気と空中床のくか部屋全体を支配するそれはくかお知らせするということではなく福岡の中に散文的に自分の体が熱流れ込むということであった本当あのカリヨン橋の上サックス吹いている謎のおじさまがモスバーガーのレシートの裏側に私のメールアドレスをかくように申していただき私はすごくとまどったのか


女のふりをして男襲ったなぜ男殺さねばならないのかという宿命論を語っている人がいるの喫茶店ランブルで小論書いていったジャズはいつも違うところから聞こえてくるフォークはいつも下の方から聞こえてくるブルースはいつもどこからも聞こえてこない沿いの接待にあると思う聞こえてくる芳香亭のが何よりも大事なのだそしてそれが一家に集中するということが何よりも大切なのだ


アライグマ楽しいねゆうこちゃん机の中に何を隠しているのラブレターかな男の娘の首塚かなそれとも自分の恋と愛の奇妙な詐欺の中にある憎しみ以上のそれはもうブロイラーの呪いといってもいいものかな何を隠していてもいいんだけど私はあなたの画しているものを見初めているあなたの隠してる者に惚れている探して出してあはは笑って今出して言葉は常に出して出してあなたのところで正しくなるのです自分の中に言葉を作る人間の最低さはあなたの隠してるものの最低さとそっくりだ


なあなあになった関係を木曜日の語源の強化質してしまう私が悲しいのがそのベイビイが1人いるからではなくその1匹か下の方を向いて死んだ人ばかりのことを考えて挙句の果てにはそれを私の内面に投げ込もうとしてくるからだった私はまるで小さなまるで小さな子供のように。描いてキスをしたキスをするのが楽しいでもキスの地が楽しくない日の月は本当はその3歳の女の子にギターを教えたきたーを教えられた女の子はとても素直にピアノを演奏したそのピアノは黒犬と発見の間にある黄緑色の生生物を叩いて音を鳴らすという技法だったそこにあるのは人と人との関係ではなく人と物質以外の扉を鏡合わせにしてその中にしか生まれない精霊たちとの関係だった


スーサイドという2人組のバンドの株取得性にはあきれる。そのあとにでてきたファうすと彼らは何か陰険なところがあったからレッドクレイオラには勝てなかっでも私はクレイ俺が好みではなかっただからそれに対抗するための措置として由美さんの描いた小さな歌という歌を持ってきた、小さいものは無限に増殖して私の肺の中にピシリとこびりついたそれはまるでフジツボのようで私は鳥肌が立った私の受かった鳥肌の中からさらに鳥肌が立ってその鳥肌の中にもう一つ鳥肌が立ってそこにもどんどん小さな世界というものが立ち現れて私は仕方なく鏡をたくさん集めてそれでとりはだを焼いた焼いた鳥肌は黒い塊となって私に言葉を何か話しかけた、鳥肌は優しい声をしてきた鳥肌の言うことにはあなたのバンドは雨の日にしかはやらない、磨きなさい服の袖を、、、とりつかいだった男に処分させた


野口悪い、顔が悪い透明感がない彼は透明感もない、彼には透明感もないし透明感にもない、背広着ているとしてもその透き通る身体は混入物で埋もれている電導率がとても悪い熱伝導もとても悪い、悪いことずくめだけれどあきらめないできっといいことあるからさ私が保証するからさあなんにもないかもしれないけれどきっと春がある南南南30と言う名前の蝉が飛んできてお前の顔と口とはりつきそこには一体全体どうしていいのかわからないような空間ができあがったあとは鼻からお前のからだを侵略し矢が脳にまでいたり、のっとり、お前の不幸を請け負ってくれる


佃煮をはまぐりと結婚させようそして私はドラマチックという概念と逢い引きしようかやの中で密接に体を捻じ込ませてそれはからみあうというよりほとんどもう無理矢理ねじこんでいくという感じだった辛かったいたかった目が見えなかったオシラサマと言う人形で2人でおままごとした妻は娘を嫌った息子は姑を嫌った姑は親戚のおじさんに逃げた走った俺は空でぬけぬけと洗った


















2012年10月13日土曜日

インド

小説

友達に出版関係の人がいるので、時折本を横流ししてくれることがある。特に落葉書房という出版社が素晴らしい。僕は卒論を書いているのだが、時折引用させてもらう本がある。それとは別に、アルフォンソ・リンギスという人がおり、その人の本はいつも、楽しく読ませていただいている。リンギスは現象学者の諸本を英語に訳しているアメリカ人だ。本も書く。『汝の敵を愛せ』という本は、原題ではデンジャラス・エモーションと言うそうなのだが、そこでは、人間が本来持っている情動を見つめ、それを解放していると思われる諸文化を引用したり描写したりしている。このような本を読んでいると、本来の人間の気分というのはこういうものなのか、と、なんとなくそんな気にもなってきて興奮する。そうなると、僕も自然と自分の生き方を見直そうと思い、より自由に生きようと思う。ここでいう自由とは、なるべくここに書かれているような本来的とされる情動を肯定し、その情動を削がないようにしようということだ。とりあえずそう思うことにして、一年間戦い続けていた。南が三回生の時である。

今は先を急ごう。問題は山積みである。目の前のがれきを一つ一つ片付けて行くことしかできないし、それぐらいしか、発想として、ない。南が三回生のとき、つまり、大学に入り三年目ということだが、三回生の秋ごろ、さくらこからメールが来た。さくらこはしばらくアメリカに留学にいっており、そうでなくとも、メールはしない。電話はした。味の素に就職したいらしい。ご飯が食えるからだそうだ。もう、それぐらいしか覚えていない。私は、これから南がさくらこと食事をすることをこの小説に書こうか、と思ったけれど、やめることにする。私は嘘をつきたくはない。それにそんなことを書いた暁には、谷内君という、私の友達をはじめ、様々な人にバカにされることになる。そんなことは避けたい。もうこれ以上、感情に支配されることはやめよう。メールも、実際はメールアドレスを替えたことを知らせるメールだったのだ。本当に何もない。ああ、懐かしいな、さくらこからメールアドレスを替えた事を知らせるメールだ、と思いながら、僕は学食で、豚汁をすすることにした。学食の豚汁はおいしい。豚汁だけがおいしい。モロヘイヤも基本的に好きだから、五回に一回は、モロヘイヤの小鉢を撮ることにしている。あとの四回は、きんぴらごぼうであるとか、ほうれん草であるとか、小鉢の豊富なメニューをとることにしているが、あくまで、おまけな気がする。そんなに量もない。そのために、豚汁をメインにご飯をかき込む。秋は常に風邪気味で、喉が痛くなるが、豚汁をすすっていると、癒える気がする。お茶でもいい。お茶をすすっていると、佐々木さんから、メールが届いた。奥知さんがアメリカに留学していたのは前から知っていたので、ああ、帰って来たのだな、と思い、会おうと思った。会ってくれた。図書館の前で待ち合わせをすることになった。モスバーガーに行くことになった。

「俺、中山と、おいしいものを食いに行こう、と思ってさ、モスバーガーにいったんだよね。らりりながら。何かを吸いながらモスバーガーを食べると、めっちゃうまいのよ。それは、もう、モスバーガーなんかでいいの。もちろん貝とか食べると、すっごくおいしいよ。中山が全部作ってくれるの。一流の食材で。それで吸いながらそういうのを食べていると、もう、うますぎて、笑いが止まらなくなるのね。もちろんモスバーガーでも可。カンズメのさんまとか、僕の家にはあったけれど、中山はそういうのには手を出さなかったな。食品添加物がある、とかなんとかで。中山ってのはそういううところがあるので、例えば、結婚式あるじゃん。結婚式の引き出物にスルメが出たの。やったースルメじゃん!って思うじゃん?うまいじゃん?子供の時食べなかった?50円のやつ。あればっかり食べてた気がする。でも、中山は食べなかった。普通に焼いてるだけの色だったから、別になんもないじゃん、と思ったけれど、どうも原材料みたら、あったんだよね、着色料。おそろしいよね!うん、そういう人がいるの。でさ、モスバーガーなんだけど、受付いったら、もう、笑いが止まらなくなっちゃって、絶対ホモカップルだと思われてたねー。」
「ハハハ」
「アメリカどうだった?」
「アメリカはいいんだけどさ、そんな遠い話しても、面白くないよ。」
「そうかもね。」
「a市の話しない?」
「はあ。」
「a市に行ってたの?」
「そんな時もある。」
「東京とか離脱して、どこか行きたい気はするね。」
「まぁ、分かってるんだけど。」
「a市はとりあえず人が満足して生きているみたいだけど。有機的だし。草木生い茂る国。」
「ゾッとするね。」
「ハハハ」
「それでね、何も考えてないの。みんなヤリまくり。」
「いいじゃんいいじゃん、本来的じゃん。(笑)…ってかさ、a市のどんなところ見に行ってたのさー。」
「本来的?」
「素直でいいじゃん。」
「まあね。欲望持つのは美しいし、欲望に素直なのは、なお美しいよね。…。例えばそういう風潮があるとして、その中で欲望を否定して、もっと社会的に生きようよ!とか、責任もって生きようよ!とか言ったりすると、なんだか、こっちが醜く見えてきたり、ひがんでるような気がしない?」
「それはその界隈が悪いんじゃないの。」
「はあ。」
「どこまでも果てることのないレース…。まぁいつか果てるんだけど。(笑)」
「そんなゲーム降りたい。(笑)私もやって来たんだけど。」
「なんだー。」
「いいじゃん、本来的で。」
「そう、まさしく本来的!ビッチも流行ってるしねー。」

近年では、書店にビッチ論がぽつぽつと出始めている。今年の八月には、『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(松谷創一郎・原書房)が上梓された。また、野田努は『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』(河出書房新社)という本の編集に関わっている。戸川純は、大友良英のジャズアンサンブルに参加し、phewに「諦念プシガンガ」という曲を歌うことを許可している。「諦念プシガンガ」は、このような歌詞である。
空の彼方に浮かぶは雲
嗚呼我が恋愛の名において
その暴虐の仕打ちさえ
もはやただ甘んじて許す
牛のように豚のように殺してもいい
いいのよ我一塊の肉塊なり
大体このような歌詞であり、大友良英のユニットではphewが歌っている音源を聞く事ができる。 純はphewをリスペクトしているようで、それは戸川純の書いたアーントサリー(phewが昔やっていたバンド)を見ていても分かる。phewはビッチという感じはしない。戸川純はより身体性があったり、危うかったりするので、退屈を埋めようとする多くの人がファンになることがあり、そのファンは少し特徴的な性格を持っているようである。それはそれとして、近頃戸川純を聞き直している。とてもいい。恋をしたからかしら。恋はいい。もうそれぐらいしかすることがないような気がする。そんな気もする。少し前に、『ヘルタースケルター』という映画を見に行ったことがある。まるで戦間期のドイツの、表現主義的な映画、例えばカリガリ博士みたいなの、をまるまるギャル的な装飾にして、満たした映画で、あれはセットや小道具が一番すごい。金もかかっている。やはり私たちは、金やセックスを回し回しして生活していくしかないのだろうか……(絶望)と思って映画館を出ると、偶然一緒に見ていた吉村さんが、「主人公の女の人が水に沈み行く場面で戸川純が流れてたね!」と言ったらものすごい勢いで雨が降って来た。ここで雨宿りをしようよ!と手を引っ張りなんかヨーロッパでブランド展開してそうな雑貨屋さんに入るけれど、全くやみそうにない。「私、耳にピアスしていたの。片耳に、五つ!」
「すごい!不良じゃん!」
「それは違う。でも金属アレルギーだったからすごいことになっちゃった。気づかなかったなー…。」なんとなく金原ひとみを思い出した。正月になり、実家に帰ると、いつも金原ひとみをブックオフで、100円ぐらいで売っているので、買い、読む。だから、なんとなく覚えているのである。
「金原ひとみみたいじゃん!『蛇にピアス』とか、そんな世界?いや、案外『アミービック』的なのかもなー。かっこいい!」
「違う。」
「別に何もない。私は特に錯綜などしていない。めちゃくちゃな事ばっかりしてると思うよ?それで人に迷惑をかけてるのかもしれない。それで自信をなくす事だって多々ある。でもいいじゃん。そんなのことはどうでもいいの。私は、これからも生きて行かなくちゃ行けないんだから。」
というような事を関西弁で言った。

2012年8月26日日曜日

ぼん

翌日、遠い町に住んでいる友人が、わざわざ僕の住んでいる町まで来てくれるので、お迎いに行った。そのついでに静岡県の藤枝市に立ち寄った。駅は大きく、周りの建物は大きかったので、都会だ、とびっくりしたのだけれど、蓮花寺池公園あたりまでバスに乗ると、そうでもない。小中学生が入り浸りそうな小さなお好み焼き屋さんがある。マンガなんかにでてきてもおかしくない。こういうのが残っているというのが、偉い。住みやすい。

僕たちは、ある人の墓参りをすることにしたのだった。ちょうど通り道にその人の墓があっただけだ。他意はない。ただ、よく小説などで話題になる墓だったので、愛着はある。西村賢太のように、人の墓を自宅に持って帰る、というレベルではない。ただ、やっぱり、愛着はある。頭を丸めたTシャツのおっさんに墓の場所を聞いて、墓を訪ねた。勝見家之墓、と書いてあったはずだ。真っ黒でつやつやしていた。だけれど、お花がカラカラに乾いていた。お盆なのに、と思い、野花を道で見つけて、献花した。お花屋さんがなかったのである。

藤枝静男の小説には、自分の持つ抑えることの出来ない性欲、そして家族の大半が苦しみ死んでいった結核に対する気持ちがコアにある、と言われることが多いように思う。現実は、彼を観念的な意見から遠ざけた。「私小説」だけが残った。そんな人であるから、野花を根こそぎ持っていってお供えしても、喜んでくれる。墓にバケツの水をかけて、合掌した。野花の根っこは、朝鮮人参のようにたくましかった、ささやかな花、かわいい花。


2012年8月18日土曜日

アーカイブ魔

8・14
みなさんキャンプに行ったようですね!雨降ってるけど、楽しんできてください!昨日とおとついの分の日記を書く。

夜になると、谷内くんから連絡が来る。谷内くんは今、バンド「ガセネタ」や「タコ」などでも活躍した批評家の大里俊晴の弟子のワタナベミホの下でバイトをしている男の子である。彼は歌も歌う。少し前に引用した、「化粧」、「霧」という歌を作った人である。僕はそれをオマージュした文章を書いてみたけれど、あまりうまくいかなかったので消したいが、もう遅い。それに僕はアーカイブ魔なので、そういうのもとっておいて思い出にしたい、どうせ死んだら全部一緒で、

全部おもしろいんだ、と思っていると、パソコンが壊れて、僕が高円寺で急性アル中になってフラフラになり、くたばったり吐いたりしたり救急車に乗っている時に友達(=2くん)が撮ってくれた50枚ぐらいのポートレートや、教習所の合宿が辛すぎて、やけになって撮ってくれた写真がすべて消えてしまって、悲しい。この写真を撮ってくれたのも、2くんだ。2くんのお父さん!どちらかというと、僕は2くんのせいで、ボンクラみたいなチンピラになったのですよ!ところで、谷内くんも、少し頭がおかしくて、頭脳破壊してくれて、取り返しがつかない。

谷内くんの歌は、総合すると僕はどうやら山本精一の次によく聞いているようだ。今一番聞いている人は高橋悠治という人だ。聞いてあげてください。谷内君の歌は、売れないかなぁ。テツオさんとフリージャズレコードを作ったら、谷内くんの歌の全集を作りたいぐらいなのだけれど、買ってくれますかね?とりあえず、普通に東京にあるという、エンバンとかに持っていったら、いいのかな?もし、フリージャズレコードを作って、何か谷内くんのアルバムを作ったとしたら、東京から京都へ、

招聘しなくてはいけないのかな。でも彼はシャイだからなぁ…。jandekみたいに、半分覆面みたいにしても、いいと思うけれど。少しおかしい、と書いたけれど、それは言葉のあやで、彼はだいぶおかしい。欲望の前提が、少しおかしい。少しおかしい、と書いたけれど、だいぶおかしい。彼のおかげで、僕は、よけいな欲望や意思を、抱え込まずにすんだ、という面はあるが、それは僕には欲望の前提がおかしい、ということではなくて、僕は誰よりも普通に、自然に欲望を持っている、と思っている。というか、こんなに谷内くんのことを書いていいのかな…?まぁ、中身がないからいいか。谷内くんと徹夜で会話をしたけれど、すべて忘れてしまった。徹夜で大富豪をした。それは谷内くんが指示した。

8・16
いつもお世話になっている、OLの女の子の住んでいるマンションには、屋上がある。私たちが住んでいる町は、京都市であるので、八月十六日には、送り火がある。その屋上には、大文字、妙、法、船、左大文字、が見え、鳥居だけが見えない。よくこの屋上で、月一でバーベキューをするのだけれど、送り火を見るのにこれほど立地のいい場所というのはない。バーベキューに誘われた。約束の時間に部屋に行くと、OLの女の子と、あーちゃんだけがいた。あーちゃんというのは、和歌山出身の、今東京に在住しており、ライブハウスで裸の女の子を登場させた横でつくねを売って、それが意外と本当にお金になってびっくりした、と言っていた、東京では黒人しか友達がいない、ヤバい男の子のあーちゃんではなくて、女の子である。みかんのかんずめを凍らして作ったデザートを振る舞ってくれた。

「アカネイロヒキ」というバンドのドラムをしているコウジロウさんが、わざわざ京都の台所である、錦市場まで、バーベキューをする場所まで、御所を越え三キロぐらいはあるところをおつかいに行ってきてくれたらしいが、お目当てのサザエはなかったらしい。サザエは何かの貝がねじれて、そのDNA構造が伝達されて、今、存在している生物らしい。詳しいことはわからない。抱きしめたが、汗まみれだったので、汗まみれだなぁ、と思って抱いていると、汗まみれだったので、汗まみれだなぁ、と思いながら抱いていることを悟られたのだろうか、汗まみれでしょ、と言ってくれた。確かに、汗をかいているようだった。

たくさんみなさんが集まって来て、みんなでビールを飲んでいると、「ボックスホール」というライブハウスで働いている、東京の大学に在籍していた関東人であるのにわざわざ京都に来てライブハウスのブッキングや企画などをして活躍しているおのまんさんがいらっしゃった。おのまん、というのは、本名らしい。びっくりした。おのまんさんはどこかで見たことのあるような女の子を連れてきたと思ったら、長尾蕗子さんという、僕が昔、ミニマルノイズパンクバンドでギターを弾いていた時、

対バンをした女の子だったようだ。それは、僕が昔、ミニマルノイズパンクバンドの一員だった時だったので、二年ほど前の話だ。またこうして出会うとは思わなかった。僕が彼女の弾き語りを見て、「祈りがある」と僭越ながら、言ったことがあり、そのことをとても大事にしてくださっていたようだ。確かに、そのようなことを、言ったことを覚えている。ライブを見に行く約束をする。バンドやっているんです!ギターで参加してくださいよ!わめいているのも良かったです!

