2012年2月29日水曜日

モコモ

トップに写真をつけてみた。

この写真は、僕の友達の2くんが撮って、何か変なサイトを作ったときに勝手に使っていたのだけれど、このなにがなんだかよくわからない感じがとてもいいと思う。水族館でマンボウとかを見た感じに似ている。この日は確か、六本木あたりの下町を訳なしに歩いていたような気がする。カメラマンの2くんは、工事現場とかをめちゃくちゃ写真に撮って、モデルや!とか言って、僕の写真とかも仰山とってくれた。

昨日のことを全く覚えていない。何をしていたんだろう?おとついのライブは本当に素晴らしかった…。完全にノリノリになってしまった。おとついのライブは、京大軽音系だったのかな?若い女の子もいた。19歳だそうだ。若いなぁ。すごい。19歳だと!若い!音もなんか若い!こんなまっとうなシンガーソングライターばりの女の子も逆に珍しいんじゃないだろうか。YUIとか高校の時に流行ったけれど、彼女も若かったよなぁ。ギターからなにまで若かった。かわいいなぁ。次のバンドもよかった!テツオさんにちゃんと感想いったらな!と言われたのだが、その時はノスタルジックにも焼き直しでもない姿勢が、前進の構えになっていって、いいですね!スゴい!と、言いましたけど、そうなんだよね。もっと言えば、巻き込み型のバンドサウンドに、毒が潜ませてあるところがとても良かったです。歌詞もそうだけど、何か他にも理由がありそう。それが、結果的に宙吊りな気持ちにしながら展開していく曲になるのだろうな、と思い、その場でcdも買ったと思うのだけれど、ない。どうしたんだろう?そう、今日はまたテツオさんに会ったんです!美人でパツキンのハンガリー人をはべらして、この人は油断できないなぁ!彼女は日本文学を学んでいるそうなので僕は、小島信夫をオススメしました。また、今日は書店員をしている人など、久しぶりに会う人も多くて、とても愉快でした。トリのモルグモルマルモさんは、もちろんよかった!前見た時も、持っていかれたと思ったので、やられた!と思ったのだけれど、今回は前よりもノリノリで見たので、椅子がガクンガクン揺れた。このバンドが突いているものというのは、何なんだろう?何か秘密みたいなものがあると、エレガンスさえ感じてしまうね!このようなバンドが居ると、京都も盛り上がるだろうな!ダダンダダンダダンフッフー!

今日は2くんとスカイプ飲みみたいなことをしたのだけれど、電波が悪くて、ビデオの調子が悪かった。中原昌也の対談や、中学校の時の卒業文集を朗読したりした。詩人は偉いなぁ〜。俺は詩集で儲けてるからな。とか2くんが言っていた。どうやら古本屋で安く詩集を仕入れ、それをアマゾンで売っているらしい。モコモ書店という古本屋なので、是非お求めください!

2012年2月27日月曜日

2/26
遅くに起きた。ぐうたらしているわけではないぞ、お母さん。

今日は山本精一のセッションがあるので、アイリッシュの子のライブが見れなくて悲しいなぁ〜、本当に山本精一のライブに行っていいのかなぁ、と思いながらも、今日こそは、山本精一としゃべるんだ!と決心したので、山本精一のライブに行くことに決めた。

しばらくマイルスでも聞いて、コーヒーを飲みながら、『ソクラテスの弁明』の残りを読んでしまうと、コーヒーが思ったより濃くて、くちびるの代謝が早くなり、皮が剥けてしまった。よくあることではある。これは、何なんだろう?

『ソクラテスの弁明』を読んでいると、田中小実昌を思い出す。ソクラテスの話す文体って、コミマサみたいに優しくて、ヘンテコだけれど、何も反論できない。もちろん、プラトンが書いているから、コミマサよりも若干読みやすい。もしかしたらそれは、大きな損失なのかもね、と柄谷さんが、言っていたのを思い出した。

コーヒーを若干飲み過ぎたので、寒空の中、家を出ても、心地よい。いい話だ。マイルスを聞いていると、もう春かと思うけれど、しばらくすると、芯から冷えてくる。手袋はもういいか、と思ったのでしなかったけれど、手袋をしたほうがよかった。

『ソクラテスの弁明』が読み終わり、続けて、『ワインズバーグ=オハイオ』をチビチビ読み、もう今日はいいか、となると、藤枝静男の『異床同夢』を読む。『ワインズバーグ=オハオ』にある、人物は、本当に、それぞれの人生を生きていて、それぞれの物語を持っていて、かつそれが自然に出てくる。アンダーソンさんは、どれだけ多くの人生を、生き直したのだろう。藤枝静男さんは、一つの出来事を、真剣に向き合って、それこそ、診察のように、向き合って、描く。少しヘンテコな所があって、クスクスするところもあるけれども、基本的に、結核で死んだ家族の話だ。

読み終わったので、ご飯を全く食べていなかったので、でも、なか卯にいつも行くのは、気が引けるので、すき家にいくことにした。すき家に行くには、鴨川のデルタ(三角州)を渡り、京大のキャンパスのある、百万辺というところまでいかなければいけない。寒空でも昼間は人がたくさんいるが、川辺など特に寒いと思う。今日の帰り、夜の11時ごろ、川辺で二人がちじこまりながら座っていたことを思い出した。 すき家では、今割引がされている、チーズ牛丼を食べた。チーズ牛丼って、意味が分からないよね。でも、これが、わりとおいしいのです。割引されてから、おろしポン酢牛丼もあるのだけれど、こっちを食べている。

すき家で食べ、近くにあった古本屋を冷やかしたあと、鴨川のデルタにかかる橋を渡っていると、なんとなく、神社に寄りたくなった。初詣はとっくに済ませたのだけれど、思うことがあったのだろう。なんとなく、神社に寄りたくなった。自転車を降りて、500メートルはある参道を、歩いた。こうして、森の中を歩くのも、久しぶりだ。鳩がくちばしで腐葉土の上にかぶさる枯れ葉をわけている。大きな鳥居をくぐると、結婚式の写真を撮っている。もちろん新婦は白い服を着ている。右端に居るおじいちゃんは車いすに乗っている、その横に、黄色いドレスを着た女の子が立っている。みんなちゃんとした顔をしていて、どういう気持ちなのだろう。そういうことは、分からないけれど、20人ぐらいの親族が、集合して写真を撮っていることは、わかる。私たち(参拝客)は、こういうものは、やはりよく見てしまうものだけれども、よく見ていても、僕は表情から大したことは、読み取れない。昔、浅草観光の帰りにさくらこと東京の六本木ヒルズにある、森美術館へ、歴代のターナー賞受賞の作品が展示してある企画を見に行ったことがある。美術館に熊のぬいぐるみを着たアーティストが一日中うろついているビデオとか、偏屈なものばかりでとても面白かったけれど、その中で、人が集合して、集合写真をとるような形態をとって、動かないで!と指示されて、そのまま二時間ほどの人間の集合を映した映像があったけれども、みんなそれぞれ、ヘンテコリンになる瞬間がある。

忘れないうちに書いておこうと思うから、まとまっていないかもしれないけれど、しゃべります。山本精一は、音のはやさについて、このようなことを書いている。
 音のはやさを求めてゆく。からだの速度を上げてゆけばゆくほど、どんどん弦のスピードは遅くなってゆく。身体の限界ということではなく、いつだって音のはやさに、ヒトは追いつくことができない。音を出した瞬間、音自身、猛スピードで全方位をめざすわけで、そのことに、ヒトは当面呆然として、一寸の躊躇が生じる。フライングすれすれの音のスタート・ダッシュに対し、こちら側は何か強力な埋め合わせが必要となる。
 阿部薫という人は、サックスの演奏で音速を超えようとした。
全ての重さと速さを加重加速させながら、全エネルギーと全情念と、全肉体、そして精神を演奏へと駆りながら阿部はまさに天国と地獄を往復するようにしてアルトを吹きまくっていた。彼は肉体を浮き立たすものとしての演奏を否定するようにして、肉体にはメタフィジクを、メタフィジクにはメタフィジクをそれぞれの刺客のように呼び込みつつ、超絶した演奏のこちら側に、自己の終りと世界の終りを共に見つめるようにして立ちつくしていた。 (間章「<なしくずしの死>への覚書と断片ー破壊者の自縛と無産者の栄光」)
 阿部さんのしていることは、すべてを賭ければ、音は音(速)を無限遡行的に超えることができ、その限界には、すなわち、彼岸が見える、ということをいっているけれど、それは、死ぬってことだ。阿部の課題である音速の壁への責任は、なしくずしの死として償われる。なんだ、最初っから死って分かってたんじゃん。こいつは、死ぬぞ、って、分かってたんじゃん。そこに対して、山本精一は上手いことを言っている。「身体の限界ということではなく、いつだって音のはやさに、ヒトは追いつくことができない。」音は瞬く間に僕たちを取り囲んでしまい、私たちは逃げるヒマがない。どうすればいいのか。その圧倒的はやさで迫り込んでくる音に対して、「こちら側は何か強力な埋め合わせが必要となる」。音が出てしまったことは、どうしようもない。それを、私たちは、どのように処理するか、音が元々持つ圧倒的はやさに僕たちはどのようなはやさで挑むのか。そう考えると、音のはやさについて、何か上手く処理できそうだ。ところで、ラブジョイの音楽は、すべての、思ってしまった思いや諦めなどのはやさに対して、先回りして、というかもしかしたら、同時に、出てくる音楽だ。
もう どうしようもないくらい
君のことが 好き
もう 嘘も本当もない
本気で 叫んだ

ああ、君の衿に 風が
ふいに吹いてきた
大あくびしたあと 笑う
目が うるんでいる

君に残すものはないから
この歌 この声 覚えていて
このことはとりあえずここまでにしておこう。僕も寝なければならない。

私は山本精一の追っかけみたいになっている。特にファンでもなんでもないのだけれど、やっぱり気になる存在なので、ライブがあるとついつい行ってしまう。山本精一の演奏について考えるのが、もっぱらの私の興味であるけれども、考えるようなものでもないんです。そしてほんまもんのおっかけが前に多少列を作っている。前の三人はもう覚えた。ミドルグレイな女の子二人と、ナードな男の子が一人で、この男の子は毎回ヘッドホンで音楽を聴き、手には録音機を持っている。

今日はセッションをしてもらった。ドラム、ベース&打楽器、そしてギターとちょっと打楽器、という編成で、おもしろそう。開演するまで、小島信夫・森敦の対談『文学と人生』を読む。
小島(中略)さっきの同性愛ということなんですけれども、結局、男と女の場合でも、やはり文学の話をするときには、熱烈に話を交わしているときには、ほとんど外から見れば恋愛と同じようになるわけですね。また外から見なくても、その要素をもっていると思うんですね。それは結局、その人間に対して恋したりしているんじゃなくて、共通のなにかをねらってやっているわけですね。その問題をうまく説明できないんだけれども、そういうことじゃないかなと思ったり、いろいろ考えて、結論は出なくてもいいんですけれどもね。
僕の場合なんかは、さっき自分がなくなるといったけれども、向うに一体になっちゃうわけですね。一心同体ということを言いましたけれども、いろんな意味があるけど、それに似たような状態になって、そのときはそういうふうになりますけど、またあとでもり返すでしょう。そこのところが、自分にとっては、その操作を繰り返したんじゃないかと思うんですよね。それはいろんな段階でね。そのことをずっと考えておるんだけれども、人に伝えにくい言葉があるんですけどね。だから、そんなことを考えてきたんだけれども、どうもあまりはっきりしないし、話を出してなんとかしようと思ってきたんです。
 読んでいると、チューニングみたいな感じで何か始まってきた。演奏の話である。この無意識的というか、適当さの次元を導入したようなインプロは、なんなんだろう?山本精一のギターと大きく種類的には大友良英さんなどが似ているといえば似ているのだけれど、大友さんのギターというのは、正しく、大きく、音響的にも圧倒的で、大変説得力を持っているギターに聞こえる。さすが高柳昌行の弟子だけあるとさえ思うことがある。山本精一の場合は、説得力など皆無みたいなもので、わかる人はひとりでにわかってください、みたいなギターだ。精一さんの場合、説得というモメントがすっかり抜け落ちているんだろう。説得する気がないのだ。ただ、俺は俺としてプライドを持ってただ俺が処理した音は出す、という感じでぬぅっと音を出す。その音に僕たち(観客)はびっくりしたり、笑ったり、どう考えてもミスやん!と笑ったり、なんだか怖くなったり、僕は何を聞いているんだろう、となったり、なんで僕はいるんだろう、となったりすることがある。射程が無限大に広がっていく気がする。別の世界への思いだろうか?とにかく、意識している世界とは違う世界が顔を出す時がある。リズム隊もしっかりしていて、とてもいいセッションだった。さまざまな打楽器があったけれど、結局無国籍音楽になってしまうというのは、なんなんだろう。無国籍どころか、音楽のイディオムというか、方法というか、モードが参照不明となって埋もれていってしまう。時折、スカ(レゲエ?)みたいなものだったり、ロック(のリフ)っぽいものが顔を出すかと思えば、何か別のものに消えていってしまう。ノリノリにもなれるものになったりもする。横にいるヤク中が声をあげ、変拍子で手拍子をしたりもする、それぐらいの時もある。そういうのもどんどん消えていって、結局あれはなんだったんだろう、と思う。またしてやられた!しかも話しかけようと思ったら、アバンギルドの店員らしき人がしゃべっててしゃべれなかった!ところで、山本精一は京都ではアバンギルド派閥なのかな?ネガポジでああなのは、そういうことか…。

