2011年12月30日金曜日

12/29

レビュー『トを削ぐ』

年末になり、東京にいる友達と連絡をとったところ、こころに効くくすりの話をするのでびっくりした。思考の循環を断ち切ることができるのだ、と。生きているというのは別にしょうもないかもしれないけれど、そういうしょうもなさ、退屈さがいいんじゃないの、と言うと、そういうことを思うことも過ぎた、と言う。確かに僕が言っていることは、「かっこいいことはなんてかっこわるいんだろう」というような、価値が転倒することを良しとするレトリックのように見えてしまうような、それ自体が弱点を持った言い回しだったかもしれない。

その日はなんとなく手持ち無沙汰で、古本屋をうろちょろしていた。ビルの前で、合唱団が組織して愉快な歌を歌い出しており、町中はやはりクリスマスっぽいのだな、と楽しくなる。講談社から出た藤枝静男の新刊『中野重治・天皇・志賀直哉』には、朝吹真理子の解説があったので、おもしろい組み合わせだと思い、立ち読みする。藤枝静男は、冷めた眼、死人の眼をもっており、だから写真のギョロッとした眼をした彼の姿というモノを見ると、不思議な気がしたとか何とか書いてあった。感情とか、例えば楽しい、と思ってもどうしようもないわけで、それこそ、何にもならない。何かを作り出すとか、それ以前に、ただ見ている、ということを意識しないと、どこにもたどり着けないよな、と思い、うんうんと思いながら店を出ようとすると、「その了見が慊(あきたらな)いよ。大きに、慊いよ」という、西村健太の、雪のように白い本についている帯が目に付いて泣く。

高橋源一郎の「恋する原発」を読んだ。いつもの軽さを持ちながらも、存在する怒りがそこに現れていることを自覚しつつ書かれているといった、一筋縄ではいかないものであるように思う。

消費されにくさ。目にみえないことを書くことということは、簡単に指し示すことができるようなものではダメで、言葉を常に外国語で書くように使うというのはよく言われることかもしれないけれど、言葉は常に、言葉以前のもの、言葉になっていたかもしれない言葉、存在したかもしれない存在、水子の言葉に対して、耳を澄まさなければいけないし、対決しないといけないし、その言葉以前の中へ潜っていかなくてはいけないと思うけれど、それは同時に多くの人が発する多くの声を聞き取って、多くの声を採集する場を作るものとしての作品、小説を書くことにすなわちなることにもなるし、つまりそれはどちらも徹底的な他者と接することになるから、同じようなことにもなるだろうし、つまりこの二つを満たすことにもなる。

輪るピングドラム」でも、石井裕也監督の「ハラがコレなんで」でも、そのようなことが考えられていたような気がして、素直に元気になるような作品が、いつの時代にもボコボコっと誕生するみたいで、嬉しい。

 いつも適当に見えて笑われるけれど、目的を持って勉強しているような、そんな人と呑んでいると、終電がなくなったらしくて、オールして呑む。野村さんのことだ。

人と話をすることは、そもそもそういうところからしか何を生むこともできない、と思っていたりもするけれど、単純に、人と話をすると嬉しくなる。自分はちっぽけだから、何か他者との関係性から、何か大切なものを生み出していく、その物語をキャッチしていかなければいけない、と常日頃思っているような気になっているけれど、言い訳かもしれない。恥ずかしいことを言うようだけれど、僕は誰かに理解されるために、受け入れられるためにそういう関わり合いを持とうとするだろうし、そのようなことを諦めきれずにはいられない。だけれど、最近よく経験することだけれど、人と熱心にしゃべっていても、だいたい二時間ぐらいで、話すことはなくなる。僕が本当に伝えたかったことというのは、本当はなくて、だからいつもどこにいても場違いに感じるのかもしれない。僕は少しお酒を飲むことができるので、そういう時はお酒を飲むことができる。だけれど本当は、何も伝えたいことがないとき、人は歌を歌うことができる。谷内くんの新しい音源は、このような時、お酒が飲めないかわりに、歌を歌うことができることが、豊かだと、感じる。
よべばふむまえのあざやかな かげのいろ
たえずながれだしたいのちと とけいのはりを
とめて みせたひと すすめて みせたひと
 歌は、何かしら不具なものでありつづけるだろう。 留まり続けるために、人は歌い出す。

2011年12月27日火曜日

12/24

12/24
本屋へよるが、何もなかった。
図書館で高橋源一郎の「恋する原発」を読む。とてもすばらしい。
12/25
ライブを見に行く。
とても楽しかった。
12/26
ずっと寝ていたので、しまった、と思った。

2011年12月23日金曜日

12/22

微妙に気持ちが悪い。わりと大きな仕事が終わったので、近いうちに風邪は引くかな、とは思ったが、中途半端だ。起き抜けにどんべえを食べたのがいけなかったのかもしれない。それとも、割と濃いコーヒーを作ってしまったからだろうか。

12/21
久しぶりに、心置きなくぐっすり寝た。こういう言い方をしてあれだが、心置きなくぐっすり寝てしまうと、寝起きを引きずって、あまり元気が出なくなることがある。マラソンでもするか、と、常々思うのであるが、今年はそれを行動に移すことがない。近くにプールでもあれば、僕は水が好きなので、泳ぐことが出来るのだが、と思い、近くに温水プール場があるかどうか調べたこともあった。どうも子供のスクール色の強いところしかないらしく、市内をずっと南に下ればあるみたいだが、まぁ、そこまであれすることもないわけで、そのままになっている。しかし、先々月あたりに「テクノお茶会」という妙なイベントがあったのだが、それはある大学の分館でやらせてもらったのだが、その分館の二階は温水プールであることにびっくりした。だから、あのお茶室に雨漏りがあったのか。