なんておっしゃる。マジで!?あの悪名高いあの僕のノイズギターを?嬉しい。僕のギターはキレキレだったので、神戸のライブハウスでしか、評価されなかった。京都の人は軒並み、あれは悪ったな、と言う。そういう時は、あれは僕も勘違いしてたんすわ〜、と答えるようにしていて、実際その節はあるのだけれど、あながち勘違いではないのだろうか。いや、勘違いだろうな。吉田寮の祭りの時、山梨出身の元カノ(モモコさん)を呼び、ワンダー3というバンドでキーボードとオシュレーターをしたことがあるが、

最後のオシュレーターソロで、痙攣しながらノイズを出していたら、モモコさんは引きまくって、それから二度とライブに来てくれなかったが、そのモモコさんと一緒に来ていた女の子は評価してくれて、CDを買ってくれた。芦屋に住んでいるクラフトワーク好きの女の子で、名前は確かホウさんと言った。長尾さんはどうやら大阪でも活躍しているようである。OLの女の子は変な果物を長尾さんにお土産として渡して、「ぶつけたら酸っぱくなるから、絶対にぶつけたらダメだよ!」と言っていた。おのまんと自転車を二人乗りをして川辺を走り帰っていった、って、今は条例があるから、こういうことを書いては、まずいのか。まぁ、いいか。日記じゃないし。

たくさん食べて、何も入らなくなった。トントロはおいしい。ほたてもうまい。なにもかもうまい。そういう調子で食べていると、何も入らなくなって、苦しい。あのさぁ、おいしい、ということのために、何か語彙をもって話さないといけないのですかね?気が利かないとかなんとか、言ってますが、そんなことのための頭の良さなら、僕はいらないです!と、二ヶ月前ぐらいのことを今書いていて思い出して良くない。こんなに食べたのは、ビアホール以来であるが、「エンパイアめだか」というバンドの主宰であるエンペラーさんは、まだ市販の唐揚げを食べるそうだ。すごい。そこでエンペラーは、

「唐揚げはお酒にも合うし、ご飯も食べれるし、万能だよね!すごい発明だよ!」
「ハハハハハハ!」

こういう会話をした。OLの女の子のタイに行ったときの写真や、友達の結婚式の時の写真や、大学の卒業式の時の写真や、成人式の時の写真を見させてもらう。あまり変わっていない。京都のバンド界隈の人というのはみんな若くて、みんな僕と同い年みたいに見える。さすがに成人式の時の写真は、ちょっと違った。そういうことを言うと、喜んでいた。四時ぐらいまで居着いた。半身浴をして寝た。

8•17
なんかものすごく寝てしまって、気づけば夕方。これはやばいなぁ。何か食べにいこうと思い、外に出ると、テツオさんと源さんに出会い、そのままつきなみに行く。つきなみは、アレクサンダースやヤングマイルドチャイニーズで活躍されている昆布さんがやっている喫茶店です。今日の昆布さんは取っ付きやすくて、よかった。ご飯ものをしばらく自粛している、というので、コンビニで焼き肉弁当を食べる。何も食べていなかったのだ。源さんは今日は特に調子がいい。雷が鳴りだした。雨が降られると、困る。テツオさんと元田中のうどん屋で飲んでいたそうだ。そのうどん屋なら、僕はある人と何回か行ったことがある。なので、安くておいしい店だな、ビビンバうどんがあるんだな、という風な話も、僕は分かる。あそこにソバがあるということや、店主がおやじロックフェスティバルで関西地区一位通過であるということは、知らなかった。「おやじロックフェスティバル」というフェスの名前は、もしかしたら違うかもしれない。

八時ごろになると、林拓さんと鴨川でセッションをする。最近「ユリシーズ」というアシッドフォーク?の雑誌や、ガケ書房などで取り上げられていて、話題沸騰しているような気がする。ケイブンシャという京都ではわりかし有名で東京の人までその名前を知っている人がいて困るが、本屋である。その本屋の近くの町内会の掲示板に林拓さんのポスターが張ってあって、なんだか風景が違う。僕は誇らしい。名古屋の「ブラジルコーヒー」という喫茶店で、僕はアレクサンダースに混じってハーモニカやドラを演奏した。一緒に呼ばれた林拓さんが、どうやらその僕の演奏を気に入ってくれたみたいで、セッションをすることになった。どうやらそのときの動画があがっているみたいで、形になって嬉しい。


雷が鳴っていたこともあり、セッションは叙事詩の中みたいだった。なんかこのようなことをどこかで書いたような気がするが、どうやらツイッターでそのようなことをつぶやいていたみたい。大澤信亮(おおさわのぶあき)は、著書『神的批評』に於いて、柳田國男という人を論じる程で、歌についてこう述べている。
すでにあった歌は協働のなかで複雑化していく。そして声が生まれる。声を発せられる者が歌うのではない。逆だ。歌が先にある。いや複数の歌がある。それが協動作業の中で声へと一元化されていく。(略)たとえばルソーは、音声言語の誕生について、神が人間に話すことを教えたとか、神の摂理が人間同士を近づけたと言った。神かどうかは知らないが、家族的に歌われていただろう初期の人類の歌は、他者との出会いのなかで声へとかたちを変えた。より正確には「歌」と「声」に分かれた。しかし、かたちを変えたところで、私たちの情動を激しく揺さぶったり、安堵させたりする言葉の力は変わらない。
歌は声に先立ち、歌の情緒性が、人への働きかけ(ex労働)を発達させた、と言っている。そしてそのような叙情性を秘めて出来た、言葉はどこへ向かうのか。
言葉は「私」のためにあるものでも「社会」のためにあるものでもない。
神のためにある。それは「私」や「社会」による所有を超えて永遠に開かれている。(略)
しかしそれでも彼(注、柳田)の原理には限界があるのかもしれない。
なぜなら現実を覚醒させるためには「他者」が不可欠だからだ。
目の前の他者との協働 が、すでにそこにあった歌を「声」に変えた。
文字という他者との協働が、すでにそこにあった声を「言葉」に変えた。
資本という他者との協働が、すでにそこにあった話し言葉と書き言葉を一つの個体の内部に統合し、それによって一人の人間を近代的主体としての「私」へと変えた。
それでは、今ここにいる私が生まれ変わるための協働とは何か、他者とは何か。
ちっぽけで、どうやっても、お金も、楽しみも、人も、車窓の風景も、結局ほとんど何も所有できず捕われてしまっている「私」 が、生まれ変わるために必要な協働とは、何か。私が決して所有できないものに対して向かっていくのか。それが、「永遠」であったり、「大地」であったり、「普遍性」だったりするのではないのか。イスラームの神すなわちアッラーは、無数の贈り名があり、無数の属性があるが、それは「永遠」であったり、なんだったりする。まぁ全てなんだが。そういう圧倒的他者に対する想像力として、神という概念はもしかしたら、役に立つのかもしれない。神は私たちと共にある。まぁ、何を言ったって、圧倒的な「自然」や「現実」には、ちっぽけな私にはかなうはずかない。僕は何を言っているのだ?何となく、昆布さんが、「批評家の言ってること違うねん!林拓の歌にはもっと生活から出てきた歌っちゅうのがあんねん!」って言ってたことを思い出す。林拓さんのアルバムは『オデュッセイア』と言う。普段は林業や農業をしたりして働いており、子供がいる。歌ってのはとてもフランクで、神は別に神秘的なものでも何でもないのかもしれない。歌のことばかり考えていても、仕方がない。そんなことしなくても、生き方に、歌は勝手についてくる。流れるだけ。他者を所有しようとしても、所有できない。ただ、俺には歌しかない!だとか歌のために死ねる!だとか、歌のために何もかも捨てる!だとか言っていると、必死にもなれ、歌を量産するモチベーションにはなるかもしれないので、したければすればいい。だが、それは特に善であるわけでもないし、特別満ち足りる道である訳でもなければ、音楽をしている人の使命でもない。(坂口安吾は、おもしろいと思うけれど、人を頓死に向かわしているように見える。)そう思っているので、自然や生活に従いながらなんかすごい歌を歌う林拓さんには、勇気をもらうのだ!
我が青春は淪落だ、と僕が言った。然して、淪落とは、右のごときものである。即ち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家族とは相容れぬ。破滅か、然らずんばーー嗚呼、然し、破滅以外の何物が有り得るか!何物が有り得ても、恐らく満ち足りることが有り得ないのだ。(坂口安吾「青春論」)
そんな青春は僕はいらない。だが、何かを量産するエンジンにはなるかもしれないので、そういう考えもありだとは思う。…。うわぁ、僕何か、ヤバいこと言ってない?

2012年8月14日火曜日

屯風

8•12
東京から来た友達を見送りに京都駅までついていく。京都駅で何か珍しモノを食べようと、オムライスを食べる。最近では、子供のときに避けていたものを食べるのが快感になりつつあり、こないだも、ハンバーグを作ったのだった。こころなしかぐしゃぐしゃで不格好になってしまったが…。おいしいんだけどな〜!ソースも作って、しかも豆腐ハンバーグなのだ。豆腐は偉大だ。僕の住んでいる町は、豆腐がおいしいことで有名であり、この半年で、いろんなものを食べさせてもらい、変に舌が肥えた僕は、カップラーメンのかわりに、豆腐一丁を食べることにしている。友達はヨーグルトストロベリーワッフルなるものを食べた。

友達がいなくなり、手持ち無沙汰になったので、テツオちゃんに電話をかける。ちょうど飲んでいたみたいだ。はっはーん。百万遍へ。百万遍には、牛丼屋の上に妙なビルがあり、そこは飲み屋でひしめき合っている。いいビルだ!そこの三階に、屯風という店がある。泡盛を飲んで、ベロベロになった昆布さんを、ここで見かけたことがある気がして、この店を思い出した。そうそう、島尾の『死の棘』の読書会していた店主の店だ!たどり着くと、日本文学を研究をしにハンガリーからやってきた大学院生であるジュジと、テツオさんのバンド「風の又サニー」においてチューバを吹いていらっしゃる柴田さんがちょうどついたところらしい。早く頼め、と言われて、

テツオさんと同じサケロックというものを試してみる。これがまたいいんですね〜!要するに日本酒のロックな訳なのだが、これが意外に合う!っていうか、サケロックって普通にバンドのみの存在なのだと思っていた。いますよね、サケロックってバンド!出てくる料理も一級品で、きゅうりのたたき、であるとか、おいしいのである。柴田さんが、西京漬を頼もう!と言うと、テツオさんは、西京漬は、世の中で一番おいしい料理だからな!とおっしゃる。果たして出てきたカレイの西京漬は、やはりおいしかった…。なんてったって、世界で一番おいしい料理だからな!とおっしゃる。サケロックがすすむのである。


酔いも回り、柴田さんにおもいっきり絡む。肩とか組んだりする。柴田さんはそういうのが割と好きだったみたいで、盛り上がる。テツオさんはそれを見て、バットグルーヴだ!とかなんとか。…なんだか僕の周りの人どんどんチンピラ化していないか!?柴田さんは吹奏楽部のコーチをすることもあり、よく女子校になんか言っちゃったりするみたいだが、そのあたりのいろいろな話を聞かせてもらう。話し合わん!とか。まぁそうだろうな〜。僕なんかおないでも怪しい。なんか見た顔がいるな、と思ったら、吉田の寮祭で会ったことがある

地質学の研究をしている島根県出身の男の子にテツオさんが絡まれている。この子は実は今事業を起こしたらしく、社長さんだ。社長さんが、社員さんを引き連れて飲みにきている、が、全然そんな風には見えない!寮祭のノリだ。ディープキスなどして盛り上がる。

8•13
ところで、牛丼を食べに自転車走ってきたけれど、子供が多いね!少子化なんか嘘なんじゃない?吉野家に行き、牛丼にネギ玉頼んで、食べてきました。寒い!空調機器過ぎじゃない?ガケ書房もついでによってみて、小島信夫の『小説家の日々』があったので、これから買ってこようかな。あそこらへんは、いい銭湯もあるしね!なんかすごくお金がないんだけども…。昨日そんなに飲んだのかな?

ところで、といえば、僕の論文の草稿を先生が読んでくださったのだけれど、「ところで」という接続詞は、こうこうこうなってこうなることが証明できる、という道筋をたどる論理的思考をしなければいけない、という論文に於いては説得力に欠ける、とおっしゃった。確かに突然な接続詞だと思う。突然なことしか起こらないが!


昨日カジさんから買った、保坂和志さんの『カフカ練習帳』をポロポロ拾い読みする。まさに、この本は、拾い読みするための本である。断片集だからね!こっそり拾い読みをするのが、好きなので、この本は本当に楽しい!『カフカ練習帳』と、ある人から借りた、リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』を交互に読む。その間に手紙も書く。


今日は楽しみにしていた、カレルさんと昆布さんの弾き語り対決が見れるというので!ライブハウスのネガポジに行ってきた。もういっぺん言うけれど、僕、そんなに飲みましたか?六千円ぐらいは、持ってきたはずなんだけど!

カレルちゃんがイカすシャツをくれた!黒く、混沌としていて、よく見るとヒョウ柄の、シャツで、イナセだ。自慢げにネガポジの店員に見せたら、チンピラやん!って言われた。ネガポジの店員ってのは、生意気だな!今頃、福井県でキャンプをしているみたいだけれど、雨降ってないといいね!ナハハハハ!今日のブッキング良かった!!ネガポジにしては、実は珍しいブッキングなんじゃないか。カイトさんは色気があってよかった。

いつの間にか来たテツオさんが、夜やね、と言うていた。サザンオールスターズの「サウダージ〜真冬の蜃気楼」を歌詞を変えてカバーしていたり、イナセだ。「普通でやるとかなわんから」と言うている船田はじめ(昆布)。二番目だ。ステージの上であぐらをかいて、しかもエレキを飄然と持っているので、思わず笑ってしまった。しつこいぐらい緑の

照明に当てられている。エレキギターの特性を熟知しているようなエレキギターを弾いていた。出てしまった音を、大切にするという、そういうの好きだ!(ちょっとエラッそうかね?)三番目の山元大造さんも素晴らしかった。一曲目は言葉を疑う歌を歌っていた。二曲目に映画館が消えた歌を歌っていた。最後のフレーズがすごく良くて、

これだけは覚えておこう、と思ったのだけれど、忘れてしまった。「おっさん」という、選挙に出て負けてしまった、なんか家にいたおっさんの歌を歌っていた。カレルさんはトリだった。今回のカレルさんは、なんだか鬼気迫っていたように思える!テツオさんは、PA遊んでるな〜!と感心していたので、その相乗効果なのかもしれない。とにかく迫力があった!うぬ〜。えぐり出すなぁ。声も歌も!

子供のままじゃ僕らは楽しい遊びも知らずに
砂の城を作り続けるだけ
テーブルの上でじゃれあう二人はいつも子供のまま
楽しい夢だけ見ているんだね 
悪い子供いい大人
あともうちょっとだけ、引用、させてください!

大人になれば誰もが正しい判断を見繕うのさ
欺瞞に満ちた不都合な利己心を取り繕うために
テーブルの上に並べたおもちゃはやはり子供のまま
楽しい夢さえ見られないんだね! 
ここで見れる!

これは、ケンカだ!すっごい力を持ったケンカだ!聞かしてやりてぇよ!あの人によ!

ネガポジのみんなは、海にいっていたらしく、ナンパの話などをしているのを聞いていると、いつのまにか寝てしまった。朝目が覚めたら、ネガポジで、昆布さんはソファーで寝ていた。外は雨だった。ナハハハハ!傘借りて帰る!


2012年8月12日日曜日

古本祭り

8•9
最近では、僕のCDのジャケットの写真を撮ってくれたことでおなじみの2くんが、大富豪をしよう、というので、ネットで大富豪をする。全く、いつまでこんなことが続くのであろうか…。結局一日中大富豪をしてしまったような気がする。なんだこれは!?話によると、明日京都に来るらしい。

8•10
ビアガーデン
2くんを京都駅まで迎えにいく。そのまま、とある人に教えてもらった、焼き肉屋さんに行こうとするけれど、2くんは、なか卯でいい、と言う。なか卯で食べて、映画を見よう!そういえばカウリスマキの特集やってるで!とある人が教えてくれた。が、やっていなかったのでビアガーデンに行くことになった。ビアガーデンというのは、ホテルの屋上で、食べ放題であるし、飲み放題であるし、ドレスを着た女の子がいたり、サラリーマンがたくさんいたり、すごくきれいに笑う女の子が黒いドレスを着ていたり、自動でビールを生で入れてくれる機械があったり、享楽の地である。何の因果だろう。ツイッターで、とある一行が昨日、ビアガーデンで飲んでいて、いいなぁ、と思った次の日に、ここに来ることになるとは!ジンギスカンを食べながら、2くんが持ってきてくれた、シオランの『崩壊概論』を読み合う。
私は儀礼上人生を受け入れる。 永久の反乱は自殺の崇高さと同様に悪趣味だからである。
吐くほど食べ、吐くほど飲んだ。飽食ニッポン!うえぇええぇぇえぇええぇえぇぇぇぇ!

8・11
2くんは、どうやら、上賀茂神社の古本祭りを目当てに来たらしい。だが、昨夜は、いろいろあったので、眠れずにいると、僕が眠れないために2くんも眠れずに、ピリピリして2くんは余計に眠れなくなる。九時頃に出かけると、湿度がすごくて、湿度が八十パーセントは確実に超えているような、すごい湿度だったので、水の中を泳いでいるみたいだった。まるで水中遊泳だ。古本祭りの初日というのは、古本マニアの初老のオタクが、買う本に目星をつけて、古本祭り開始まで、今か今かと待ち受けている。はじめのはじめにくると、こんな風景になるのか…。「ここは、古本祭りの甲子園やからな!」どこからか聞こえてきた。なんだと!2くんに指示された、『私の博物誌』という詩集を取るため、スタンバイする。始まる。パッて取るつもりが、横で目星をつけていた、

本当にすごく恰幅のいいおじさんが掴み、取り合いのようになる。なんと激しい…。結局、一冊譲った。ついでに、ベケットの「マウロンは死ぬ」の入った、講談社の世界文学全集の一冊を買ってもらう。一通り古本の屋台を回ったが、これぐらいのものだった。おそらく、ジメジメして、古本を見る目がショボショボしてしまったのだ。東京から来た2くんの友達の藤田くんは、雨が降ると頭痛がするらしいので、夢のようと2くんが形容するような湿気に苦しんでおられたが、最初の古本の屋台でびっくりするほど詩集があったので、はじめはものすごく興奮したものだ。(本当にびっくりするほど詩集があった。一面詩集だった。古本屋では、普通は、こんなことはない。)2くんと藤田くんは古本屋をやろうとしている。藤田君は「スカート」というバンドのベースの人とバンドを組んでおり、なのですごくギターがうまく、一度聴いた曲をすぐに再現することができる。モルグモルマルモのサトタツもご満悦の、音楽紹介コーナー?、今回は「スカート」!


湿気にやられたのもあり、だいぶ鬱々としていたけれど、古本屋巡りを続けることにする。「はんのき」さんと、「カライモブックス」に行く。「はんのき」は、いわばシェア古本屋であり、三人が共同経営して町家で店を構えている。なんとなくその一人と面識があり、この前ブックオフで見かけた時大喜びで再会したのだけれど、面白いことを言われて、やはり面白くて、面白かったので肩を叩いたらビクッってしたりして、かわいい。「カライモブックス」は、夫婦でやっている古本屋で、2歳程度のお子さんがいる、最もアットホームな古本屋である。少し前は、居住スペースらしき所も古本の棚がぎっしりおいてあり、上がり込むことができた。「本当にうちの子は現代的だよね〜!ほら、ミニマルミュージックで踊りだした!」かわいいなぁ。うーん。うらやましいなぁ。で、あるが、ジャック=ラカンの『エクリ』の三巻本なんかもある、攻める古本屋でもある。とりのすけでキャベツをひたすらついばみながら1000円で飲む。

8•12
今日はなんか2くんが元気で、早くから起きていたらしい。早く古本祭りいこよ!ベケットの『ワット』買いにいこよ!とかおおはしゃぎ。『ワット』はなかったけどな!かわりに、『しあわせな日々』が入っているベケットの戯曲集を買う。『しあわせな日々』というのは、小島信夫の『うるわしき日々』のタイトルの元ネタとなった戯曲であり、主人公の女の子は土に埋まりながら話しまくる。謙虚だ!

上賀茂神社の近くに、カジ鴨神社の古本祭りがやっていた。カジ鴨神社のカジさんに久しぶりに会えて、ほころぶ。保坂和志の新刊同然の小説(?)『カフカ式練習帳』と、『尾崎放哉随筆集』が、安くで売っていたので、買う。ちょうど、そこに先日ヤングマイルドチャイニーズで活躍していた昆布さんに出会う。昆布さんと2くんと会合するっていうのは、何となく不思議なものだ。2くんは、高校からの付き合いであるが、今は東京にいるので、主にスカイプでしか連絡はとれないので、バーチャルの人間かと思ってしまう節がある。カジ鴨神社の会場になっている、ユーゲという喫茶店で、いっしょにジンジャエールを飲む。このジンジャエールには、本当にしょうがが入っている。すばらしい。

2くんとポエトリーリーディングまがいのことをする。2くんとは、「koとり」、「ウソツキ」、そして「菅野満子」といった、ユニットを組んで来た歴史があり、今は、「菅野満子」である。




2012年8月10日金曜日

八月の現状

8・1
先日、ライブハウスでレコ初をさせていただきました。遅ればせながら、ありがとう。皆様のお陰です。五月、六月あたりで、痔を発症したあたりから、僕はなにやら違う病を抱えてしまったようで、不調だ、不調だ、と言われ続けていたのですが、エゾエさんがほめてくださって、挽回できて、よかった。

後日(後日というのは、今日(8・1)のことだが)昆布さんも僕のことを褒めてくださったことを知り、あまりそういうことを言う人ではない人だったので、ますます、よかった。精進します。

そのレコ初では、「ボム」というガールズバンドと、奄美から呼ばせていただいたありちゃんという人が率いる「庭」というデュオを呼ばせていただいて、演奏していただいて、お祝いしていただいて、とてもうれしかった。

ニルヴァーナというバンドのレコメンドだった、シンガーソイングライターのダニエルジョンストンは、躁鬱病であるが、『WHY ME?』というアルバムがある。訳をすると「なんで私が?」というタイトルだけれど、私はこのアルバムを聞いたことがないはずだ。そのありちゃんたちと、山に入って、たき火をした。

譜面台のライト。
クリップを取り外して、カンカンに入れて使っていた
風の又サニーのテツオさんがお迎えをしてくれた。山を登っていると、源さんがいた。暗い中、譜面台につける明かりをを手に持ち、山を登っていた。光源がくにゃっとしおれて、チョウチンアンコウみたいだった。たき火の会場には、日本文学を研究しているジュジさんがいた。この人にも、よく会う。

一緒に小枝を拾った。マキとして、火にくべるためだ。なるほど、火は燃え盛った。火であぶるソーセージがとてもおいしかったので、じゃかいもにしても、とてもおいしかったわけで、キノコなんかもおいしくて、「これはどこで買ってきたのですか?」と聞いたらありちゃんは「安もん、安もん」というニュアンスの言葉を言った。やっぱりIHクッキングヒーターじゃ、ダメね、と僕が言う。僕の家には、ガスがない。たき火に炙ると、薫りがつくのだ。

テツオさんは、ギターを弾くので、ギターを何本も持っている。今日はギターを持ってきた。クラシックギターを持ってきた。クラシックギターで、源さんは歌い、源さんとテツオさんを引き合わせたという男の子がボブディランを歌っていた。その男の子が彼らを引き合わせたとき、その男の子は高校生だったという。すごい。僕の一つ年下だ。僕の一つ年下の年代の人は、みんなしっかりしていて、僕が高校生だったときは、ギターマンドリン部だったのだけれど、一つ年下の後輩がしっかりしていたので、いつも糾弾されたり、ケンカばかりしていた。時には一丸となって、顧問の先生を取り囲んで、裁判のようなことをした。もう、一つ年下の人とは、しばらく会うことはないだろう、と思っていたのだけれど、よく会う。すごく印象的な姿で。僕の年は、本当にみんなちゃんとしていなくて、ちゃんとしている人を見たことがないので、申し訳ない。そういえば先日、ギターマンドリン部の高校生から電話がかかってきた。マンドリンのパートリーダーが男の子というのは珍しいことなのだが、僕も実はそうなのだが、初々しい。少ししっかりしていないが、それは僕もそうだった。今でもそうだ。マンドリンのパートリーダーが男の子、というのは、例年、変わった人が多い。OBを見ていたら、わかる。そのこともかなわない。僕みたいな小市民で想像力のない普通の発想しかできない人間としては、尊敬さえすることもある。そんな僕は、今現在、チンピラみたいな生活をしてるじゃないか!どうしてこうなるんだ!ありちゃんは僕の曲の中で「ひる」をリクエストしていただき、歌わせていただいた。こんな歌詞だ。
今日も同じ昼だ
今日も同じ昼だ
さぁ、どうしようか
さぁ、どうしようか
これが八分ほど続く。レコ初でも、やらせていただきました。いなちゃんが、とても褒めてくれて、「みんなのうたで、いける!」と珍しくテンションをあげておられた。ありちゃんは、それを、覚えていたのだろう。男の子が、「今は夜ですよ」と言ってくれたので、
今日も同じ夜だ
今日も同じ夜だ
さぁ、どうしようか
さぁ、どうしようか
という歌詞に、途中から変えた。レコ初では、 昼でやったように覚えているが、録音機がないために、人からの証言をとるしかない。ありちゃんにもリクエストさせていただいた。「半分だけ愛してくれる歌歌ってよ!」というようなことを言ったら、歌ってくれた。

