12/21
今日は読書会をした。
読書会ついでにお酒を飲んだ。先輩におごってもらった。正直な所、その居酒屋の酒はとてもおいしかった。だからとても楽しかった。
お酒を飲んだついでに僕の生い立ちを話そうと思う。
谷内くんと会ったのは、保育園の頃だと思う。そのとき、僕は、保育園で、浮いていた。たかちゃんという子供が、保育園が取り仕切っていた。未だに彼とは、距離の取り方がよく分からない。そのときに、2や南くんという人物が、居たのだと思うけれど、よく思い出せない。おそらく、いじめっ子だろう。2の、いじめっ子ぐあいというのは、よく、後に、小学校の時の谷内の話から、よく聞いた。だが、小学校の時の谷内も、相当頭が弱かったようなので、大概かな、と思ったりすることはある。話をもどすけど、僕は浮いていたんじゃないか、と思う。僕は、しゅんくんという、人間と、よく一緒に居たと思う。しゅんくんという人物は、僕が保育園にいくまで、保育園をよく不登校した人間だそうだが、それは後から聞いたことで、詳しくはわからない。そんな彼も、西武百貨店に就職が決まり、尊敬する。保坂和志や、田中りえのように、立派な小説家になってほしい。
谷内氏も、そのうち保育園にやってきた。最初谷内氏を見たとき、背が高い人だなぁ、と思った。でも、彼は、保育園児であった僕にすら、手に負えなかった。僕は、彼が描く人物がが、いつも首がなくて、のっぽであることをバカにした。物凄くバカにして、よくしゅんくんと、あいつの絵は首という概念がない、概念がない、首がない人間を描くから、あいつは、首という概念がないのだ、と、バカにしていたような気がする。そんな僕は折り紙が好きで、だけれど、カメラしか折り方を作れなかったので、カメラばかりつくっていた。たかちゃんは、しゅりけんを上手くつくり、僕に投げつけて来た。次第に、そういうこともしなくなり、僕は、同じ保育園にいながら、たかちゃんと会うことはなくなった。僕はカメラを作りつづけた。そのころしゅんくんはあやとりをしていた。しゅんくんに、俺とお前は、竹馬の友だな、というと、しゅんくんはものすごく、恥ずかしがった。どうしてだろう。ところで、谷内氏は何が得意だったのだろう。僕は、おかしの時間に出てくるクレープが、たまごの味しかしなかったので、嫌いだった。あのクレープは、原宿とかで売っているクレープとは全然違い、卵焼きを味薄くしただけなので、本当にまずかった。だからいつも残した。そのたびに嫌な気がした。だけれど、谷内氏は、そのころ、かぼちゃしか食えなかったらしいのだ。つまり、彼は、どれだけ気まずい思いをしたかわからない。だけれど、食べたら、アレルギー反応が出るらしい。家にあったキュウイを、触っただけで、泡をふいて倒れ、救急車を呼ばれた。そんな谷内だから、得意な物はなかった。谷内はただ、僕が作り続けるカメラを見続けていた。僕が作るカメラに対して、そんなんどうでもいいやん、外の作ってよ、と言われたけれど、僕は、半分谷内を軽蔑していたので、彼は頭が弱かったのだ、カメラを作りつづけたのが、僕の悪い所だと思う。
保育園では、遠足と言う形で、旅行に出かけた。岐阜県に犬山という町があるが、そこへ猿を見に行った。おさるさんは、何も考えてない風で、そこに寝転がっていたが、やけに攻撃的な猿が、時おり叫び声をあげながら、池をなぞるようにうろうろ歩いていた。僕はいつものように、しゅんくんと、じゅんくんと、歩いていた。たかちゃんは、2と南くんたちを引き連れて、猿のマネをして叫び捲し上げていた。南くんは、器用なことに、猿と人との融和を基調とした、適切な動作で、しかし捲し上げているとしかいいようのない叫び方で、やっていた。2くんは、その時は森の中にいたらしい。しんとしゅんとじゅんくんは、近くにあるというモノレールを見に町にくり出したらしい。だから、バスの添乗員さんにずいぶんと、迷惑をかけたと思う。僕の母は、そのことを時折話し、おまえたちは本当に変わっている。おまえたちは本当に屑なのだから、身分をわきまえた行動をするということを考えなければいけない。つまり、それは枠組みを考えて発言することだ。それが社会の中で生きてい生物であるところの、人間の生き方なのである、と言う風のことを、今日の飲み会で聞いたような、ことだ。
後に僕は、遠いところに引っ越すことになる。谷内くんとも別れてしまった。しゅんくんとは、一年に一回ぐらい会うこともあったが、谷内は(谷内の本名は、谷内潤一郎と言う。)頭が悪いので、会うことがなかった。それでも、一度だけ、年賀状は来た。その年賀状は、今でも大切に僕の部屋の引き出しに大切にとってある。そんな彼も、今、新宿区の早稲田大学で、イギリスの憲法について、レポートを書いているということを、風の噂で聞いた。社会というのは、法である。私たちは、法の裁きによって生きている。端的に言うと、言葉の裁きである。もっと、恣意的な言い方をすると、言語を獲得した私たちは、想い出を言語によって解釈して、それによって世間的な価値を組み込み、恥ずかしいなぁと思ったり、おもしろくもあり、フロイト的には、それが今思い返すと暴力や暴行になったりすると、トラウマになる。そのことが、とても愛おしい。
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