12/22
昨日と同じような起き方をしたので、寝起きを引きずって、あまり元気が出ない。これではいけないと思い、何か食べようと思い立ち、近くにある、行っていない定食屋さんに行き、奮発して、700円ぐらいの定食のごはんを、何か食べよう、と思うのだけれど、中途半端な時間だったので、どこも準備中で、閉まっていたので、仕方ないので牛丼屋さんでカレーうどんを食す。これでも大奮発だ。
ついでに、今日は木曜日なので、いつもスーパーの前でやっている古本市に、久しぶりに顔をだすことにする。割と遅い時間に来たので、この古本市に毎日八時頃から来て、命がけで本を発掘する人間たちに良い本は取られているかなぁ、と思ったのであるが、妙におもしろそうな本が残っており、珍しい。尾辻克彦『父が消えた』中沢新一『はじまりのレーニン』ボルヘス『砂の本』後は柄谷行人と岩井克人の対談集を買う。
ついでに本屋に寄り、最近岩波から出た『碧梧桐俳句集』を買う。本屋にいくたびに気になっていたので、そういうものは買った方が、世界が広がるから、買った方が良いと、思い買った。
家に帰って坂口安吾の「青春論」を読む。安吾ちゃんは、意外と言ってることがまともというか、僕と近いようでいて、何か気持ち悪い。そういうのも込みで、興味をそそらなくもない。
先輩にあたる人とお話をする。岡山は不思議な所だと。葬式や墓の形が村によって違うし、たたり神が存在し、ある村から嫁いできた女性と離婚すると、たたり神に食われてしまうことがある、人間が迷い出すとすぐに神を見いだす県民性があるから、岡山にはたくさんの新興宗教が存在する、そのわりに教育の意識が高く、岡山の武士が浪人になっても、大阪に行けば普通に先生になって食っていける、など、不思議な話をしてくれた。そういえば、先輩は、さくらこに似てなくもない。さくらこの家には、僕たちが騒いで豆腐まみれにしてしまったことがあるが、またしゃべる機会もあるだろう。
家に帰って中沢新一の『はじまりのレーニン』を読む。とてもおもしろくて、久しぶりに熱中して読んだ。友達が呪いのような、でも特に呪いを意識している風でもない、そう思うとかわいらしいクリスマスソングをプレゼントしてくれた。僕の友達にはイケメンが多いから、恋人の心配はないのである。だから呪いということもあるまい。

12/23
寝起きの悪さという意味では、かなり悪いのではないだろうか。仕方がない。どんべえを食す。体をシャキッとするために、コーヒーを作るが、濃いのを作りすぎたのだろうか。
昨日の続きで、『はじまりのレーニン』を読む。この本はもしかしたら、とても良い本なのではないだろうか。
適当に肉を買ってきて、それをかいわれ大根と一緒に食すのが、最近の自炊、こういうのを自炊とはいわないのかもしれないが、の定番なのである。今日もそれをしました。今日もありがとうございます。かいわれ大根だけを買うのもあれなので、恥ずかしいと思い、何か買おうと思ったら、1割引のシュークリームがあったので買うと、そのシュークリームはクリスマス仕様だった。なるほど。どうりで今日のお惣菜コーナーは若干豪華で、若干光っていたのだな、と思い、少し楽しい気分になる。

2011年12月22日木曜日

12/21

母校にて

どうもご紹介に預かりました。谷内です。今日は木村さんのイベント「上級生と遊ぼう」に呼んでいただいてありがたいです。この人は前に、パフュームのプロデューサーである、田中ヤスタカ、をリスペクトする、テクノキッズと共に、テクノ茶会というのを開いていました。ダンスミュージックと茶会との融合と言うのは、とてもおもしろかったです。ギャグセンスが冴え渡る、すばらしい茶会に、千利休も踊り出すのではないでしょうか。大学生は楽しそうで、いいですね!

みなさんに一言ずつお言葉を頂戴する、ということで、私も何かいえたら、と思いましたが、今日は、パラレルワールドについて、お話しする、という題目を頂きました。先日も月食があったということで、みなさんそういう方向に向かわれているのでしょうか?(笑)いや、しかし共同体を志向するのであれば、宇宙的なことは、欠かせないですよね。サンラしかり、シュトックハウゼンしかり、白樺派しかり、ワーグナーもそうかもしれません。というか、普通にキリスト教だとか、そういうものが既に宇宙的なものを志向しているところがありますが、宗教だから当然かもしれません。とりあえず、これらの人たちは、世界のオルタナといいますか、もう一つの可能性を信じて、努力してきたわけですね。端的に言うと、コミューン的です。