ジョン・マクラフリン
バンバンボリーズの佐伯さんからメールが着たので、ライブハウスネガポジに顔を出す。まだ結構人が残っていて、嬉しかった。例のごとく、いろんな人にちょっかいをかける。当の佐伯さんは居なかったのだけれど…。元ジャズ研のギタリストのさきたにさんと呑む約束をする。マイルスの話で盛り上がり、お前はマクラフリンだ!とか言って別れの言葉とする。佐伯さんもいつの間にか帰ってくる。その間に女の子に噛まれたりもする。

焼酎を呑ませていただいたが、ちょっとキツいのばかりだったので、やっぱり酔っぱらう。今日ネガポジでライブをしていたムラカミマイさんも、できあがり、みんなではしゃぐ。先日のディープキス的なこともあったので、はしゃぎ方もひとしおみたいなところもある。今ちゃんとキスしまくり、佐伯さんに耳をすごい勢いで舐められ、とりあえず、ネガポジでは同性にはキスができるんだな、ということを学ぶ。

音速のように時間が経ってしまったのでびっくりした。何が起こっていたのか、何も覚えていない。お歌をいっぱい歌ったのは歌った。ライブハウス閉店後、なか卯でごはんをたべようとすると、佐伯さんが先についている。なんだかよくわからないセンチなことを言っていたような気がするので、一喝する。ムラカミマイがなんか席の端においてあるようなものをとんでもなくこぼしてケラケラ笑う。

 これを付け加えやなあかんでん。即興やけども。

Candy says I've come to hate my body
And all that it requires in this world
Candy says I'd like to know completely
What others so discreetly talk about

I'm gonna watch the blue birds fly over my shoulder
I'm gonna watch them pass me by
Maybe when I'm older
What do you think I'd see
If I could walk away from me





Candy says I hate the quiet places
That cause the smallest taste of what will be
Candy says I hate the big decisions
That cause endless revisions in my mind

I'm gonna watch the blue birds fly over my shoulder
I'm gonna watch them pass me by
Maybe when I'm older
What do you think I'd see
If I could walk away from me

キャンディは、自分の身体に反吐がでちゃうっていうんだ。
そして、そのことすべてがこの世界のリクエストなんだなあ。
キャンディは、カンペキに何もかも知ろうと思うと言うんだ!
他のよくわからない人がすごい慎重にしゃべることをよ?

青い鳥が肩の上のほうを飛んでるのを見てますよ
 鳥たちが私のところを飛んでいますよ
たぶん歳をとったら
俺は何を見たいとおもうかなあ!?
もし私が私から離れていくとしたらだよ?

キャンディは、静かな所が反吐が出るって言うんだ
だって、どうなるかってのが、ちっこいんだもん
キャンディは、 おっきな決断が嫌だって言うんだ
 だって、思うことがずっとずっと心の中で起こるだろう?

青い鳥が肩の上のほうを飛んでるのを見てますよ
 鳥たちが私のところを飛んでいますよ
たぶん歳をとったら
俺は何を見たいとおもうかなあ!?
もし私が私から離れていくとしたらだよ?

2012年2月26日日曜日

2/25
例のごとく、遅く起きた。

最近マイルスに凝っている。去年も、この時期になってマイルスをたくさん聞き出した。春めいてくると、マイルスが聞きたくなるのかなぁ、と思っていたが、今日は結構寒いぞ。大変な話だ。それにしても、マイルスを聞き出してから音楽に対してどんどんどん欲になっていった。マイルス以前はむしろ、音楽なんか好きじゃなかったのかもしれない。きっとそうだ。それぐらい音楽に対しての覚悟というか、構えが変わった。

訳なしに、羅針盤の歌詞の聞き取り、書き出しをしていたら一日が潰れてしまった。なんだこの日は!?

羅針盤に限らず、山本精一の歌詞は、覚えることが難しい。歌詞が無意識的で、意識の網を抜けて通り過ぎるからだ。ここで一度書き出すと、いろいろと発見したりするものだ。例えば、アルバム『むすび』の一曲目「ミレミアム」の最後のフレーズ。
幸せはいつも同じ数だけ同じ器に詰め込まれている
幸せはいつも朝日のように悲しい気持ちに溶け込んでいる
幸せはいつも同じ所を止まることなく回り続ける
幸せはいつも嵐のように人の心を吹き飛ばしている
幸せはいつも同じ所に違う気持ちで佇んでいる
 なんだこの意味不明に脅迫的な歌詞は!?こんな歌詞を無意識的に繰り返し繰り返し僕は聞いていたのか、と改めておかしく思う。幸せも、いいもんじゃないなぁ〜。

『ソクラテスの弁明』でも読んで、寝ましょうかなぁ。


2012年2月25日土曜日

トラベル

2/22
まさかテツオさんが帰っているとは…。僕が吉田寮で呑んでいると、欣也さんに誘われ、ハーモニカで吉田寮の寮食でバンドをすることになったことがあったのだが、その時にギターを弾いていたテツオさんと、その後もちょくちょく会わせていただいて、戦前のサイレント時代劇に音響派ノイズをつけるというイベントなどを見に行ったりしていた。テツオさんはどこかに旅に出ていたらしく、今日ようやく一年ぶりに再会したのでした。僕がとても驚き喜びの声をあげていると、「やっぱり誰もが京都に帰ってくるんだねぇ」とおっしゃった。

今日はライブハウスネガポジで、サコさんのライブを見にいこうとしたら、そこにテツオさんがいたのである。なんとも、ありがたい話だ。いっしょにクリント=イーストウッドの「j=エドガー」を見に行こう、という話をした。 私は先日、この映画を見て、ここにある映像のもつどうしようもなさに感動したので、もう一回見たい気になったのだ。2/18日の日記に、僕はこのようなことを書いている。
 行こう、行こうと思いながら、全く行けていなかった、イーストウッド最新作『j=エドガー』を見に行く。 イーストウッドは天才だ…。まずこのような気持ち悪い映画を世界規模で、商業、というかシネマコンプレックスに於いて大々的に公開できることがスゴい。これは事件だろう。ゴダールとかは半分無視されているというのに…。イーストウッドが、ディカプリオを気持ち悪く使って、このような映画を撮るということ が、すでに何か皮肉というか、映画業界に対する手紙みたいな気がする。それにしても、社会に生きる人間の一代記を、しかも懐古するという行為の痕跡を存分 に残しながら(つまり嘘だとか、忘却だとか、幻覚だとか…が出てくるわけで)描かれているこの映画は本当にスゴい。アメリカ映画にありがちな感動のタッチ で描かれるところの場面が物凄く醜かったりするところなんて最高だと思う。そういう感動の人物伝記描写を維持しつつ、でも手放しにその感動にありつけない 感じが、まさにヒューマンドラマというか、ホーム(FBIの話だけれど)ドラマというか…。
このような、役立たずでイヤな映画を見ていきたいものだ。デレク=ジャーマンとか、園子温とかもイヤな映画だけれど、イーストウッドは、退屈を恐れずに作れる作家だなぁ、と改めて感じた。アイデア一筋でお化け箱みたいな映画もいいけれども、カメラを装置として、外界に解放するものとして使っている映画はどこまでも意味が湧いてくるように出来てくるよなぁ。情報量とは別の何か、現実の何かを映してしまうことを意識するのが、そうさせるのだろうな。そういうのをイーストウッドがやってしまうというのも、小気味いい。映画界の意識に不意打ちをしかけるような企画だと思う。どうも地味で、3D!3D!とか言っている映画界にとって、反時代的で興行収入をある程度度外視した映画かもしれないけれど。どこかの対談で、3D映画は普通に50年前にもはやり、そういうのは今でも地方の遊園地に細々と残っているけれど、ルイス=キャロルが復活させて、フレッシュな映画を提供している。ファンタスマゴリー(幻灯機)からモノクロのサイレント映画になり、カラーの音付きの映画になっているのを見ると、技術というのはどんどん発展していくように見えるけれども、文化史というのは、どんどん回り回って動いているんだろうな。どこぞやのSF作家は、「人間が想像できるものは、全て実現できる」なんてことを言っているけれども、人間が想像できるものなんて、本当は何もないようなものじゃないのだろうか。それでも生きていておもしろいのは、想像力とは関係なく、ただ生きていることがおもしろい訳であって、そういう認識がちゃんとできている人が作る映像というのは、見入ってしまう。想像力は、人間であることの優越感を生み出すことはあるかもしれないけれど、本当は、そういう想像をする人間のほうがおもしろかったりする。

テツオさんはネガポジへ、ライブをしに来たのであった。もちろん、テツオさんのライブを見るのも久しぶりだ。一年前は、よく行ったものだった。「チャイニーズ」など、本当にいい曲だ。 今日聞いてもよかった。

サコさんは、前回見た時よりも、ますますいい曲をつくる。パソコンで作った曲など、DJみたいで、すぐに京都のクラブハウスであるメトロなんかでもプレイできそうな感じだ。クールだなぁ、と思っていたら、高校の時の曲を披露してくれて、キュンキュンしちゃった。うまいなぁ。

この日は、バンバンボリーズの佐伯くんと、OLの子(なんかOLじゃないみたいなことを言っていたけれど)も来ていた。テツオさんは、シベリアから京都に来た男の子を連れてきていたので、その子とも一緒に呑んだ。大いに呑んだので、あまり覚えていないが、OLの子を大いに追いかけたらしい。やっぱり逃げているものを見ると、追いかけたくなるよね!ハハハハハ…。

2/23
 昨日飲み過ぎたのだろうか、それとも緊張のせいか、定食屋さんの「やよい軒」でご飯を食べても、あまり喉を通らず、というか、やっぱり、あきらかに、飲み過ぎたんだろう。 ネガポジには、今ちゃんという、かわいらしい子がいるのだが、商売が上手くなっている。いや、単に僕が普通に呑む欲求が強いだけか。ハハハハハハ!

今日は、私がネガポジでソロでライブをさせてもらうことになったので、やる曲を決め、ひたすら練習をする。俺はマジメやねん。それにしても緊張するなぁ。慣れない。対バンの森上さんは、音楽に本気で取り組んでいて、すごい、という話をよく聞くので、よけいに緊張する。まぁ僕の弾き語りは、緊張の種類が違うのかもしれない。ミスという意味では、僕の曲は最初からミスっているようなものだ。僕の音楽は、他者というか、観客がいて、初めて成り立つような種類の、ある意味頼りない種類のものかもしれないからだ。でも、他者はもしかしたら究極に頼りがいがあるかもしれない。ソクラテスの問答みたいなものだな。ソクラテスも、酒飲んで、酔っぱらって、ダベって、あんな感じになったわけで。ソクラテスか〜。僕もそんな風になりたいけれどな!