月が窓から半分のぞき
グラスにお酒が半分あるの
海は今夜もまっくらくらで
幸せ気分が半減するの(…)
テツオさんが、「プロデュースしようよ!レーベルつくってさ!」と提案してくれた。そのアイデア、すごくいいじゃない!僕、文章書くよ書くよ! 上に月があって、淡い雲がいい感じで、どうやら台風がきているらしく、流れが速い。惚けて立ち尽くして見ている。男の子の家は和紙で作った間接照明があり、そもそも部屋が畳で木造で、ソファーがあり、お酒(ワイン、焼酎、他)もあり、とても心地よくて、心地よいと思ったら、眠ってしまった。ありちゃんもテツオさんも帰ってしまった。源さんに起こされて、帰っていった。家は、山の中腹にある。ありちゃんは、どうやら、骨にひびが入ってしまったらしい。心配だ。明日(8・2)、奄美に帰るという。

8・2

源さんから電話がかかってきた。ーーー昨日から、シャラポアくんを意識してしまっているので、今日飲もうよ!という風な電話をいただいて、小一時間後に私の家に、発泡酒を片手にいらっしゃった。ある人に、そのことを自慢すると、「セロリや大根、きゅうりなど、旬の野菜をスティックにしておもてなししなさい」と言われたので、はじめっからスティックのようなきゅうりを私は洗った。そのまま出した。果たして、源さんは「なんちゃらホルモー(これは僕が失念したのです)」の世界みたいでいいじゃない!というようなことをおっしゃり、満足してくれて、よかった!そのまま、鴨川に行き、氷屋の仕事帰りのテツオちゃんと合流し、一緒に飲んだのだが、酔っぱらいすぎて、あまり覚えていない。家にある甘い甘い日本酒がダメだったか…。僕は、変な電話をかけてしまったそうだ。またしちゃった!まぁ、とにかく楽しい夏だ。

8・6

かねてから約束をしていて、楽しみにしていた、リンダさんの弾き語りを見に行った。OLの女の子と、モルグモルマルモの藤谷さんが来ていて、藤谷さんは、子連れだ。今日は高相さんブッキングだったらしく、人選が渋い。渋い中にユーモアがある、という感じで、いかにも文芸春秋を読むようなオヤジが好きそうなブッキングだった。高相さんは話が面白いので、二時ぐらいまで、お話をさせていただいた。アドレスも聞かせていただいた。また、ウォーラスなどといったバンドなどで活躍をされている、ゴローさんのメールアドレスも聞かせていただいた。高相さんが帰った後、白黒ミドリでドラムを叩いていて、レコ初の時には「シャラポアスペシャルバンド」といって、そのようなバンドを組ませていただいたのですが、その時にドラムをしていただいたドラマーでもある、今ちゃん(今上)と、恋愛についての話をしたような気がする。リンダさんの弾き語りは、夜店をイメージしたということで、布でヨーヨーをつくっていらっしゃって、私も余っているものを一つもらった。みなさん、浴衣がきれいだったので、ゴローさんに、「おまえ(私)は浴衣じゃないんかい!」と一言いただいた。着付けができればなぁ〜。そもそも、和服がないじゃないか!三年前中野(東京の)に行ったとき、ユニクロがあったので、そこで和服を買おうか、迷ったことはあった。

8・7

2くん(僕のcdのジャケットを作ってくれた人だ)とネットで大富豪をずっとしていた。大富豪というゲームは、無駄で、イライラし、ネットなので、なにもならないゲームなのだが、とりあえず没頭でき、何も考えなくていいので、ついついやってしまうが、やっぱり、いい札がこないと(理不尽なぐらいこない時がある)イライラするので、精神衛生上は、かえって、よくないんじゃないか、と思うことはあっても、ついついやってしまう。

鴨川では、カッパが出たそうだ。カッパの写真が800人近くにRetweetされていたそうで、おもしろい。どうやら、僕がごひいきにしているバンドである、テレフォニアの企画のためだそうで、八月の三十一日に、京都祇園のシルバーウィングスというライブハウスで、そのドキュメンタリーが放送される。

8・8

マックがついに壊れた。五年も使っていたから、立派なものだ。しかし、突然、これほどまでに完膚なく壊れたというのも、初めてのような気がする。友達に相談すると、滋賀県草津市に安いマックを売っている店があるというのを聞き、あっさり買った。あっさり買ったが、高い買い物だった。僕は普段飲み代しかお金を使わない。

木屋町のアバンギルドで、昆布さんやテツオさんがやっているバンド、「ヤングマイルドチャイニーズ(young mild chinese=YMC)」のライブがあったので、嬉々として行った。とてもよかった。進化している。よく昆布さんの喫茶店で会わせていただいているバイオリンとアコーディオンを弾く女の子が参加していて、それがとてもジプシーっぽくて、生き生きとした音楽を楽しませてもらった。きっと、カレルさんのベースとも合うだろうに。テツオさんのギターはアドリブであり、効果的なところにエレキが聞こえるから、ニクい。昆布さんの歌は前渡された音源よりも、今日のほうが、断然よく聞こえるのだった。

びっくりしたのは、私のゼミの元TA(=teaching assistant)をなさっていた人が、トリをつとめていたことだ。怖いぐらいすばらしかった。それは怖いということであるが。それにしても、あのチェロの人は、どこで見つけてきたのだろうか。ものすごくすばらしかった。おそらく、いろんな音楽を、聞き込んでいるのではないだろうか。絶妙なバランス感覚である。いつなし崩しになってもおかしくないチェロなのだが…。

ジュジもいたが、テツオさんと昔住んでいたことのある、ワタナベさんも来ていた。噂は聞いていたが、ワタナベさんと会うのは初めてだったので、あえて本当にうれしい。かわいらしい人であるが、卒論は、佐藤春夫だそうだ。鎌倉で美容師の修行を積むはずが、いろいろあって、帰ってきたらしい。ともかく、嬉しいことだ。よろしくお願いします、と言っていると、よくテツオさんからお話を伺っております、とおっしゃった。なんと!

アバンギルドで、ビール四本とテキーラ二杯ほど空けたので、割と酔っぱらった。なんなら、最初の一杯で、酔っぱらっていた。ジュジとワタナベさんとで、小島信夫の話を性懲りもなく、する。カウリスマキの映画見に行こうよ!横浜のフェスにテツオさんの自動車で行こうよ!など、いろんな計画をたてた。小島信夫の『残光』をプレゼントする約束もした。400円ぐらいで買えるが、二人に買うと、800円だ!しまったか!?風の又サニーは合宿をするらしく、みんなでペンションを借りよう、という話をした。それが超絶安くて、広そう。大原のさらに奥でやるらしい。楽しみである。テツオさんが、「アバンギルドで弾き語りしたら?」とおっしゃってくれたのだけれど、音源を持ってくるのを忘れてしまった。うかつだった。またよろしくお願いします。テツオさんは珍しくベロベロに酔っぱらっていて、アバンギルドで寝たり、帰り道にこけたりなんかしていた。ワタナベさんがついているから、まぁ、大丈夫だろう。レーベル作ろうよ!テツオさんが着ていたTシャツはフリージャズと書いてあって、素敵な自作だ。レーベル作りの一環としてまず、これを作った、というようなことを言っていた。よし!軌道に乗ったバイ!サニコンの梅ちゃん!九州から見守ってくれ!あと、住所を教えてくれ!




2012年7月26日木曜日

化粧(2)

ものすごく強烈な日差しで目が覚めて、ああ、本当に夏だな、と思いながら去年、大王町という伊勢の町の岬に出かけたことを思い出す。ずいぶん、遠くまで来たものだ。日差しの意味さえ違う。特にこんなところまで来るつもりはなかったのだが…。ちなみにここは、友人の谷内くんの母の実家があるところである。母の実家は漁師で、とてもおいしいお魚を毎日食べてきたために、100円で回っている回転寿司を食べる事ができない。僕はそこでうなぎを食べたが、おいしかった。それよりも、店をやっている双子のおばあちゃんを覚えている。ここには毎年、k大から先生方がいらっしゃって、一週間滞在してくれるらしい。その折りには、この店に、毎年、来るらしい。そんな話しか覚えていないが、この双子のおばあちゃんは、とても良くしてくれた。子どもの頃からの、店の思い出を話してくれた。代々続く岬の料理屋にとって、この双子の子どもは、それはそれは、すばらしい看板娘だっただろう。谷内の母の実家は、漁業組合に(やっぱり農協というぐらいだから、漁協、というのだろうか。)一億円の借金があるらしい。船を買ったそうだ。でも、何も払っていないらしい。金額が金額で、夢みたいな話なので、夢かもしれない。全て夢なら、どれだけいいか。おいおい、全て夢のようになるのだろうけど。

てでふれたてはまたかいだんをくだるあしおとにつられて
うまれかわってあんなにあいたかったものにあえたら
えみをつたえられたら
できそこなったことばを霧の中へ投げろ霧の中へ投げろ

とらえたいものごとがそのみみをふさいで
とりあえずめをとじたらねむってめがさめた
きょうもだれかのあとについてなにかたべにいこう
やりそこねたことばを霧の中へ投げろ霧の中へ投げろ

 この旅行中に連絡をくれた山本さんは、ショートカットにして髪は金に染めていた。先日図書館で会った。最初に出会った時は、大学のゼミの円卓で、僕が座っ ている席の隣に立ち、何冊も何冊も本を積み上げていた。あまりにもどんどん本を積み上げているので、彼女は自分に好意を持っているのではないのかと思った けれど、その通りだったらしい。何の本を積み上げていたのか、覚えていれば、何か意味があったのかもしれないが、全く覚えていないのは、残念だ。確か、ス ラヴォイ・ジジェクの本があって、そのことで何か話したはずなのだが、そんなことを詮索するのは、野暮だろう。ところで、さっきからパソコンの様子がおかしい。カーソルが意図しない方向に動き、一定の周期によって僕の文章を書いては消し、書いては消しする。この文章を書くのも、四回目だ。今再起動をした。再起動をしたら、タイピングと文字が表示される速度が一致しない。遅れるのだ。こんなことで、大丈夫なのか。

こんな不安定なハードウェアで、レポートや卒論は、どうしよう?何回も書き直す事で、どんどん文章のバージョンが変わっていく。書いたかもしれない記述と、今ある記述が並行的に存在する、とか言うと、多次元的世界観で、SFっぽい。また、小説を何テイクか書き出し、そのテイクを採用する、という風にすると、即興ぽい。保坂和志さんなどは、そういう風にしているそうだ。きさくでいい人だ。彼女とはこのような日差しの強い日、図書館で会った。その時には、髪の毛はショートカットで金髪だったので印象に残っている。ジャズバーに行く約束をした。ジャズ喫茶なら、間違えて入った事はあるが、ジャズバーに行くのは、初めてだった。飲み屋と風俗店の間のこじんまりとした古いビルの二階にあった。よくある話しだ。「東京にいこうと思う」と彼女は言った。それもよくある話しだ。東京で、大学の授業をもぐりながら生活するらしい。どこでも一緒だよ、と、知った口を聞いたような気がする。私はよく、知った口を聞く。知った口を聞きすぎて、情けなくなる。なんで僕は、こんなに年の離れている人に、説教じみたことを言うのだろう、と思うといたまれなくなることがある。知ってもないのに、知った口は叩ける。正しい事なら、誰でも言える。そういう気になって、恥ずかしい。最も、彼女とは、一つしか違わない。僕は今、別のことを考えていたようだ。すると、小さな虫がわいてきた。なんか虫が出てきたね、と言うけれど、山本さんは、気づかない。そのまま、バスの時間になったので、帰った。入れ違いで、岡山の農村を舞台にした映画を撮った映画監督とOLが入ってきた。

岡山の農村を舞台にした映画は、早朝のいい感じの霧がかかったすばらしいフライヤーに載せて紹介され、興味をそそるけれど、その岡山の農村を舞台にした映画は岡山でしかやらないので、それっきりになってしまった。どんどん虫がわきだした。山本さんが帰ってから本格的に虫がどんどんわき出した。こんなので、OLの人は大丈夫なのか、と思ったけれど、大丈夫らしい。みんなが気にしないので、そういうもんなんだな、と思い、焼酎をもう一杯ついでもらった。おすすめのジャズをかけてください、と言うと、「そんなものは自分で考えろ」と言われた。僕はあなたのおすすめのジャズが聞きたいのだけれど。自分のおすすめの曲なんて、自分の家で聞くのでもう、十分だ。そんな気分だった。だからもう一回聞いた。「そんなものは自分で考えろ」と言われた。どうしても自我を強調させないといけないらしい。そんなもんただの、色の違いだろうが。「渋さ知らず」が流れていた。虫はどんどんわき出している。虫に造詣の深い清水アリカの、対談を引用する。

清水アリカ:昆虫がバラバラになっているところを見ても、可哀相だって感情は抱かないんだよね、例の矢ガモは可哀相だって、大騒ぎするけどさ。
椹木野依:なぜ昆虫には悲劇が成立しないんだろう。
清水:なんでだろう(笑)。昆虫はまずやたらと数が多い、既存種だけでも、一五〇万種もいるし、未知種も含めると、その五倍とも五〇倍ともいわれている。毎年、新種が数千単位で発見されているしね。こうなってくると人間が作った分類学の体系なんて、絶えずなし崩しにされてしまうわけでしょう?
(中略)
椹木:(中略)虫ってまさにゴミだよね。ゴキブリとかハエとかが持っている回収不可能性みたいなのがあるでしょ、殺しても殺してもまったく数が変化することなく存在し続けてしまうみたいな。その即物性というか、唯物論的過剰性が、どこかしら「ノー・ニューヨーク」的なものと、あるいはD・ベイリー的なギター音と繋がっているような気がしますね。バロウズも昆虫というのが 結構出てくるでしょ?
清水:ムカデ死刑とか。クローネンバーグが撮った『裸のランチ』にもタイプライターが甲虫に変身するシーンがあった。
椹木:昆虫がなんで悲劇を生まないのかというのは、すごく興味深い気がする。文学でいうと、カフカなんか文体それ自体が悲劇になりようのない昆虫生態学的メカニズムを持っているような気がします。爆発的な笑いの要素があるでしょ。
清水:まさに虫に変身するって話があるものね。
椹木:そう。それに『巣穴(リゾーム)』。わけの分からない生物が巣穴を作って、そのなかをどうしようもなく蠢き歩いているという。
清水:可能性のなさといえば、カフカの小説は本当に可能性のない世界だからね。
椹木:そこがカミュなりサルトルだったりすると、不条理なり、理不尽さがロマンティックに文学化されるというのがあるけれども、カフカにはそういうことができない。
その後、山本さんには会っていないけれど、今はどうしているのだろうか。本当に東京に行ったのだろうか。強烈な日差しの中で、ふと思い出したけれど、忘れている。日差しだけが残るんだろう。あの店に行くと、また虫がわいているのだろうか。さすがにそんなこともないのか。やっぱり日差しだけが、残るんだろうか。

往けど化粧 帰れど化粧
私はあなたを待っているだけ
長い間 目も開けないで
時間がくるまで待っているだけ
話をして身体に触れて
隠したナイフは邪魔になるだけ
泣けど化粧 笑えど化粧
きれいなお顔に色を塗るだけ
ほらを引いて 眉を描いて
まあるい瞳の ふちをとるだけ
好きな化粧 嫌いな化粧
あなたの世界が できあがったら
取れど化粧 眠れど化粧
あなたのお顔はそこにあるだけ
往けど化粧 戻れど化粧
往けど化粧 戻れど化粧
往けど化粧 戻れど化粧
往けど化粧

  待っているのは、あなたの化粧なのね。あくまでもね。かんちがいしないでね?…でもそういうことももう、どうでもいいから、仲良くしよう。僕はただ飲みたい。お願い。言葉なんかもう、どうでもいいです。聞き流して。話半分で聞いて。そのことが、少し怖い。勝手だな〜僕は。

2012年7月24日火曜日

化粧

友達の大学生の女の子と哲学のテスト勉強をしにミスタードーナッツに行ってきた。歴史哲学でしょ〜、それなら私去年、とってたよ、なんか知らないけれど、無事いい成績をおさめることができました。先生はスペイン人で、こんな日本のk市で教えているところを見ると、西田だとか、河上だとかを勉強しているのだろうか(あまり知らない)。ロボット工学を学んでいると、哲学をやる必要性が生じて、哲学の道に行った、という、理系からの先生だったことを覚えている。逆に言えば、それしか覚えていない。あれも覚えている。歴史は英語ではhistoryと言う。物語は英語でstoryと言う。確か、フランス語では、区別がつかなかったはずだ。フランスでは、シルブプレと言えば、100通りも意味があるので、とりあえずシルブプレと言っておけばいい、ということを聞いたことがある。フランスへ修行に行く、お世話になった、きりっとした顔を持つ、尺八の奏者に、教えてあげれば、良かった。

歴史哲学のプリントをごっそりなくしていたらしいので、あげる。ありがとう!でもなんかちょっと違う…。後期の方のプリントを見せて!去年の後期は一体、何をしていたのだろう…。どこまで遠いところにいってしまったのか。ミスタードーナッツでは、コーヒーがおかわり自由なので、利用するが、コーヒーを飲み過ぎると、くちびるが血っぽくなる。「私、痔なんだよ!」というと、同情してくれて、それは生理みたいなもの?と聞いて、生理の話を話しはじめた。生理の状態になると、人それぞれ違いがあり、彼女は少し元気になるらしい。「保母さんに、なろうかな」と言うけれど、保母の時給は800円程度らしく、そのために資格をとる気が凪いだ。君は転部して、転部試験に受かり、単位もとれているので、賢いんだろうけれど、そういう種の賢い人って、どうしようもなくなるよね、と言われた。いやぁ!賢いだなんて!どうしよう…。そうやって、周りのみんなはみんなヒモみたいになり、キャバ(キャバクラ)ではなくても、ラウンジで働いている(ラウンジの意味がよく分からない)。公務員のところに転がり込んでいる人もいるようだ。そういう女の子は一様に独特のオーラを発していて、昼か夜か、で言うと、夜だ。そういう人しか見ないが、全体としてそんなことはなくて、たぶん公務員の人は昼、なんじゃないのかなぁ、と思う。古井由吉の小説に出てくる、養ってくれる女の子も、なんかまじめそうだし。実際にまだ、見た事はない。勉強もせず、話ばかりする。お父さんの話に移る。

お父さんは、家のことをなんでもする。家事があれば、それをして、家事が終わっても、何かすることを探し、何かする。先日家に帰れば、台所のテーブルにガチャガチャのプラレールが立派に組み立てられていて、ジオラマと化していた。自分の部屋にはたくさんシールが張ってあり、カーテンやふとんも変わっていて、なんだかすごく「女の子の部屋」になっていたそうだ。 父は教職員なのだが、そんな風なので、妻はやることがなく、疲れた目で動きまわる夫を見ている。いつの間にか、料理も作らなくなった。娘は寝たきりになった。

川辺に行き、勉強しよう、ということになったけれど、寝転んだ。友達はドイツ語の勉強をしている。あまりにも気持ちがいいので、川ばっかみていると、空がとてつもなく大きくて、パノラマ写真とか、そういう類いのものが吹っ飛ぶような大きさで、なおかつ確かな質感をもって目に飛び込んできたので、世界が大きくなった、と思い、「すごい空だね」と言ったけれど、伝わらなかった。今考えても、とてつもなく大きくて、世界が急に大きくなって見えた、と思うのだけれど、そういうことを伝えるのに言葉はあまり向いていなくて、この文章を書く事もずっと躊躇していたけれど、まあいいや。書いちゃった。

娘は寝たきりになった、と言ったけれど、それは本当に寝たきりになったことがある、ということです。本当です。娘は病弱な所があるので、学校も休みがちで、あまり単位もとれていない。ただし、お酒を飲むのは大好きで、よく飲む。よく、医学部の友達の話をしてくれる。「紹介しようか?」

先日、朝方に川を見に行ったら、川はものすごい流れで、濁流だった。土手は、濁流で埋まっていた。流木が流れていた。木材も、流れていた。ラッコみたいな動物が親子連れで川をじっと見ていた。鴨が川をじっと見ていた。 とてつもなくでかく、みたことがないぐらいでかいカエルが、いた。妻子持ちの友達にそのことを言ったら、「それは、ユートリアだよ」と、教えてくれた。川はものすごい流れで、自転車が、流れていた。