よく私は、ロマン主義であるとか、物語を否定している、嫌悪している、と思われることがあるようです。確かにアンチロマンを標榜したこともあるかもしれません。私は、短気ですから、私は常に怒っているようなものです、そういうことも言ったかもしれません。僕は、世界が一つの世界の可能性(可能世界)しかないことにアゲインストしています。音楽畑の人はオルタナを想起してくれると、僕が思っているのはそういうことなのです。そこからなんとかずれ込みたい。何か違和感、あるいはハーモニーを持ち込みたい、と思う、そこから、開かれた世界の声を聞きたい、と思う人間です。僕がいままでやってきたものというのは、挑発であったり、ケンカを売ったりすることと何も変わらないことかもしれません。そもそも僕には自己がないので、僕には、さまざまな人の声を聞くことしか出来ません。さまざまな声に勝るものなんか、ないんじゃないか、とそう思います。それならば、それに従うだけ、それに従い、それの意見を聞き、それをうまく、損なわないように、汲み、対象化する。それが、例えば作品を作るときには、役に立つ考え方なのではないだろうか。私が持つものというのはそれだけです。そういう意味で、物語を強く打ち出すことが、恥ずかしい、ということはあります。だけれども、アンチロマンというのは、語義的に間違いでした。物語なんか自然に出てくるものなので、関係性があれば出てくるものなので、単に無視すれば良かったのです。書くことなら、書くことに意識的になればよかったのです。

2011年12月21日水曜日

12/20

手紙

ワーグナーしかりリストしかり、19世紀ロマン派の人は女性遍歴がヤバく、生活が普通でないのはなんなのか、という話から、ヤクザの話になった。
例えば、バッハは、教会から生活が保証されていた、お雇いのオルガニストだった。モーツァルトが、音楽家は自立しなきゃ、といって、あんな借金まみれのどうしようもない生活をしていたのは、あれはどう考えても堕落であり、モーツァルトは最初にヤクザになった音楽家ともいえるそうだ。神が居なくなった時代、芸術家は社会から排除されるようになると、芸術家はまた新たな共同体を作る風に目指す。ベートーヴェンの理念的な作曲はそういう志向があるし、詩人は怪しげなサークルを作り出そうとする。(そういうサークルは、サンラに至るまであるよなぁ。)それか、女神を祭り上げる、と。まぁ、そして、そういうグループはまぁ、ホモソーシャルみたいな傾向になるんだと、根無し草という不安は、血の結束的な集団をつくるのだと、それか、全てを受け止めてくれる女神を崇拝するのだ、と、そういう風な話を聞く。 文学部に入るようなやつは半分カタギの世界から身を引いているのだ、という話も聞いた。そうだよなぁ。大学院の人とか若干ヤクザっぽいし(坂口安吾とかやってるからか?)、教授とかもボスっぽい人もいるだろう。舎弟を抱えて、僕たちは血のワインを飲むのです。メリークリスマス!

そうやって何も考えずに歩いていると、日頃お世話になっている野村さん(仮名)に会う。彼は卒論がヤバいそうなので、本当に急がしそうだ。資料のコピーに十万ぐらいつぎ込んだらしい。どういうことなのか。森鴎外は恐ろしい。

僕の友達はたいてい彼女持ちで、それでいて、彼女ぐるみのおつきあいをさせてもらうことが多い。ちょうど会ったので、月食の話や彗星の話をする。それにしても、周りにキャバクラで働いている女の子が多い。やっぱりこういう系はカタギではないのか。あんま関係ないか。例えば、歌舞伎というのは高いけれど、ああいうところには、永井荷風ばりの、粋な老人が女の子をつれてバリバリやっていると思う。遊びの名人か。文化なんてそもそもしょうもないものなのだから、消え失せてしまえ、というような意気込みで、その文化に乗りながら、遊ぶことは、断然に教養人だと思うけれど、カタギじゃないかもしれない。ましまろを食べる。

野村さんが忙しそうなので、手伝う。書庫で、雑誌をひたすら集める作業を一時間ほどする。それをいざコピーしようという段で、書庫がしまったので、この作業は全く意味をなくしてしまった。舞姫だけに、私たちは、踊らされたわけである。

舞姫だけに、きりきり舞いである。

2011年12月19日月曜日

12/12〜12/19

谷内氏への手紙

今日もあたたはリズムに乗って踊りを踊るための練習をなされていたのでしょう?わたしにはわかるのです。いつもわたしはあなたの歩くのを追い越して、遠くから微笑みかけているのですから。あなたはいつも文章を書くための、お話ばかりなさる。その文章であなたがどうなることでもないような嘘を持ってして、嘘にはたいてい意図があるのだけれど、意図がない嘘をつく人は初めてなので、あなたはもしかしたら寝ぼけていたのではありません?(後略)


12/12
大変な一週間を過ごす予感がする。この一週間を乗り切るには、山本精一の本を持っておきたいと思ったので、街へ、ギンガを買いにいくが、ギンガはあったのだが、新品なのにボロボロだったので、別に本の装丁を気にする人ではないのだが、なんとなく気にかかって、これは、アマゾンで買おう、ということにした。せっかく街にでたので、先日、バンバンボリーズでベースを担当している、佐伯さんと一緒に行こうとして、お客さんがいっぱいでいけなかったラーメン屋でチャーハンセットを頼む。このラーメンは黒いけれど、おいしかった。ありがとうございます。またバンバンボリーズの佐伯さんと来ようと思います。

やらなければならないことが山づみだ。なんとかなるんじゃないか、と思って過ごしている。

12/13
朝起きて、図書館で資料を集めにいく。火曜日は用事もあるので、時間は限られている。とりあえず、深沢七郎の批評のある雑誌をひたすらコピーする仕事をしている。
その用事用にも、いろいろと準備しなければいけないものがある。まさに東奔西走右往左往。縦横無尽に駆け巡りました。