今日は、森上さんのレコ発ということで、本当に光栄である。真鍋さんと関戸さんと森上さんに挨拶をする。関戸さんは、「夜よこんにちわ」というバンドで、何度か、バンドで対バンさせて頂いたことがある。そして関戸さんは、しの山さんの企画やフライヤー(ライブ告知のちらし)の絵を描いていることで有名な人であり、近江八幡で個展のようなものを開いたこともある。ウヒャー!

ライブが始まるまで、森上さんとヤマギシ会の話をする。ヤマギシが怖いのは、システムによって支配されているからだ、だけれども、私たちもシステムによって生かされているかもしれなくて、その点がとても気持ち悪く私たちに警鐘を鳴らす存在である、みたいな話をした。森上さんは、ヤマギシの本を読み、リジン症的な経験をしたそうだ。どんだけスゴいんだろう…。

 真鍋さんと関戸さんとマンボウの話をする。マンボウのあのやる気のない飄々とした存在を見ていると、存在が奇妙に浮き上がって見えてきて、自分まで怪しくなりますよね、みたいな話をする。どこをとってもマンボウは奇妙だな。しかも、刺身にすると、おいしいらしい。

僕は二番目に出たので、真鍋さんが、弾き語りをしているのを、ドキドキしながら見た。ああ見えるかも知れないけれど、やっぱり、ドキドキするのです。

僕は二番目に出た。やらかしたといえば、全てがやらかしているみたいなものなので、アレだけれど、僕ができることを精一杯やらせていただいた。ぼくがやっているのは、手紙みたいなもので、作り込むこと、つい働かされてしまうことについてのアジテーションみたいなものかもしれない。 実情は、やはり、どうしようもないのだけれど、よく僕のような人を、出させてくれたものだ。ネガポジはやっぱり、いいハコですね!ご飯もおいしいし、お酒もこだわっています!ここで呑む焼酎は、本当に、うまいんですねぇ〜!本当にすばらしいハコだ…。ネガポジに住みたい!是非みんなで住みましょう!そういうハコです!

関戸さんの弾き語りは、ブルース魂があった。そうはいっても、一筋縄でいかないところが、本当に魅力的だ。僕は緊張から 解き放されたので、ビールをゴクゴク呑んだ。ステージでは、照明が当たるので、思ったよりも喉が渇く。僕が高校の時、マンドリン部をしていた時もそれを思ったものだった。ホールの照明はびっくりするほどキツく、汗をかいてしまい、照明やめてくれー!と思ったものだ。それにしても、市民ホールにあれだけの高校生が集まるなんて、なんだか避難しているみたいだ。高校生ばかりだから、ジュブナイルSFみたいで、バランスも欠いている。楽しかったといえば、楽しかったけれど、緊張したなぁ。

森上さんの弾き語りは、曲の主題を表す為に最大限の力を振り絞り構築されているもので、そこには、楽曲に対して示す責任の全てがあったように思われるようなものがあり、気迫もあった。

ライブ後、大いに呑んだ。今日はしの山さんや、モルグモルマルモのみなさんも、子連れで、来ていただいて、非常にありがたかった。テツオさんも、見にきてくれた。バンバンボリーズの佐伯さんや西村さんも来てくれた。モルグモルマルモのベースのアベさんは、オナニーの後寝てしまい、全てが終わった後に来てくれた。コラ!

大いに呑んでしまったので、あんまりよく覚えてないが、僕はまたアベさんにビールをおごってしまったんじゃないだろうか?しまったなぁ〜。アベさんは、かわいいからなぁ。もしかして、ヒモの才能が、あんじゃないのか!

僕の演奏は、温かく迎えてくれるようなことをみなさんが言ってくださって、本当にありがとうございます!このような弾き語りをするにあたって、大いに示唆を与えてくれたしの山さんに褒められたのが、本当に嬉しかった。音源ないの?とも言ってくれた。ありがとうございます!今日やった新曲はここにあげてあるので、是非ダウンロードして聞いてください!

今日も、OLの子を追いかけ回した!さらにアベさんなど、さまざまな人にいっぱいキスをした。ネガポジに来ているような人は、なんかキスするモードがあるみたいだな!タフな佐伯さんも、一週間連続で仕事終わりにも関わらず呑んでるみたいな節があるが、今日は相当疲れているみたいだ !それでも例のごとくパンツを破り、服を引き裂き、僕が寝ている間に顔に落書きをしたのだった。僕はそのままなか卯に行き、カレーうどんを食ったのだった。

2/24
ねたおした。ウーム!僕はタフじゃないのか…。マラソンでもして、鍛えようと、日頃思うが、鍛えるのは、こういうためにあるのかもしれないな。

寝たおしたが、古本屋に行く。古本屋に小島信夫の初期作品の本がたくさんあって目眩がした。絶妙な値段で、また目眩がした。結局買わなかったのだけれど、買っていたら買っていたで、お金がない訳で、目眩がしそうだ!

家に帰って、友達に排水溝のつまりの解消方法を効く。お風呂の排水溝のつまりが深刻で、この二、三日はとても困っていた。塩酸みたいなやつをかけても、ダメだった。どうすればいいのか困っていて、考え込んでいて、お風呂に入るのも鬱々とした気持ちでいたのだが、どうやら、排水溝にはフタみたいなものがついており、その排水溝の入り口を引き取れば、排水溝の中を掃除することができることに気がついた。まるでコペルニクス的転換だ。ありがたい話だ。

中森くんとお話しする。中森くんもインドに行くらしい。最近インド行く人が増えている。何か世の中が変わるかもしれない。しゅーさんや昆布さんも、中森くんも是非、とんでもない経験に巻き込まれていただきたい。インドは、そういう、経験の層を厚くしてくれるところだ。一種のパラレルワールドだと思った方がいい。日本の常識というか、世界の常識が打ち破られるようなパワーが、そこにはある。町を歩いていると、おばちゃんがインドの国旗をピンで服に指し、金くれ!と言ったりする国だ。根本的に人間の熱気が違う。ブッタガヤで出会った少女がかわいかった。インドの男はガンジャ吸っては寝てばかりでどうしようもない。どうしようもないよ!みたいなことを愚痴っていた。

2012年2月22日水曜日

メディテーション

2/21
ところで、ラブジョイの2ndアルバムが今日届いたのですが、いいですねぇコレ。こんなにまっすぐ素直に届く歌はないですね。これは、素直なばかりでは作れないですよね。紆余曲折もあっただろう、反抗もたくさん、たくさんしたでしょう。酸いも甘いも、あったでしょう。そうでないと、ここまで、見えないと思います。ここまで、心を素直にさせてくれないと思います。僕の性根は腐っているので、素直な曲を聴くと、フン!なに言ってけつかるんだこのゴミ!弱いくせに。なにを知ったことを口にするか!甘いんだよ!!という気持ちがどこかに持ってしまうほどなのですが、ここにある楽曲は、そんなことを思いたくても、先回りされてしまい、つつみこまれてしまって、もういいよ、お母さん〜という具合に抱っこされてしまう。山本精一が帯を書いています。
ここにある14のうたは
ちゃんと生まれるべくして生まれてきたと、
たしかにそう思える強さを持っている.
そしてその強さは驚くことに
たぐい稀なやさしさと
軽みまで供なっている
生きている人にも
死んでいる人にも聴いてほしいです.
  山本精一
生まれるべくして生まれたうたというのは、強いですね。これを追いかけて行きたい。うたうたいみたいな人が、何か責任をもってやれるとすれば、ここにあると思います。でもそれは、結局、「人間」を捜すことになるのかもしれない。そういうのは、物語をバカににしても、物語に拘泥しても、絶対にたどり着けない。むしろ、そんなことをしている暇はない。

2/21
昼間のことは、全然覚えていないなぁ。どうしたんだろう。こんなんでいいのかなぁ?小島信夫の『どちらでも』の残りを読んだのは覚えている。この戯曲おもろい。ハハッ。あいかわらずその笑いは不気味だけど…。こういうのが一番怖い。おすすめです。

シルバーウィングスで、テレフォニアとバンバンボリーズが出ると言うので、行きました。途中でまた例のごとく、丸ニ食堂に行きました。丸二は暖房が効きすぎていて、全身が痒くなって仕方がなかった。この皮膚の虚弱体質困るなぁ。天気がイイ日に、うわぁ〜久しぶりにうららかやわぁ〜と思ってチャリでサイクリングしてそこらへん走ると、突然背中がものすごくむずむずしてきて、やられるんです。フクザツなんだなぁ。

シルバーウィングスは、なんかネガポジオールスターズみたいになっていて、驚く程揃っていてびっくりした。あの有名な、僕の敬愛するマグナム本田さんまでいはる。ええことやなぁ。ネガポジの偉いところまで上り詰めたエゾエさんまでいはる。今日はエゾエさんが誘てくれた!エゾエさんは、シルバーウィングスの登山正文といつのまにかマブダチになっていたらしくて、僕はとても嬉しい!これは看過できないことが起こるぞ!

テレフォニアは今日もバリバリやった!愉快やった!なんか前書いたかも知れないけれど、こんなにみんながみんな輝いているバンドを僕は他に知らない(エヘン

次のピアノの人もよかったなぁ。染みるわ。あれはあれでしょ?ラグタイムブルースってやつでしょ?分かってるんですよ!(エヘン よかったなぁ。糖質ゼロの、ええ音楽でした。

次の人がくせ者で、僕はものすごく感激しましたよ!キングオブおっさんの称号は、この方にこそふさわしい!彼は、おっさんの言葉を獲得し、じぶんの血肉かよったものにしてるんですね。ピング街、ソープなどが、溢れ出さんかぎりの意味になって、うたわれてしまうのが、本当にすばらしい。男の子はみんな、こうなればいいんです!

満を持して、バンバンボリーズが登場しました。聞き込めば聞き込む程、どんどん良く聞こえてしまうなぁ。それは、何か、彼らがこの音楽に至るまでの必然性が見えてきたからだと思います。ふざけているんだけれど、全くふざけていない。そして、そのことを支えているのが、曲が出現するにいたる過程であり、実際のドラマであり、諦めであり、辛さであり、喜びであったり、それが裏打ちして、 できあがった曲ということが、よく分かる。ますます分かるような気がします、てね☆ ハハハハ、ああ、そんなこと書いてしまった…。

ライブが終わり、いろんな人とだべり、その過程で、シャラポア野口の持ち歌である、「ファイアー点火」を披露したりした。そう、明日シャラポア野口ネガポジでやるので、よろしくお願いします!是非来てください!二番目です。明日は森上さんなど、素晴らしいアーティストと対バンさせてもらって、恐縮だなぁ〜。緊張してきた!そうすると、いつのまにかライブハウスに来ていた外国人が、めっちゃ褒めてくれた。

グレイトグレイト〜!
の〜の〜の〜アイムスカム!アイムガーベッジ!アイムガーベッジアンドガーベッジアンドガーベッジ!
スカム!?ホホホホ!ノーノー!ユーアーユニバーサル!
ユニバーサル!?の〜〜の〜の〜の!アイムボトム!ボトムオブボトムオブボトム!(ここで僕は地にひざまずく)
オケェイユーアーボトム!バットザッツミーンユーアートップ!
トップ!?ノノーボトムボトムボトム!!

