例えば、人間性という例を挙げ、人間性というものは存在するかもしれないが、その存在は初めには何をも意味するものではない、つまり、存在、本質の価値および意味は当初にはなく、後に作られたのだと、この考え方では主張される。ということらしい。まぁでも、お前はハリボテみたいな実存主義やから、結局謙虚やねんな、例えば恋人の誕生日はするけど何かクールで祝う気が薄いから恋人にひんしゅく買うし。まぁだから君はええんかも知れないな、フェアやし、という風なことが結論みたいになった。こいつがよくヒューマニズムの権化を自称する意味がやっとわかった。こいつは全的な法みたいなものに則った世界観、現実の流れに向き合っている!
それにしても谷内、おまえは一元論的なのかもなぁ、つまり、おまえは適当なことをしゃべり適当なことをしたとしても、何か一つの世界観に貫かれてそういうことをしているんだなぁ、と言ったけれど、まぁ俺は逃げることはしないし、疲れるからなぁ、みたいなことを言った。僕なんかは、SFとか、山本精一とかに毒されてる節があるので、多元的世界というか、パラレルワールドみたいなことを考えたりしてしまう。まぁ、別の世界のことを考えることは、オカルトに生まれ、宗教に殺されることになるのかもしれないな。でも、僕としては、世界などありあまるほどあると思っている。人はそれぞれの物語を背負っている訳だし、それを元にあふれでるものがあるから歌を歌う訳で、そういう歌はいくら反復した主題を歌っていても、素晴らしいものは素晴らしい。説得力がある。むしろ、反復と向き合っているほうが素晴らしい。自分が抱く物語と歌にすることへの対決や!
ところで、七尾旅人がしみる…。こんなはずじゃなかったのだが!なんとなくそういう気分になったので、七尾旅人を聞き直してみたのだけれど、これがしみるんです。こんなはずじゃなかったのだけれどなぁ。七尾旅人がしみるなぁ。どうしてだろうなぁ。しみるなぁ。今まであまり聞いてこなかった、1stを聞きました。
七尾旅人が一貫して行っていることは、人々のすべての歌を集めることなんじゃないかな、と思ってしまう。現時点での最新アルバムの「ビリオンボイスズ」なんてのは、十億の声、っていう意味ですよね。そういうさまざまな声、さまざまな物語、さまざまな歌を、旅人ちゃんが処理して、旅人ちゃんが歌う、とこういう風にうたを作っていくことは、このアルバムだけではなく、全ての作品の通奏低音になっていると思います。そういう歌い手だから、キャリアを進めるにつれてプロテストの様相をもつことは当然ですよね。 さまざまな声を聞く為には、社会運動の様相を持たなければならない…。といっても、そういう物語にがっちり取り組みながらも、他の世界のことも持っているから、そこにある種の相対化が生まれて、強い説得力を生むんですね。そこには強い意味と確信を持って、その物語の「描写」を徹底するわけですから。「意見」じゃないです。それは原動力だけど、作品にするためによく考えられていて、よく勉強している。
「ビリオンボイスズ」というのは、本当に生の声のような歌だ。さまざまな声をそのまま吸収して、それを歌にした、という態だ。 生活の中でほんの少し思う夢を生で音にして、生活が問い直されるようなうたたちがここにはあると思う。それに対して1stはあまりにもドリーミーすぎるかもしれない。聞いていて、あまりにも気持ちが良すぎるんじゃないか、と思うことがある。歌は人を踊らしたり、眠らすこともできる。それは旅人さんも考えていることだと思うし、それは例えば後に彼が殺人鬼が歌っているという態で、ものすごくドリーミーでスイートな弾き語りの曲をやったり(「おやすみタイニーズ」)、音楽の暴力性のパロディみたいな曲(「BAD BAD SWING!(punk jazz)」、「世紀の爆笑」)などに現れているんだと思う。こういう曲が暴力性を十分に自覚させた上で、それでいて美しくて楽しくてすごく良質の音楽になっていることがやはり驚きだし、脈々と受け継がれていたうたがまさに書き換えられる瞬間を見る気がする。そういう意味では、1stはあまりにもドリーミーで、無我夢中な具合に切実で、危険だけれど、それだけに天使が降臨しているように思える。でも、それはもしかしたら、新しい宗教みたいになっているということでもあるかもしれない。別世界なのだ。
だけれど、そこには七尾旅人に一貫して流れる、うたを歌うことに対する責任を一手に引き受ける性質がここにも見いだせる。ここでもキーワードはたくさんの人の声であり、歌だ。ここにある歌たちは、何かの物語の破片を集められて作られたものだ。曲名を見ていても、そう思う。「『男娼ネリ』第19夜 シーン8」、「ガリバー2」だとか、そういえばアルバム名も「雨に撃たえば...! Disc 2」だった。これらの曲は、あらかじめ散逸しているし、そういう風に見せている。そのことは、あり得なかった世界、もしもの世界、もしこれがこうなっていればこうなっていただろうという世界、もし生き残っていれば…、というような世界に対しての弔いのようだ。そして奇跡的にここに掻き集められた楽曲が、ここにある…。だが、これらの曲も、分裂的で、散逸している。ところで、谷内くんは、アポトーシスを目指すらしい。ウィキペディアを見ると、
灯りが綺麗だった。灯りが綺麗だっつあんだ。
(こんな日に限って、ヨケイなことおぼえるんだ・・)
(アドリブがきかないもんでカンペ握って。。いいだろ?)