12/14
 深沢七郎の研究のコピーは、30本100枚ぐらいは普通にあるような勢いであるが、これを一気に読む。何もかもバックレて一気に読む。深沢七郎を好きで選んだので、嫌ではないような気もしなくはないのだが、しんどいは、しんどい。ミスタードーナッツで何杯もコーヒーをおかわりしながら、読む。チュロスおいしかったです。ありがとうございました。深沢の一環で、加藤典洋の『日本風景論』も読む。

12/15
深沢七郎の研究はまだまだぜんぜん把握できていないような気がする。書庫に籠り、雑誌を漁りまくり、 コピーしまくり、読みまくる。頭が蒸発しそうだ。もうどうなってもいい、と思い、ラーメンを食べるなど、やけになってお金をつかいまくる。その一環で山本精一の『ゆん』や、大谷能生の『持ってゆく歌、置いていく歌』などをアマゾンで買いまくる。

12/16
金曜日なので、おちついて深沢七郎が読める。コピーしまくって読むのみ。大学生の盛り場にくり出すと、みなさんはシュウカツをしはじめているそうだ。出版社に行きたいというハードコアをやっている友達に、出版社はバイトから始めるんだよ、と、変なことを言う。

12/17
今日は土曜日である。時は近い。神様。僕をちゃんとした身分にしてください。
今までの論文を紹介し、まとめる文章を書く。書き終わると燃え尽きる。ああ。
ところで、やっぱり桑田ケイスケはいい。桑田ケイスケのソロは今でも、中学校の時に、一人でよくわからん踊りをしていたように、それと同じ踊りをしていることに気がつく。一人でこういうなんかよくわからん、よく考えてみると発狂してるような踊りをするのが楽しい。そして、桑田ケイスケのソロは、一番踊りが決まる。桑田ケイスケの今年出た新譜も良かった。桑田ケイスケのあのふざけた精神には、批評精神があるんじゃないか?そういえば、12/14に、あの忙しい合間を縫って、『アルテス』という音楽雑誌を買いにいったが、(そんなものを買っているから、余計忙しくなるのだ。)この雑誌はほかのどの雑誌よりも豪華ですばらしい。是非買おう。日頃お世話になっている岡田暁生先生や、高橋悠治、坂本龍一のインタビューや、大友良英、佐々木敦、山崎春美などなどなど、豪華すぎるのである。僕のためにある雑誌だ。僕のためにある雑誌ということは、おそらくあなたのためにある雑誌でもあるかもしれない。
その雑誌の中に、加藤典洋の桑田ケイスケ論が書いてあったのだが、これがとてもすばらしい。

(桑田が「売れ筋」について悩むことがないことについて)桑田に、事前にこの国とぶつかるべき自分の音楽性というものが、もたれていないということを語っている。 ここに言う自分の音楽性とは、自分はこういう音楽を作りたい、というような前もって定められた方向性のことである。たとえば、スピッツの草野マサムネにはそういうものがあった。
全部引用したいが、時間がない。つまり、スピッツはブルーハーツにやりたい音楽をやられて、一旦挫折するが、桑田は周りの音楽的刺激にいつまでも答えを出さずに、サーファーのように身を委ねるのだ。そして出来上がる音楽が、リスナーの音楽性の底部をなす無意識にどこまでも近づいた形で手にされる。ここで、売れ筋とは似ても非なる、なんだかまがい物みたいなものができる。そして桑田はへらへらしてる。う〜ん。良い批評だ!というか加藤典洋が音楽批評をやっていたことにびっくりだ!
 図書館で、仲良くしてもらっている先輩と合い、先輩の作業を手伝う。先輩は卒論に追われているそうだ。僕の資料の何百倍もの本を抱えてコピーしてる。森鴎外はもはや人じゃない。そのままマクドへ。警察が多すぎる。警察が僕に敬礼してくれたようにみえたので、僕も敬礼しようとした。

12/18
ここまでなぜ、論証を書かなかったのか。普通に書けると思っていたからである。でも、前日まで取っておくことはなかったなぁ。ほんまに書けるのかなぁ、という感じで、手探りで書いた。佐々木中の本を使っちゃった。書き終わった時は、あまりにも解放されて、夕ご飯を食べにいこうと自転車をこぎまくって、街の端、銀閣寺のあたりまで、無意味に来てしまった。仕方がないので、せっかくなので、古本屋に行く。よく耳を澄ますと、山本精一の新譜がかかっている。こういうところで山本精一を聞くと、長居してしまうよね。そんなこともないか。なんとなく恥ずかしいけれど、『ユリイカ』の菊地成孔特集を買う。山本精一のアンケートだけやたら長くて、フランスではボリスヴィアン以降スノッブはいないけれど、日本に現れとるわ、とか顔が好きやわ、とか、絶賛していておもろい。別の本屋でベンヤミンのボードレール論と、蓮實重彦の『フーコードゥルーズデリダ』を買う。帰宅途中、僕の大好きな和風で、独自の展開をみせるラーメン屋でチャーハンセットを頼む。ああ、めちゃくちゃうまいぃ。今日もありがとうございます。店のおばちゃんが、シューマイをサービスしてくれて、それもまたおいしいです。ありがとうございます。

12/19
そして今日である。
発表は無事すんだ!以上!

