たまにはと思い、自転車屋まで、散歩してみることにした。イヤホンを外して歩いていると、イヤホンをかけて歩いているときよりも、猫の数が増えていることがわかる。昼間外から聞こえてくる音は、小学校の時、風邪の時に早退し、一人で寝込んでいる時に聞こえてくる音を思い出す人は多いと思う。このような音はノイズとして、怖さを感じることもあるけれど、ノイズとは、そのまま、現実の途方もない豊かさを示している。そのように豊かなので、このように断定してしまうことが、惜しくて、正しいことを言ったつもりでも、行為としては、間違っている、と言いたくなる。損なわれて、言葉として、曖昧に、理解されてしまうことには、驚きもないし、危機もない。危機がないという事は、何も変わらないことだ。変わらないということは、戯れと、同じだ。
現実は、否応無しに変わる!自転車がパンクしてしまった!平田オリザはこのようなことを言っている。
演劇とは、リアルに向かっての無限の反復なのだ。その無限の反復の中で、ゆっくりと世界の形が鮮明になっていく。この混沌とした世界を、解りやすく省略した形で示すのではなく、混沌を混沌のままで、ただ解像度だけを上げていく作業がいま求められている。『演劇入門』現実がそのようなものであれば、そのように対応するのが、僕たちができるだけ、不条理に、なんでこんなことが起こるんだろうと、途方にくれないようにして、過ごすための知恵になるのだと思う。とか思ったところで、自転車がパンクしてしまったことは、しょうがないのだけれど!自転車屋さんも閉まっていたしね〜。また明日行きます。自転車を、置いといてください。メモも入っています。
先を急ぐようで悪いけれど、あまりに時間がないので言うけれど、途方にくれるのは、何か言葉だとか役割だとかわかりもしないのでついつい観念的に考えがちな未来のことだとかに入れ込んでいる時で、現実に、今、開放的に向き合っていると、つまり、現実の側についていると、救われる、というか、よく見えるようになって、幾分、深刻にはならなくなる。生きる事の豊かさを見るようになると、思う。それは、つまり、どんどん生まれていっている、ということだと思う。そういうことを、ずっと言っていきたい。ずっと言っていく為に、日誌を書いているして、書いてきた。最近は、サボっていたけれど。日誌は、特に考えて書いている訳ではないから、何か考えに貫かれているわけではありません。普段と同じ、特に何も考えていません。利益だとか、得だとか、「なにか面白い話」を供給するために、僕は現実にしゃべっているわけではなくて、ただ、一緒にいて、楽しいから、お話をするし、一緒に生きるのが、わくわくするから、生きる訳です。それにしても、あまりに時間がないです。今日、この今、は、あまりにも時間がないです。とりあえずここまでに、します。
0 件のコメント:
コメントを投稿