暴こうか?(おっととっと)しゃべり好き。
(君が父親に慰められたかなんてことは聞かないよ。)
精いっぱいの笑顔が。精いっぱいの笑顔が、ほら。
精いっぱいの笑顔精いっぱいの笑顔がくずれたならば
君をベランダからひっぺがせないままなら・・・そう
帰る場所を”・・・。
”全ての君の君のとなりの部屋でパーティをやるんだよ。
パーティをやるんだよヲ〜〜〜。色んな音。
知ってた?振動はいつだって・・・・。 (「コーナー」)
歌詞だけ見ると、こんな曲を、どうやってやるのか分からない!徹底的に分裂しまくっている。自分から湧き出る言葉がセキをきってどうしようもなく溢れ出し、どうしようもなくさまざまな世界が生まれ出してしまうそのこと、その瞬間を、一気に「描写」しているような気がする。アクションペインティングみたいに…。だけれど、これをどうやってやるんだ?そう思って曲を聴いてみると、完璧に血肉になってうたわれている。魔法みたいだ。
七尾旅人はさらに、変身する。それぞれの楽曲がミュージカルの破片として捕らえられるような風でもある。このような性質は、分裂的な歌と関係がある。溢れんばかりのたくさんの声をできるだけ取り入れることが、意図だろう。その声たちをキャッチし、うたにするために、七尾旅人は入れ替わり立ち替わりしている。自分ができる、拾える世界は、全て拾う…。拾えない世界はもちろんあるし、自分ができないうたもある。うたには限界がある。すべてのうたを歌うわけにはいかない。その、失われた、あったかもしれないうたの鎮魂のためにも、拾わなければならない、と旅人さんがうたと向き合うとき、旅人さんは全的にうたに対する責任と向き合っている。
できるだけ拾おうと思い作られた歌詞は、やはり無意識的で、つまり意識的な文章になっていない。意識されている一つの世界の外を見て、その別の世界の言語で書いている風だ。それはもしかしたら狂気かもしれないが、ウィスパーボイスやスイートな曲調、ストレンジな展開に、奇跡的と言って良いぐらい、よく合う。普段意識されることのない世界が現れるようになっている。
だが、それはあまりにも奇跡的すぎる。あまりにも全世界のことを拾い、すべてのうたを歌おうとするあまり、うたに力を持ちすぎる。そして、力を持ちすぎたうたというのは、あまりにも、この世から遠いものになってしまう。つまり、そのうたが、人の心の逃げ場所になりすぎる危険性がある。 そうなってくると、うたの外の世界があまりにも、理不尽に見えてくるだろう。七尾旅人は以後、世界を変える、ズラすためにさまざまの声に裏打ちされたうたを歌うことになる。だが、人は時に、音楽に救いを求めることがある。うたは、闘ってばかりも、いられない。このようなアルバムがあってよかった…。(引用元)
アポトーシス (apoptosis) とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死(狭義にはその中の、カスパーゼに依存する型)のこと。だそうだ。これが病的になったのがガン細胞で、谷内くんは会社に入って社会のガンになって闘うらしい。それって、入った会社を潰していくってことじゃん!
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