2011年12月12日月曜日

12/12

12/12
ネットで黒沢清の短編作品をひたすら見る。現実逃避気味。

テレビのホラードラマなのであるが、テレビのホラードラマがこんなにレベルが高いとは思わなかった。(ニコニコで黒沢清で検索!)

こんなんじゃいけないので、パソコンを使う所に出向き、 ひたすら作業する。

お昼ご飯は、松屋でチゲ鍋です。おいしゅうございました。ありがとうございます。

昼の後も作業。チゲ鍋が辛すぎたのか、疲れなのか、集中が完全に切れてしまったので、家に帰ってうとうとしている。

家に、誰か来たかなぁ?と思ったら、帰っていった人がいた。暗くて良く見えなかったが、服を置いていったようなので、母がいきなり尋ねてきたのかなぁ、と思い、びっくりするが、後にメールが来て、バンバンボリーズの佐伯さんが遠いところをわざわざ持ってきてくれたことを知る。いやぁ、これにはマジでありたいです。

昼寝すると、起きたのが二時とかだったので、早速佐伯さんからいただいた服を着る。おお、温かい!いいなぁ〜と思ってポケットに手を突っ込むと、ポケットではなくなっていた。HAHAHA

最近できた、新しい24時間営業のスーパーに行き、半額ものを漁る。今日はカキフライが手に入り、ウハウハと食事をする。今日もありがとうございます。今日も一日、がんばるぞ!

2011年12月11日日曜日

12/9

12/9−10
起きたらもう、わりとライブのリハの時間に近かったので、曲順だけ決めて、まったりしてる。

人の入りは、割と良かった。ありがたいことです。生き仏の人やテレフォニアの人も来ていただいて、嬉しい。そもそも、ライブをやらせてくれることがとてもありがたい。

ネガポジでライブをする。前回に比べても、なんだか受けが良くて、やっていて楽しかった。温かい人たちばかりだ。

〜セットリスト〜
1、おれはさむらい
2、人間のやることじゃない
3、ファイアー点火
4、橋の上まで競争さ
5、のぐそのうた2
6、ランデブー(バンバンボリーズのカバー)
7、宗教
8、コードブックス
9、ひる

ライブ後の様子
録音できなかったのが残念。何やってるか、自分でも、あんまりよくわからないので、どんなことやってるのか聞きたかった。

対バンの人たちも、おもしろい人たちばかりで、今日はいい日だった。焼酎、泡盛、ワインを呑みに呑んだ。いつもおいしいお酒をいただいてありがとうございます。

楽しいペチカさんは、楽しいファンクバンドでとても楽しかった。マグナム本田さんは、いつもお世話になっていたので、見れて良かった。噂に聞いていた通り、彼は伝説の男であり、今日もまた一つ、伝説を作ったのである。

ライブ後は、みんなでガブガブ呑んだので、みんなで、とても陽気でいた。調子に乗りすぎて、パンツや服が破れてしまった。

いつの間にか店じまいみたいになったので、また、例のごとく、王将で食べる。このコースは、鉄板だと思っている。

家に帰って、iくんとおしゃべりする。その顛末はここに詳しい。少し引用する。

 野口君の家では、ラブジョイいいなあ、マヘルはほんまどうしょうもない*、スピッツは凶悪だ、やっぱり羅針盤はいいなあ、などいろいろ話した。吃音の話がおもしろかった。
吃音に 陥っている人に限らず言葉が出ないときというのはある。そういうときはウソを喋るしかない。そういうウソというのはウソなのかな。そもそも本当のこととい うのがなにかすらわからないのにウソをウソといえるのだろうか。正直にしゃべればいいのだろうか。そうだとしたらエラく簡単で、とてもうさんくさいように 思える。しゃべることで、それがまわりの諸物と混ざり、なにかの形になるので、ウソとか本当とかはどうでもいいような気もするけど、そうするとしゃべるこ と自体が本当に無駄なことのように感じてくるのでおもしろい。やっぱり人間、正直がいちばんですよ!なんていうのは、ウソっぱちである。
*マヘルの主宰、工藤冬里のどうしようもなさを如実に示すのが、この動画である。


これは、危機である。ダメである。それだからこそ、いい、というわけでもない。こんなことは、やってはいけない。でも、ちょっと忘れられずに、また見てしまう。ズルいのである。マヘルを聞くときは、こういう危険さを意識しないと、自分までダメになってしまう。(注釈は、私)

何か新しいユニットを組もう、という話になり、わくわくする。

エアコンをつけてみたが、どうやら、風が冷たい。これは、クーラーだったのか!勘弁して欲しい。今となっては、割と普通に動く。

いつの間にか寝てしまい、起きると、ものすごく遅かったので、とても悲しかった。こんなことでどうするのだ。僕は、ある資料を作らなくてはならないのに、こんなことでどうするのだ、と、押しつぶされれば、おしつぶされるほど、やる気がなくなっていく。こんなことで、僕はどうなる?

夕ご飯を食べに天下一品に行ったら、月が、まるく、欠けていた。こんな風にさりげなく、どこでもないけれど、どこか別の場所へ移動して生きてきたのかもしれない。僕はどこか別の場所に行きたい、と思っているのかもしれない。だけれども、僕はどの場所も、どんな歌も好きで、すべての歌を肯定する心構えみたいなことを、できれば、持ちたい。全ての歌を集めていきたい。

2011年12月9日金曜日

12/8

12/8
ひたすら作業をするけれど、不安は消えない。こんなんで大丈夫なんだろうか…。

図書館になんとラブジョイの「あの場所へ」があったので、借りてくる。すばらしいことだ。

昼寝してジュウマントンという古本屋のイベントである「タミロック」というのに行く。魚民という、しかもチェーンの、居酒屋で、祭り騒ぎをしているのである。

チェーンの居酒屋の座敷を店として、さまざまなクセのある人間が出店していた。なんだこれは!

