前回ポーティスヘッドについて述べていたので、それにつながる記述をしようかなぁ、と思っていたら、日誌を書かなくなった。なんかしてやろう、と思って書いても、日誌にはならないので、そういうのはやめようと、何回も何回も思ったのに、どうやら最近は、そういうモードらしい。
デカダンの話をしたと思う。園子はデカダンだし、ポーティスヘッドもデカダンだ、みたいな。でも園子は積極的なデカダンだから、恐ろしい。ひとに迷惑をかけるタイプのデカダンだからだ。ポーティスヘッドが迷惑かからないとは限らないが、少なくとも関わり合いを持たなければ、かかることは絶対ない。幽霊みたいなものだ。同じデカダンでも、この差はとても大きいと思う。この話はとりあえずここまでにしておこう。ご意見お待ちしております。
一月の第三週
一月になって、僕は明らかに無気力になった。どうしたんだろう。曲の趣味も変わった。アニマルコレクティブがとてもよく聞こえる。今までバカにしていたのだが、今聞いてみると、これは、僕がやっていることと一緒だ、と思うようになった。適当さの系譜は、ここにも生きていたのだ。去年は、マヘルだったり、灰野敬二方面、つまり、いわゆる日本のアングラに潜っていたので、アニマルコレクティブあたりを完全に忘れていた。
具体的なことを言えば、アニマルコレクティブは、多声的である。たくさんの人が鳴らす「声」があるのである。それをごちゃまぜにして、フォークの肉付けにしてしまうことが、多元世界の扉を開くのであって、そういう意味では、ポーティスヘッドのdj的なループを使った一元的で冷めたデカダンの世界とは反対である。ただし、どちらも極めてワンコード的であり、アシッドフォーク的であり、すなわち曲の進行が適当にどんどん進んでいく。だから、元は同じような気がする。元は同じで、方法論も同じなのだが、導き出す結論だけ違う。結論などというものは、どんなにあがいても大した差はない、数学なんかそうだ、だけれども、導き出す結論で、気持ちは変わる。すなわち、どういう物語を描きたいか、ということだろう。何かトラウマでもあるのかもしれない。そういう差というのは、結局のところ、あまり差になれないのだけれど。つまり、例えば、暴行にあったから、こういうことを伝えたい、と思い、司法に行かず作品に昇華させるとしても、その思いは、そんなに差にはならない。そもそも、「その思い」とは、思いではなくて、言葉であることが多い。写真とか。そういうのは、想い出かもしれないけれど、トラウマみたいなものだ。そのトラウマで、例えば人間不信になれば、必然的に音楽製作は少人数で作ることを余儀なくされ、そこに方向性が生まれる、ということが、あるかもしれないし、それは大きい。もがいた故の方向性は、存在を大きくする。それは、音楽を別の場所に連れて行くだろう。
さくらこさんとまた姫についてのお話をしたのですが、今日はあまり触れません。またゆっくり話す機会があるのではないか、と思われます。
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