2012年3月12日月曜日

???

日記を書き出すにあたって、自分の『日誌』を読み返してみる。
  ところで、もうすっかり春ですね!雨がシベリアあたりの寒気団を持っていっちゃった。谷内くんは、早速花粉に苦しみ、夏がくるのを恐れている。あまりに 気が早すぎるのであきれているけれど、確かに季節の変わりめというのは、アンニュイだ!どうにもならないことを思い、どうにかなればいいと願うわけです。 ちょうど図書館で借りてきたシオランの『崩壊概論』が手元にあったので適当に開いてみると、
われわれが周囲の事物におしつぶされないでいるのは、何といってもそれに名前をつけるからでありーこうしてわれわれは、万事をうまくやりすごすのである。
という所に線が弾いてあるのを見る。
 ということが書いてあるけれども、季節というのは、パッと新しい場所に移行するのとはまた違う。今日も起き抜けに半額のお惣菜を買いにスーパーのフレスコに行きましたところ、雪が降っている。とにかく今日は寒い日だった。去年もそんな感じだった。去年の三月一日はとても暑くて、汗をかいて汗をかいて大変だった。僕が汗をかくと、僕の汗はおそらく酸性なのだろうか、皮膚が痒くなってしまう。だから、僕はできるだけ汗をかくまいと、夏になると気をつけている。僕が自動車の教習所で袋井市というところに行ったときは、あまりにも暑く、あまりにも汗をかき、そのためあまりにも皮膚がよくないので、散歩する時など、日光を避ける為に、日傘を買って対処した。黒くてひらひらしているけれど、その日傘は、まだ僕の家にあるのである。 袋井市とは、遠州三山のあるところで、徳川由来の旧跡が残っているということを、僕は藤枝静男の小説を読んで初めて知り、行けば良かった。今思えば、トヨタ崩れのイケメンな教習官も、そういえば、そんなことを言っていたような気がするのである。とにかく、季節というのは、気付けば過ぎているもので、気付けば過ぎるということは、気付けば過ぎるという時が季節が変わっているということの意味だと思う。事態というのは、気付けばそうなっていたという風に進んでいくので、人間が何をしていても、そんなにすごいことはできない。

フラフラと三条まで下り、ジュンク堂という本屋さんに行くと、新しい『群像』が出ていたので見出しを見ると、小島信夫の小説について保坂和志と青木淳悟と奥泉光が合評していたので、つい立ち読みしてしまう。おもしろいメンバーだ。保坂和志と奥泉光は同じ年に全く違う作風で芥川賞を取ったので、静の保坂和志、動の奥泉光、と言われていた時もあったらしい。青木淳吾は一見変な小説を書く小説家だけれど、青木淳吾は人間というよりも、人間のいる空間やシステムに興味がある人で、そのことに関しては態度は真摯なので、ちょくちょくフォローしている。同じ号に、高橋源一郎が、吉本隆明の親鸞について語ったDVDを引用して「戦後文学」について語っている。親鸞の教えを伝えた歎異抄という本のこの部分を引用していた。
 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」
 つまり、人間というのは、殺す時は、イヤでも1000人ぐらい殺す時もあれば、やりたくても殺さないこともある。 正しさにのっとろうとしても破ろうとしても、そんなことは、あまり関係がない。やろうとしてやるというよりも、この世の中はやってしまった/起こってしまったことばかりである。ことばでできた私たちの「思想」や「正しさ」というものは、現実を前に大きく断絶してしまっている。現実はことばを失わさせる。その失われてしまったことば、そもそもことばを持つことのない存在、についてどのように考えていこうか、というのが高橋源一郎が大筋で言っていたことで、思えば高橋源一郎は、このようなことに一貫して取り組んでいる、と感じる。思えば青木淳悟も、ことばを持たない、環境的なところをどうやって言葉をつかって書ききるか、ということに興味があるのでした。見ないうちに顔も、凛々しくなっている。

昨日は、デリダの『グラマトロジーについて』のレジュメを夜の一時から朝方まで作っていたので、徹夜みたいなものだ。クタクタになりながら、マラソンみたいだ。だけれど、それは3/9だったから、別に昨日という訳でもないのかも知れない。今ちょっと手が離せないので、確認することができない。3/9だった。朝方まで作っていたから、3/10なのだけれど。 クタクタになったので、今日は久しぶりに銭湯に行く気持ちになった。最近よく見かける、OLの子がよく行く銭湯で、OLが言うには、あの銭湯は、朝風呂をする日、お風呂につかり、お風呂を出て、夜お風呂に入りにいくと、番頭のおばちゃんが同じおばちゃんであった場合、さっきお風呂入ってたし、ただでいいよ!といってくれるらしい。もう一つ言っておかないといけないが、僕がナカネさんのことをOLの子というのは、バンバンボリーズの佐伯さんが最初の紹介の時にOLの子と言ったからだ!吉田山の節分の祭りのときに、燃え上がる炎の中、結婚の報告と同じように、佐伯さんはおっしゃった。そのことは、よく覚えている。銭湯では、僕は銭湯のお風呂が好きなので、長湯することにしている。そんなに広い銭湯ではないのだけれど、二時間ぐらい入ることもあり、よくあきれられることがある。しかし、僕のお風呂の入り方は極めて理にかなっていて、お風呂に入る、髪を洗う、サウナに入る、水風呂につかる、お風呂に入る、ひげをそる、サウナに入る、水風呂につかる、お風呂に入る、外に出てリラックスする、お風呂に入る、というワンセットを繰り返している。こうすると、とても充実したお風呂を過ごすことができる。でも今日はサウナに入ると、いつもよりも心拍数の動きが速くて、すぐに出てしまった。なんだか心が弱くなっている。いつもドキドキしているようなものだ。それでも、二時間ぐらい銭湯で過ごしたみたいだ。炭酸が飲んでみたくなったので、緑のデザインの炭酸飲料を飲みながらマガジンを読む。緑のデザインの炭酸飲料だけでなく、炭酸飲料を飲むこと自体が久しぶりだ。一年は飲んでいないのではないか。やはり、夏は飲んでいるのか。

