小説(冒頭)
気づけばまた、指を動かしている。何かと褒められることの多い指だが、この指にどのような特徴があるのかはわからない。生まれた頃から、あまり何の疑問もなく、この指と共にしてきたため、それが褒めるものの一つである、という認識に慣れていなかった。それよりも、自分そのものに対して疑問を持っていて、自分はなんで生まれてきたんだろう、生きていていいのだろうか、とか思ったりはするが、それではあまりにも観念的すぎて、何も考えていないのだが、それは暇で暇で何もする事がない時に発生したりする。じゃあ、細部から、具体的なものから疑っていけばいいのか、という話でもない。東ヨーロッパにはそういう小説もあるようだけれど、指からこの文章は始まってしまっている。あれほど、時間外の労働はしない、と決めていたのに。責任はとる。責任を持って、それは生活のため、仕事はする。だが、世の中の作りが、なにもかも、労働になっている風に見えることがある。笑わせたり、面白い話を要求したり、沈黙を埋め尽くそうとしたり、将来を言葉で考えたり、人のせいにする理路を作ったりする。あいつらの言葉では、世界は変わらない、と、山下澄人の新刊の帯に書いてあったように思う。ただ、約束の為だけに、書き続けよう、と佐田は思った。それにしても、指は動き続けている。指には噛み付かれた跡がある。それは腕にも残っている。足には何度も革の靴で蹴られた痣がある。ここまで書いていて、この描写はなんだかグロテスクというか、虐待的というか、ショッキングというか、現代社会の暗部というか、なんとなく気の滅入る描写になっているのではないか、と思わせてしまうものかもしれない、と思うかもしれないけれど、別にそういうことはなくて、もっとハッピー、でもないのだけれども、笑えるエピソードがあるわけでもなく、考えてみれば、何の話もなく、ただ蹴られていただけの話は何を孕むこともできない。街は鋼鉄のビルであふれ、夜にはピカピカが湿る地面に写る。適当にその日を生き、適当にたのしみを楽しみ、とりあえずの明日をくるのに準備する人の中には、日常の厚みに耐えきれずにモノを軋ませ、自由に向けてコルクを放ち、噴出する水滴がまた地面を照らす。いつの日か来る絶望が来るまで、どんどんと閉鎖されていく回路を、持ち前の頭の良さでどんどんくぐり抜けていくラットは、動物愛護団体の反感を買うこともあるだろうが、科学者はこのような実験動物を供養する良識を持った人物がほとんどであるため、安心して欲しい。前進につぐ前進をはじめ、どこまでも一人でガケをぴょんぴょん渡り歩いている人がいる一方で、山の中でうずくまって、助けを求めている人がいるが、それは身体が動かないからである。もちろん、どっちがいいわけでもない。どっちがいいわけではないが、どっちも現象としてはある。むしろ、現象としてしかない。鋼鉄の壁をノックする。ノックする。鋼鉄であるが、反復することで何か得ることができると思っているのだが、それは合理的思考とは若干ずれるのではないか、と思っても、どうすることもできず、どこにもいけず、ノックする。ノックしつづける。ノックしても、鋼鉄であるので、何か得れるのか、全く分からないけれども、ノックする。別に好き勝手にノックしているわけでもない。反復を楽しんでいるわけでもない。ノックをしているのだから、何か反応があるほうがいいに決まっている。当たり前だろうが。何か、呼び声があった方がいいに決まっている。こう考える時、すぐに、鋼鉄の壁を崩したがるやからみたいなやつがいるに決まっているが、あ、でも崩れるのかもしれない。でも、まあそんなことは、鋼鉄であるし。どこまでも、どこまでも、鋼鉄であるし、科学的事実であるらしいし、客観的に保証されているらしい。証言もある。鋼鉄であるし、ノックしてもいいのかなぁ。ノックして何かあるのかな。自己を鍛える、とか、そういう話には、本当にうんざりします。すべての事には意味がある、だとか、その人がすべてではない、だとか、そういう言葉が出回り我々の感情をさらにさらにさらに鈍らせ、周りの人とコミュニケーションしないように、しないように、する、ようになっているけれども、屈しない。もう、本当に、取り返しのつかないことをしてやりたいと思うのだ。(佐田)
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