女の子が、にんにくが食べたい!と言うので、イタリア料理店に行き、ペペロンチーノ片手に、ワインを飲んだ。こんなオシャレな店に来るのも、久しぶりだ。すごく大きな鏡が後ろにあり、キッチンが見える。町家を改装したレストランは、k市にはよくある。このレストランは、少し高いのだが。最近できたレストランだそうで、このように、最近できたレストランが何件かあり、全て麺類だそうだ。大学の近くなのだから、このように学生街ができればいいと思うが、少し高い。ワインがとてもおいしい。でも、こんなにでかい鏡が正面に置いてある。鏡で自分の顔を見るのは少し照れくさいが、女の子が正面にいるので、女の子の背後にある鏡は、僕の顔を映さずに、木造の、町家の建築を映し、空間を広く見せ、ああ、そういうことがしたかったのだな、と、今、書いている途中で気づいた。女の子はレズビアンバーの話をする。あまりにもモテないので、自分の性を疑うことがあり、ほら、誰しもさ、こういう年代なら自分を見つめたりするじゃない?あまりにもみんな若くて、女性ホルモン過多なのかな?いつまでもキャピキャピしてる人たちばかりだったから、ダメだったけれど。君も女装して行ってみたら?どうやら、そういう日があるらしい。

往けど化粧 帰れど化粧
私はあなたを待っているだけ
長い間 目も開けないで
私はあなたを待っているだけ

できそこねた ものを並べて
私は明日を捨てていくだけ

往けど化粧 帰れど化粧
あなたができたの見届けるだけ

隠したのは誰の顔
惜しいところで寝違えた
愛情でほしいものならいつも通り知らない食べ物

往けど化粧 帰れど化粧
私はあなたを待っているだけ
長い間 目もくらむ程
あなたの世界を見届けるだけ
往けど化粧 帰れど化粧
往けど化粧 帰れど化粧

もう一つ引用

土砂降りの中、何も出来なくて、せっかく街に出たというのに、何も出来なくて、イライラしていたあなたにまたいらだち、本棚を蹴ってしまうと、本がこぼれてきた。いっそ、燃やそうか?捨てようか?食べようか?投げようか?焼こうか?そんなことばかり考えて絶望し、うちひしがれていても、急ににっこり現れて、あさりの酒蒸しをごちそうになり、つい溜息をもらし、「なんやねん辛気くさいことばかり」と言われ、またムッとするけれど、そうもばかりいってられない。もうじき笑ってしまう。

2012年7月6日金曜日

写真vs愛(交換小説)

 小説(冒頭)

気づけばまた、指を動かしている。何かと褒められることの多い指だが、この指にどのような特徴があるのかはわからない。生まれた頃から、あまり何の疑問もなく、この指と共にしてきたため、それが褒めるものの一つである、という認識に慣れていなかった。それよりも、自分そのものに対して疑問を持っていて、自分はなんで生まれてきたんだろう、生きていていいのだろうか、とか思ったりはするが、それではあまりにも観念的すぎて、何も考えていないのだが、それは暇で暇で何もする事がない時に発生したりする。じゃあ、細部から、具体的なものから疑っていけばいいのか、という話でもない。東ヨーロッパにはそういう小説もあるようだけれど、指からこの文章は始まってしまっている。あれほど、時間外の労働はしない、と決めていたのに。責任はとる。責任を持って、それは生活のため、仕事はする。だが、世の中の作りが、なにもかも、労働になっている風に見えることがある。笑わせたり、面白い話を要求したり、沈黙を埋め尽くそうとしたり、将来を言葉で考えたり、人のせいにする理路を作ったりする。あいつらの言葉では、世界は変わらない、と、山下澄人の新刊の帯に書いてあったように思う。ただ、約束の為だけに、書き続けよう、と佐田は思った。それにしても、指は動き続けている。指には噛み付かれた跡がある。それは腕にも残っている。足には何度も革の靴で蹴られた痣がある。ここまで書いていて、この描写はなんだかグロテスクというか、虐待的というか、ショッキングというか、現代社会の暗部というか、なんとなく気の滅入る描写になっているのではないか、と思わせてしまうものかもしれない、と思うかもしれないけれど、別にそういうことはなくて、もっとハッピー、でもないのだけれども、笑えるエピソードがあるわけでもなく、考えてみれば、何の話もなく、ただ蹴られていただけの話は何を孕むこともできない。街は鋼鉄のビルであふれ、夜にはピカピカが湿る地面に写る。適当にその日を生き、適当にたのしみを楽しみ、とりあえずの明日をくるのに準備する人の中には、日常の厚みに耐えきれずにモノを軋ませ、自由に向けてコルクを放ち、噴出する水滴がまた地面を照らす。いつの日か来る絶望が来るまで、どんどんと閉鎖されていく回路を、持ち前の頭の良さでどんどんくぐり抜けていくラットは、動物愛護団体の反感を買うこともあるだろうが、科学者はこのような実験動物を供養する良識を持った人物がほとんどであるため、安心して欲しい。前進につぐ前進をはじめ、どこまでも一人でガケをぴょんぴょん渡り歩いている人がいる一方で、山の中でうずくまって、助けを求めている人がいるが、それは身体が動かないからである。もちろん、どっちがいいわけでもない。どっちがいいわけではないが、どっちも現象としてはある。むしろ、現象としてしかない。鋼鉄の壁をノックする。ノックする。鋼鉄であるが、反復することで何か得ることができると思っているのだが、それは合理的思考とは若干ずれるのではないか、と思っても、どうすることもできず、どこにもいけず、ノックする。ノックしつづける。ノックしても、鋼鉄であるので、何か得れるのか、全く分からないけれども、ノックする。別に好き勝手にノックしているわけでもない。反復を楽しんでいるわけでもない。ノックをしているのだから、何か反応があるほうがいいに決まっている。当たり前だろうが。何か、呼び声があった方がいいに決まっている。こう考える時、すぐに、鋼鉄の壁を崩したがるやからみたいなやつがいるに決まっているが、あ、でも崩れるのかもしれない。でも、まあそんなことは、鋼鉄であるし。どこまでも、どこまでも、鋼鉄であるし、科学的事実であるらしいし、客観的に保証されているらしい。証言もある。鋼鉄であるし、ノックしてもいいのかなぁ。ノックして何かあるのかな。自己を鍛える、とか、そういう話には、本当にうんざりします。すべての事には意味がある、だとか、その人がすべてではない、だとか、そういう言葉が出回り我々の感情をさらにさらにさらに鈍らせ、周りの人とコミュニケーションしないように、しないように、する、ようになっているけれども、屈しない。もう、本当に、取り返しのつかないことをしてやりたいと思うのだ。(佐田)

2012年7月1日日曜日

!?

 
 彼はしばらく前に、ヘンリイ・ミラーの選集のうち最初の作品を含む『黒い春』を送ってくれて、その中で、青年であった作者自身が叔母を市電に乗せてニューヨークのある精神病院に入れに行った。そういう役を青年が引き受けさせられたのだ。青年の家は洋服の仕立屋であるが、なかなか新しく仕立の注文がなく、たいていは直しであった。彼は貧しい人の多い街を歩くとき小説の一つぐらい出来上がっていた、と書いてある。しかしこの日は違っていた、ということが書いてあったかどうか忘れた。*

2012年6月26日火曜日

ジュース

自転車がパンクしたので、今、自転車は、自転車屋さんに、置いといてもらっている。そのことは、昨日の『日誌』に書いてある。今日は、その自転車を、とりに行こう、と思う。それにしても、梅雨らしからぬ、天気だ。こういう天気のことを、五月晴れと言う、と思い空を見上げると、なんだか白んできている。夜になると冷えるので、蒲団をかけようか、タオルケットをかけようか、迷う。蒲団にすると、朝、ものすごく喉が渇く。リンゴジュースをごくごく飲ましていただくけれど、リンゴジュースは、ごくごく飲むようなものではないことをその度に気づく。(甘いから)でも、甘さは、水分の吸収に良い、と聞いたことがあるので、ごくごく飲んでしまう。ごくごく飲むと、甘いから、口の中が、リンゴジュースになってしまう。そして、のどの渇きには、案外、きりがない。麦茶でも作ろうかしら。

大事な時期といわれる。たくさんの期待がかけられる。だけれど、いつだって人は人に囲まれているし、支援してくれている。あるいは、自分が成長をする、まさにそのときの、大事さ、それは、衣食住の妨げ、という意味ではなく、精神の成長、内的な成長、という意味ならば、それはどんな立場でも、どこまでも個人の問題だ。そこに対して、周りの人は、不器用に、言葉を投げかけたりするだけだ。だけ、といったけれど、これはすごく大事なこと。問題は、その言葉、投げかける立場、役割に、どれだけ距離をとるか、ということを認識することになる。周りの人の責任はここまで。 そうだとすると、この人のため、このようにしなければならない、このようにふるまわねばならない、ということが、もしかしたら、そうではないかもしれない。もう少し、自分が好きなように生きていけるかもしれない。もしかしたら、この人のため、という言葉が、何かのいいわけになっているのかもしれない。ただ、ぐだぐだと、現状のこだわりで、世界を見る事もなく、維持しているだけかもしれない。嘘をついている。何かのいいわけであるならば、それは素直に自分がしたいことを見つけられるきっかけになるかもしれない。緊急に、言いたかったから、すごく抽象的なことを言っているみたいで、恥ずかしいけれど、このことにだって、具体的なことから考えている。今は緊急に、言わなくてはいけないと思うから、先走りながらも言っている。話す事はまとまらず、いつも駆け足で言う事になる。時間もない。しかも、緊急だ。僕も大事な時期なのかもしれない。だからといって、いつも大事な時期なので、そのことを絶対視してはいけないし、できない。むしろ、大事な時期、と言葉で裁いてしまうことが、いけないのではないか?人を見ても、子どもを見ても、そこには具体的な愛らしさしかない。書いてある事なんかない。そのひとつひとつに、名前は、つけることはできるけれど、具体的な愛らしさから出発していない考えに、何の意味があるのかわからない。ついつい、先走ってしまったけれど、緊急のメッセージ。

こうしている間に、何度もリンゴジュースを飲んだけれど、口の中にリンゴジュースが、やっぱり残っている。今日の陽気のせいで、身体は熱を帯びている。だから飲まなければならないんだけれど。麦茶が飲みたい。麦茶で喉が癒えるのだろうか。とにかく、何か飲まなければ、やってられない。早く、早く。ますます、ますます。 ますます、つのる。ますます、ますます。………自転車屋さんに行ってきます。

2012年6月25日月曜日

パンク

自転車がパンクした。二年ぶり三回目のことである。

たまにはと思い、自転車屋まで、散歩してみることにした。イヤホンを外して歩いていると、イヤホンをかけて歩いているときよりも、猫の数が増えていることがわかる。昼間外から聞こえてくる音は、小学校の時、風邪の時に早退し、一人で寝込んでいる時に聞こえてくる音を思い出す人は多いと思う。このような音はノイズとして、怖さを感じることもあるけれど、ノイズとは、そのまま、現実の途方もない豊かさを示している。そのように豊かなので、このように断定してしまうことが、惜しくて、正しいことを言ったつもりでも、行為としては、間違っている、と言いたくなる。損なわれて、言葉として、曖昧に、理解されてしまうことには、驚きもないし、危機もない。危機がないという事は、何も変わらないことだ。変わらないということは、戯れと、同じだ。

現実は、否応無しに変わる!自転車がパンクしてしまった!平田オリザはこのようなことを言っている。
演劇とは、リアルに向かっての無限の反復なのだ。その無限の反復の中で、ゆっくりと世界の形が鮮明になっていく。この混沌とした世界を、解りやすく省略した形で示すのではなく、混沌を混沌のままで、ただ解像度だけを上げていく作業がいま求められている。『演劇入門』 
現実がそのようなものであれば、そのように対応するのが、僕たちができるだけ、不条理に、なんでこんなことが起こるんだろうと、途方にくれないようにして、過ごすための知恵になるのだと思う。とか思ったところで、自転車がパンクしてしまったことは、しょうがないのだけれど!自転車屋さんも閉まっていたしね〜。また明日行きます。自転車を、置いといてください。メモも入っています。

先を急ぐようで悪いけれど、あまりに時間がないので言うけれど、途方にくれるのは、何か言葉だとか役割だとかわかりもしないのでついつい観念的に考えがちな未来のことだとかに入れ込んでいる時で、現実に、今、開放的に向き合っていると、つまり、現実の側についていると、救われる、というか、よく見えるようになって、幾分、深刻にはならなくなる。生きる事の豊かさを見るようになると、思う。それは、つまり、どんどん生まれていっている、ということだと思う。そういうことを、ずっと言っていきたい。ずっと言っていく為に、日誌を書いているして、書いてきた。最近は、サボっていたけれど。日誌は、特に考えて書いている訳ではないから、何か考えに貫かれているわけではありません。普段と同じ、特に何も考えていません。利益だとか、得だとか、「なにか面白い話」を供給するために、僕は現実にしゃべっているわけではなくて、ただ、一緒にいて、楽しいから、お話をするし、一緒に生きるのが、わくわくするから、生きる訳です。それにしても、あまりに時間がないです。今日、この今、は、あまりにも時間がないです。とりあえずここまでに、します。

2012年5月4日金曜日

Golden week has become a GOLD WEEK

goldenは「黄金のような」という形容詞であり、goldに比べるとちょっと「金メッキの」的な意味に近いと聞いたことがある。
つまり僕が過ごしてきたゴールデンウィークは金メッキ週間だったわけだ。
今年、本当の黄金週間(gold week)を過ごす事ができたおかげで、その事に気づいた。
大抵後半になってくるとメッキが剥がれて、10話分位のサザエさんブルーに苛まれるのが常なのだが、今回は剥がれても剥がれても金だ。
田村で金、谷で金、母で金、議員では金、みたいな。
金といえば、暴力団の組長となった金正日が構成員を連れて公園でBBQをする夢を見たが、それは多分golden weekからインスピレーションを受けた訳じゃなさそうなので、ここでは割愛しよう。

昨日はおのしほうが札幌時代から付き合いのあるという、ゆきおが三重から来ていた。
何故か、というか訳あって我が家に。
僕も三重出身なので、三重が二重になった。
おのしほうは赤福を食べた事があるだけで三重とはそんなに縁がないようで、三重で三重に成れなかった(鳴れなかった)のは残念であるが、今後の課題としてお伊勢参りをしてもらおう。

golden weekには毎年golden slumbersを聴くようにしてるのだが、昨日は完全にgold slumbers(ともすればcold sleep?)に落ちた。アビーロードは後半のメドレーが今イチ不完全な印象が拭い去れないのだが、golden slumbersのポールが歌う「ララバーイー」で終われば良いと考えていたことがある。しかし今考えてみたら大した良いアイディアでもなかったことを、昨日のgold slumbersから直感的に教わった。かといえthe endで迎えるthe endに首肯できないことには変わらず、何か進歩があった訳ではない。



最近呑むことが多く、ここ二、三ヶ月は毎日呑んでいる気がするが、おのしほうはよく見る。約束をしていなくても会う。もちろん約束をしていても会う。約束をしていなくても、さりげなくそこにいる。すばらしい。ところで、しばらく日誌を書いていなかった。それは、最近呑むことが多く、この二、三ヶ月毎日といっていいくらい呑んでいるからだ。本を読む回数も減った。それは、この二、三ヶ月ずっと呑んでいるのが原因になっているような気がする。吉田山の節分のどんと焼きの日からずっと呑んでいるような気がするが、どんと焼きの日からずっと呑んでいるとすれば、三ヶ月呑んでいることになる。この二、三ヶ月のことは、書いてみたらおもしろいだろう、というようなことがたくさんあったが、書いていない。頭の中で文章のフレーズを組み立てて、満足することはあったが、言葉にならない言葉なんて初めから何もないので、それは何でもない。ようで、もしかしたらまたマテリアルに触れたら組み立てたプラモデルを押し入れから出すがごとく、口からこぼれることもありそうだ。

まあそんな感じで、中途半端なまま「ララバーイー」。

2012年4月10日火曜日

引っ越し

(続き)
ウメノくんが九州に行き、今頃は立派に会社員になっている頃だろうが、その会社は一年間寮に入らなくてはいけないらしく、新生活ということに僕もドキドキさせてもらった。それが確か三月の二十一日だとか、その辺りだと思う。今日ゼミに行くと、ウメノくんの友達という人が、声をかけてくれた!僕がウメノくんのギターを持っている写真を、見てくれたようだ。なぜ僕がウメノくんのギターを持っていたかと言えば、僕がそのギターを、貰う為だ。ウメノくんに貰うギターは、これで二本目となる。ついでに本だなとベットシーツももらった。この本棚には後ろの板がない底なしだけれど、ちゃんと使えております。ベットシーツはとても上等のものでしょう!寝心地が20倍ぐらい違います。誰もが、そう言っています。ありがとうございます。

今月は二、三週間連続で呑んだ。その内に、二回ほど引っ越しの手伝いをした。その時は確か雨が降っていたので、藤谷さんとアベちゃんが迎えにきてくれた。しょうじさんと小林さんが一緒に住むというので、荷物を運んだ。これが一回目の引っ越しの手伝い。小林さんが住んでいた、吉田山のふもとにあるアパートは、元々連れ込み宿だったらしく、障子が金ぱくだ。お風呂はあるが、トイレは共同らしく、キッチンは共同だ。 四畳半の部屋に障子の仕切りがあるので、二つの部屋がある。白くて工作ができるような立派な机があった。それを運ぶには、ドアをバラして、取り外さなければならない。荷物を運んでいると、おばあちゃんが、電気をつけてもらいなさい、電気!ここ電気がないと暗いでしょう!大家さんはそこにいるから、電気をつけてもらいなさい!それにしてもたくさんの人が引っ越ししていく。昨日も引っ越ししていた人がいたような気がする!あなたは一階に住んでいた人でしたよね?とにかく電気つけてもらいなさい!電気が全然つかないんですよ!おかしいなぁ、という風なことを言っていたような気がする。少しエキセントリックだけれど、愛嬌があっていいおばあちゃんだった。

高野の方にあるしょうじさんの家には、机が五つぐらいあったので、びっくりした。それにしても、町家っぽいいい物件で、とても素敵だ。光がいきいきする風の木を使った家だった。ものすごく座り心地の良いソファーがあり、とりあえずそのソファーを川辺において座り、休憩とした。こうやって座りながら、ビール呑めたら、最高やな!と藤谷さんが言う。やりましょうやりましょう!外にソファーがある、ということが、良い!この時の模様は、写真におさめられているので、ソファーで僕と藤谷さんとアベちゃんが写っていることが、わかる。お昼ご飯は、タイ料理をごちそうしてもらった。春雨というのは、あまり食べたことがないけれど、さっぱりしていて、とてもおいしかったです。ありがとうございます。メニューの一番前にある、高さ五メートルほどのビールタワーに、とても興奮した。全然安くなってないけれど、ロマンロマンしている。全然安くなってないけれど…!それにしても、僕たちは、よくお酒を呑む。僕はペースが速いが、それは若いせいだ!呑み方が若い!とOLに言われた。そこに行くと、ちえさんあたりは、本当にペースが、速いんじゃないか。酒豪である。僕の友達の2くんも酒豪で、どんだけのんでも酔っぱらったことを見たことがない。呑み比べをしてビール八杯に日本酒六杯を呑み、道ばたで倒れ、気づけば病院にいたことがあったが、その際に、2くんは僕の酔っぱらい倒れて行く様を写真に撮っており、それはものすごいドキュメント性を持っていると思う。それは三年前の話で、2くんはそんなにお酒が好きではなさそうに思える。僕も一人では、あまりお酒は飲もうと思わない。お酒を呑むのは、みんなと一緒になりたい、と思いながらみんなで呑むもので、一人で呑むときは、みんなと一緒になりたい、と思いながら呑む。みんなと一緒になる、ということは、現実的には、めちゃくちゃになりたい、自分が自分であることを忘れて、めちゃくちゃになりたい、と思う気持ちがあるので、そこだけ見ると確かに僕は結局、無頼派のような一種の破壊衝動を持って呑んでいるように見えるかもしれないけれど、僕は、みんなと一緒になりたい、と思いながら呑む。

その一週間後、アレクサンダースなどで活躍している昆布さんと、後輩の引っ越しのお手伝いをした。これが引っ越しの、二回目である。後輩は、歓楽街に住んでいたので、目の前がラブホだったりする。その隣には縁切り神社があり、のっぴきならない場所だな、だとか、街というのは上手くできているな!という話を昆布さんとした。この歓楽街というのは、実は祇園のことなのだが、このような街らしい街は、街が一つの身体のようになっているようにも見える。後輩は、この春からこの街に住む妹と一緒に住む為に、銀閣寺の方に引っ越すそうだ。いいことだ。銀閣寺の近くにある後輩のアパートは、階段が吹き抜けているようになっていて、それが解放的でオシャレだ、ということもあるのだが、歓楽街と銀閣寺あたりの場所というのは、もう全く違うのだ、ということを改めて知った。もう風が違う。具体的に言うと、ツタが生えていたり、昔ながら、どうしてか維持している家々が並んでいたり、細い路地に変に説得力を持ってしまうような生活実感を持つ家が並んでいる、という風に、この辺りは作られている。もちろん、あの歓楽街にも、何か生々しい魔性さの伝統/歴史が息づいていると、感じることはある。僕は荷台に乗り、荷物が倒れないかみはっていたが、案の定冷蔵庫が不安定だったので、縦にしてあったのを横にした。荷台に乗っていて良かった!そうして寝転んでいると、空が青かった。軽トラが走るところは四条通といって、大丸など、商業ビルや銀行のビルが立ち並び、歩行者が歩く道にはアーケードがあるので、四条通の空が青いことなんて忘れていたけれど、確かに四条通の空は青かった。自動車には速度があり、信号では止まるので、ずっと寝転んでいると遠心力がかかり、頭を強く打つ恐れがあるので、ずっと寝転んでいる訳にはいかなかったのだけれど、時々寝転んでいる。タクシーの運転手が僕のことを見る。個人的なのパレードのような気がする。橋を渡り、回転寿司を食べに行く。お礼ということで、後輩がおごってくれました。ありがとうございます。ほたての貝柱がシャリよりも大きく、溢れんばかりで、しかも上手かったです。ありがとうございます。後に昆布さんと、引っ越し会社の仕事をしよう!という話が出る。「お礼は全部ご飯にしてもらうねん!」この日は、銭湯も、屋台のおでん屋さんも、昆布さんの家で出してもらったチャイも、とてもおいしかった。チャイにはちゃんとシナモンが入っていた。

2012年4月9日月曜日

日誌!日誌!