この応酬を繰り返していたら 、いつのまにかお互い土下座してしまった。

彼はどうやら、バスクからやってきた、オーガニックファームを経営する人らしい。自分が尊敬するフクオカというオーガニックファームの理論家がおり、その人に会いにきたのが一方で、もう一方は、自分は前世ではモンゴル帝国の戦士として、多くの人を殺したので、そのカルマを禊ぎに「アマテラステンプル」にお金を納めに行かなければ行けないと言っていた。はえ〜。「アマテラステンプル」とは、伊勢神宮のことだろうか。そうなると、和歌山じゃない。三重だ。そう教えると、ものすごく感謝された。オーガニックタバコをくれた。あーちゃんが吸ってるようなやつだ。これが上手い!あ、決してマリファナとか、そういう類いではない。よく聞いてみると普通のアメリカンスピリットである。彼はブルースマンだそうで、ジミヘンの顔が描かれたチラシを見てここに来たらしい。(ほら見ろ!ジミヘンはブルースじゃないか!謝れ!)彼はニーナシモンが好きらしく、彼女のスペルを、ナフキンに書いてくれた。僕も敬愛するコレット・マニーのスペルを書いて、交換した。彼はおしゃべりが好きと見え、ずっとニーナシモンの生い立ちをしゃべってくれた。
京都のことも語ってくれた。俺はお坊さんの説教は分からなかったけど、なぜなら俺は日本語を解さないからだ、ナハハハハハ!だが、「ビックアミダ」にあって俺はびっくりした!そこで瞑想をした。すると、光が満ちあふれてきて、俺は、光の世界にいた!オーグレイト!!ぼくもインド言った時に沐浴したネー!川がこーあって、ブァサー!バースサン!!オケェイ?リバーヒアー!ドランク!ヴァサー!バースサン!(太陽が生まれた!)ハハハハハ!

彼はブルースマンだから、即興でブルースが作れる。歌詞なんか全て即興だ。日本のことを歌っている。
 俺は左利きだから〜
 お父さんに矯正された〜
 なぜならそれが教育だからだ〜
 教育ってむずかしい〜     (日本語訳)
…これは彼の生い立ちの歌だけど、 ちゃんと日本のメディテーションのこととかをふんだんに歌ってくれた。

それに対抗し、僕は僕の持ち歌で責める。

 俺の朝ご飯は いつも牛乳
 変な顔のやつが  搾った牛乳
 変な顔のやつと 過ごしています
 こいつはめちゃ汚い どこからどこまーでー

 baby 産みてぇ
 baby 産みてぇ
 baby 産みてぇ
 baby 産みてぇ

この曲は、「俺はさむらい」といって、自動車教習所の合宿の時に作った曲である。確か、僕はこの時に、赤ちゃん産みたい、赤ちゃん産ましたいなぁ、とずっと友達に呟いていたらしい。そういう過程で、この曲が生まれたわけだが、恐ろしい教官が、私の部屋にやってきて、おまえら、ここは楽器禁止や!と言われ、 悲しい思いをしたことがある。音楽を作りに合宿に誘われたのに…。

もう一曲「ファイアー点火」を英語で歌う。

fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
 fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
 fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
 fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
 fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
 fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
 fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
 fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)
 fire burst fire burst fafa! (ファイアーが炸裂した、ファイアーが炸裂した!ファファ!)

イナフ!!って言われちゃった(>.<)

2012年2月21日火曜日

2/20
何したっけなぁ〜?八時ぐらいには起きました。早起きさんですから!今日は十二時まで寝てしまったけれど…。今日は変な夢見ました。でも、その変な夢の内容が分からない…。なんかそんなことばかりだけれど、僕は、そのことを、力強く反復するのであった。哲学者の国分功一郎は、このようなことを言っている。
 本書(注・スピノザの方法)のもとになった論文はたしか二〇〇一年ごろに書き始められた。一度書き上げられた論文は二〇〇四年に行われた自前の審査会で完全否定され、私はもう一 度最初からすべてをやり直さなければならなかった。あのときに私は、生まれてはじめて挫折というか、何かを投げ出したい気持ちになった。博士論文の後書き で指導教員にお礼を述べること。とりわけ「先生のお力添えがなければ私はこの仕事をやりとげることはできなかった」と書くことは常套である。私はしかしこ の常套を、力を込めて反復せねばならない。あのときに私の気持ちを察し、本当は何と闘うべきなのかを態度で示してくださったのが森山先生である。
俺は力強く今日の白身魚のフライに感謝を述べるぞ!こういう反復ができんやつが鬱になったり、ニヒリストになったりするんだぞ!わかったか?

昨日は八時ぐらいに起きたけれど、なんだか悪寒がする。昨日の山本精一の言っていた通りのことが起こったのかぁ、と思い、ビビったまま、寒かったので、蒲団から出れなくなった。

フライ盛り
これじゃいけない、カロリーをとって、内から暖まろうと、丸ニ定食へ、フライ盛りを食べに行く。 この定食やさんは、とてもおいしい。少し遠いけど、薬屋さんへ、トイレットペーパー買いに行くついでにいったれ、と思ったので、薬屋さんにいくついでに行った。ここのフライ盛りは、仰山フライが盛ってある。これでお腹いっぱいにならないことはあまりないだろう。そして、おいしいのですねぇ。しかも安いんですねぇ。580円で食える。ありがたいですわぁ〜!

丸二に入ったら、なんか学生さんが仰山いる。なんでだろ?院試でもあったのかなァ?こういう学生さんは大概話しがゲスい。前は高校出たばかりの女の子とヤリまくってるでヒャハハハハ!みたいな話しばかりしていた。同年代ぐらいなのに、こんなやつもいるのか…、と思い返してみると、中学校時代の友達とかも、グリーとかモバゲーとかで引っ掛けた高校生としゃれこんでる、とか競馬好きの中森くんから聞いた。はぇ〜。今日の会話は、なんでもFカップの作り方だとかなんとか。女の子を太らせたら、ポテンシャルがあれば、そっからやせたらそうなる、みたいな話しをしてた。

家に帰ると、吾妻ひでおの『やけくそ天使』が届いていたので、読む。これがめちゃくちゃ面白い。適当すぎやろw その適当さの痕跡が、まんがを書くという手触りになって返ってきてしまうというのが、またおもしろい。

昨日買ってきた小島信夫作の戯曲『どちらでも』 を読む。これも変わった戯曲だなぁ。夫婦二人が延々しゃべっている。しゃべっているうちに、いつのまにかこの夫婦は別の夫婦の演技をする。舞台上で、別の夫婦の演技をする、ということは、別の夫婦になったことと一緒じゃないか!見事だなぁ。男が別の夫婦の妻の演技をし、女が別の夫婦の夫の演技をし、饒舌にまたしゃべり出すところもまたいい。

すこしやる気が出てきたので、谷内くんとのユニット「天井」の楽曲作りの作業をしこしことする。

2012年2月20日月曜日

チャック

2/19

起き抜けに、昨日の総菜のカキフライと白身魚のフライをおかずにご飯を食べる。今日もありがとうございます。

スピノザの方法の残りを読む。これは本当にいい本だ…。
神の状態の描写について。われわれは同じく第三章にて、スピノザがコギトを再定式化するにあたって説得というモーメントをそこから完全に抜き取り、コギトの論理ないし根拠に代えてコギトの状態の描写を置いたことに注目した。コギトの論理ないし根拠は、この状態の描写より導かれるようになっていた。コギトの論理ないし根拠は、この状態の描写より導かれるようになっていた。『エチカ』冒頭の神の観念の扱いはこれに完全に平行している。つまり、神の論理的構成を正確に描写することが最初の課題であり、その存在はそこから導かれるものになっている。ということは、神の観念へと到達することで知性の自動運動を引き出すという『知性改善論』以来のスピノザの方法、『エチカ』において完成されたスピノザの方法は、再定式化されたコギト命題の場合と同様、説得というモーメントを完全に欠いていることになる。それは神の存在を否定する者たちに向けて、彼らを説得するために書かれているものではない。

コギトというのは、まぁあれだ。自分だ。「ワレ思うゆえワレあり」ってやつです。 神の存在証明をする時、デカルトは既存というか、文化的解釈というか、一般に広まっている「神という概念」を使って、説得しようとしている。スピノザの場合は、神という概念は何を指しているのかを問い、神を描写しようとしている。「神はこういうわけでいるんやからしゃあないやん、いるやん!」ではなくて、「神って結局どんなんやったっけ?」という話しです。あんまり言い過ぎたらアホが露呈するな…。でもこの本は親切に何回も反復して説明してくれたので、助かりました!

あとがきがまたいい。
本書のもとになった論文はたしか二〇〇一年ごろに書き始められた。一度書き上げられた論文は二〇〇四年に行われた自前の審査会で完全否定され、私はもう一度最初からすべてをやり直さなければならなかった。あのときに私は、生まれてはじめて挫折というか、何かを投げ出したい気持ちになった。博士論文の後書きで指導教員にお礼を述べること。とりわけ「先生のお力添えがなければ私はこの仕事をやりとげることはできなかった」と書くことは常套である。私はしかしこの常套を、力を込めて反復せねばならない。あのときに私の気持ちを察し、本当は何と闘うべきなのかを態度で示してくださったのが森山先生である。(中略)その森山先生から何度も繰り返し伝えられ、そして結局乗り越えられなかったのが、「國分さんはスピノザをひとりで読んでいる」という指摘である。本書の結論はいつの間にかこの指摘への応答になっていた。だが、自分ではなおも「ひとりで読んでいる」とはどういうことなのか、また。「誰かと一緒に読む」あるいは「誰かと一緒に考える」とはどういうことなのかわかっていない。私はおそらくそこに到達しなければならない。
今日はこの文章だけでも覚えて帰ろう!

その後、京阪に乗り久しぶりに大阪は扇町へ。バンドが空中分解してから、京都を離れどっか行く機会が全くなくなったので、この大阪行きはいつぶりなんだろう。実はちょくちょく行ってそうなんだけれど、なんだったかな〜。京阪電車でチュツオーラの『やし酒飲み』をニヤニヤしかながら読みました。
わたしは、十になった子供の頃から、やし酒のみだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。
父は、八人の子をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒飲みで、夜となく昼となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまった。
父はわたしにやし酒を飲むことだけしか能のないのに気がついて、わたしのため専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた。彼の仕事は、わたしのために毎日やし酒を造ってくれることであった。
その後一ページでやし酒造りの名人は死に、でもそんなにすぐに天国にいくことないやろう、と思って名人の魂を捜そうと、神の住んでる家に行きます。神の住んでいる家やから、気軽に入ったらあかんと思ってたけど、そういえば自分も神やったから入り込み、老人(神)に誰やねんお前と聞かれて、俺は神々の<父>だ、と答え、それやったら死神捕まえてこい、と老人(神)がいうから、私は鳥になり、死神の家に行って縄をかけて捕まえて持っていったら、老人(神)は私(鳥)にそんなんもってくんな、と言われたので彼(死神)を放ししてやり、そこから人々は、死神を恐れるようになったのです、ワロス。黒人はやっぱりいいなぁ〜、友達のあーちゃんは、友達が黒人ばかりで羨ましい。友達が黒人とか、勝てない。いいなぁ〜、ペニスとかもでかいんだろうなぁ、そんなんやったらどうなっちゃうんやろうと思いながらトイレに行くとおしっこするところのボタンがいきなり取れた。こんなんヤバいやん。変態みたいやん。いちいちチャックずれてくるし、ずっと股間を気にしやなあかんだ。まぁそれもなんか大阪らしい。

扇町にあるような天神さんの商店街は、おいしい食べ物がいっぱいあります。うなぎが500円のチェーンが大阪にあって、大阪でライブをする時は、よく行ったものでした。それをこの日も覚えていて、よし、500円でウナギ丼が食べれるチェーン店にいったろか!となったので、そのうなぎのチェーン店でうなぎを食べた。大阪人は商売上手で、ひつまむしとかあるで、1.5倍増量できるで〜とか言いはるから、ついそれにしてもらって、800円払った。うなぎ久しぶりでうまいがな〜!お茶のおかわりをもらったらめちゃくちゃ熱くてやけどしてしまった。

この天神さんの商店街は、古本の町でもあります。いい古本屋がいっぱいあるにゃがな〜!一日中いても、あきないでしょう。商いだけに。ここで、蓮實重彦の『映画 誘惑のエクリチュール』と、松浦理英子『優しい去勢のために』を安くで見つけたので買う。次の古本屋さんでは、なんと小島信夫の本がたくさんおいてあるのでビビった!しかも相場よりも断然安い!小島信夫の本はプレミアがつきやすく、一冊一万円の本とかもある。「タコ」とかいう本は17万ぐらいしたはず…。ここでまたお買い物をしてしまう。『どちらでも』『階段のあがりはな』『夫婦の学校 作家の眼』を買う。三番目の本は、小島信夫が家庭裁判所で取り扱ったような事例にコメントしていくようなやつで、何やっているんだ小島信夫!?ところで、ここで古本のお買い物をしていると、お金が全くなくなってしまった。 ライブ見にきたのに!