久しぶりにカジさんに会ったり、「ありの文庫」の店主さんと大里俊晴の話をしたりして盛り上がる。このひとたちらはやはり素晴らしいな!

昆布さんがおでんやをやってると聞き、本当におでんややってるんだ、と思い感動しながら、おでんを食べさせていただきました。めちゃくちゃうまい!実家と同じ具材を使ってるからだろうか。ちゃんと鶏も入ってる。わかってらっしゃる!昆布もとてもおいしかったです。ありがとうございます。

「タミロック」であるから、やはりライブもある。アイリッシュの人たちは本当に盛り上がったなぁ。昆布さんの弾き語りもよかった。弾き語りとはかくあるべきというような、ペロペロの演奏で、ますます好きになったわぁ。そこでまた後輩にも出会い、大いに盛り上がる。

したっぱ親分や魚雷魚で活躍中の人間にも出会い、これまた多いに盛り上がる。昆布さんのおでんや「どんずまり」で、多いに呑む。おかげでおでんも完売みたいな状況になってみんな幸せになった。

最後に魚民の店長の、シンセをつかった咆哮のパフォーマンスで幕。すべてのチェーン居酒屋はかくあるべき。四条河原町の摩天楼にはようわからんエキセントリックな状況が展開していたのである。

2011年12月8日木曜日

12/7

12/7
一日中ずっと寝込んでいた。なんなんだろう、僕は鬱なんだろうか?

風邪になったので、ポカリスエットを大量に飲み、一気に飲み過ぎたため、ポカリスエットがなくなってしまうという夢を見ました。ありがとうございます。

仕方ない。

阿部完一の句を並べてみる。

豊旗雲の上にでてよりすろうりい

鹿になる考えることのなくなる

たすけてほしいのです洋梨くるりくるり

たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる

ろりろりと印度の少女雲を噛む

下界はやみつばうまくて知人働らく

雲と歌撒き富士の裾野を逃げまわる

眠りにつく瞬間をつかんで読んだような句に僕は参ってしまう。僕の友人に、谷内くんという、一日に何時間も寝ている人がいるけれど、彼は、俳句は睡眠だ、と言っている。こういう、ちょっと笑ってしまうような、ストレンジな存在が僕は好きなんだろうな。

2011年12月7日水曜日

12/6

12/6
資料をコソコソと作る。こんな作業でいいのだろうか…?僕はちゃんと生きていけるのだろうか?

お出かけついでに古本屋に行くと、またおもしろい。ドゥルーズの『ニーチェと哲学』『批評と臨床』、ヴァージニアウルフの『オーランドー』、安かったので、『skmt2』も買ってしまった。

カラヤン晩年、80歳のドキュメンタリーを見た。アルプス山脈のふもとで、スポーツカーをものすごい勢いで飛ばしていた。さすが帝王。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』という映画を見た。途中ちょっと寝てしまったけれど、ポップでとても良い映画だった。音の使い方とかゴダールを意識してるような気もしなくもない。というか、そういうもろもろの、この全体的なあざとさは、完全に渋谷系の諸氏とリンクしてるよなぁ。


友達から段ボール二箱、着払いで郵便物が届けられた。
友達から大量のゴミが送られてきた。日本人形、よくわからんスプレー、菓子くず、大量の一円玉、ようわからんビデオ、dvdデッキ、psp、い みわからん形状のレンズなしカメラ、壊れたMac Pro、変なバービー人形、写真現像に使う液体、チューナー、ふりかけ、ようわからんケーブル…。(ツイッター)
これは立派なテロである。読売アンデパンダンの担当者は本当に大変だったろうな。日本人形がやっかいで、2、これは僕の友達の名前であるが、2はやっかいで、めちゃくちゃな人間なので、包装の仕方も知らないため、ケースがわかれてしまって、ぐちゃぐちゃになっていた。そういえば、2は渋谷系の末裔みたいな顔をしている。

いや、日本人形とか、そういう話じゃなくて、最初は、引っ越しするから、在庫処分しよう、という話で、僕が引き取ろうという話になったのだが、僕は確かにスカムが好きだから、そういうのは好きだけれど、2は、そこで、ゴミを送るために、興奮のあまり変な顔をしながら、わざわざゴミをかき集めてきて、ゴミを送ったわけで、そういう所は、なんかはき違えてるような気がしなくもない。まぁ2の存在がどうしようもないし、2の存在自体、というか、2がこういう行動をすることしかできないゴミという意味では、そういうことを愛せなくもない。小山田圭吾となんとなく接している中原昌也の気持ちは、こんなんなんだろうな…。

疲れたせいか、いつのまにか寝ていた。

2011年12月6日火曜日

12/5

12/5
あれから、というのは昨日の日記を付けたときから、佐々木中の『足ふみ留めて』の、読んでいなかった、ライムスターの宇多丸さんとの対談を読む。その後、佐藤友哉の『1000の小説とバックベアード』を読んでしまう。この二人はなんとなく似てる。また後に、何か書くことがあるだろう。

