ついでだから言っておくと、ガールズノイズバンドのにせんねんもんだいの『ディスティネーション トウキョウ』、いいじゃないですか!ダンスークラブミュージックに接近、というかあれは擬態だと思うけれど、一段と、新たな、音楽の手触りが出現されて、とてもいいと思います。ここでいう、音楽の手触りとは、やらされてる感のようなある種のアホっぽさを意味するのかもしれませんが、それが明確になった上で、それでもなお音楽として妙に生き生きしているという、意味不明な融合具合が実によく出ているような気がします。少しカッチリしていて、繰り返しのフレーズがあらかじめ与えられ、固定されている風なので、確かにギターさんの、そういう風になるんやったらとりあえずワタシはこうしておこう、という絶妙かつなげやりな精神の動きみたいなものがないのは、欠点ではあります。そうなってくると、エアロビクスの授業では、カニのようにしか踊れなかったTくんにとって、ダンサブルな楽曲は、擬態にしろ何にしろ、不感症のようになってしまうのかもしれません。つまり、Tくんにとっては、ダンスミュージックは、快楽でも脅威でもなんでもないのです。そのような人は例えば、
「音楽」に対して意識的である事。それは、過去のバンド、ティポグラフィカにおける実験や、現在のバンド、デートコースペンタゴン・ロイヤルガーデン(DCPRG)で菊地がポリリズムを採用している事からも明らかだ。「ポリリズム」とは簡単に言うと「複合拍子」の事であり、要は「一曲(あるいは限られたフレーズ)の中で、複数の拍子が同時に演奏されている」という事だ。(例えばDCPRGの「プレイメイト・アット・ハノイ」という曲では四拍子と三拍子が同時に打ち鳴らされており、ライブのフロアではバラバラの拍子でノっている客が実際目に見えて複合的なリズムを刻んでいる)。ロックやフォークが、基本的には四拍子や三拍子といった比較的単純なリズムで成立するものであるのに対し、菊地の作り出す音楽は複合的でケイオシックだ。そこには、音楽における「数学/建築」の側面を注視し、決して「音楽における無意識状態」を作り出すまい、とする姿勢が垣間見えはしまいか。そうした目で、今一度辺りの音楽を見渡すに、いかにそのような「無意識状態」を作り出している音楽が多いかに気付く。クラブのフロアでは、ひたすらシンプルな「四つ打ち」が鳴らされ、ロックはスリーコードをかき鳴らす。そうした「シンプルさ」は確かに心地良い。だが、その「心地良さ」は、「一〇〇人いたら一〇〇人とも心地良い」という状態を目指して作られた、いわば「心地良さの最大公約数」としての「心地良さ」である。(だからこそ画期的な発明たりえたワケだが、問題はその発明を無意識に使用してしまう事である。)菊地は、そうした「自意識過剰」ならぬ「無意識過剰」な状態の手前で、常にストップをかける。(林拓身「菊地成孔の意識/無意識 あるいは初心者にとっての菊地成孔ガイド」)というような文章があった場合、まずその「無意識」の状態がわからないだろうし、「心地良さの最大公約数」という意味も分からない。一〇〇人の中に入らないのだ。こういう人間の場違いな在り方が新たな変革を促したり、新たな前提を提供したり、人々を不安がらせたりするかもしれないが、とりあえず、菊地成孔がここで頑張っている闘争については、全く無縁になってしまうのだろうな。もちろんどちらも「心地良さの最大公約数」というものがイヤだなぁ、と思う気持ちは一致しているかもしれないが。とにかく、このような縁遠さが、T氏と『ディスティネーション トウキョウ』の間にもあるのだろう。このアルバムは、パロディのように、ディスコの心地良さを異化するものとしてはたらくのだろう。
それにしても、この菊地の闘争というものは、音楽の「無意識状態」の状況をどうやって記述していくか、という意志とも関係するよな。そういう意味では、常に別の、存在しなかった世界について思いを馳せる山本精一と近いような気もするけれど、やっぱり全然違う。菊地はこの世界に留まり続け、意識されなかった事象を掘り続けているのに対し、山本精一はそもそもパラレルワールドに意識が向かっている。水子になった物語を思い続ける山本精一と、無意識に潜り込み新しい意識(快楽)を手に入れ続ける菊地成孔とは、もしかしたら真反対かもしれない。お化けみたいな山本と、AVみたいな菊地さん。