ライブハウス「ムジカジャポニカ」に到着したときは、5人ぐらい人が居たけれど、すぐに行列ができてきた。開場ちょっと前に山本精一みたいな人が、店の中に入って行った。20分ぐらいしたら山本精一が出てきて、「ちょっとリハおしてるから、小雨ふってるし、風邪ひくから、どっかいってたほうがいいで」とアドバイスをくれた。

ムジカジャポニカの中はなんかなつかしい匂いだなあと思ってたら、これは、インドをモチーフにしとるんやな、そんな香りがする。カレーとかチャイとか売ってるし、みんな食べてるし。僕も食べたらよかったんかな。ビールもらったけど。

割と狭い店なので、本当に間近に座った。坊主の人と、あきらかにナードな人に挟まれていた。ほんまに変な人多いなぁ。若干アレやわ。でもカップルも多かった。高校生のカップルみたいな連中もいた。それはそれで、なにがなんだかわからない。

ゑでぃまあこんを生で初めて見たのだが、本当に良かった…。生で聞くと、繊細で多様な音がどんどん奥へ奥へ連れて行ってしまう演奏だったなぁ。そういう音は、やっぱり生じぁないと聞こえない。息づかいみたいなものだからなぁ。

次になんか山本精一が出てきた。谷内くんとこの前山本精一について話していたのだけれど、「あいつは、あんな感じやのに、めっちゃ人が来る。しかもゆるふわ的な女の子とかが来る。それがすでに倒錯しとる」ということを言っていた。まさにその状況みたいな、適当なギターカッティングで歌を歌い出したので、思わず笑ってしまった。ええなぁ〜。珍しく羅針盤の曲「波」や、新曲まで飛び出し、最後は「自分が一番好きな曲です」と言って、「男はつらいよ」を歌い出した。さすがに、後で「いや、60番ぐらいやな」とか言ってた。 この人の弾き語りの展開は、エキセントリックでかつ適当で、演奏とはどういうことなのかを結果的に問い直しているともいえるが、詐欺師という声もある。そしてまぁ、歌の対象が大きい。「第三ロック」とか、存在について歌ってしまっている。
あたまがよくなる
クスリを飲んで
ますます悪くなり
みんなで共倒れ
欲望のための
欲望を求めて
人間のための
人間の喜び
ちゃうわこれじゃないわ。
 体を捨て去り
魂を消し去って
永遠永劫の
存在の極北へ

始めることでしか
終わりを持てない
何者でもないオレと
どこでもない場所へ

ああ
気が触れたことを
知ることを
とりあえず夢と呼べ
「今日はt=レックスいれてやります」とか言ってやってて、めっちゃかっこ良かったけど、こんなんかっこええと思って生きてたら、ますます人生が迷路みたいになってしまうような気がする…。半分追っかけみたいになってるけど…。山本精一と話しがしてみたいなぁ。マジで。山本精一さんとお話しがしたい! 別にファンとかじゃないけど、ちょっと興味あるな。ネガポジで呼んでくれへんかなぁ〜?(チラッ

2012年2月18日土曜日

2/18
ところで、先日谷内くんに、「日記をまとめて書くんじゃない!書けなかった日は捨てろ!」と言われ、まぁそういうものだろうかなぁ、と思いながら、日々を過ごしていたのだが、その日のことを書くにしても、その日が、書けなかった日にしみ込んでいることに気がついたので、これはどうしようかなぁ、と思いながら、結構経ってしまった。

ざっくばらんに言って谷内くんは、「お前はその日という世界に生きており、それはその世界以外の何ものでもなく、外はない。具体的に言うと、お前は昨日やおとついに生きているのではなく、今日に生きているのであるから、そのことだけを考えるがよい。他の世界について考える必要は全くない。そこにいるお前は、他者なのだから。」 みたいなことを言おうとしているんだと思う。(明日の自分は自分じゃない、とか言うし。)もちろん、私は今日生きている訳だから、今日という世界の外には出れないし、想像することもできない。悲しいことだ。



ノート

世界1(2/11ー12)
例のごとく読書会である。本の内容というよりも、僕の言葉伝達のリハビリのために行っているようなものだ。コンスタティブというか、普通に理論を理解してもらう為には、ある一定の教養を共有しないといけないのだけれど、みなさんが各々自由に生活を営める世代だからだろうか、そういうものがないから、言葉を使うことも難しい。物事についての相互理解をすることができる、というのが意味の生成だとするならば、言葉はどんどん意味を失っているし、薄っぺらい。そもそもの議論の手応えもない。
「時代が変質して、作家も変質した。自我が弱くなった。戦争体験をかろうじて持っている僕らは、日本の戦後の青春時代である高度成長期に、自分の青春が 重ねられた。歴史がもたらした配合の中で、それぞれ新しい願望や新しい欲求を、無意識に強く抱えていたからこそ、あの時代の作品が出てきた」
これは石原慎太郎の言葉だけれど、強い前提(例えば戦争体験)だとか、何かしらの訓練があったから、まあそれはトラウマだとか形がとかになり人間を縛られるのだけれど、その諸関係からしか意味は立ち上がってこないのかもなぁ、と思ったりはする。他者との関係性がないと、他者としての世界に入って行かないと、そもそも意味が存在しないことになる。
  
夜は、多いに呑んだ。みなさんは、先週の呑みの後、割と大変だったらしい。野村さんは電車の中で吐き、しかもその電車は乗り間違えで、終点から引き返したとか。お酒が弱いけれど呑みたいので、トイレへ定期的に吐きにいっているらしい。

その後また、例のごとくカラオケへ。同世代なので、カラオケの選曲も若いのである。ミスチルやラルクが僕らの共通理解ということになるのだろうか。また性懲りもなく、ウイスキーを持ち込み、コーラで割って呑んだ。 例のごとく、姫も祇園からやってきて、ケーキをごちそうしてもらった。

家に帰ると、あのバンバンボリーズでベースを担当している佐伯さんとムラカミマイが寝ていた。やっぱり、どうしても、酔っていたので、人が居ると嬉しくなるり、絡んだような気がするが、佐伯さんは、防災訓練に行くとか何とか、謎な感じで、すぐ居なくなった。僕も酔っているので、すぐ寝た。

12時ぐらいすると、佐伯さんが帰ってきた。フリスビーを持ち、フリスビーしようぜ!と言った。いいじゃないですか!と僕は言った。でも、僕はなかなか蒲団から出なかったような気がする。佐伯さんは、ギターを携え、枕元でいろいろ歌を歌ってくれた。エンペラーめだかさんの器用貧乏の曲がとても良かった。うたの手応えが確かにあって嬉しくなった。
器用貧乏が街を歩いてんだ
どうしようもない言葉くりかえしながら
器用貧乏でもおまえらちゃんといきてんじゃん…
みんなで御所に行き、フリスビーを投げることになった。その前に、お昼ご飯を食べることになった。僕は、昨晩500mlのウイスキーを一本開けてしまったので、 割とダウンしていた。だからグズグズしてたんだな。

御所の横に、妙なパン屋さんがあったのを思い出したので、パン食べるんやったらな、そこ行きましょうよ!と、提案したので、そこに行った。行ってみると、とてもいいパン屋さんだった…。おいしい匂いや、どうも本格的なパンのオーラが見える…。奥にはパン工場が見える。でも、僕は、胃がウイスキーにやられて、うどんしか食えない状態だったので、買わなかった。二人は、割とぎょうさん買っていた。

御所に行ってみんなは森の中にある変な広い空間に居た。僕はトイレに行っていたので、見失う所だった。そこで、ムラカミマイさんから、実はいろいろパンを貰った。それを僕は食べた。とてもおいしかった。グラタンパンみたいなのがものすごくおいしかった。ありがとうございます。そこで、土掘りなどして遊んだ。ちょっとエキセントリックな所のあるムラカミマイさんは、考古学者ごっこと名付けた。あの土地を頑張って掘れば、きっと、天皇の使っていたお椀なんかが出るんじゃないか。やっぱりそれは、田園で育った、田舎者の発想なのだろうか…。田んぼを歩き、下を向くと、おわんの破片があることがある。それは、昔洪水で、家が流された時に、流れ着いたおわんの果てだと思っていた。田んぼのある所は少し地面が低くなっているから、さぞかしよく流れることだろう。でも、その発想は、田舎者の発想なのだろう…。京都で洪水が起こったとしても、田んぼがない…。

御所で遊び倒した後、歩いて祇園の方まで行った。道中みんなはジャスコでお酒を買った。さすがにボクはお酒を呑めないだろうと思って控えたが、お二人は平安神宮あたりにある堀みたいな変な河辺でお酒を呑んだ影響で、アレは割と酔っぱらってたんじゃないだろうか?佐伯さんは言うても普段クールな人なんだろうけれど…。

祇園では、ライブハウス、シルバーウィングスに行った。この日のブッキングも、とても良かった。テレフォニアには目から鱗が出た。こういうやり方もあるんだ…!的な鱗の出方だった。あれは一応ミクスチャーになるんですかね?大所帯なのに、それぞれがそれぞれ輝いていていて、あれは一種の群像劇ですね!その日は、モルグモルマルモさんの人たちともお話させてもらった。この人たちもいい人たちだ!よく一緒に飲ませてもらっている出版社勤務の女性の旦那ともお話した。なんか知らん間に、モルグモルマルモでベースをやっているアベさんにビールをおごってしまった。ナハハハハ!その後、テレフォニアの皆さんと朝まで川原でなんかして遊んだ…。俺たちは河原者、ヤクザだ!

世界2(2/13)

世界3(2/14)
ネガポジに行く。久しぶりに谷井さんにあったけれど、あれはもしかして嫌われたんじゃないかなぁ? 京大のあの界隈には、繊細な人が多くて、僕も気をつけないといけないと思っていた。そのこととは関係なく、谷井の彼女(?)に噛み付かれた。嬉しいのか悲しいのか…。バンバンボリーズのライブは、いつもよりもグルーブ感が1.5倍増で良かった…。さすがバレンタイン・デイである。バレンタインといえば、ペテンズの皆さんと、ディープキスをした。とても気持ちよかった…。そのことを谷内くんに話したら、キスで気持ちいいってどういうことや?と言った。谷内くんはプレイボーイなのに、キスで感じることがない…。なんかこの日のことはあまり覚えていない。ムラカミマイさんがなぜか持ってきていた山椒がおいしくて、今も舌に記憶として残っている。

世界4(2/15)

雪がぱらついていたので、いろいろな歌を思い出した。お昼は回転寿しを食べた。

世界5(2/16)

世界6(2/17)
昨日、図書館から借りてきた、国分功一郎『スピノザの方法』を読みふける。これは本当にいい本だ…。ラモンテヤングを聞きながら、一日中こればっかり読んでいる。

行こう、行こうと思いながら、全く行けていなかった、イーストウッド最新作『j=エドガー』を見に行く。 イーストウッドは天才だ…。まずこのような気持ち悪い映画を世界規模で、商業、というかシネマコンプレックスに於いて大々的に公開できることがスゴい。これは事件だろう。ゴダールとかは半分無視されているというのに…。イーストウッドが、ディカプリオを気持ち悪く使って、このような映画を撮るということが、すでに何か皮肉というか、映画業界に対する手紙みたいな気がする。それにしても、社会に生きる人間の一代記を、しかも懐古するという行為の痕跡を存分に残しながら(つまり嘘だとか、忘却だとか、幻覚だとか…が出てくるわけで)描かれているこの映画は本当にスゴい。アメリカ映画にありがちな感動のタッチで描かれるところの場面が物凄く醜かったりするところなんて最高だと思う。そういう感動の人物伝記描写を維持しつつ、でも手放しにその感動にありつけない感じが、まさにヒューマンドラマというか、ホーム(FBIの話だけれど)ドラマというか…。園子温とか見てる場合じゃないですよ!!