そういえば、下書きとして、ここまで日誌が書いてあった。

夜想というライブハウスで僕は弾き語りの飛び入りという企画に出ることになった。その企画は、しの山さんに誘ってもらった。夜想に行くのも久しぶりだ。
先 についていると、水野さんが来てくださった。水野さんも弾き語りをやるらしい。今日はすごいな、と思っていると、関戸さんも来ていた。しの山門下が集まる 感じになるなぁ、と思ってワクワクしていると、しの山さんが、おつまみを携えてやってきた。本当に、しの山さんは、いい人だなぁ。そして、センスがいい。 青魚を持ってきてくださったのだ。これはおいしいに決まっている!いい話だ。
もうこういう風に時系列に物語風に語るつもりもないけれどいうけれど、ネガポジで佐伯を見た瞬間に靴でも投げれば、良かったのだ!
なんで佐伯に靴を投げたのか僕には忘れてしまった……。この夜は後にモルグモルマルモのメンバー全員が僕の所に来てくださって、本当に嬉しかった。

家に帰ると、たばこのにおいがしたのでドキッとしたが、銘柄から、ああ佐伯さんが来ていたのだな、と思う。僕はそんなことも、分かるのだ。おもてなしできればよかった、と思っていると、いつの間にか寝てしまっていた。最近は、京都の人たちが出てくる夢をたくさん、たくさん見る。今日も、ライブハウスまで御所を走ったり、往復したりする夢を見た。時々、生命の危機のように、ドキドキする場面にも出くわした。

読書会は無事成功した。今までで一番、すっきりした読書会になった。読書会の日は、やっぱり難しい上に、共通の言葉を持つことが難しい攻める内容の本なので、いつも緊張するので憂鬱なのだが、読書会のメンバーに会うと、なんだか嬉しくなる。嬉しくて、むかつくことがあっても、どうでもよくなってしまう。そのことはいいと言えばいいのだけれど、悪いと言えば悪い。たちが悪い。でも、そんなこともどうでもよくなってしまう。人を好きになるということは、そういうことなので仕方がない。そのような、自然の働きのようなものに、どのように自分は身構えるのか、ということを、考えるしかないのである。


或る意味では、「思惟」とは何ものをも意味しない。あらゆる開示性と同様、この指標も自身のうちにもつ明らかな側面によって過去の時代の内部に属している。この思惟には全く重さがない。まさしくそれは、体系の戯れの中にあってけっして重さのないものなのだ。思惟すること、このことがこれまで着手されたことがなかったということを、われわれはすでに知っている。つまり思惟するということは、書差作用というスケールで測れば、ただエピステーメーの内部でのみ開始されているにすぎないのである。
 
 書差作用ということばは訳が分からないので、とりあえずここでは自然(の流れ)という風に置き換えましょう。エピステーメーということばもわけがわからないので、とりあえずここでは、(可能)世界という風に置き換えて読もう。ここで言われていることというのは、例えば私たちは、抽象的なことばを用いて何かを考える。「愛」だとか、「平和」だとか、「復興」だとか、「発展」だとか、「勝利」だとか「神」だとか「ミューズ」だとか。こういう抽象化されたことばというのは、意味というよりも、位置を示すことになる。つまり、とある(可能)世界の体系内での位置によって言葉の性質、アイデンティティが決まる。この抽象化されたことばというのは、他の言葉との区別によってしか、成り立たない。このようなことばというのは、そういう性質がある。だからそのようなことばを使って考えても、何の重さもないのかもしれない。僕たちはもう一度普遍的にものを考える為に、その(可能)世界外のことを考えて、他の、パラレルワールドの住民とも理解ができるように、ことばを常に問い直さなければならない。ここで考えられているパラレルワールドの住民というのは、むしろ、そこらへんにいる人々のことかもしれない。素朴に他者を理解するということだ。私と同じことばをもたない他者と理解し合う、ということだ。

お酒を飲むと、さらに楽しくなる。みんなでお酒を飲むこと以上に、いいことはないのではないか、という気にはなるし、実際そんな気はする。みんなでお酒を飲むこと以上に、これ以上楽しいことはないのではないのか、と思うことがあり、ドキドキする。読書会の人たちと飲んだ後、吉田寮の寮食堂に行き、テツオさんに会いにいく。すると、昆布さんがいた。昆布さんはインドに行っていた。昆布さんがインドから帰ってきて、ますます世界が本腰を入れて頑張っている。テツオさんは旅人なので、もちろんインドには行ったことがある。ところで、吉田寮の寮食堂のお祭りに、僕はまた出させてもらえるかもしれない。ありがたい話だ。ドキドキしながら、テツオさんの中国南西部の国境近くの町で、食堂のバイトをしていた話を聞いたり、昆布さんが習っていたヒンディー語の話や、ガンジャバッドトリップ話を聞く。

気になっていたので言おうと思うけれど、つい最近、おぼろ月の夜、橋を渡りデルタ(三角州)になっているところを渡っていると、見える筈のない時計台が光っていた。あれは一体どういうことなのだろう? いつの間にか、僕は、新しい場所に来てしまったのではないのだろうか…。飲み屋でヒゲを生やしたお兄ちゃんが、今夜は満月だな!という風なことを言っていて、確かにこのおぼろ月は満月である。

0 件のコメント:

コメントを投稿