山本直樹に『堀田』という漫画があり、その漫画は場所が知らぬ間にどんどん飛躍してゆき、その飛躍に気づいた登場人物に「あれ?」と言わせる漫画のような気がするが、僕も呑むとそうなる。僕はふとんで寝ていることを確認して「あれ?」と思い、思うことで昨夜何があったのか、とか、近い、2ヶ月ぐらい前のことを思い出す方向に自然と頭が向かう。昨日は友達の家で飲みのみしていて、ワインをガブガブ飲んでいたのだ!さすがだと思うのは、ワインはあんまり残らない。むしろお腹の便の様子がなんとなく確認できて、お腹の調子が良い。外に行こうと思うが、朝なので友達の家には誰もいないので鍵大丈夫だろうか?と思い、ふと寝室のドアを開けてみたら藤谷さんがツイッターをいじっていた。これから、時々、その名が出てくるかもしれない、藤谷さんという人は、ミュージシャンで、たいへん魅力的な声をしている、というのは、小島信夫の『残光』という小説の頭で、僕は二、三人にこの小説を配っているし、これからも配るかもしれない。でも400円で新潮文庫で買えるので、読んでみてください。藤谷さんは、モルグモルマルモというバンドをやっている。

知らない町のかつての人 空から降り続く雪、積もる
これを今聞いている。ギターのサトタツ(佐藤達也)さんは

 モルグモルマルモ初の全国流通音源「おなかのなかみ」が以下のサイトで予約開始しております!フルアルバムどす。まだジャケ写すらあがってませんが、よろしゅうに!  
というツイッターをしていたので、リツイート(引用のようなもの)をさせていただきました。聞いてみてください。 ちなみに小島信夫の『残光』の始まりは「これから、時々、その名が出てくるかもしれない、山崎勉さんという人は、英文学者で、たいへん魅力的な声をしている。」という出だしで始まる。続けると、「この人は、前にぼくの八十八歳の祝いの小さい小さい会が催されたときに最初に演壇にあがってしゃべってくれた人である。そのあとに続いて、保坂和志さんがぼくのことを語ってくれた。その一部始終は、「青ミドロ」というタイトルで、当時出た「新潮」に載っている。」…………

僕が風邪をひいている間に谷内や2くんなど、昔からの友達が次々と小説を書き出しており、2、3年前から小説をていた僕は今こうやって日誌を書いている。同い年で「サニコン」というバンドをやっていらっしゃったウメノくんは九州に帰り、その時にギター二本と本棚とベットのシーツを貰い、「日誌楽しみにしています」と言って帰って行った。僕も彼に何かできたらいいと思い、何か卒業の言葉を送ろうと思っていたけれど、この二週間飲み歩きしていることになり、日誌を書く暇がなくなっていた。骨盤が外れたとツイッターで呟いていたけれど、大丈夫ですか?離れた距離を埋めるために、僕は書いております!


2012年3月23日金曜日

病み上がり

先ほどシャワーを浴びまして、汗を洗い流し、それをもって風邪の収束宣言をしたいところではありますが、未だ鼻からは鼻水とは思えないものが出たりすることがあり、予断は許されません。

僕はこの時期になるといつも風邪をひいている気がする。いきなり訪れてくれた金持ちの慶応の人が彼女を連れ込み僕の家に泊まり、風邪で寝込み、一週間看病をした末にうつされた、というのが去年。そうか、おととしはインドに行っていたのでした。インド行っているということがもうすでに風邪みたいなものだから、やっぱりこの時期にはいつも風邪をひいているのだ。

栄養をつけないと〜と丸二食堂に行き、丸二定食という、日替わり定食に相当するものを注文したら、ハンバーグみたいなものが出てきてびっくりした。黒板を見た時はメンチカツだったのだけれど、デミグラスソース的なものがかかっていたので、もはやハンバーグだ。食感もハンバーグだ。味もハンバーグだ。僕はそこまでハンバーグを食べたことがないからかもしれないが! 小さい時はハンバーグというのは下司が食うものだと思っていたので、外食するときは日本料理店ばかりをリクエストしていた。今では、母がk市に来る時なんかは、イタリア料理店でパスタを頼む。今日もおいしく食べさせていただきました。ありがとうございます。

帰ってきてからの記憶がないということは、すぐに寝たのだろう。風邪だから仕方がない。丸二食堂という、橋の向こうの食堂まで行くことがまずびっくりだ。だけれど、そこにあるのだから仕方がない。起きて、弁当を買いにいこうと自転車に乗ると、ありえない音がするので、うんざりして、下の方をねじってやると、どんどんひどくなる。おかしいなあ、とタイヤの通りが良くなるようにあらゆるところの隙間に気をつけてねじっていくのだが、どんどんひどくなる。これは、すきまとは別の問題系があるのだろうか?錆びたのか?仕方がないから、この自転車はバイクだと思うことにする。道行く人が僕の方を振り向くから僕も顔を見てやったぞ!ナハハハ…。普通の一般市民やっているなのに…。恥ずかしい…。自転車さん、どうしてまともに生きようとしているのに、変な音を軋ませるのですか!?下のバンパーは、ネジで取り出すと、なんぼでもねじれられるので、造形美術家みたいで楽しいと言えば楽しい。総合的にはあんまり楽しくない…。今思ったら楽しいかな、と思えてきたけれど、今思っても、そんなに楽しくはない…。スーパーに着いて、弁当を買おうと思ったけれど、殆ど売り切れていて、思えばそんなにお腹もすいていないことに気がついたので、帰ろうと思うけれど、それじゃあまりにも不毛じゃないか!と思ったので鯖弁を買うという本当に不毛なことをする。いや、考えてみれば僕は何も食べていなかったので、それはそれで良かったのだ。おいしい半額の鯖弁当はとてもおいしかったです。ありがとうございました。

2012年3月17日土曜日

インド行ってきたから酒が飲めない体質になった(シューありもとさん)

明日はおのしほうさんの引っ越しのお手伝いに行かなければならないのだけれど、大丈夫だろうか?ここのところ僕は毎日、とんでもない時間まで寝ているような気がする。朝まで飲み歩いているからだ。それで今日は、梅ちゃんが九州に帰るので、本棚やエレキギターやベットのシーツなどをごっそりもらいに行く予定だったのだが、寝坊したので、梅ちゃんはバンドの練習に出かけてしまった。あさってはマグナム本田と12人の悪魔というアーティストのゲストに出る為に、スタジオに向かわなくてはいけない。起きれるだろうか?そんなことを思うけれど、僕はいつも、約束がある時は、起きることができるので大丈夫なのだ。もしかして本当は、眠っていないんじゃないか。

小島信夫と森敦の対談集『対談・文学と人生』を引き続き読んでいる。たぶんタイトルは適当かと思われる。もちろん、人が対談をする時は、結局のところ、文学と人生についてしか対談をしない、という意味に於いて、別に的外れというわけではない。やはりこの本は面白い。それにしても、今月僕は2冊ぐらいしか本を読んでいないのではないか!?世の中には半日で24冊読んでいる人間もいるそうだが、それは実際どういう現象が頭の中で起こってるんだろうか。僕は元々本を読むのが苦手なので、まどろむようにしか本を読むことができないのである。そのようにして本を読むのはとても楽しいことだと気づいたのは最近のことだ。やっぱり眠っているじゃないか!

お腹がすいたので、スーパーに行くと、ムラカミマイに会ったけれど、人違いだったみたいだ。表情が暗かったので、闇のムラカミマイだった。ムラカミマイさんが残業をし続けるとこんな風になる風であった。家に帰り、ご飯を食べると、小島信夫と森敦の対談集『対談・文学と人生』を引き続き読んでいる。すると、電話がかかってきた。僕の電話は携帯電話であるが、正確にはPHSなので、電話番号しか表示されない時がある。その時、Aさんとメールのやり取りをしていたので、Aさんかと思い、うむうむと思いながら電話をとると、僕は電話で人の声は分からないのだけれど、話を聞いていると、どうやらムラカミマイらしい。梅ちゃんの家に集合しよう!という提案に乗らせていただかせていただいた。現在自分の家にある「レジェンド」というメーカーの作ったアコースティックギターは、いわばそのお土産なのである。北浦曰く、「いい感じにちゃちい、おそらく台湾製のギター」であるこの「レジェンド」というメーカーの作ったアコースティックギターであるけれども、僕はアコーステックギターを持つのが思えば初めてだ。中学校時代の時は、友達の家にギターがあったので、いいなあと思い、弾かせてもらった。ポップスデュオである「ゆず」などが全盛期だったので、よくそういうものを弾かせていただいた。でも、自分の家にはギターがなかった。別に親も買ってくれなかったので、仕方がないからハーモニカを夕方まで吹く毎日を中学校の時に続けた。そうすると、成績が良くなって、学校で一番になった。やった!と思いながら、高校に進学し、ハーモニカを辞めてしまうと、学校でものすごく落ちこぼれてしまった。落ちこぼれてしまったが、そういう中学校時代だったので、恨みを買ってしまった人物が、「おまえ前のテストはどんな感じやった?」みたいな風にいつも聞いてくる。やめてくれ!でも、俺は今、アコースティックギターを持っているので、起きてからずっと、適当に弾いている。 明日はエレキギターをもらいに行くつもりだ。だけれど、明日はおのしほうの引っ越しの手伝いをしなければいけない…。あさってにしよう。だけれど、あさっては、3/30のウーララで、「マグナム本田と12人の悪魔」というアーティストのゲストとして出る為の練習をしなければならない…。まああさって暇を見つけて、とりに行きます。どうせライブハウス「ネガポジ」へ呑みに行くのだし……。

ローソンで待っているように言われたので、ローソンの店内で待っていた。外はまだ寒いのである。春眠暁を覚えないのである。ああ、全然関係がない。春眠暁を覚えないのは僕のいつもの普段の生活だ。春という季節の記憶はいつも全く記憶に残らないが、それはいつも春眠暁を覚えていないからだろうか。 そう言う意味では、春眠暁を覚えていないことがない冬とかの方が気持ちかピリッとしていて良い。だけれど、k市の冬は、命を蝕もうとする節がある。私には逃げ場がない!ムラカミマイさんとOLさんがやってきたので、梅ちゃんの家に向かおうと、自転車をこぎだそうとすると、梅ちゃんの家はローソンの上だった。びっくりした。OLさんにお酒を買ってもらう。

梅ちゃんの家は、マンションではあるが、立派な家で、こころなしか広い。哲学科のD大生の部屋に入れてもらい、そこで飲みパーティをしたことがあるが、同じような雰囲気がした。そういうことか!その時は酔った勢いもあったので、もらった味付け海苔を全部食べてやった。そして、とにかくベットが大きい。ベットが大きいというのは、ベットのクッションが大きいということだ。ベットのクッションに大いに興味を持っていた私は、早速ごろんとさせていただかせてもらった。これが、よく眠れるのである!ああ、気持ちいいなぁ。さてはハイソだな!と直感が働いた。いつも理性的な私であるが、こういう直感に関しては、僕は信じることにしている。

送別会ということで、大いに呑んだ。大いに呑んだので、すぐにお酒がなくなってしまった。発泡酒一本だからだ。梅ちゃんとお酒を買いに行き、OLの子にお酒を勧めたら、呑んでくれたので、ああ、この子は、明日は本物のOLの子とレストランに行く約束をしているんです、と言っていても、やっぱりお酒が呑みたいんだな、バンバンボリーズの佐伯さんはこの様を称して「気だてのいい子」という風におっしゃり、遊び歩いているけれども、さもありなんなぁ〜と思っていると、いつの間にかいなくて、OLは賢い。

 そうしているうちに、ムラカミマイへおのしほうさんが電話をかけてきた。そういえば明日はおのしほうさんの引っ越しの手伝いをしなければならない。今現在、一時半であり、僕は遅筆であるから、書き終わる頃には七時とかになっているかもしれない。明日集合場所に間に合うのか…。まあでも、僕はこういう約束に関しては、破ったことがないので、大丈夫と言えば大丈夫だろう、と、自分に言い聞かせていると、あまり約束を破らないで済むのである。

北ちゃん(北浦ちひろ)が来たので、部屋を真っ暗にして、シガーロスをかけて、疑似セカイ系ごっこをした。疑似セカイ系ごっことは、部屋を真っ暗にして、シガーロスをかけ、シガーロスを裏声で歌い、私たちの共感覚を共有し、訴えかける遊びだと思う。ムラカミマイはアイリッシュの子なので(佐伯さんと僕の家に滞在した時も『ダブリン市民』を読んでいた。)さぞかしアイスランドの音楽も好きだろうと思い、アイスランドの音楽にはまったので音楽を始めたみたいなところがある僕なので、アイスランドやぞアイスランドやぞ、と言ってやると、アイルランドとアイスランドは違うぞ、と諭された。

その後、梅ちゃんとムラカミマイは、里芋ほりに激烈な執着を示した。おそらく読者は、訳が分からないと思うかもしれないが、僕も訳が分からない。ただ、現実というものは、訳が分からないものなのだ。だが、私たちは、この訳の分からなさについて、驚くということができる。そういうことが面白いので、ソクラテスしかり、田中小実昌しかり、呑み歩くのである。 その里芋の話が高じて、youtubeで芋掘りの動画を探して見ていた。意外とおもしろいのである。

夜も更けてきて、お腹もすいてきたのだが、うどんしか食えないような腹だったので、近くのなか卯でうどんを食べようとしていると、なか卯にはエゾエさんがいたので、みんなで喜んだ。エゾエさんは、ライブハウスの「ネガポジ」で働いているので、夜になると、このなか卯で食事をすることがあるのだ。僕とムラカミマイは、k市の伏見区にある、向島へ昨日行ってきてん!という話をする。確か僕は、

「佐伯さんとムラカミマイが僕の家に転がり込んできた。僕もまあええか、と思い、一つのベットで一緒に寝た。起きたら佐伯さんがピザを食べたいというので、僕も久しぶりにピザが食べたくなり、ピザを頼んだ。5000円ぐらいした。二つのピザが来て、四つの味が楽しめた。バジルのピザがおいしかった。パインのピザなんかもあった。どれもおいしかった。ありがとうございます。だけれども、佐伯さんはすぐに寝てしまった。ムラカミマイと私も仕方がないので寝た。五時頃に目が覚めた。佐伯さんはいつまでも寝ていた。このままでは、日が暮れてしまうよ!せっかくお仕事を休んだのに!と言った。でも起きないので、ムラカミマイさんと私は、電気を暗くしてビョークやシガーロスごっこをして待った。でも起きないので、仕方がないから二人で御所に行こうとしていると、佐伯さんが起きだした。ああ、なんか御所に行く感じなんだな、と思っていると、佐伯さんはまだグズグズしているので、ああ、日付が変わってしまわれる、と思っていると、OLの女の子がビールを携えて僕の家にやってきた。そこからは、僕の口からは言えないようなグダグダがやってきた。仕方がないので、tくんと主にバンド「羅針盤」の歌詞の普遍性についてパソコン通信でやり取りをしていると、佐伯さんとムラカミマイさんが帰ってきた。そのままみんなで寝た。そんな一日だったので、なんとかしようと思い、次の日は二人がよく話す土地である、向島に行こうという風になり、佐伯さんも、またお仕事を休んでしまっていることもあり、向島にいくことになった。

佐伯さんは『この駅は懐かしいですねえ。あそこにはモスバーガーがありましたが、今は駐輪所になっています。』とおっしゃった。駅前のベーカリーに寄り、佐伯さんは『この○○○○○パン』がおいしいのでいつも買っていました』とおっしゃったので、みんなで買いました。佐伯さんは800円分相当のパンを買っていました。佐伯さんは、『この道をエゾエさんは軽トラで走ってたのです。そこそこ、そのマンションに俺は住んでいたのです。ここで10対10の合コンをし、その模様は映像として残っています。エゾエさんは早々廊下にあるソファーで寝てしまいました。そこをずっと行けば川に出れます。ここの道で○○さんは事故りましたから気をつけてください。』みたいなことをおっしゃった。川でパンを食べた後、フリスビーをした。フリスビーはいい。とても気持ちがいい。天気がいいと、フリスビーである。定番になりつつある。パンもやはりおいしかった。○○○○○パンはやはりおいしかった。毎日食べているだけあるのである。ナン風パンも、おいしかった。ふと周りを見ると、大道芸人が変なものを回している練習をしている姿やノックをしている社会人が目に入る。フリスビーを投げた先によくわからない木があった。ムラカミマイさんは銀杏の木だと思いこみ、実を噛んでみてしまった。渋かった。かわいそうなムラカミマイ!

向島にはベルファというショッピングスペースがあるという。 いつも佐伯さんとムラカミマイさんは、ベルファのことばかりお話しになることがある。『よくな、あそこでな、服屋さんみてな、ウインドウショッピングしてな、いろいろ食べてな、あそこはまさに、もう夢みたいなものですよね!だから向島に住むねん〜』とか言っていたので、僕も機会があればいつか行ってみたいものだ、とワクワクしなかがらそこへ向かった。

ベルファの後、天皇陵を越え、団地を越え、伏見の京極と呼ばれている商店街にたどり着いた。そこから藤森神社まで電車などを使いながら向い、そこで水をくみに行った。水をくむものがなかったので、コンビニのゴミ箱から一リットルのペットボトルを取り出した。それを藤森神社でよく洗い、それに水を汲み、うどんの水にすることにした。藤森神社は、(ふじのもりじんじゃ)と読みます。そういえば、オーネットコールマンの「ロンリウーマン」などを歌いながら行った。うどんおいしかったです。ありがとうございました。」

みたいな話をしたような気がする。いい旅だった。書くなら、もっと掘り下げて書くべき旅だと思うけれど、それはまた、別の機会にしましょう。エゾエさんは、「向島なんかなにしに行ってきてん!ナハハハハハ!」とおっしゃって、一緒に笑いあう。

その後北ちゃんが僕の家に来て、僕が二年前にゴミ置き場から拾ってきたアナログシンセサイザーを、ちゃんとした音がでるように開発してくれた。いやあありがたい話だ。ヘンテコな音しか出なかったので、まあそれはそれで楽しいしいいか、と思いながらそれにしても重いなあと思いながら使っていたけれど、北ちゃんの手に掛かれば、チップ音もパーカッシブな音もエレピな音もお手の物といった感じで音を作れる。僕みたいなぴゅ〜〜〜んといった間の抜けた、屁みたいな音で喜んでいる場合ではない。お礼にPSPを与えた。このPSPは、少し前、友達が大きな段ボール送料3000円分二函ぎゅうぎゅうにつめてきたガラクタ類に入っていた代物であるが、こういうのはあまり使い方が分からない。何か本を貸してくれ、と言うので、佐藤友哉の『千の小説とバックベアード』を貸す。佐藤友哉はイケメンヤクザみたいな顔をしており、ライブハウスでよく肩あたりを噛む絶叫系エモーショナルクラリネッターというような人がいるのだが、その子も好きだそうだ。

2012年3月12日月曜日

???