映画館を出たら、吹雪いていて、びっくりした。いきなり一面銀世界だ!こんなことがあるのか!メガネも曇るし、滑りそうになりながら、ヒーヒーと帰った。



昨日は 白石民夫が新宿カリオン橋の上で何かやっていたらしい。友達は、それを見に行くことができたらしくて、いいなぁ〜。「新宿という街が何なのかをあぶり出す演奏だ。例えば、灰野敬二の即興は、空間が完全に灰野敬二に染め上げてしまうものだけれど、白石民夫は全く逆だ。音楽は新宿に完全に従属し、新宿が音楽になる。結果的に、新宿という街に驚く。それをあぶり出す白石民夫も、彼自身は透き通っているが、だからこそすごい。」というようなことを言っていた。僕も動画を見ていて、なんとなくそんな感じはしたけれど、生で見たら、どんな思いをしたか、気になる。うーん、本当に気になる人だ。



2012年2月14日火曜日

ダンナ

二月十三日

一日中寝て過ごした。本当に一日中寝て過ごしたのだ。こうなるともう仕方がない。でも仕方がない、物凄く疲れて帰ってきた訳だから、そりゃそれだけ寝るわけだ。でも、疲れたらこんなに寝るものだとは思わなかった。別に普段ぜんぜん寝ていないという訳ではないのだが…。

これだけ寝ると、夢を二、三個見た。二、三個みたけれど、全く覚えていない。二、三個夢を見て、ああこんなにすごい夢を見たのだなぁ、という気持ちになったのだが、全く覚えていない。僕は、悪夢やいい夢を見ることは少なく、でもいい夢か悪い夢なのか、と言われれば、若干悪い夢を見ているような気がする。きっとこんな生活ばかりしているからだ…!でも、その夢を忘れたので、仕方がないと思いながら、こういう夢にしておこうと、少し考えたのだけれど、その方の夢も忘れた。どうして僕はこうやってウダツの上がらない生活をしているんだろう…。夢の一つも覚えられないなんて、僕はどうかしているんじゃないだろうか?このような形で生活が出来るのだろうか?先日シルバーウィングスのボスに「お願いします!雇ってください!」と頼んだけれど、なんかやんわりと断られ、「お前たちは発想が柔らかいから偉いなぁ、すごいなぁ。」とたくさん褒められたけれど、僕は発想が豊かではなくて、普通の人が普通に気がつくような、そういう用件についてなんでこういうことを考えているんだろうと考え、こういうことはしてはいけないよな、ということを言っているだけなので、誰でも出来る。というか何もしていない。早くまともな生活がしたいけれど、でもこんなことではできそうもないし、理想の生活がなんなのか全く想像できなくなってしまった。こんなんじゃいけないよなぁ。こんな僕でもなんとか生きていきたいから、どうやって生きていこうか…。東京にいる友達と古本屋でもやろうか…。もうそうするしかないような気がしてきた。それにしても、ちゃんとサラリーマンをする方が、絶対的に偉いじゃないですか!あんなにたくさん働いて、責任ある身分で、クレジットカードも使えて、いいなぁ。いいなぁ…。僕も責任ある人になりたい。責任感は強いので、そういう人にはなれるだろうけど、どうでもいいことにどうやって責任を持つことが出来るんだろう…。そんなことを言い出したら、全てがどうでも良くて、一様に美しいんだけれどね!でも、どうでもいいことに責任を持っていたって、何にもならないし、第一生活ができない…。中原昌也も、お金にならないことは、社会的に求められていないことだから、ええねん、といってライブをすることを辞めたらしいけれど、あの人は機材持ち過ぎだからなぁ。トランク二つ分の荷物を持って、ライブするじゃないですか。友達は「そういう方向で、つまり、自分を埋もれさせる方法で自我をなくし、無心になるような方法は90年代的なサイバーダムだ!」みたいなことを言っていたけれど、僕はあの人のことが好きですね。本当にいい人だ…。第一モラリストだからなぁ。僕の道徳は中原昌也みたいな普通に正しい人によって作られているような気がする。90年代のある種のサイバー雰囲気を共有しているとはいえ彼はオザケンとかフィッシュマンとかとは正反対だけれど…。そういう感じの人はやっぱり山本精一とかはダメ、みたいな風になってしまうのだろうか。オザケンとかのような、あの時代のユートピア精神というか、どこまでもどこまで、おもしろい音楽が続いているんだ!みたいな感じはとてもいいですけど、山本精一はそんなんあおり立てないもんな。精一も詐欺師ですけどね!でも彼はバンカラやからええんやろうな。ええ、というか、少なくともフェアやろうな。友達は詐欺師みたいな顔しとる、とか言ってたけど…。面白いことなんか、起こりっこないですよ!でも、それでおもしろいやん!ああいう90年代の流れは、確かに踊れたりポップやから踊れてポップで夢があって、実用的やけど、もう労働は嫌やねん!世界一のクラブミュージシャンを見に先輩方と京都メトロのライブにいったけど、踊れて楽しいけど、そこには何もなくて退屈やのに楽しいということが、ものすごく怖いねん。脅迫的やねんな。人間って、何かにのめり込むことは、ないと思うよ?何やってもそれなりにおもんないやん。なんでそのことに目を背けるかなぁ?あ、楽しいからか。ハハハハ…。後でダウンして、うわぁ嫌やわぁ…ってなってもまぁまた買うし、明日も仕事頑張ろう!という風にサイクルが回ってきたけれど、もうそういう風なサイクルがある種なくなったのが2000年代で、まぁそれは単純に、まんが・アニメとか別のさらに消費されやすいジャンルに行っただけの話なんだけれど…。いや別に嫌いじゃないですよ?西尾維新とかええやん!あの無意味さが本当にいい!もはやセリーヌやん…。それは違うか(笑)。西尾維新はおもしろがって読む人いるもんな。でも、なんでもかんでも商品を作らなければいけない、という風潮は本当にうんざりなんだよ!そうなってくるとまだ山本精一のほうが潔い。そういう方向性の上で、先日見たモルグモルマルモも本当に良かった…。パッケージングのような、これしてこれしてこうしたら、素晴らしい!合格!みたいな音楽じゃないし、何か強烈な物語でメロメロにしてやろうという気もない。カタストロフもないが、それだけに、そこにバンドがある、という手触りがあって本当に良かった!そして、とりあえず/なんとなく私たちを踊らさせてくれる良質さも共存している。僕は心底憧れたね!これからも、生きていることにそこまでやる気を出さずに、だけど人間として誇りを持ち生き続けている人間に会っていきたい。他者の為に行動し、だけれど、完全に社会と同化しない(そんなん誰でもしようがないんだけれど)ような人が、やっぱりまともな人間で、話も通じる。音楽でもなんでも、手紙みたいなものじゃないか!と、僕は小島信夫から教えてもらったけれど、信夫さんは小説家だけれど、いい人だよなぁ。『残光』という本が、一冊400円で売っているので、いいなぁ、安いなぁ、と、今日本屋行って思いました。世の中を良くして行く為には、ちゃんとした所にお金を使おうよ!って確かベンヤミンも言っていました。そしたら支持する人にお金が入って、支持しない人には、お金が入らないんですよ!わあ!投票よりスゴい!僕たちにはもはや他者しかいないので、他者とお話しすること(と日記を書くこと)ばかりやりまくれ!と友達に言われました。

2012年2月11日土曜日

二月です

二月四日
バンバンボリーズの佐伯さんと御所でひなたぼっこをした。缶コーヒーをごちそうになった、ありがとうございます。変な木の下で写真をとってもらった。俳句詠めやオラ!とか僕が仕向けたんだろうか、俳句を詠んだ。

労働者石のびちじみ咳一つ

老木ズタズタズタズタ少年愛

とかなんか共産党員みたいな句が出来ててびっくりする。これじゃ文学みたいだ、と笑い合う。

読書会で読書する。
直線的文字(エクリチュール)の終焉は、まさしく書物の終焉である。たとえ、新たな文字表現(エクリチュール)ー文学的であろうと理論的であろうとーがどうにかこうにか包摂され得るのは、今日でもなお書物という形式においてではあるとしても。しかしながら、問題なのはこれまでに記述されなかった文字表現(エクリチュール)を書物という包摂に委ねることではなく、けっきょくのところ、すでに書物の行[直線]間に書かれていたことを読み取ることである。それゆえわれわれは、行[直線]なしで書き始めることによって、また過去の文字表現(文字表現)を空間の別の組織化にしたがって読み直す。読解の問題が今日学の全面を占めているとすれば、それは文字表現(エクリチュール)の二つの時代間のこの宙ぶらりんな状態による。われわれは、別な風に書き始めるがゆえに、別な風に読み直さねばならないのだ。
一世紀以上のあいだ、哲学、科学、文学に関してこの不安定さが認められるが、それらのあらゆる変動は、徐々に直線的なモデルを破壊する衝動として解釈されねばならない。そのモデルは語り的 [叙情詩的]モデルだと言おう。
つまり、2000年ぐらい経って、今ある安定した科学的世界観(直線)が更新されたら、僕らの認識とか書き物が叙情詩みたいになるんだねヒャッホウ!僕たちも、大きな人になろう!

流れでカラオケに行く。隠れてウィスキーを持ち込みながら歌う。おお、なんかこういうノリ、何かよく分からないけど、若い!?ORANGE RANGEやスピッツやミスチルなんかを歌い出す。なんかここらへんは、古い?でもORANGE RANGEは偉いなぁ。「上海ハニーと浜辺社交ダンス/見つめっぱなしたまんねえ女神/あ、なんか、君のこと良く知らないけれど/なんかときめいてマス」とかはザ☆庶民という感じがしてすごく偉い。こういうチャラオ?はたぶんとてもかわいい。でも叙情性がないから、ミスチルに取って代わられたんだろうな。でも今はキャリーパミュパミュとかいう人らしくて、あれは確か田中ヤスタカですよね?えらいなぁ、田中は!東京ブギウギから続くダンスミュージックの系譜は、脈々と続いていますよ!服部良一さん!でも、僕はやっぱり桑田ケイスケなんですねぇ〜。案の定、途中で姫も祇園の仕事が終わってやってきたけれど、もうどうでもいいや!

二月五日
呑んだ次の朝というのは、めちゃくちゃになる。佐伯さんが言うように、寝る前にうどんとか食っとけばよかった。起きた後も全然頭が動かないです。

六日
今日が期限のレポートがあったので、急いで書く。五日は全く頭が動かなかったので、ダメなんですね〜。ROVOを聞きながら書く。俺はまるで人力トランスだ!

七日

八日

ボーと本を読んでると、ブァーってバンバンボリーズの佐伯さんとムラカミマイが僕の家にいらっしゃった。ネガポジでガァーって呑んでたみたいだ。ムラカミマイさんのテンションがブァーっと高い。さえきっちは、すぐ寝てしまった。なんやねん、こいつ!人の家に居たら、すぐ寝る人か!人の家におじゃましたら、すぐ寝るタイプの、人間か!ムラカミマイさんが、「うわぁー!ハッピネス!」とかおっしゃり、小島信夫の『ハッピネス』を手に取った。「せやねん、小島信夫は一番偉いねん、偉いねん!」といいながら、朗読させて頂いた。

反復と追憶とは同一の運動である。ただ方向が反対であるというだけの違いである。つまり、追憶されるものは。既にあったものであり、それが後方に向って反復されるのに、本当の反復は、前方に向かって追憶される。だから反復は、それが出来るなら、人を幸福にするが、追憶は人を不幸にする。キルケゴール
( ってエピグラムやったわ!ハハハハハハ!!)