昼まで寝れなかった。昼寝する。

菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール、いい加減にしろ!と思うグループ名なのだが、彼らが出した『new york hell sonic ballet』が良すぎる。こればっかり聞いている。菊地成孔の中でもダントツにいいんじゃないか。ヒンデミット的な、即物的なものがあると思えば、オペラ的なとてつもなく甘いものに変わっていたりして、クールかつ、得体が知れない。強烈である。

これを聞きながら、それまた菊地成孔の『スペインの宇宙食』というエッセイ集を読む。とてもおもしろい。おもしろいけれど、例えば、彼の日記を読むと、食べ物の記述ばかりでとても素晴らしいけれど、結構いいものを食っている、と。ここらへんは、生活の考え方とか、想定するレベルというか、階級、彼は階級を意識しているんじゃないだろうか?まぁ、僕の周りで好きな人が居なくても、仕方ないわな、という気もしなくはない。私にはおばちゃんというか、マダム的な所があるので、そういうのは実は嫌いじゃない。

早朝、本を返しに3キロほど自転車を飛ばす。寒さが身を引き締める。ついでに24時間空いている定食屋で、ごはんを、体質が変わるぐらい食べる。


2011年12月5日月曜日

12/4

12/4
今日も起きるのは遅かった。

牛丼屋でご飯を食べた。今日もありがとうございます。そのついでに、大学の図書館に本を返そうと思ったら、門が徹底的にしまっていて、返すことができなかった。

深沢七郎の研究に際する作業を延々続ける。エクセル的な、表ソフトを使うのが初めてだったので、論文の発表順に並べるための、日付の設定に大分かかる。山本精一の曲を大声で歌いながら、なんとかキレずにすすめることができた。

まだほとんど何もできていないけれど…。

スキをついて、青木淳吾の「いい子は家で」を読む。別にそんなことはないのだが、青木淳吾には因縁があるような気がして、対決するように読む。

大庭みな子の「風紋」という小説で、小島信夫は人間、あるいは人間の行動にしか興味がないと、ナコが、いっていたような気がする。僕は小島信夫をそこそこ読んでおり、彼の小説、『別れる理由』以降に、単行本化された小説で、未読の小説は、ついに「寓話」を残すのみとなった。そのような僕にとって、やはり、青木淳吾は、くせ者で居続けるのだろう。円城塔はリラックスして読めるのにな。あ、じゃあこの小説は僕には気晴らしになっていないってことになるのか。

人が見捨ててしまうような、つまりそれは、私たちの認識の「システム」から捨て去られてしまうような、ということだけれど、そういうところを汲み取り、小説にしてしまう、それは物語というよりも、「小説」という生態系の文章にしてしまう、彼はやっぱり意識せざるを得ないし、最新刊の『私のいない高校』も面白いのだろうなぁ〜、と思うのだけれど、好きじゃないというか、否応なく緊張感を持ってしまうい、そういうのは深沢七郎にもある。 困った奴らだ。

小腹が好いたので、近くに新しく出来た、24時間営業のスーパーに行くが、なぜか今日のこの時間帯だけ、休みで、仕方がないから、3キロほど下ったところにあるこれまた24時間営業のスーパーに行くが、休みで、ここまで来たら、前、バンバンボリーズの佐伯さんと行こうとして行きそびれた木屋町にあるラーメン屋に行こうとしたが、閉店していたので、仕方がないから、そこらへんでやってるチェーンの定食屋に入り、生姜焼き定食を獣のようにむしゃぶりつき、ご飯を三杯、おかわりした。はい、今日はこんな日!

2011年12月4日日曜日

ルーティーン

12/3
友達の恋人を寝取る夢を見て目が覚めた。こういうことを書くと日記に緊張感が出る。

寝たのは確か朝の九時で、起きたのは夕方の五時だ。それでは、朝の九時まで何をしていたかと言えば、友達とスカイプのチャットをしていた。スカイプのコミュニケーションというのは、寝言に近い。友達の家で共寝するとする。そういう時には、ぽつぽつと、タワイもない話をすることがあるだろう。スカイプのコミュニケーションは、それをかなり悪化させたものだと思う。日記にはあまり登場しないけれど、隠れて、結構やっている。それに伴い、天井という音楽ユニットの作業をする。

湯豆腐をこそこそ食べる。ネギやショウガがあるともっとおいしいんだろうな。ごちそうさまでした。ありがとうございました。

それが朝の九時までの話で、気づけば夕方の五時だ。 まぁ仕方ない。

何を思ったか、回転寿しを食べにいく。近場に新しく出来た回転寿し屋は、今まで行っていた回転寿し屋よりも、醤油が甘いような気がする。同じチェーン店なのに、どうしてそんな差が出てしまうのだろう。

tsutayaさんから、波多野&高橋悠治のcdと、菊地成孔のcdが届く。どちらも素晴らしい。菊地さんは本の中で、「例えば、子供の時に鬼ごっこをする時、飽きてしばらく家で休憩して、またしばらくしたら遊びに合流する人がいたじゃないですか。ああいう風に、インアウトを意識できるような人間が、ちゃんとした視点を持って作品を無理なく作ることが出来る。」と、大体そういう意味のことを書いていたと思うが、こういう風なことをマジメな人間が聞くと、怒りだすだろうか。