今日はバンバンボリーズの佐伯さんが大きな黒いビニール袋を携えてやってきた。大きな黒いビニール袋には、服がたくさんつまっていた。ありがたい話だ。ありがたい話っていっても、佐伯さんはいっつも僕の服やパンツを破り、パンツに至っては毎回のように破るんだぞ!どういうことだ!でもこうやって大きな黒いビニール袋を携えやってくるところを見ると、佐伯さんは義理人情の厚い人間なのだなぁ、としみじみした。所詮僕のような人間は、何もできずどこにもいけないので、チンピラになるしかないのだが、チンピラならチンピラなりの、矜持を持っていきたいと思うのです!人は繰り返し、どうしようもなく人情に落ち、囲い込まれてしまい、だがそれに対する埋め合わせとして、義理を持って対応するのだ。繰り返し、繰り返しだな!そういえば森敦は『対談・文学と人生』の中で、こういうことを言っていた。
僕は僕なりの言葉でいえば、道というのは、二つの原理によってなっているんですね。それはダムなんかつくるときに道をつくっていましたんで考えたんですが、道には絶えず直線でありたいと請い願いがあるわけですね。
それからもう一つ。できるだけ等高線に沿ってつくらなければならん。つまり曲線への請い願いがあるわけですね。それをその矛盾をいかに切り抜けるかというのが技術ですが、それにもかかわらず道というのは根源的な矛盾をもっているんです。ただ歩いていけば矛盾もなにも感じませんけども、それを設計したり、つくったりしようとするとすぐそこにぶつかるのです。あるいは注連寺、ひいてはこの七五三掛けというむらにこれだけ栄枯盛衰があるのも、ひとえにこの道のためですね。
そうしてみると、道というものに根源的な矛盾があるなら、実は関数関係にありますから、世界というものも根源的な矛盾をはらんでいなければならぬ。その矛盾をどう解決するか、これは小説のうえでも大変なことだと思うんです。
だから歌舞伎なんかみんな矛盾にもってくるでしょう、義理と人情のからみ合いに。義理というのはお金ですね。人情というのは色ですね。それとこれとのからみ合いにもってくる。(中略)小説というのは実際は道をかいているんじゃないですか。それが世界になっているわけでしょう。
ところで、もうすっかり春ですね!雨がシベリアあたりの寒気団を持っていっちゃった。谷内くんは、早速花粉に苦しみ、夏がくるのを恐れている。あまりに気が早すぎるのであきれているけれど、確かに季節の変わりめというのは、アンニュイだ!どうにもならないことを思い、どうにかなればいいと願うわけです。ちょうど図書館で借りてきたシオランの『崩壊概論』が手元にあったので適当に開いてみると、
われわれが周囲の事物におしつぶされないでいるのは、何といってもそれに名前をつけるからでありーこうしてわれわれは、万事をうまくやりすごすのである。という所に線が弾いてあるのを見る。図書館の本に線を弾くのは、あんまりよくないんじゃないか。このセンテンスは続けて、
だがいかに恣意的なものであれーー恣意的であればあるほど気持ばかり先走って認識が追いつかないだけに危険なのだがーー何らかの定義を通じて物事を受け入れるということは、とりもなおさずその事物を拒否し、味気ない皮相なものたらしめ、抹殺することに等しい。ぐうたらでからっぽなーーこの世に生きているのも夢うつつといった調子のーー精神は、ものにやたら名前をつけてまわり、ものの中身を抜き去ってかわりにその形骸だけを残す以外、どんなことができようか。それから彼は、ものの残骸の上でのさばりはじめる。もはや感覚はなく、あるのは思い出だけである。名前という定式の下には、かならず死体が横たわっているのだ。もういい!休め!シオラン! 線を弾いたやつには、僕がなんとかしてやるから!