三月に入って間もない頃、一通の手紙がいまいましい広告印刷物の束の山の上に宝石のように光り輝いて、ポストの中から出てきた。
ポストの蓋をあけて絶望的になるのは私用の手紙が今日もゼロだということだ。ところが今日はどうだ。数えてみればMと別れてから十五年以上になる。その男からの手紙なのだ。これは奇跡というよりいいようがない。幸せなことにその男から因縁をつけられるような悪いことはした憶えはない。(ハハハハハハ!)
手紙の中に書いてある、ぼくはあの後、あなた方と別れてアイルランドへ渡り、そこでアイルランド娘と結婚して男児二人をもうけ、今はカナダのE大学にいる。今度われわれの特権であるサバティカル・リーブというやつで賜暇で日本に戻ってきた。
このあたりで、ムラカミマイさんは、「あたしムラカミマイ!」とおっしゃった。 藤枝静男の『空気頭』が目に付いたようなので、それも朗読した。
 二十代の終わりころ、瀧井孝作氏を訪問すると二、三百枚の本郷松屋製の原稿用紙を私の前に置いて「これに小説を書いてみよ」と云われたことがあった。そして「小説というものは、自分のことをありのままに、少しも歪めず書けばそれでよい。嘘なんか必要ない」と云われた。私は有難いと思ったが、もちろん書かなかった。そのころの私には、書くべき「自分」などどこにもなかったから、書きようがなかったのである。
私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う。
私は、ひとり考えで、私小説にはふたとおりあると思っている。そのひとつは、瀧井氏が云われたとおり、自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って、それを手掛りとして、自分にもよく解らなかった自己を他と識別するというやり方で、つまり本来から云えば完全な独言で、他人の同感を期待せぬものである。もうひとつの私小説というのは、材料としては自分の生活を用いるが、それに一応の決着をつけ、気持ちのうえでも区切りをつけたうえで、わかりいいように嘘を加えて組みたてて「こういう気持ちでもいいと思うが、どうだろうか」と人に同感を求めるために書くやり方である。つまり、解決ずみだから、他人のことを書いているようなものである。訴えとか告白とか云えば多少聞こえはいいが、もともとの気持ちから云えば弁解のようなもので、本心は女々しいものである。
とか読んでいったので、ナハハハハハ!お前は空気頭じゃ!空気頭じゃ!と喜んだ。佐伯さんも起きた。みんな起きたので、もう一度小島信夫の『ハッピネス』を読んだ。
Mはひいきにしてやっているという彼のアパートの一階のユダヤ人の食料品店にわざわざ土曜日の午後買いに寄った。 彼は、確かに割安のハムをきざんで、「Hさん、これ、入れる?入れない?入れましょうね、仕様がねえや、妥協しよう」といって贋うどんのヌードルをすすりながら、「やつらはケナゲともいえるからな。ただぼくなんかを熊公、八公だと思っているらしい大家のおばはん、日本の文字についてうるさいことをきくからな。どうして、ああいう漢字とカナの二色をつかうのだ、ときくからな。いくらかは分かっているんだ。二色じゃねえんだ、三色だよ、といってやるんだ。(何の話や!なんの小説や!)あのグローサリーへ入っていくときは文字のことは止せ、といってやるのさ。しかし、男みたいにぼくの肩を抱くのだな。(こんな感じでか!!/あ、ほんまやなぁ、なるほど。あ、そうやな。ほんまにそうだな。あ〜確かにそうだな!ここは、そういうことだったのか!)
最後に、小島信夫の『残光」を読んだ。
第一章

これから、時々、その名が出てくるかもしれない、山崎勉さんという人は、英文学者で、たいへん魅力的な声をしている。この人は、前にぼくの八十八歳の祝いの小さい小さい会が催されたときに最初に演壇にあがってしゃべってくれた人である。そのあとに続いて、保坂和志さんがぼくのことを語ってくれた。その一部始終は、「青ミドロ」というタイトルで、当時出た「新潮」に載っている。
山崎さんは、保坂さんの、『プレーンソング』も芥川賞になった『この人の閾(いき)』も『カンバセイション・ピース』も読んでいた。『カンバセイション・ピース』は、ぼくが電話をかけて、読んでくれるように頼んだ。そのときの読後感も話してもらった。それ相応にきびしいところもあったりして、そのあとも保坂さんのものは、おおよそのところ読んで報告してくれる。
読み始めから、なんやねんこれ、と、私たちは笑いが止まらなかったが、これは本当にすごい!出だしがすごい!と、出だしの、「これから、時々、その名が出てくるかもしれない、 山崎勉さんという人は、英文学者で、たいへん魅力的な声をしている。」の行を何回か読んだ。

九日

十日

エリック・ロメールの『友達の恋人』という映画を見たが、これも今まで見たことのない感じの映画…。淡々と進行して行く、その行き方に度肝抜かれた。変に即物的なのかな?人の行動がどんどん画面に滑り込んでくる。人の気持ちの移り変わりを写すものとしてのセリフ(行い)が軽やかに展開されているのがカメラに映されていて、結末に向かっての製造プロセスをポンポンポーンと、証明していくようなノリはなんかそれだけでおかしくて笑ってしまう。この人は、なんか風景だけでも笑えてくるところはある。特典の『風景の変貌』という、ただ工業地帯的な風景を撮っただけの映画があるのだが、そんだけの内容なのに、おかしい。不思議な監督だな。

うた

いつも寝ているようで、これじゃどうもダメだ。今日も、お昼寝していたら、夜の三時まで寝てしまって、仕方がないから、廃業した老舗のレコード屋と入れ替わってできた24時間スーパーのフレスコへ、割引のお総菜を買いに行って、ごはんを食べて元気出そうと思ったけれど、気づいたら七時で、おそらく寝たおしたんだろう。今日はクリント・イーストウッドの映画を見に行こうと思ったんだけどな〜。81歳になってもなお旺盛な活躍をし続けるクリント・イーストウッドに拍手!81歳というと、ジャン=リュック・ゴダールもそうなんだな。ゴダールは長生きしそうですね!みんなで91まで生きましょう!

この一週間は完全に何もしていない一週間でしたね!ここ四年ほど、アイデンティティを壊そう、壊そう!という方向に向かって生きていたら、私は、なにものでもなくなってしまい、なにもしなくなってしまいました。これはいけないことじゃないのか、これじゃ、ただのなまけものだ!と思いながら、さらにアイデンティティはなくなって行き、 気づけば僕は、何ものでもなくなってしまいました!これが都市生活の恐ろしさか…。自分がなくなる、なくなる!ということは、例えば石川啄木が
 ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを 聽きにゆく
なんて歌をうたっており、この句碑が、実際に東京の上野駅のホームにあるそうなのです。http://members.jcom.home.ne.jp/nobish/1211takuboku.html
こんなのがホームにあるということが、何かとてつもない感じがするのですが、どうでしょう。駅というのは、それだけで文学だ!群衆というのは、とてつもなく文学だ。啄木がまず文学だ!彼の日記をパラパラとめくると、とても感傷的というか、自意識を感じて、うわぁ、文学だ!と思ってしまう。
8日 木曜日

 たぶん隣室のいそがしさに、まぎれて忘れていたのであろう。(忘られるというのが、すでに侮辱だ:いまの予の境遇ではその侮辱が また、当然なのだ。そう思って 予はいかなることにも笑っている。)起きて、顔をあらってきてから、2時間たっても 朝めしのぜんをもってこなかった。
 予は考えた:予は今まで こんな場合には、いつでも だまって笑っていた。ついぞ おこったことはない。しかしこれは、予の性質が寛容なためか? 恐らく そうではあるまい。仮面だ、しからずば、もっと残酷な考えからだ。予は考えた。そして手をうって 女中を呼んだ。(略)
 深沢七郎は「風流夢譚」という小説で日本の皇太子を殺したので、右翼の襲撃にあい、放浪のあげく、北海道までいってしまったそうだが、この小説では、和歌の感傷性への猛烈な皮肉を見受けることが出来る。歌で自分の心境を読み込み、自分の物語をもっておよよよ!と感動させるなんて、バカだ!という風になっていたと思う。そうだよな、貴族みたいだよな、と思いながら、センチメンタルについて考える。

  春の鳶寄りわかれては高みつつ
 
 次兄は昭和十六年に病死。長兄・三兄は戦士してしまった。帰郷して専ら農耕に従った。六十円で牛車を新調した。黒の和牛と、赤の朝鮮牛と、二頭買った。
 そんなある日、野路で見かけぬ青年に声をかけられた。よく見ると二十年ぶりで会う中学の同級生で、いまこの村の小学校の先生をしているという。工科を専攻し、天龍川の奥で現場監督をしたり、日活映画の助手をしたり、その他、いろいろの職に就いたが、身体をこわして田舎に帰ったという。中学校のころから琴を弾いた。「お嬢さん」という綽名にしては、すっかり頭が禿げて、最早美少年のおもかげはないが、自分の来し方を語りつつ、傍の菫を摘んで、山村暮鳥の詩が大好きだと言った。そんな二人の上を二羽の鳶が弧をえがきながら鳴いた。
 しばらく甲府にいたことのある野尻抱影氏が、この句を見て、明治のころは、甲府に鳶を見かけなかったが……と、どこかに記していた。いまも数はすくないようだ。それでも早春、晴れた日には時折見かけることがある。

飯田龍太の句の中にある言葉というのは、どうしてこんなに広くて大きいのだろう。言葉がこんなに大きければ、個人的な心境なんか、どうでもよくなってしまう。こんなに意味のある世界にいるのだから、みたいな気持ちになる。ここで言うそれは、句の外に、様々なものの動きを想像させる、みたいなことかもしれない。

この映画で、訳なしに大量に出てくる人たちは、これからどこに向かうのだろう、みたいなことを、ある映画監督、黒沢清かな?が言っていたけれど、そうですよね!世界が、どこまでも広げられるような、開かれた作品にもっと出会いたいですね!

2012年2月4日土曜日

節分

 長いねん、シャラポア!と、OLの子に言われたので、日記のあらすじを書きます。

〜あらすじ〜
寝てるまに欲しかった本をいつのまにか抱えていた私は喜びのあまり小躍りすると、ベットの底が抜けてしまった。それにしても藤枝静男はやっぱり最高だ…。

次の朝起きると、ガスの点検員が部屋の中に入って来て、僕も知らなかったようなスキマから奥へと入って行ったことに驚く。

みかんを食べてもお腹すいたので、牛丼屋以外の店で何か食べようとしたけれど、牛丼屋にいく。ついでに本を買う。いつもこんなことしているわけではない。

ライブに行く。本当に良かった…。

どんと焼きを見に行く。本当に素晴らしい…。

OLの家に泊まりに行く。そこで恵方巻を食べる。佐伯さんは寝る。


2/2

起きたら、藤枝静男のエッセイ集『茫界偏視』と『寓目愚談』の本の入った封筒を抱えながら寝ていてびっくりした。そういえば、郵便配達の人が朝、来たのだった。たぶん僕は、寝ぼけていたのだ。やったぁ!と思い、ベットの上に立ち、小躍りをしたらベットが軋んで、骨格が浮き上がってしまった。今までベットにその症状の傾向はあったのだが、さすがにこれは腰を壊すかもしれない。このベットは二代目で、前のベットは完全にへこんでしまい、だが、ベット初体験だった僕にとって、ああ、ベットはこういうものなのだな、と思ってしまい、普通に寝ていたら本当に腰が痛くなって困った。なんとか取り替えてくれたが、このベットも、同じ種類のベットなので、本質的な解決にはなっていないのだろう。僕は部屋で小躍りすることもできない。