日記を書き出すにあたって、自分の『日誌』を読み返してみる。
  ところで、もうすっかり春ですね!雨がシベリアあたりの寒気団を持っていっちゃった。谷内くんは、早速花粉に苦しみ、夏がくるのを恐れている。あまりに 気が早すぎるのであきれているけれど、確かに季節の変わりめというのは、アンニュイだ!どうにもならないことを思い、どうにかなればいいと願うわけです。 ちょうど図書館で借りてきたシオランの『崩壊概論』が手元にあったので適当に開いてみると、
われわれが周囲の事物におしつぶされないでいるのは、何といってもそれに名前をつけるからでありーこうしてわれわれは、万事をうまくやりすごすのである。
という所に線が弾いてあるのを見る。
 ということが書いてあるけれども、季節というのは、パッと新しい場所に移行するのとはまた違う。今日も起き抜けに半額のお惣菜を買いにスーパーのフレスコに行きましたところ、雪が降っている。とにかく今日は寒い日だった。去年もそんな感じだった。去年の三月一日はとても暑くて、汗をかいて汗をかいて大変だった。僕が汗をかくと、僕の汗はおそらく酸性なのだろうか、皮膚が痒くなってしまう。だから、僕はできるだけ汗をかくまいと、夏になると気をつけている。僕が自動車の教習所で袋井市というところに行ったときは、あまりにも暑く、あまりにも汗をかき、そのためあまりにも皮膚がよくないので、散歩する時など、日光を避ける為に、日傘を買って対処した。黒くてひらひらしているけれど、その日傘は、まだ僕の家にあるのである。 袋井市とは、遠州三山のあるところで、徳川由来の旧跡が残っているということを、僕は藤枝静男の小説を読んで初めて知り、行けば良かった。今思えば、トヨタ崩れのイケメンな教習官も、そういえば、そんなことを言っていたような気がするのである。とにかく、季節というのは、気付けば過ぎているもので、気付けば過ぎるということは、気付けば過ぎるという時が季節が変わっているということの意味だと思う。事態というのは、気付けばそうなっていたという風に進んでいくので、人間が何をしていても、そんなにすごいことはできない。

フラフラと三条まで下り、ジュンク堂という本屋さんに行くと、新しい『群像』が出ていたので見出しを見ると、小島信夫の小説について保坂和志と青木淳悟と奥泉光が合評していたので、つい立ち読みしてしまう。おもしろいメンバーだ。保坂和志と奥泉光は同じ年に全く違う作風で芥川賞を取ったので、静の保坂和志、動の奥泉光、と言われていた時もあったらしい。青木淳吾は一見変な小説を書く小説家だけれど、青木淳吾は人間というよりも、人間のいる空間やシステムに興味がある人で、そのことに関しては態度は真摯なので、ちょくちょくフォローしている。同じ号に、高橋源一郎が、吉本隆明の親鸞について語ったDVDを引用して「戦後文学」について語っている。親鸞の教えを伝えた歎異抄という本のこの部分を引用していた。
 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」
 つまり、人間というのは、殺す時は、イヤでも1000人ぐらい殺す時もあれば、やりたくても殺さないこともある。 正しさにのっとろうとしても破ろうとしても、そんなことは、あまり関係がない。やろうとしてやるというよりも、この世の中はやってしまった/起こってしまったことばかりである。ことばでできた私たちの「思想」や「正しさ」というものは、現実を前に大きく断絶してしまっている。現実はことばを失わさせる。その失われてしまったことば、そもそもことばを持つことのない存在、についてどのように考えていこうか、というのが高橋源一郎が大筋で言っていたことで、思えば高橋源一郎は、このようなことに一貫して取り組んでいる、と感じる。思えば青木淳悟も、ことばを持たない、環境的なところをどうやって言葉をつかって書ききるか、ということに興味があるのでした。見ないうちに顔も、凛々しくなっている。

昨日は、デリダの『グラマトロジーについて』のレジュメを夜の一時から朝方まで作っていたので、徹夜みたいなものだ。クタクタになりながら、マラソンみたいだ。だけれど、それは3/9だったから、別に昨日という訳でもないのかも知れない。今ちょっと手が離せないので、確認することができない。3/9だった。朝方まで作っていたから、3/10なのだけれど。 クタクタになったので、今日は久しぶりに銭湯に行く気持ちになった。最近よく見かける、OLの子がよく行く銭湯で、OLが言うには、あの銭湯は、朝風呂をする日、お風呂につかり、お風呂を出て、夜お風呂に入りにいくと、番頭のおばちゃんが同じおばちゃんであった場合、さっきお風呂入ってたし、ただでいいよ!といってくれるらしい。もう一つ言っておかないといけないが、僕がナカネさんのことをOLの子というのは、バンバンボリーズの佐伯さんが最初の紹介の時にOLの子と言ったからだ!吉田山の節分の祭りのときに、燃え上がる炎の中、結婚の報告と同じように、佐伯さんはおっしゃった。そのことは、よく覚えている。銭湯では、僕は銭湯のお風呂が好きなので、長湯することにしている。そんなに広い銭湯ではないのだけれど、二時間ぐらい入ることもあり、よくあきれられることがある。しかし、僕のお風呂の入り方は極めて理にかなっていて、お風呂に入る、髪を洗う、サウナに入る、水風呂につかる、お風呂に入る、ひげをそる、サウナに入る、水風呂につかる、お風呂に入る、外に出てリラックスする、お風呂に入る、というワンセットを繰り返している。こうすると、とても充実したお風呂を過ごすことができる。でも今日はサウナに入ると、いつもよりも心拍数の動きが速くて、すぐに出てしまった。なんだか心が弱くなっている。いつもドキドキしているようなものだ。それでも、二時間ぐらい銭湯で過ごしたみたいだ。炭酸が飲んでみたくなったので、緑のデザインの炭酸飲料を飲みながらマガジンを読む。緑のデザインの炭酸飲料だけでなく、炭酸飲料を飲むこと自体が久しぶりだ。一年は飲んでいないのではないか。やはり、夏は飲んでいるのか。

そういえば、下書きとして、ここまで日誌が書いてあった。

夜想というライブハウスで僕は弾き語りの飛び入りという企画に出ることになった。その企画は、しの山さんに誘ってもらった。夜想に行くのも久しぶりだ。
先 についていると、水野さんが来てくださった。水野さんも弾き語りをやるらしい。今日はすごいな、と思っていると、関戸さんも来ていた。しの山門下が集まる 感じになるなぁ、と思ってワクワクしていると、しの山さんが、おつまみを携えてやってきた。本当に、しの山さんは、いい人だなぁ。そして、センスがいい。 青魚を持ってきてくださったのだ。これはおいしいに決まっている!いい話だ。
もうこういう風に時系列に物語風に語るつもりもないけれどいうけれど、ネガポジで佐伯を見た瞬間に靴でも投げれば、良かったのだ!
なんで佐伯に靴を投げたのか僕には忘れてしまった……。この夜は後にモルグモルマルモのメンバー全員が僕の所に来てくださって、本当に嬉しかった。

家に帰ると、たばこのにおいがしたのでドキッとしたが、銘柄から、ああ佐伯さんが来ていたのだな、と思う。僕はそんなことも、分かるのだ。おもてなしできればよかった、と思っていると、いつの間にか寝てしまっていた。最近は、京都の人たちが出てくる夢をたくさん、たくさん見る。今日も、ライブハウスまで御所を走ったり、往復したりする夢を見た。時々、生命の危機のように、ドキドキする場面にも出くわした。

読書会は無事成功した。今までで一番、すっきりした読書会になった。読書会の日は、やっぱり難しい上に、共通の言葉を持つことが難しい攻める内容の本なので、いつも緊張するので憂鬱なのだが、読書会のメンバーに会うと、なんだか嬉しくなる。嬉しくて、むかつくことがあっても、どうでもよくなってしまう。そのことはいいと言えばいいのだけれど、悪いと言えば悪い。たちが悪い。でも、そんなこともどうでもよくなってしまう。人を好きになるということは、そういうことなので仕方がない。そのような、自然の働きのようなものに、どのように自分は身構えるのか、ということを、考えるしかないのである。


或る意味では、「思惟」とは何ものをも意味しない。あらゆる開示性と同様、この指標も自身のうちにもつ明らかな側面によって過去の時代の内部に属している。この思惟には全く重さがない。まさしくそれは、体系の戯れの中にあってけっして重さのないものなのだ。思惟すること、このことがこれまで着手されたことがなかったということを、われわれはすでに知っている。つまり思惟するということは、書差作用というスケールで測れば、ただエピステーメーの内部でのみ開始されているにすぎないのである。
 
 書差作用ということばは訳が分からないので、とりあえずここでは自然(の流れ)という風に置き換えましょう。エピステーメーということばもわけがわからないので、とりあえずここでは、(可能)世界という風に置き換えて読もう。ここで言われていることというのは、例えば私たちは、抽象的なことばを用いて何かを考える。「愛」だとか、「平和」だとか、「復興」だとか、「発展」だとか、「勝利」だとか「神」だとか「ミューズ」だとか。こういう抽象化されたことばというのは、意味というよりも、位置を示すことになる。つまり、とある(可能)世界の体系内での位置によって言葉の性質、アイデンティティが決まる。この抽象化されたことばというのは、他の言葉との区別によってしか、成り立たない。このようなことばというのは、そういう性質がある。だからそのようなことばを使って考えても、何の重さもないのかもしれない。僕たちはもう一度普遍的にものを考える為に、その(可能)世界外のことを考えて、他の、パラレルワールドの住民とも理解ができるように、ことばを常に問い直さなければならない。ここで考えられているパラレルワールドの住民というのは、むしろ、そこらへんにいる人々のことかもしれない。素朴に他者を理解するということだ。私と同じことばをもたない他者と理解し合う、ということだ。

お酒を飲むと、さらに楽しくなる。みんなでお酒を飲むこと以上に、いいことはないのではないか、という気にはなるし、実際そんな気はする。みんなでお酒を飲むこと以上に、これ以上楽しいことはないのではないのか、と思うことがあり、ドキドキする。読書会の人たちと飲んだ後、吉田寮の寮食堂に行き、テツオさんに会いにいく。すると、昆布さんがいた。昆布さんはインドに行っていた。昆布さんがインドから帰ってきて、ますます世界が本腰を入れて頑張っている。テツオさんは旅人なので、もちろんインドには行ったことがある。ところで、吉田寮の寮食堂のお祭りに、僕はまた出させてもらえるかもしれない。ありがたい話だ。ドキドキしながら、テツオさんの中国南西部の国境近くの町で、食堂のバイトをしていた話を聞いたり、昆布さんが習っていたヒンディー語の話や、ガンジャバッドトリップ話を聞く。

気になっていたので言おうと思うけれど、つい最近、おぼろ月の夜、橋を渡りデルタ(三角州)になっているところを渡っていると、見える筈のない時計台が光っていた。あれは一体どういうことなのだろう? いつの間にか、僕は、新しい場所に来てしまったのではないのだろうか…。飲み屋でヒゲを生やしたお兄ちゃんが、今夜は満月だな!という風なことを言っていて、確かにこのおぼろ月は満月である。

2012年3月7日水曜日

お酒を呑みすぎてお金がないのだが、お腹がすいたので、スーパーで半額の弁当を買いにいこうと思い立ち、自転車に乗り、半額の弁当を買いにいこうとしたのだけれど、スーパーの半額の弁当は、チキン南蛮の弁当だったので、朝から半額のチキン南蛮の弁当を買い込むのは、いくら半額とはいえ、胃に悪いのではないか、と思い立ち、半額の弁当を買うことを諦め、もしお腹がすいたらなか卯で、半額の弁当の値段ぐらいの牛丼を食べよう、それで、半額の弁当ほどの満足さは得られるだろうと思いながら自転車に乗り、家に帰る途中、何かたくさんの思念のようなものが入り込んできて、とても自分が強い人間のような気もし、よし、これで一本何か書こう!と思ったが、忘れた。まぁでも、こういう風に忘れることというのは、脳が起こす電気信号みたいなもので、非常にケミカルに解釈することができるのかもしれない。つまり、リンパ腺あたりから何か変な物質が出ていたのだと。そんなこと言ってしまったら、言語的/意識的な世界もケミカルだろうけれど、そういう世界というのは、言語/「意味」に置き換え可能だから、覚えているし、その世界から一旦切れているというところから、別の世界からその世界を見ることができる、という意味で、客観的にもなれる。「私たちが覚えている夢」というものは、極めて言語的「解釈」を通じて現れるものだし、つまり言語から逸れるような得体のしれないものというのは、忘れてしまっている。出会ったはずの、いるはずのない人や動物、景色や建物というものは、忘れてしまうものだ。「私たちが覚えている夢」の世界は言語によって出来上がっているのだが、それは翻訳みたいなものだ。逆に言うと、その言語記述のイレギュラーさによって、別の世界を垣間みることは、できるかもしれない。出会ったはずの、いるはずのなかった人を見つけるためにも、僕は書き進めようと思う。

ついでだから言っておくと、ガールズノイズバンドのにせんねんもんだいの『ディスティネーション トウキョウ』、いいじゃないですか!ダンスークラブミュージックに接近、というかあれは擬態だと思うけれど、一段と、新たな、音楽の手触りが出現されて、とてもいいと思います。ここでいう、音楽の手触りとは、やらされてる感のようなある種のアホっぽさを意味するのかもしれませんが、それが明確になった上で、それでもなお音楽として妙に生き生きしているという、意味不明な融合具合が実によく出ているような気がします。少しカッチリしていて、繰り返しのフレーズがあらかじめ与えられ、固定されている風なので、確かにギターさんの、そういう風になるんやったらとりあえずワタシはこうしておこう、という絶妙かつなげやりな精神の動きみたいなものがないのは、欠点ではあります。そうなってくると、エアロビクスの授業では、カニのようにしか踊れなかったTくんにとって、ダンサブルな楽曲は、擬態にしろ何にしろ、不感症のようになってしまうのかもしれません。つまり、Tくんにとっては、ダンスミュージックは、快楽でも脅威でもなんでもないのです。そのような人は例えば、
「音楽」に対して意識的である事。それは、過去のバンド、ティポグラフィカにおける実験や、現在のバンド、デートコースペンタゴン・ロイヤルガーデン(DCPRG)で菊地がポリリズムを採用している事からも明らかだ。「ポリリズム」とは簡単に言うと「複合拍子」の事であり、要は「一曲(あるいは限られたフレーズ)の中で、複数の拍子が同時に演奏されている」という事だ。(例えばDCPRGの「プレイメイト・アット・ハノイ」という曲では四拍子と三拍子が同時に打ち鳴らされており、ライブのフロアではバラバラの拍子でノっている客が実際目に見えて複合的なリズムを刻んでいる)。ロックやフォークが、基本的には四拍子や三拍子といった比較的単純なリズムで成立するものであるのに対し、菊地の作り出す音楽は複合的でケイオシックだ。そこには、音楽における「数学/建築」の側面を注視し、決して「音楽における無意識状態」を作り出すまい、とする姿勢が垣間見えはしまいか。そうした目で、今一度辺りの音楽を見渡すに、いかにそのような「無意識状態」を作り出している音楽が多いかに気付く。クラブのフロアでは、ひたすらシンプルな「四つ打ち」が鳴らされ、ロックはスリーコードをかき鳴らす。そうした「シンプルさ」は確かに心地良い。だが、その「心地良さ」は、「一〇〇人いたら一〇〇人とも心地良い」という状態を目指して作られた、いわば「心地良さの最大公約数」としての「心地良さ」である。(だからこそ画期的な発明たりえたワケだが、問題はその発明を無意識に使用してしまう事である。)菊地は、そうした「自意識過剰」ならぬ「無意識過剰」な状態の手前で、常にストップをかける。(林拓身「菊地成孔の意識/無意識 あるいは初心者にとっての菊地成孔ガイド」)
というような文章があった場合、まずその「無意識」の状態がわからないだろうし、「心地良さの最大公約数」という意味も分からない。一〇〇人の中に入らないのだ。こういう人間の場違いな在り方が新たな変革を促したり、新たな前提を提供したり、人々を不安がらせたりするかもしれないが、とりあえず、菊地成孔がここで頑張っている闘争については、全く無縁になってしまうのだろうな。もちろんどちらも「心地良さの最大公約数」というものがイヤだなぁ、と思う気持ちは一致しているかもしれないが。とにかく、このような縁遠さが、T氏と『ディスティネーション トウキョウ』の間にもあるのだろう。このアルバムは、パロディのように、ディスコの心地良さを異化するものとしてはたらくのだろう。

それにしても、この菊地の闘争というものは、音楽の「無意識状態」の状況をどうやって記述していくか、という意志とも関係するよな。そういう意味では、常に別の、存在しなかった世界について思いを馳せる山本精一と近いような気もするけれど、やっぱり全然違う。菊地はこの世界に留まり続け、意識されなかった事象を掘り続けているのに対し、山本精一はそもそもパラレルワールドに意識が向かっている。水子になった物語を思い続ける山本精一と、無意識に潜り込み新しい意識(快楽)を手に入れ続ける菊地成孔とは、もしかしたら真反対かもしれない。お化けみたいな山本と、AVみたいな菊地さん。

 今日はバンバンボリーズの佐伯さんが大きな黒いビニール袋を携えてやってきた。大きな黒いビニール袋には、服がたくさんつまっていた。ありがたい話だ。ありがたい話っていっても、佐伯さんはいっつも僕の服やパンツを破り、パンツに至っては毎回のように破るんだぞ!どういうことだ!でもこうやって大きな黒いビニール袋を携えやってくるところを見ると、佐伯さんは義理人情の厚い人間なのだなぁ、としみじみした。所詮僕のような人間は、何もできずどこにもいけないので、チンピラになるしかないのだが、チンピラならチンピラなりの、矜持を持っていきたいと思うのです!人は繰り返し、どうしようもなく人情に落ち、囲い込まれてしまい、だがそれに対する埋め合わせとして、義理を持って対応するのだ。繰り返し、繰り返しだな!そういえば森敦は『対談・文学と人生』の中で、こういうことを言っていた。
僕は僕なりの言葉でいえば、道というのは、二つの原理によってなっているんですね。それはダムなんかつくるときに道をつくっていましたんで考えたんですが、道には絶えず直線でありたいと請い願いがあるわけですね。
それからもう一つ。できるだけ等高線に沿ってつくらなければならん。つまり曲線への請い願いがあるわけですね。それをその矛盾をいかに切り抜けるかというのが技術ですが、それにもかかわらず道というのは根源的な矛盾をもっているんです。ただ歩いていけば矛盾もなにも感じませんけども、それを設計したり、つくったりしようとするとすぐそこにぶつかるのです。あるいは注連寺、ひいてはこの七五三掛けというむらにこれだけ栄枯盛衰があるのも、ひとえにこの道のためですね。
そうしてみると、道というものに根源的な矛盾があるなら、実は関数関係にありますから、世界というものも根源的な矛盾をはらんでいなければならぬ。その矛盾をどう解決するか、これは小説のうえでも大変なことだと思うんです。
だから歌舞伎なんかみんな矛盾にもってくるでしょう、義理と人情のからみ合いに。義理というのはお金ですね。人情というのは色ですね。それとこれとのからみ合いにもってくる。(中略)小説というのは実際は道をかいているんじゃないですか。それが世界になっているわけでしょう。

 ところで、もうすっかり春ですね!雨がシベリアあたりの寒気団を持っていっちゃった。谷内くんは、早速花粉に苦しみ、夏がくるのを恐れている。あまりに気が早すぎるのであきれているけれど、確かに季節の変わりめというのは、アンニュイだ!どうにもならないことを思い、どうにかなればいいと願うわけです。ちょうど図書館で借りてきたシオランの『崩壊概論』が手元にあったので適当に開いてみると、
われわれが周囲の事物におしつぶされないでいるのは、何といってもそれに名前をつけるからでありーこうしてわれわれは、万事をうまくやりすごすのである。
という所に線が弾いてあるのを見る。図書館の本に線を弾くのは、あんまりよくないんじゃないか。このセンテンスは続けて、
 だがいかに恣意的なものであれーー恣意的であればあるほど気持ばかり先走って認識が追いつかないだけに危険なのだがーー何らかの定義を通じて物事を受け入れるということは、とりもなおさずその事物を拒否し、味気ない皮相なものたらしめ、抹殺することに等しい。ぐうたらでからっぽなーーこの世に生きているのも夢うつつといった調子のーー精神は、ものにやたら名前をつけてまわり、ものの中身を抜き去ってかわりにその形骸だけを残す以外、どんなことができようか。それから彼は、ものの残骸の上でのさばりはじめる。もはや感覚はなく、あるのは思い出だけである。名前という定式の下には、かならず死体が横たわっているのだ。
もういい!休め!シオラン! 線を弾いたやつには、僕がなんとかしてやるから!

昨日はシルバーウィングスのライブを見に行った。そこで結構呑んでしまったなぁ。オープニングアクトの、いつもお世話になっているモルグモルマルモの深田さんは、沖縄修行で会得したタム叩き語りなど、度肝抜かれたゾ!初めての弾き語りだそうですが、これは是非長尺でみたいです!平成生まれのハンノくんの歌は、若さの中に確固として生まれ続ける魂があって偉い!魂というのは、ここでは社会があって人々がいてそこから立ち上がる意味に対して、どのような埋め合わせをしていくかを考える責任のことかも知れないね!そう、今日はキャプテンパニックが出ていたんですね!キャプテンパニックとは、バンバンボリーズの佐伯さんのことであります!エエ曲つくんねんなぁ〜。つい一緒に歌ってしまった。まるやまさんもよかった!ここにきて今日も神ブッキングであることが証明されてしまった…。まるやまさんのうたはうたに対して本当に真摯だ!うたに対して真摯ということは、そのうたの持つ世界に対して真摯だ、ということであり、そのうたの持つ世界に対して真摯だ、ということは、そのうたの持つ世界の持つ感情・情感・出現してしまう物語に対して真摯だ、ということなのだろう。その歌は人情味溢れるうたで、リリックのつながりも上手く、うたもしっかりしていたので、そういうところはうたとして義理がたく、強いうたうたいだなぁ、と思わされました!そういうのは佐伯さんと一緒だ!だから自然にある種の色気が出てくるんだな!そして最後は登山さんやがな〜!登山さんは本当にブルースマンだなぁ。登山さんのほんまもんの声は本当に場が締まる!それがアットホームな緊張感を生むのが魅力やがな〜!本当にいい話だ。途中で東京から来たという友達のギタリストが参加し、これもまたいいブルースのギターを弾くのです。ソロ合戦なんかやっちゃったりして!登山さんはブルースハープ(ハーモニカ)を取り出すけれど、マイクの線が抜けちゃった!だけれど、ブルースハープ(ハーモニカ)も、渋い音を出すなぁ。ブルースマンの音になっているんですね!なんでやろ?最後に中島らもの「いいんだぜ」をやっていた。

いいんだぜ
いいんだぜ
いいんだぜ
いいんだぜ
君がドメクラでも
ドチンバでも
小児マヒでも
どんなカタワでも

いいんだぜ

君が鬱病で
分裂で
脅迫観念症で
どんなキチガイでも
いいんだぜ

君がクラミジアで
ヘルペスで
梅毒で
エイズでも
おれはやってやるぜ
なでであげる
なめてあげる
ブチ込んでやるぜ
 これでもかこれでもかと、羅列されていく言葉はゲスさを通り越してどこまででも行ってしまう。それを登山さんの声で歌われると、参ってしまうわ!時々「いいんだぜ」が、「ええがなええがな〜」になったりして、ええねんわぁ〜!「ええがなええがな〜」とは、僕の口癖みたいになっている言葉で、そういえば僕も中学校の時はよく中島らもを読んだものだった。筒井康隆とかも読んだっけ。アンコールで、登山さんの渾身の一曲を聞くことができて僕はもうびっくりしてしまった。全力を尽くした追悼の歌は、あれこそうただと思う。何よりも、登山さんの人格を目の当たりにした気がする。うたっちゅうもんは、なんなんやろな?

ネガポジに行き、梅ちゃんとも呑みました!梅ちゃんはネガポジでバンドのラストライブをやっていたので、 こっちも見に行きたかったのだ…。どうやら、ドラムの女の子の迫真の演技(「梅ちゃん戻ってきて!」)に彼氏が帰ってしまったそうだ。波乱やがな!ほんまや!戻ってこい!佐伯はパンツを破るな!