昨日はシルバーウィングスのライブを見に行った。そこで結構呑んでしまったなぁ。オープニングアクトの、いつもお世話になっているモルグモルマルモの深田さんは、沖縄修行で会得したタム叩き語りなど、度肝抜かれたゾ!初めての弾き語りだそうですが、これは是非長尺でみたいです!平成生まれのハンノくんの歌は、若さの中に確固として生まれ続ける魂があって偉い!魂というのは、ここでは社会があって人々がいてそこから立ち上がる意味に対して、どのような埋め合わせをしていくかを考える責任のことかも知れないね!そう、今日はキャプテンパニックが出ていたんですね!キャプテンパニックとは、バンバンボリーズの佐伯さんのことであります!エエ曲つくんねんなぁ〜。つい一緒に歌ってしまった。まるやまさんもよかった!ここにきて今日も神ブッキングであることが証明されてしまった…。まるやまさんのうたはうたに対して本当に真摯だ!うたに対して真摯ということは、そのうたの持つ世界に対して真摯だ、ということであり、そのうたの持つ世界に対して真摯だ、ということは、そのうたの持つ世界の持つ感情・情感・出現してしまう物語に対して真摯だ、ということなのだろう。その歌は人情味溢れるうたで、リリックのつながりも上手く、うたもしっかりしていたので、そういうところはうたとして義理がたく、強いうたうたいだなぁ、と思わされました!そういうのは佐伯さんと一緒だ!だから自然にある種の色気が出てくるんだな!そして最後は登山さんやがな〜!登山さんは本当にブルースマンだなぁ。登山さんのほんまもんの声は本当に場が締まる!それがアットホームな緊張感を生むのが魅力やがな〜!本当にいい話だ。途中で東京から来たという友達のギタリストが参加し、これもまたいいブルースのギターを弾くのです。ソロ合戦なんかやっちゃったりして!登山さんはブルースハープ(ハーモニカ)を取り出すけれど、マイクの線が抜けちゃった!だけれど、ブルースハープ(ハーモニカ)も、渋い音を出すなぁ。ブルースマンの音になっているんですね!なんでやろ?最後に中島らもの「いいんだぜ」をやっていた。
いいんだぜこれでもかこれでもかと、羅列されていく言葉はゲスさを通り越してどこまででも行ってしまう。それを登山さんの声で歌われると、参ってしまうわ!時々「いいんだぜ」が、「ええがなええがな〜」になったりして、ええねんわぁ〜!「ええがなええがな〜」とは、僕の口癖みたいになっている言葉で、そういえば僕も中学校の時はよく中島らもを読んだものだった。筒井康隆とかも読んだっけ。アンコールで、登山さんの渾身の一曲を聞くことができて僕はもうびっくりしてしまった。全力を尽くした追悼の歌は、あれこそうただと思う。何よりも、登山さんの人格を目の当たりにした気がする。うたっちゅうもんは、なんなんやろな?
いいんだぜ
いいんだぜ
いいんだぜ
君がドメクラでも
ドチンバでも
小児マヒでも
どんなカタワでも
いいんだぜ
君が鬱病で
分裂で
脅迫観念症で
どんなキチガイでも
いいんだぜ
君がクラミジアで
ヘルペスで
梅毒で
エイズでも
おれはやってやるぜ
なでであげる
なめてあげる
ブチ込んでやるぜ
ネガポジに行き、梅ちゃんとも呑みました!梅ちゃんはネガポジでバンドのラストライブをやっていたので、 こっちも見に行きたかったのだ…。どうやら、ドラムの女の子の迫真の演技(「梅ちゃん戻ってきて!」)に彼氏が帰ってしまったそうだ。波乱やがな!ほんまや!戻ってこい!佐伯はパンツを破るな!
今日バンバンボリーズの佐伯さんと御所を散歩した。夜である。夜の御所は明かりも少ないので、暗いのである。こういう暗さは僕は大好きだ。こういう夜の暗さは、人間の見る世界を広くさせますよね、と言うことだ。だから御所には鵺(ぬえ)が住むのである。看板に書いてあった。御所には鵺(ぬえ)が居るのだと。御所には鵺がいるでいるで!と再三言っていると、本当に変な鳴き声が聞こえてきた。すると変な木が出てきた。佐伯さんはアイフォンをもっているので、暗い夜でもわりかしちゃんとした写真がとれる。とってもらった写真を見ると、これは夢の中のよくわからない生物みたいだ。昔の人は鵺の声を聞いて、すごい怪物がいるぞ!と、思い、いろいろ想像していたみたいだが、どうも想像はこのような自然のよくわからない存在に回り込まれてしまうみたいだ。こうなると、夢みたいなものだ。でもそれは存在するから、忘れへんがな〜!言葉の獲得はこうして起こるんだな!
モモ |
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