濃いコーヒーを飲んでも、ぜんぜん眠気が去らない。ボーと藤枝静男の本を読む。さすがに藤枝静男はいいことを言う。
だいぶ前から私小説はまるで日本文学の発達を阻害する毒虫か国賊みたいなあつかいを受け、「もう息の根は止まった」などと書かれて、腹のなかでは 何糞と思いながら、雑誌のうえでは肩身のせまい思いをしつづけている。一方では水ぶくれの冬瓜か子供のシンコ細工みたいな「近代的長編小説」を作る人が好い気になって甘やかされている。なかには感服する作もあるけれど、たいがいはサトリの悪い女大学生向きのものである。だいいち小説を書くうえに不可欠な精神の衝迫がない。自分が何故その小説を書かねばならなかったかという精神の気組みがまるで感じられない。自分に必要のない小説を他人におしつけるのは良くないと思う。
よく思想内容というが、できあがったものが観念小説では仕方がない。そういうものは理屈で読めばなんとかわかるかも知れぬが、私は感覚で読めない小説など初めから小説の資格を欠いていると思っている。
第一作者の人間そのもののなかに骨ガラミとなって呼吸していないものなど、思想ではないと思っている。たとえば極端にいうと、河上肇という人にとってマルクス主義は思想ではなくて、ただの現象解釈に過ぎなかった。彼の思想とは、この解釈を外部から受け入れ、それに心酔し、それによって苦しみ、またある時はそれを疑った、それらの手続きを彼がどういう格好で通過したかという、この格闘自体にあると思っている。(「私小説家の不平」『寓目愚談』収)
 ある方法の枠組みを器用にやる、例えばパワーポップとして音楽をやったり、歌謡曲として音楽をやったりして、それがパワーポップという観念として完璧になったとしても、何の意味もない。それは、自分の音楽をやる動機として不誠実なんじゃないか。そこに自分の精神的な葛藤とか、自分と社会との軋轢とか、そういうのを見いだせなければ、それは借り物でしかない。それでも成り立つマーケットはありますけどね。高尚なオールドジャズとか、私立の文学部とかはそうだろうな。その方法の枠組み自体が、その組織の存続を成り立たせている前提条件で、アイデンティティのようになっていることは、よくあることだ。それはもう、仕方がない。仕方がなくても、闘っていくしかない。難儀なことだ。

2/3

ガスの検査で目が覚めた。ガスの排気口が、つまり煙突が、見えない所にあるらしく、僕の部屋から確認しないといけないらしい。そうですか、どうぞ、と扉を開けると、男の人二人が、部屋の中に入って来、浴槽の上にある丸いフタのようなものを開けて天井裏に入って行った。こんなとこにフタがあることがまずびっくりだ。なんなんだこれは。なんでこんなところにフタがあるんだろう、まぁそれは、ガスの排気口の確認の為だろうが。何か異変がありましたら、ご連絡ください、と言っていたので、やっぱり何か、こういう変な、見えない所に煙突があるというのは、何か異変を催しやすいものなのですかね?と聞くと、はい、何か異変がありましたら、ご連絡ください、とおっしゃった。たぶん僕が悪い。

みかんを食べたが、とてもお腹がすいていたので、でも牛丼屋は飽きたから、少し遠くまでいこうと、川を渡り、京大近くの百万遍まで来たものの、牛丼チェーンのすき屋に行く。もう、どうしようもない。せっかくここまで来たので、古本屋を覗く。なんだか、こうしてみると、毎日本を買ってるみたいだ。別にいつもこんなことをしているわけではない。本なんか読んでいると、性格が暗くなる。読むか読まないか、というのでは、読まない方がいい。しかも、ある種の本は、毒を含むし、ある種の本は呪いを受けることがある、と聞いたことがあるので、本など、読む必要はない。本を読むよりも、友達と呑んだり、バンドをしたりするほうが断然いい。もう僕たちには、話すことしかない。本は何も教えてくれないし、教えてくれたとしても、教えてくれていないことと一緒だ。本を読んではいけない。本は隠れて読もう。ここで、竹内宏や飯田龍太の句集があったので、買ってしまう。安かったので、筑摩現代文学大系の、『埴谷雄高・藤枝静男集』も買う。ついでに薬局でテッシュを買う。京大前の薬局はにぎやかで安い。レジの女の子は利発そうな顔をしながら会計を打っていた。それにしても私はどうしようもないバカで、何もできない。お母さんごめんなさい、おばあちゃんごめんなさい、先生ごめんなさい。私たちの家系は所詮男子は屑みたいな人間しかできないのです。もうこうなったら僕は何か別の物に変わるしか、申し訳が立たない。でもいまさら女になることもできない…。

家で『埴谷雄高・藤枝静男集』収録の、藤枝静男「私々小説」を読む。久しぶりに藤枝静男の小説を読んで重大な見落としがあるのに気づいた。藤枝の小説には、本当は、怒りが充溢しているんじゃないか。さまざまな、実体のある不甲斐なさにいらだつ、そのことだけが書かれている、内容の主題としては、そのことだけが、書かれているのではないか。結核が家族のほとんどを蝕んだことも、自分の性欲のことも、皮膚の痒さも、それに苛立ちながら向き合っている。仕方がないから、それとそれがもたらす感情と歩んでいるのだなぁと思っていると、バンバンボリーズの佐伯さんから、しのやまさんがシルバーウィングスに出るという知らせを受けるので、すぐに行く。

このシルバーウィングスのブッキングがまた良かった。本当に良かった…。元気になった。 ちゃんと自分の音楽をもってやっている人が身近にこんなに居て、魂を持ってこんなに音楽をやっている人が居ることを確認させてもらい、僕は本当に心を動かされた。久しぶりにソロを見させてもらった、しの山は本当に音楽だった。しの山は偉い。京都一だ。今度東京に行く時、音源を友達に配り歩こう!
今日と言う日を幸せにする方法が
きっとあるはず知らないだけで
なんでもありのたった一人さ (しの山「おでかけ」より)
音楽でも何でも、世の中は偏見に満ちていて、定式をこなせばいいと思っている。退屈じゃなければいいと思いながら、飾って、そういう風な音楽をしても、結局それは退屈の隠蔽でしかないから、むしろ退屈と向き合っている退屈な音楽よりもタチが悪い。そういうものばかり偉くなって、楽しければいい、踊れればいい、目立てばいい、という人が増えているみたいだけれど、退屈の上塗りでしかない。楽しい?快楽?そんなの退屈でしかない。ヤク中は死ね!

その点、しの山さんは偉い。本当に偉い…。ちゃんと物を見ている。物を見て、ちゃんとそのことをしゃべっている。ギターということは何かを逆に意識させるアカペラの曲、「はなうた」「アルバイト」「つけまいチャンス」はすごい。偉い!そのノリで、「火にガソリンを」も、演奏をするということを問いなおしているように聞こえる。そういうのが、全然偉くもなく、くだらなく聞こえているのが最高に偉いし、泣けてくる。まず笑ってしまうんだけれど、そういう意味では、シャラポア野口は、しの山さんのフォロワーなんですね。

今日はシルバーウィング創設史上最高のブッキングの夜じゃないだろうか、それぐらいみなさんが輝いていた。ブッキング担当ののぼりやまさんともおしゃべりさせていただいたし、もう思い残すことはない…。

佐伯さんと一緒に吉田山をのぼり、どんと焼きを見に行った。この日になると、毎年燃えている。それがすごい火力なのである。僕たちが行った時には、なんだか屋台はすでに撤収の準備をしていて、祭りの後感がハンパではなかったのだけれど、ちゃんと、火は燃えていた。お札の燃えるその熱が、顔に来て、熱いぐらいだ。炎は燃え盛るのだ。お札の数が多いからなのだろう。いや、違う。薪の数が多いのもあるのだろう。だから、炎は燃え盛るのだ。そういう工夫はよく分からないが、炎が燃え盛る様が、なんかよくわからない抽象的なお化けに、お札の燃えカスがそうさせるのだろう。

呑みなおそう!ということになって、中根さんというOLの子の家で呑みなおすことになったのだが、佐伯さんがその家ですぐ寝てしまったので、帰ってきた。

2012年2月1日水曜日

パリ

1/31

忙しさもとりあえず一段落ついて、まだ課題は実は終わっていないのだが、解放された喜びで、昼過ぎまで寝た。昨日受けた、笙野頼子の衝撃が忘れられず、とりあえず図書館に行くが、休みだったので、ガケ書房に行くが、笙野頼子どころか何もなく、別の古本屋善行堂に行くが、どうやら休みだったらしく、仕方ないからブックオフに行ったが、なかった。だが、バルガス=リョサの「緑の家」があったので、買っとけば良かった。今日やっぱり買おうと思って買いにいったら、下巻だけがなかった。いい加減にしろ!こんな買い方するやつはまず地獄に堕ちるからやめろ。そして、そんなことを書いているまさにこのとき、お茶をキーボードをぶちまけてしまった。死ね!

ベンヤミンのボードレール論を読んでいると、友達から連絡がかかって来た。ジェフベックが素晴らしい、と。ほんまかいな、あいつらは早弾きでやるスポーツじゃないの? と思っていた。早弾きを得意とするやつにろくなやつはいない。あつらは制度やシステムを作り出す。高校時代に身にしめて思い知った。制度の枠組みを作って、それが大道芸だということを忘れ、ヒエラルキーを作り出してしまう、そういう流れは嫌だなぁ、と思い、グダグダして、僕はここに至るので、なんちゃら三大ギタリストとかは本当に嫌だなぁ、と思っていた。関係ないけど、レッチリとか本当にうんざりなんだよ!だけど、ジェフベックは、私にソロギター文化というのを教えてくれた。つまり、僕はいろいろギターを聞いていたつもりだったけれど、そのソロギターというのは、方向性として、灰野敬二を軸にして聞いていた節がある。その点、ジェフベックは、なんだかマイルスっぽい。なんかrovoの山本精一にもにてるような、いや、それは違うか、それでも、山本精一も、ジェフベック聞いてそうなギターをしているような、気はrovoにはする。山本精一はなんにでも擬態できるからなぁ。jeff beckを聞きながら寝ました。

2/1

マディーウォーターのブルースがいきなり聞こえてきて、ばっちり目が覚めた。ブルースはやばい。びっくりするぐらい目がさめる。これはちょっと危険だ。さわやかな朝にしようと、ジェフベックに変えると、すぐ寝てしまった。

丸二定食でおでん定食を食べる。今日もありがとうございました。とてもおいしい。ついでに古本屋に行く。なんかこれじゃ毎日古本屋に行っているみたいだ。別に古本屋が好きな訳じゃない。2のように、古本道を極めようともしないし、買う本は、やっぱり読むべきだ。とりあえず、読むだろうというものを買うべきだ。2が私淑している、古本のプロが言うように、本は買ったことがすでに読んでいることなんだ、と言って、一回に4000冊も買ってしまう、超越者には、やはり僕は、超越者だなぁ、と思ってしまうのであった。でも、そう言いたくなる気持ちがわからなくもない気配が、古本にはないわけではないのだろう。

今回偶然見つけた古本屋は、ものすごく乱雑というか、本が積み重ねられすぎていて、ゴミみたいになっている。これはすごいのが安くで手に入りそうだ、と見ていると、中村光夫の『近代日本の小説』が、下の方にあった。それが、だいぶ下のほうにあったのだ。これはそのままとったら山が崩れて遭難みたいなことになるなぁ、と思ったから、山を崩す作業をした。だいぶの山だ。本は、40冊ぐらい積み重なっている。それをなんとかした。よかったなぁ、と思いながら、値札を見ると、そんなに安くなかったので、山に返した。山の物は、山に。カエサルのものはカエサルに。ゴミは持ち帰ろう。尾瀬ではゴミで、水が枯れたことだってあるのだ。

ゴミ本屋から返ったら、いい時間だったので、ひさしぶりにお風呂に入りにいった。そうすると、休みだったので、別の所に行った。なんか来る人みんなが、めちゃくちゃ仲良くて、びっくりした。まるでサロンだ。古代ローマの浴場みたいだ。そういえば、アポロンみたいな像も立っている。後にギリシャ神話はローマ帝国に取り入れられ、アポロンは、アポロ、と呼ばれた。おっさんは、トヨタのプリウスは走行音が小さいから、人轢きまくりやな!とか言ってた。僕もこれから、プリウスが道にいないか気をつけよう。