今日バンバンボリーズの佐伯さんと御所を散歩した。夜である。夜の御所は明かりも少ないので、暗いのである。こういう暗さは僕は大好きだ。こういう夜の暗さは、人間の見る世界を広くさせますよね、と言うことだ。だから御所には鵺(ぬえ)が住むのである。看板に書いてあった。御所には鵺(ぬえ)が居るのだと。御所には鵺がいるでいるで!と再三言っていると、本当に変な鳴き声が聞こえてきた。すると変な木が出てきた。佐伯さんはアイフォンをもっているので、暗い夜でもわりかしちゃんとした写真がとれる。とってもらった写真を見ると、これは夢の中のよくわからない生物みたいだ。昔の人は鵺の声を聞いて、すごい怪物がいるぞ!と、思い、いろいろ想像していたみたいだが、どうも想像はこのような自然のよくわからない存在に回り込まれてしまうみたいだ。こうなると、夢みたいなものだ。でもそれは存在するから、忘れへんがな〜!言葉の獲得はこうして起こるんだな!

モモ
そこらへんでこの前佐伯さんが見つけてきたこれもまた変な木とも再会した。別れた一本の大きな枝のみが生きているというような木で、やっぱりケッタイだ。よく先端の方を見てみると、花が咲いている。夜だったのでよく見えないけれど、時期的にこれは梅の花だろう。この木は梅の木だったのか!春だなぁ。ムラカミマイはライブハウスネガポジにいきなり桃の花を持ってきて、これどうしたん?と聞いたら、拾った、と言っていた。意味分からん。こんな枝みたいなやつ落ちてるわけないやんか、ということはどっかから折ってきたんやな!と思ったけれど、こんなところに桃なんかあるんかなぁ、とずっと考えていたのだけれど、どうやら花屋に売っているらしい。 そんなんやからそんなんやねん!今日部屋の模様替えしたらイヤリングと雑誌あったよ〜!よかったな!それにしても部屋の隅がこんなにほこりだらけだとは思わなかったな!辛いな!でもこれで安心や!そういえば佐伯さんとごはんを食べにいこうと、うどん屋を探していたとき、OLの子が、赤いシンセを背負いながら、颯爽と三条の街へ、消えていきました。僕もそろそろバンドしたいね!ミニマルノイズバンドみたいなやつしたいけれど、そんなんないか。つくづく僕は根がノイズミュージシャンなんだろうな、と思うけれども、そんなこともないな!

2012年3月5日月曜日

けんばん

そうか、今日マットレスが届いたのか…。あまりにも快適すぎてずっと寝てたゾ。さらに、マイルスのアルバムの中で一番暗黒舞踏感の高い『アガルタ』を聞きながら寝そべってたりしたので、どこかに行ってしまった感がある。『アガルタ』がどんなアルバムかを説明する為には、恐らく新しい言葉を発明しなければならないだろう。暗黒舞踏だからな!とりあえず言えることは、
  1. みんなヤク中
  2. マイルスはヘロヘロである
  3. トランペットあんま吹いてられないから適当にシンセ鳴らしてるだけなのにかっこいい
  4. ギターがおかしい
  5. ダーク☆リズム隊  
(イメージ↓)                  
さまざまな要素が溶け込むということは、それはそれはイヤらしいことだと思う。やっぱりお盛んでそこらの人とみんなでセックスとかしたら、淫らでしょう。それだけに生のエネルギーがみなぎるものがある…、といえば何か変な団体みたいだけれど、ジャンルレスにジャズロックファンクが渾然一体となってもはやどれがどの要素かわからない、しかも今までのマイルスの曲の引用までしてしまうなんて、もうそれはそれは、淫らだ!淫らすぎて夢の世界まで突き抜けていくという意味でも、やっぱり暗黒舞踏だ。

ついに見に行きましたよ!ベリーブー!話題のOLの女の子がシンセ弾いているバンドです。私OLじゃないもん!って言ってたけれど、私社長にいっつも怒られんねん!ってやっぱりOLじゃないか(憤怒)。ひなまつりのひなあられを持ってきてくれて、ほんとは優しい子だなぁ〜ナカネさんは。なんかビンタされた気がするけどな!その日は女の子の日みたいだったので、ムラカミマイさんは桃の花を持ってきたみたい。風流だなぁ。バンバンボリーズの佐伯さんがワインをボトルで頼んだから珍しいことするなぁ、だとか、太っ腹やなぁ、とか思っていたら、どうやら桃の花の木をそこに挿すことがしたかったみたい。 風流やな!今日は誰も彼も来ていたので、さながらオールスターみたいなものだ。しの山さんも来ていたしあの森上唯さんも来ていた。梅ちゃんという九州人も来ていたし、チエさんも来ていたし、そうなってくるとチハルちゃんも来ていた訳です。チハルちゃんは、あれは何歳だ?かわいらしいヘルメットをしていたので、ワタシはいつもヘルメットを褒めます。服もバラの刺繍がしてあってお花で溢れていたので、その服も褒めます。チハルちゃんも笑ってくれます。ありがたい話だ。子供はええなぁ。僕の存在まで許されてしまう気がする。子供こそがライバルだと思うのだ。そんな満たされた気持ちでいたから、ベリーブーの演奏はあっという間に終わってしまった。今日の時の経ち方は基本的にこんな感じだ。

地図
ネガポジのヤンキー神田さんのソロに僕は完全に打ち負かされた。彼の田舎である島根県の佐田という所には、私も行かしてもらったことがある。大阪から出雲まで、夜行バスで五時間揺られ、さらに出雲駅からバスで一時間山に入っていく。途中、川辺に大きな大木があり、街道のなごりのような道に向かって家が並ぶ集落を越え、トンネルをくぐり、川沿いにある旅館を端に見えればもうすぐバスの終点の小学校だ。佐田の中に入っていくには、レンタサイクルでもう少し踏み入れなければならない。川辺を沿って自転車を走らせ、川がだんだんと細くなる。途中五階建てはあるような大きな家具屋さんの跡地が見える。今は集会所になっているのだろうか。そのような風景を越えさらに奥に進んでいくと、須佐神社が見えてくる。この神社は、オーラ鑑定士のエハラさんによると、日本で一番のスピリチャルポイントだそうだ。僕もその噂を聞いてはるばるここまでやってきた。そこの大きな大木は、人間が両手を大きく広げたその長さの20倍はあろうかというほどの巨木だ。お昼からマダムたちはこの巨木にあやかろうと、巨木の根っこをなで回し、ちょとした歓声をあげたり、光悦したりしている。さらに奥に進むと、水が湧き出ているところにたどり着いた。八雲風穴ってところですよね?覚えてますよ〜神田さん!そこで広島から水を汲みにきたというファミリーに挨拶をした。休日は大体一ヶ月に一回汲みにくるそうだ。なんともいい話だ。レンタサイクルだったので、あらゆるところを見回っていると、こんにちわ〜、と子供の声がしたので、見てみると、子供がいた。ええ子供や!挨拶ができる子供はええ子供や!すくすくと育って欲しい。そして、そうやって育ってきてくれた子が、神田さんなのだ。田舎から都会に出てきた人が思う都会への違和感というのが、とてもゆるふわな雰囲気でやさしく歌われて、私たちは包み込まれるんです。「やりたいことがたくさんある」という曲は、僕がやりたいミニマルゆるふわうたものが僕の想像よりはるかに洗練されて歌われていたので、悔しい!すごいいいよ!ピアノの弾き語りがこれほどまで羨ましいものだとは思いませんでした…。


最後の人は僕は見るのは二度目であります。この人もいいうたを歌います。わらったり聞き入ったりしてあ〜楽しいなぁとホッピーをグビグビ呑んでいたらあっという間に時間が経ってしまった。ええ気持ちでライブ後もホッピーをグビグビ呑んでいたけれど、そこらへんになるともうあんまり覚えていないや。佐田に行ったのも、あれは夢の光景だったかもしれない。バスから見る風景なんか、本当にそう思う。あの大木は、昔から知っているような気がするから、僕の故郷の大木の記憶かもしれない。大木って、集落の大木ですよ?さすがに須佐神社の巨木のような木は僕は見たことがない。しの山さんと、弾き語り飛び入り行こうぜ〜!みたいな話をする。しの山さんの彼女の弾き語りも楽しみだ。同じゴミさを共有している!と言われたので、期待も高まるばかりだ!着床している女の子にも会った!もうそれだけで僕は嬉しいね!元気な子供を産んでください!頼みます!森上さんとその友達と話しもする。『砂の女』嫌いやねん、あいつは家庭のことをなんやと思ってるんや?と言ったら、二人は安部公房が大好きで、デヴィットリンチ嫌いやねんと言ったら、リンチのボックス持っているとおっしゃり、黒沢清は本当の映画だというと、あんなものは残業帰りのOLが見る映画だと言われ、「ダンサーインザダーク」なんか見る気もしない、そもそもビョークが主演とか、と言ったら、ビョークが大好きだとおっしゃる。そんな僕たちだけれど、こころざし的には同じことを共有しているような気がする。やっぱり、うたで世界をズラしていきたい。方法も考え方も全然違うけれど、いいのだ!ふと見ると、神田さんとOLの女の子がビートルズを連弾している。
つれてっちゃうよ?だって僕は苺畑にいくんだもん
リアルなものはなにもないし、気にとめるようなものはなにもない。
苺畑は永遠だもん!
なんやねん!

2012年3月3日土曜日

茶わん

クルア〜ンクルアンクルア〜ンクルアン


551の肉まんを食って朝ご飯とする。


今日はいい天気だネ☆マジ春の訪れパネェ

窓を開けてみて空気を入れるよ!

きもちいいなぁ〜☆

おふとんが、あたたかいよぉ(><)

出れないよお(><)

そんなワタシはphewでも聞いて頑張ろう!

phewカワイイ〜(><)

まえ袋みたいな服着てたの見たヨ☆

カワイイ〜!

phewの歌詞
飛ぶひとは落ちる
落ちるひとはさらに落ちる
さらに落ちていつか沈む
しずんでしずんでやがて埋もれる

ロボットドンドコドン
ロボットドンドコドン
昔は音楽が好きだった
今は髪の毛が大好き

カワイイ…!

昨日は大阪に出向いた。久しぶりの大阪とタイプしようとしたけれど、そういえば最近ゑでぃまぁこんのライブを見に大阪の扇町に行ってた。なんばで十時の待ち合わせだったけれど、僕は家で九時に起きたので、三十分程遅刻した。だからめちゃくちゃな服でなんばにきてしまった。まぁいつも通りといえばいつも通りなんだけれど、ビビットグリーン(エメラルドグリーン?)の服に暖色系の、これはなんていうのだろう、大きなひし形のモザイクかかった服を重ね着していたので、ガラスを見てさすがに僕も少し恥ずかしかった。電車の中で本を読むと思い、「ワインズバーグオハイオ」と小島信夫と森敦の対談集「対談・文学と人生」を持ってきたけれど、 もっぱら対談集を読む。

なんばでは母が待っていた。母は「化粧品屋の子がおってな、かわいい子やねんな?色白で。あれどこっていってたかなぁ?吹田の方やったかなぁ、通勤に40分ぐらいかかるねん。そんなんやったら名張(三重県の地名)と変わらんやんかなぁ、だからあそこにぎょうさん家が立つんやなぁ。それでな、それでかわいいからな、彼氏いやんの?みたいなことを聞いたらな?いやそれがもうぜんぜんできないんですよぉ〜っていうからな?うちの息子はどうですか、みたいなことをいってんわ!ハハハハハハ!でもそんな服はあかんわ!なんやねんそれ!」えらい話しやなぁ。

母は、僕のニトリのベットがデコボコで、骨格が 浮き出ていることを知っていたので、新しいベットを買ってやるから大阪へ来い、といったのだ。さすが母親。母はカタログハウスというのが好きで、全然買わないけれど、見るのがすきやねん、と言っていた。これで買った実家の炊飯器の米は確かにおいしい。まるでかまどでお米を炊いているみたいだ…。なんば駅から直結して建っているショッピングモールである難波パークスに、カタログハウスの持つ店があるというので、そこに行ってみる。そこには、折り畳みベットがあった。低反発で、ええ折り畳みベットや!これやったらなんでもできるわ!最高!と思ったら、四万もしたので、これはさすがに悪いわ〜と思い、お茶飲んで帰った。

人類の夢
あそこいこ、ビックカメラに枕売ってたやろ?あそこになんかあるど、ということで、なんば駅を横断してビックカメラに向かう。そこでいい感じのマットレスが8000円ぐらいで売っていたのでそれを買ってもらう。これで僕も腰痛に悩まされずに済むわ!ありがたい話だなぁ、と思ってブラブラそこらへんのもん見ていたら、円盤形のなんかを目にする。それはどうやらお掃除ロボットらしい。すげえ!SFやん!と思い早速作動させてみると、すごい!自分で動く!なんやこれ!ドラえもんの世界が実現しとるじゃん!うわぁますます21世紀やなぁ、と言うと、母は、鉄腕アトムの空飛ぶ車は高速道路を先取りしたんだとか訳が分かったようなことを言う。 それにしても、このロボットは起動させればいつまでも動く。マヌケだ。こういう感じで機械が暴走してドラえもんの大長編の世界が出現することになるがそれは後のお話。

寿司をごちそうしてもらった。回転寿しである。当たり前だ!僕は金持ちは許さんぞ!そこでカキや赤貝やなまこを食べた。おいしかった…。一人でいくようなチェーン回転寿しとは全然違う!おいしいもんなんだなぁ。

水掛地蔵と言っているけど、四天王に見える
早速大阪での用は済んだので、適当に歩こうと思い、夫婦茶碗みに行こう!と言い出したけれど、それは町田康の小説の方で、本当は夫婦善哉でした。そのことを嗜まれた。ナハハハ…。織田作之助の「夫婦善哉」という小説は、ゴミでグズな落語家が道楽の極みを尽くし女の子かわいそう!みたいな小説だと思っていたけれど違ったかな。とりあえず許すまじ無頼派!というわけで、舞台の法善寺横町に行く。この横町だけ本当に別世界で閑静なんだなぁ。ちょっとしたところなんだけれど、人がビャー行くあの大阪と一緒とは思えない。石畳でなぁ、料理修行みたいなことしてる人間が道に水まきしてんねん。ええ話や。そういう道を通っていけば、法善寺の水掛地蔵が出現する。ここに来るのも、十何年ぶりかわからない。そんなになんばにいかない訳ではないのだけれどな。その内にお地蔵さんは、ますますコケに覆われていっている気がする。お堂には猫がいい感じにくつろいでいて、よく見ると人も寝てる。???

母に大阪駅がめちゃくちゃになり、山みたいになり、風水的にも変わったんじゃないか?というようなことを言ったが信じてもらえなかったので、歩いてなんばから梅田の大阪駅まで行くことになった。途中ブックオフがあったので、保坂和志のエッセイ集『アウトブリード』高橋源一郎の『文学じゃないかもしれない症候群』笙野頼子の『二百回忌』を買う。東急ハンズのあるところをどんどん行くと、そこは問屋街みたいになる。問屋が近いので、服も安くなるわけだ。客層も変わってきた。昔おばあちゃんと一緒に問屋のところに入ったことを思い出す。あれは大阪だったのか。立てた年相応の、団地みたいなコンクリートの使われ方がなんだか秘密基地みたいだなぁ、と今思い出すけれど、問屋だから、そんなこともないような気がする。それは和歌山の海中トンネルの話かもしれない。そこからどんどん進むと、メガバンクが乱立するところに出た。また客層ががらりと変わる。客層ちゃうな。変なサラリーマンがうろうろ歩いている。信号は無視する。変な裸婦像が道沿いに建っている。そんなところに馬鹿でかいお堂が建っている。どうやら本願寺のお堂だそうだ。ありがたい話だ。

セーヌ川
やっぱり大阪駅は、すごいじゃないか!と言ってみたけれど、母はポーカーフェイスだ。それでも屋上までついてくるとこを見ると、やっぱり本当は大阪駅はスゴくなっているんだなぁ、と感服していることなのだろう。といっても母はマジメで普通の市民なので、大阪駅自体はそんなに興味がないのかもしれない。高校のときに友達を家に招くとき、友達は母を見て驚くことがある。そういうところはある。そういうところは偉い。大阪駅のビルの結構見える上のほうに立てば、すぐそこに、建設中のビルが見える。ガラスが中途半端に埋め込まれて、さながらアンダーストラクチュアというやつであり、屋上に、寄生しているような大きなクレーンが動いている。そのガラスは駅ビルの光を映し出し、水みたいだ。大阪は水の街だからな!セット3000円もする高級ドルチェの店にいる端正で上品な人の顔を見ながら私たちはいい感じの和食料理店に行く。パチンコをやっている人の顔とこういう店の人の顔を見るのは、楽しいことだ。そんな気がする。そんな気がすると言うと、女の子はお金を貯めて予定日を決めてこういうところに食べにいくことはあるらしい。和食料理がとてもおいしく、あまり食欲がないと思っていたのだけれどついついご飯をおかわりしてしまった。食後、551の肉まんを買ってもらい、母と別れた。551の肉まんを、今日の朝は2個、食した。朝?
会社でビラまきしてたら家に電話がかかってきた
あんたの息子さんはアカですぞ
母さんおちつきさわがずオイラにこう言った
あんたの思う通りにやればいい

俺はものすごく太っ腹で大胆な男なのだ   (想い出波止場)

2012年3月2日金曜日

拾う人

僕の保育園からの友達である谷内くんは、確かにまともな人間の擬態をして生きているのかも知れないが、ヤバい狂気的な人間からまともなフリをして、さらに狂気的なフリというか、そこらへんはポエジーとなって例えば音をキャッチしたりリリースしたりするのだろうけれど、とにかく、自分にはまともなフリをするという運動が自分の意識にあるので、結局自分はまともな人間になるのです、と、大体そのようなことを今日は言っていた。僕は、その運動のことはまともであることは疑いはないけれども、それはその運動の話であるので、実際にあなたのエキセントリックな内実はかわらないじゃないか、例えば、まともな人間になろうとして努力し頑張るということは素晴らしいことだけれども、それはまともな人間になることと常に同時に現れてこなければそれはまともな人間ではないという意味のことを言った。努力し頑張るということ自体はまともなことだけれど、それは方法論の問題であって、このスケール練習をしたらギターが弾けるようになる、みたいな話だ。それ自体は正しい。だが、まともな人間というには、まともな人間にならなければならない。それとは別に、努力し頑張る人間と言うのは、それだけで価値はあると思う。というか、そこにしか価値はない。まともな人間になろうという意志だけで十分いいことだし、それだけで十分面白い。人が何かをしてしまう、ということが十分面白い以上、工場廃液でも何でもいいけれど、何か気になりそれを気が済むまで見てしまう、という行為そのものがそれだけで面白い。エキセントリックな人間がまともな人間になろうとすることは、そういう目標を立てそれを実行することすべてが面白い。もう一つ、やっぱり社会性に向かって進んでいくということは、意味が豊富だと思う。どんどん開いていきたい。そうなってくると、もはや悲しいことも、嬉しい。もはや嬉しがっても居られないけれど。もう嬉しがる暇もない。嬉しがる場合でもない。なんかそういうことを言ったら、まともというのは体裁のことだから、立てといたらまともになるんや、あれや、「実存は本質に先立つ」とか、そういうことや、と言っていた。ウィキペディアで言うと、
 例えば、人間性という例を挙げ、人間性というものは存在するかもしれないが、その存在は初めには何をも意味するものではない、つまり、存在、本質の価値および意味は当初にはなく、後に作られたのだと、この考え方では主張される。
ということらしい。まぁでも、お前はハリボテみたいな実存主義やから、結局謙虚やねんな、例えば恋人の誕生日はするけど何かクールで祝う気が薄いから恋人にひんしゅく買うし。まぁだから君はええんかも知れないな、フェアやし、という風なことが結論みたいになった。こいつがよくヒューマニズムの権化を自称する意味がやっとわかった。こいつは全的な法みたいなものに則った世界観、現実の流れに向き合っている!

それにしても谷内、おまえは一元論的なのかもなぁ、つまり、おまえは適当なことをしゃべり適当なことをしたとしても、何か一つの世界観に貫かれてそういうことをしているんだなぁ、と言ったけれど、まぁ俺は逃げることはしないし、疲れるからなぁ、みたいなことを言った。僕なんかは、SFとか、山本精一とかに毒されてる節があるので、多元的世界というか、パラレルワールドみたいなことを考えたりしてしまう。まぁ、別の世界のことを考えることは、オカルトに生まれ、宗教に殺されることになるのかもしれないな。でも、僕としては、世界などありあまるほどあると思っている。人はそれぞれの物語を背負っている訳だし、それを元にあふれでるものがあるから歌を歌う訳で、そういう歌はいくら反復した主題を歌っていても、素晴らしいものは素晴らしい。説得力がある。むしろ、反復と向き合っているほうが素晴らしい。自分が抱く物語と歌にすることへの対決や!