スーパーで買ってあった半額のさんまで、夕餉とする。サンマは本当においしいです。今日もありがとうございました。そろそろサンマは食えなくなるのかな。

小島信夫の短編集『平安』を読みだすと、一気に読んでしまった。表題作の「平安」は、主人公と友の関係を、夏目漱石の「それから」の主人公と友の関係とダブらせ、「それから」でのその二人の関係は、「とてもあなたを恋し、一体になりつつあるように思われるのです」というような風に思われる。友人関係があり、そのどちらかに異性が関係しているとなると、もう一方の人が、その異性に対して緊張関係をもつ、ということもあるかもしれない。もしかしたら、シットしてしまうことも、あるかもしれない。それとは別に、もう一方の友達は、異性のことを、友達に向ける恋心として、話すのかもしれない。

小腹がすいたので、カップうどんを買いに、新しくできたスーパーへ。店の前で、三人の女性が、男の服をつかんで怒っているのか助けを求めているようにも見える。人間関係がなんちゃら、って言ってる。

ところで、田中研二がオーストラリアから帰国して、先日、三十年ぶりぐらいにライブをしたらしい。しまった!山本精一のライブも日にちを間違えるし、ちょっと歩調が合わない。田中研二は「日本沈没」をやったのだろうか。

追記:田中研二のmyspaceで、田中研二の「音楽舞い戻り初公演」の音源があがっている!
http://www.myspace.com/tanakakenji

2011年12月2日金曜日

12/2
ちょっと寝過ごした。

なか卯で、牛丼とちょっと贅沢に小うどんを合わせて頼む。ちょっと癖になったのかもしれない。

2くんから荷物が届いていたらしい。郵便局までとりにいく。

結構重たい段ボールの中にはたくさんの古本とラクダちゃんのサプライズでうれしい。ありがとうございます。しかし、肝心な本が届いていなくて、困る。

ラクダは、置物であり、 麻雀が強くなるらしい。2くんという人は、こういうのが好きだ。高校の時には、金ものでできた、アンティーク風の、変な地球儀をくれた。

幕末は、最高のエンターテイメント文化が花開いた時期だそうだ。両国では10メートルの関羽やつがいのラクダがおり、寄席は町内に一つは必ずあるぐらいの盛況だった、という話を聞く。

スーパーで、冷凍ぎょうざを買う。早速作るのだけれど、うまくいかなかったのか、そこまでおいしくはなかった。若干お腹に負担がかかった。

お茶でも入れようか。

2011年12月1日木曜日

12/1
ああ。

深沢七郎についての本をポツポツ読む。借りてきた本では、まぁこれぐらいか。折原脩三の『深沢七郎論ー体をゆすっただけの小説が書きたい』がとてもおもしろかった。

回転寿しを食べにいきたかったが、なんとなく、結局なか卯へ。牛丼と、ぜいたくして小うどんを頼んじゃった。おいしかったです。寒いときはうどんが欲しくなる。ありがとうございます。

これから、もしかしたら、ときどき出てくるかもしれない、姫という人が、祇園で働いていると聞いてびっくり。なるほど。

老舗のレコード屋(クラシックのレコードが充実していた)がつぶれた所に立った、24時間営業の、コンビニエンスなスーパーで、総菜を漁る。 すると、うなぎが半額で、260円で売っていたので、お刺身と迷ったけれど、夕ご飯は、久しぶりにうな丼にしようと思い、ウナギを買いました。

米が切れたから、昨日、薬と間違えて、そこらへんにほってしまっていた米を早速使うことに。大丈夫かなぁ、と思いながら、炊き込む。

そんな感じで、ほおばるうな丼は、普通においしかった。ありがとうございます。ウナギを食べると、たまごのお味噌汁が食べたくなる。そんなものはできない。 
11/30
十時過ぎに起きた。

図書館で、大庭みな子の『風紋』を借りる。たまらなく良い。スガキヤのラーメンを食べながら、がっつくように読む。

課題のために、深沢七郎についての本をぽつぽつ読む。こんなのんびりさんで大丈夫かなぁ。

コタツに入って何も考えず暮らすことが多い。頭が回らない。


ああ〜そろそろ期日だなぁ〜。ちゃんとやることやったり、調べなくちゃなぁ、と思いながら、ドキドキしながら、ボーとしている。ボーとして、お茶を飲む。そうすると、お茶が切れる。何も考えずに、次のお茶を作る。そして、お茶をのむ。そんな風にお茶をのみのみしていたら、どうもなく落ち着かなくなってしまった。頻尿になるわ、そわそわするわ…。

例えば、僕は研究者には向いてないのかな。そういうのは、向いてるとか、そういう問題でもない、という気がしなくもないけれど。 ほら、そんなこととは関係なく、何かしなくちゃいけないわけだし。僕はものすごく成功するか、乞食になるか、まぁどうなっても、なんとでも生きてはいけそうだが、どう転ぶかわからない、と言われたことがある。そんな気もする。なんだか、どこに居ても、場違いな気がしなくもない。僕自身としては、いたって人並みにマジメだし、常識人だし、金遣いが荒いわけでもなく、生活が荒廃しているわけでもないのだけれど、どうなるのか。先日の、保坂和志さんとおしゃべりした時も、きみはなにものなんだ、というような風なことをおっしゃった。


 友達に声をかけようと思ったけれど、友達が二人いたので、どちらに声をかけたら良いのか分からなかったので、かけなかったので、自分は、アホウだなぁ、と思う。

いつものようにソーセージと「ごはんですよ」と納豆で、夕餉とする。今日もありがとうございます。