ところで、七尾旅人がしみる…。こんなはずじゃなかったのだが!なんとなくそういう気分になったので、七尾旅人を聞き直してみたのだけれど、これがしみるんです。こんなはずじゃなかったのだけれどなぁ。七尾旅人がしみるなぁ。どうしてだろうなぁ。しみるなぁ。今まであまり聞いてこなかった、1stを聞きました。

七尾旅人が一貫して行っていることは、人々のすべての歌を集めることなんじゃないかな、と思ってしまう。現時点での最新アルバムの「ビリオンボイスズ」なんてのは、十億の声、っていう意味ですよね。そういうさまざまな声、さまざまな物語、さまざまな歌を、旅人ちゃんが処理して、旅人ちゃんが歌う、とこういう風にうたを作っていくことは、このアルバムだけではなく、全ての作品の通奏低音になっていると思います。そういう歌い手だから、キャリアを進めるにつれてプロテストの様相をもつことは当然ですよね。 さまざまな声を聞く為には、社会運動の様相を持たなければならない…。といっても、そういう物語にがっちり取り組みながらも、他の世界のことも持っているから、そこにある種の相対化が生まれて、強い説得力を生むんですね。そこには強い意味と確信を持って、その物語の「描写」を徹底するわけですから。「意見」じゃないです。それは原動力だけど、作品にするためによく考えられていて、よく勉強している。

「ビリオンボイスズ」というのは、本当に生の声のような歌だ。さまざまな声をそのまま吸収して、それを歌にした、という態だ。 生活の中でほんの少し思う夢を生で音にして、生活が問い直されるようなうたたちがここにはあると思う。それに対して1stはあまりにもドリーミーすぎるかもしれない。聞いていて、あまりにも気持ちが良すぎるんじゃないか、と思うことがある。歌は人を踊らしたり、眠らすこともできる。それは旅人さんも考えていることだと思うし、それは例えば後に彼が殺人鬼が歌っているという態で、ものすごくドリーミーでスイートな弾き語りの曲をやったり(「おやすみタイニーズ」)、音楽の暴力性のパロディみたいな曲(「BAD BAD SWING!(punk jazz)」、「世紀の爆笑」)などに現れているんだと思う。こういう曲が暴力性を十分に自覚させた上で、それでいて美しくて楽しくてすごく良質の音楽になっていることがやはり驚きだし、脈々と受け継がれていたうたがまさに書き換えられる瞬間を見る気がする。そういう意味では、1stはあまりにもドリーミーで、無我夢中な具合に切実で、危険だけれど、それだけに天使が降臨しているように思える。でも、それはもしかしたら、新しい宗教みたいになっているということでもあるかもしれない。別世界なのだ。
だけれど、そこには七尾旅人に一貫して流れる、うたを歌うことに対する責任を一手に引き受ける性質がここにも見いだせる。ここでもキーワードはたくさんの人の声であり、歌だ。ここにある歌たちは、何かの物語の破片を集められて作られたものだ。曲名を見ていても、そう思う。「『男娼ネリ』第19夜 シーン8」、「ガリバー2」だとか、そういえばアルバム名も「雨に撃たえば...! Disc 2」だった。これらの曲は、あらかじめ散逸しているし、そういう風に見せている。そのことは、あり得なかった世界、もしもの世界、もしこれがこうなっていればこうなっていただろうという世界、もし生き残っていれば…、というような世界に対しての弔いのようだ。そして奇跡的にここに掻き集められた楽曲が、ここにある…。だが、これらの曲も、分裂的で、散逸している。

灯りが綺麗だった。灯りが綺麗だっつあんだ。
(こんな日に限って、ヨケイなことおぼえるんだ・・)
(アドリブがきかないもんでカンペ握って。。いいだろ?)
暴こうか?(おっととっと)しゃべり好き。
(君が父親に慰められたかなんてことは聞かないよ。)
精いっぱいの笑顔が。精いっぱいの笑顔が、ほら。
精いっぱいの笑顔精いっぱいの笑顔がくずれたならば
君をベランダからひっぺがせないままなら・・・そう
帰る場所を”・・・。
”全ての君の君のとなりの部屋でパーティをやるんだよ。
パーティをやるんだよヲ〜〜〜。色んな音。
知ってた?振動はいつだって・・・・。      (「コーナー」)

歌詞だけ見ると、こんな曲を、どうやってやるのか分からない!徹底的に分裂しまくっている。自分から湧き出る言葉がセキをきってどうしようもなく溢れ出し、どうしようもなくさまざまな世界が生まれ出してしまうそのこと、その瞬間を、一気に「描写」しているような気がする。アクションペインティングみたいに…。だけれど、これをどうやってやるんだ?そう思って曲を聴いてみると、完璧に血肉になってうたわれている。魔法みたいだ。

七尾旅人はさらに、変身する。それぞれの楽曲がミュージカルの破片として捕らえられるような風でもある。このような性質は、分裂的な歌と関係がある。溢れんばかりのたくさんの声をできるだけ取り入れることが、意図だろう。その声たちをキャッチし、うたにするために、七尾旅人は入れ替わり立ち替わりしている。自分ができる、拾える世界は、全て拾う…。拾えない世界はもちろんあるし、自分ができないうたもある。うたには限界がある。すべてのうたを歌うわけにはいかない。その、失われた、あったかもしれないうたの鎮魂のためにも、拾わなければならない、と旅人さんがうたと向き合うとき、旅人さんは全的にうたに対する責任と向き合っている。

できるだけ拾おうと思い作られた歌詞は、やはり無意識的で、つまり意識的な文章になっていない。意識されている一つの世界の外を見て、その別の世界の言語で書いている風だ。それはもしかしたら狂気かもしれないが、ウィスパーボイスやスイートな曲調、ストレンジな展開に、奇跡的と言って良いぐらい、よく合う。普段意識されることのない世界が現れるようになっている。

だが、それはあまりにも奇跡的すぎる。あまりにも全世界のことを拾い、すべてのうたを歌おうとするあまり、うたに力を持ちすぎる。そして、力を持ちすぎたうたというのは、あまりにも、この世から遠いものになってしまう。つまり、そのうたが、人の心の逃げ場所になりすぎる危険性がある。 そうなってくると、うたの外の世界があまりにも、理不尽に見えてくるだろう。七尾旅人は以後、世界を変える、ズラすためにさまざまの声に裏打ちされたうたを歌うことになる。だが、人は時に、音楽に救いを求めることがある。うたは、闘ってばかりも、いられない。このようなアルバムがあってよかった…。(引用元)
ところで、谷内くんは、アポトーシスを目指すらしい。ウィキペディアを見ると、
アポトーシス (apoptosis) とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死(狭義にはその中の、カスパーゼに依存する型)のこと。
 だそうだ。これが病的になったのがガン細胞で、谷内くんは会社に入って社会のガンになって闘うらしい。それって、入った会社を潰していくってことじゃん!

2012年2月29日水曜日

モコモ

トップに写真をつけてみた。

この写真は、僕の友達の2くんが撮って、何か変なサイトを作ったときに勝手に使っていたのだけれど、このなにがなんだかよくわからない感じがとてもいいと思う。水族館でマンボウとかを見た感じに似ている。この日は確か、六本木あたりの下町を訳なしに歩いていたような気がする。カメラマンの2くんは、工事現場とかをめちゃくちゃ写真に撮って、モデルや!とか言って、僕の写真とかも仰山とってくれた。

昨日のことを全く覚えていない。何をしていたんだろう?おとついのライブは本当に素晴らしかった…。完全にノリノリになってしまった。おとついのライブは、京大軽音系だったのかな?若い女の子もいた。19歳だそうだ。若いなぁ。すごい。19歳だと!若い!音もなんか若い!こんなまっとうなシンガーソングライターばりの女の子も逆に珍しいんじゃないだろうか。YUIとか高校の時に流行ったけれど、彼女も若かったよなぁ。ギターからなにまで若かった。かわいいなぁ。次のバンドもよかった!テツオさんにちゃんと感想いったらな!と言われたのだが、その時はノスタルジックにも焼き直しでもない姿勢が、前進の構えになっていって、いいですね!スゴい!と、言いましたけど、そうなんだよね。もっと言えば、巻き込み型のバンドサウンドに、毒が潜ませてあるところがとても良かったです。歌詞もそうだけど、何か他にも理由がありそう。それが、結果的に宙吊りな気持ちにしながら展開していく曲になるのだろうな、と思い、その場でcdも買ったと思うのだけれど、ない。どうしたんだろう?そう、今日はまたテツオさんに会ったんです!美人でパツキンのハンガリー人をはべらして、この人は油断できないなぁ!彼女は日本文学を学んでいるそうなので僕は、小島信夫をオススメしました。また、今日は書店員をしている人など、久しぶりに会う人も多くて、とても愉快でした。トリのモルグモルマルモさんは、もちろんよかった!前見た時も、持っていかれたと思ったので、やられた!と思ったのだけれど、今回は前よりもノリノリで見たので、椅子がガクンガクン揺れた。このバンドが突いているものというのは、何なんだろう?何か秘密みたいなものがあると、エレガンスさえ感じてしまうね!このようなバンドが居ると、京都も盛り上がるだろうな!ダダンダダンダダンフッフー!

今日は2くんとスカイプ飲みみたいなことをしたのだけれど、電波が悪くて、ビデオの調子が悪かった。中原昌也の対談や、中学校の時の卒業文集を朗読したりした。詩人は偉いなぁ〜。俺は詩集で儲けてるからな。とか2くんが言っていた。どうやら古本屋で安く詩集を仕入れ、それをアマゾンで売っているらしい。モコモ書店という古本屋なので、是非お求めください!

2012年2月27日月曜日

2/26
遅くに起きた。ぐうたらしているわけではないぞ、お母さん。

今日は山本精一のセッションがあるので、アイリッシュの子のライブが見れなくて悲しいなぁ〜、本当に山本精一のライブに行っていいのかなぁ、と思いながらも、今日こそは、山本精一としゃべるんだ!と決心したので、山本精一のライブに行くことに決めた。

しばらくマイルスでも聞いて、コーヒーを飲みながら、『ソクラテスの弁明』の残りを読んでしまうと、コーヒーが思ったより濃くて、くちびるの代謝が早くなり、皮が剥けてしまった。よくあることではある。これは、何なんだろう?

『ソクラテスの弁明』を読んでいると、田中小実昌を思い出す。ソクラテスの話す文体って、コミマサみたいに優しくて、ヘンテコだけれど、何も反論できない。もちろん、プラトンが書いているから、コミマサよりも若干読みやすい。もしかしたらそれは、大きな損失なのかもね、と柄谷さんが、言っていたのを思い出した。

コーヒーを若干飲み過ぎたので、寒空の中、家を出ても、心地よい。いい話だ。マイルスを聞いていると、もう春かと思うけれど、しばらくすると、芯から冷えてくる。手袋はもういいか、と思ったのでしなかったけれど、手袋をしたほうがよかった。

『ソクラテスの弁明』が読み終わり、続けて、『ワインズバーグ=オハイオ』をチビチビ読み、もう今日はいいか、となると、藤枝静男の『異床同夢』を読む。『ワインズバーグ=オハオ』にある、人物は、本当に、それぞれの人生を生きていて、それぞれの物語を持っていて、かつそれが自然に出てくる。アンダーソンさんは、どれだけ多くの人生を、生き直したのだろう。藤枝静男さんは、一つの出来事を、真剣に向き合って、それこそ、診察のように、向き合って、描く。少しヘンテコな所があって、クスクスするところもあるけれども、基本的に、結核で死んだ家族の話だ。

読み終わったので、ご飯を全く食べていなかったので、でも、なか卯にいつも行くのは、気が引けるので、すき家にいくことにした。すき家に行くには、鴨川のデルタ(三角州)を渡り、京大のキャンパスのある、百万辺というところまでいかなければいけない。寒空でも昼間は人がたくさんいるが、川辺など特に寒いと思う。今日の帰り、夜の11時ごろ、川辺で二人がちじこまりながら座っていたことを思い出した。 すき家では、今割引がされている、チーズ牛丼を食べた。チーズ牛丼って、意味が分からないよね。でも、これが、わりとおいしいのです。割引されてから、おろしポン酢牛丼もあるのだけれど、こっちを食べている。

すき家で食べ、近くにあった古本屋を冷やかしたあと、鴨川のデルタにかかる橋を渡っていると、なんとなく、神社に寄りたくなった。初詣はとっくに済ませたのだけれど、思うことがあったのだろう。なんとなく、神社に寄りたくなった。自転車を降りて、500メートルはある参道を、歩いた。こうして、森の中を歩くのも、久しぶりだ。鳩がくちばしで腐葉土の上にかぶさる枯れ葉をわけている。大きな鳥居をくぐると、結婚式の写真を撮っている。もちろん新婦は白い服を着ている。右端に居るおじいちゃんは車いすに乗っている、その横に、黄色いドレスを着た女の子が立っている。みんなちゃんとした顔をしていて、どういう気持ちなのだろう。そういうことは、分からないけれど、20人ぐらいの親族が、集合して写真を撮っていることは、わかる。私たち(参拝客)は、こういうものは、やはりよく見てしまうものだけれども、よく見ていても、僕は表情から大したことは、読み取れない。昔、浅草観光の帰りにさくらこと東京の六本木ヒルズにある、森美術館へ、歴代のターナー賞受賞の作品が展示してある企画を見に行ったことがある。美術館に熊のぬいぐるみを着たアーティストが一日中うろついているビデオとか、偏屈なものばかりでとても面白かったけれど、その中で、人が集合して、集合写真をとるような形態をとって、動かないで!と指示されて、そのまま二時間ほどの人間の集合を映した映像があったけれども、みんなそれぞれ、ヘンテコリンになる瞬間がある。

忘れないうちに書いておこうと思うから、まとまっていないかもしれないけれど、しゃべります。山本精一は、音のはやさについて、このようなことを書いている。
 音のはやさを求めてゆく。からだの速度を上げてゆけばゆくほど、どんどん弦のスピードは遅くなってゆく。身体の限界ということではなく、いつだって音のはやさに、ヒトは追いつくことができない。音を出した瞬間、音自身、猛スピードで全方位をめざすわけで、そのことに、ヒトは当面呆然として、一寸の躊躇が生じる。フライングすれすれの音のスタート・ダッシュに対し、こちら側は何か強力な埋め合わせが必要となる。
 阿部薫という人は、サックスの演奏で音速を超えようとした。
全ての重さと速さを加重加速させながら、全エネルギーと全情念と、全肉体、そして精神を演奏へと駆りながら阿部はまさに天国と地獄を往復するようにしてアルトを吹きまくっていた。彼は肉体を浮き立たすものとしての演奏を否定するようにして、肉体にはメタフィジクを、メタフィジクにはメタフィジクをそれぞれの刺客のように呼び込みつつ、超絶した演奏のこちら側に、自己の終りと世界の終りを共に見つめるようにして立ちつくしていた。 (間章「<なしくずしの死>への覚書と断片ー破壊者の自縛と無産者の栄光」)
 阿部さんのしていることは、すべてを賭ければ、音は音(速)を無限遡行的に超えることができ、その限界には、すなわち、彼岸が見える、ということをいっているけれど、それは、死ぬってことだ。阿部の課題である音速の壁への責任は、なしくずしの死として償われる。なんだ、最初っから死って分かってたんじゃん。こいつは、死ぬぞ、って、分かってたんじゃん。そこに対して、山本精一は上手いことを言っている。「身体の限界ということではなく、いつだって音のはやさに、ヒトは追いつくことができない。」音は瞬く間に僕たちを取り囲んでしまい、私たちは逃げるヒマがない。どうすればいいのか。その圧倒的はやさで迫り込んでくる音に対して、「こちら側は何か強力な埋め合わせが必要となる」。音が出てしまったことは、どうしようもない。それを、私たちは、どのように処理するか、音が元々持つ圧倒的はやさに僕たちはどのようなはやさで挑むのか。そう考えると、音のはやさについて、何か上手く処理できそうだ。ところで、ラブジョイの音楽は、すべての、思ってしまった思いや諦めなどのはやさに対して、先回りして、というかもしかしたら、同時に、出てくる音楽だ。
もう どうしようもないくらい
君のことが 好き
もう 嘘も本当もない
本気で 叫んだ

ああ、君の衿に 風が
ふいに吹いてきた
大あくびしたあと 笑う
目が うるんでいる

君に残すものはないから
この歌 この声 覚えていて
このことはとりあえずここまでにしておこう。僕も寝なければならない。

私は山本精一の追っかけみたいになっている。特にファンでもなんでもないのだけれど、やっぱり気になる存在なので、ライブがあるとついつい行ってしまう。山本精一の演奏について考えるのが、もっぱらの私の興味であるけれども、考えるようなものでもないんです。そしてほんまもんのおっかけが前に多少列を作っている。前の三人はもう覚えた。ミドルグレイな女の子二人と、ナードな男の子が一人で、この男の子は毎回ヘッドホンで音楽を聴き、手には録音機を持っている。

今日はセッションをしてもらった。ドラム、ベース&打楽器、そしてギターとちょっと打楽器、という編成で、おもしろそう。開演するまで、小島信夫・森敦の対談『文学と人生』を読む。
小島(中略)さっきの同性愛ということなんですけれども、結局、男と女の場合でも、やはり文学の話をするときには、熱烈に話を交わしているときには、ほとんど外から見れば恋愛と同じようになるわけですね。また外から見なくても、その要素をもっていると思うんですね。それは結局、その人間に対して恋したりしているんじゃなくて、共通のなにかをねらってやっているわけですね。その問題をうまく説明できないんだけれども、そういうことじゃないかなと思ったり、いろいろ考えて、結論は出なくてもいいんですけれどもね。
僕の場合なんかは、さっき自分がなくなるといったけれども、向うに一体になっちゃうわけですね。一心同体ということを言いましたけれども、いろんな意味があるけど、それに似たような状態になって、そのときはそういうふうになりますけど、またあとでもり返すでしょう。そこのところが、自分にとっては、その操作を繰り返したんじゃないかと思うんですよね。それはいろんな段階でね。そのことをずっと考えておるんだけれども、人に伝えにくい言葉があるんですけどね。だから、そんなことを考えてきたんだけれども、どうもあまりはっきりしないし、話を出してなんとかしようと思ってきたんです。
 読んでいると、チューニングみたいな感じで何か始まってきた。演奏の話である。この無意識的というか、適当さの次元を導入したようなインプロは、なんなんだろう?山本精一のギターと大きく種類的には大友良英さんなどが似ているといえば似ているのだけれど、大友さんのギターというのは、正しく、大きく、音響的にも圧倒的で、大変説得力を持っているギターに聞こえる。さすが高柳昌行の弟子だけあるとさえ思うことがある。山本精一の場合は、説得力など皆無みたいなもので、わかる人はひとりでにわかってください、みたいなギターだ。精一さんの場合、説得というモメントがすっかり抜け落ちているんだろう。説得する気がないのだ。ただ、俺は俺としてプライドを持ってただ俺が処理した音は出す、という感じでぬぅっと音を出す。その音に僕たち(観客)はびっくりしたり、笑ったり、どう考えてもミスやん!と笑ったり、なんだか怖くなったり、僕は何を聞いているんだろう、となったり、なんで僕はいるんだろう、となったりすることがある。射程が無限大に広がっていく気がする。別の世界への思いだろうか?とにかく、意識している世界とは違う世界が顔を出す時がある。リズム隊もしっかりしていて、とてもいいセッションだった。さまざまな打楽器があったけれど、結局無国籍音楽になってしまうというのは、なんなんだろう。無国籍どころか、音楽のイディオムというか、方法というか、モードが参照不明となって埋もれていってしまう。時折、スカ(レゲエ?)みたいなものだったり、ロック(のリフ)っぽいものが顔を出すかと思えば、何か別のものに消えていってしまう。ノリノリにもなれるものになったりもする。横にいるヤク中が声をあげ、変拍子で手拍子をしたりもする、それぐらいの時もある。そういうのもどんどん消えていって、結局あれはなんだったんだろう、と思う。またしてやられた!しかも話しかけようと思ったら、アバンギルドの店員らしき人がしゃべっててしゃべれなかった!ところで、山本精一は京都ではアバンギルド派閥なのかな?ネガポジでああなのは、そういうことか…。

ジョン・マクラフリン
バンバンボリーズの佐伯さんからメールが着たので、ライブハウスネガポジに顔を出す。まだ結構人が残っていて、嬉しかった。例のごとく、いろんな人にちょっかいをかける。当の佐伯さんは居なかったのだけれど…。元ジャズ研のギタリストのさきたにさんと呑む約束をする。マイルスの話で盛り上がり、お前はマクラフリンだ!とか言って別れの言葉とする。佐伯さんもいつの間にか帰ってくる。その間に女の子に噛まれたりもする。

焼酎を呑ませていただいたが、ちょっとキツいのばかりだったので、やっぱり酔っぱらう。今日ネガポジでライブをしていたムラカミマイさんも、できあがり、みんなではしゃぐ。先日のディープキス的なこともあったので、はしゃぎ方もひとしおみたいなところもある。今ちゃんとキスしまくり、佐伯さんに耳をすごい勢いで舐められ、とりあえず、ネガポジでは同性にはキスができるんだな、ということを学ぶ。

音速のように時間が経ってしまったのでびっくりした。何が起こっていたのか、何も覚えていない。お歌をいっぱい歌ったのは歌った。ライブハウス閉店後、なか卯でごはんをたべようとすると、佐伯さんが先についている。なんだかよくわからないセンチなことを言っていたような気がするので、一喝する。ムラカミマイがなんか席の端においてあるようなものをとんでもなくこぼしてケラケラ笑う。

 これを付け加えやなあかんでん。即興やけども。

Candy says I've come to hate my body
And all that it requires in this world
Candy says I'd like to know completely
What others so discreetly talk about

I'm gonna watch the blue birds fly over my shoulder
I'm gonna watch them pass me by
Maybe when I'm older
What do you think I'd see
If I could walk away from me





Candy says I hate the quiet places
That cause the smallest taste of what will be
Candy says I hate the big decisions
That cause endless revisions in my mind

I'm gonna watch the blue birds fly over my shoulder
I'm gonna watch them pass me by
Maybe when I'm older
What do you think I'd see
If I could walk away from me

キャンディは、自分の身体に反吐がでちゃうっていうんだ。
そして、そのことすべてがこの世界のリクエストなんだなあ。
キャンディは、カンペキに何もかも知ろうと思うと言うんだ!
他のよくわからない人がすごい慎重にしゃべることをよ?

青い鳥が肩の上のほうを飛んでるのを見てますよ
 鳥たちが私のところを飛んでいますよ
たぶん歳をとったら
俺は何を見たいとおもうかなあ!?
もし私が私から離れていくとしたらだよ?

キャンディは、静かな所が反吐が出るって言うんだ
だって、どうなるかってのが、ちっこいんだもん
キャンディは、 おっきな決断が嫌だって言うんだ
 だって、思うことがずっとずっと心の中で起こるだろう?

青い鳥が肩の上のほうを飛んでるのを見てますよ
 鳥たちが私のところを飛んでいますよ
たぶん歳をとったら
俺は何を見たいとおもうかなあ!?
もし私が私から離れていくとしたらだよ?