先日私の家に2くんが来たのである。2くんというのは、年末に私の家に段ボール二箱パンパンの荷物を代引きで3000円分ぐらい、送ってきて、その荷物が、予想以上にゴミばかりだったので、二、三日寝込んだ、というのは、日記に書いたと思うので、確認してみる。
12/6付けの日記(引用)
友達から段ボール二箱、着払いで郵便物が届けられた。
友達から大量のゴミが送られてきた。日本人形、よくわからんスプレー、菓子くず、大量の一円玉、ようわからんビデオ、dvdデッキ、psp、い みわからん形状のレンズなしカメラ、壊れたMac Pro、変なバービー人形、写真現像に使う液体、チューナー、ふりかけ、ようわからんケーブル…。(ツイッター)これは立派なテロである。読売アンデパンダンの担当者は本当に大変だったろうな。日本人形がやっかいで、2、これは僕の友達の名前であるが、2はやっかい で、めちゃくちゃな人間なので、包装の仕方も知らないため、ケースがわかれてしまって、ぐちゃぐちゃになっていた。そういえば、2は渋谷系の末裔みたいな 顔をしている。
このモノたちは、実は、まだ家にある。どうしたらいいんだろう、と思いながら、放置している。大量の一円玉は実は結構使っている。ようわからんモノは完全にほったらかしにしている。pspは、つかえたらおもしろそうだろうなぁ、と思いながら、何もしてないのが、気になるといえば気になる。 まぁ、ゴミというのは、そういうものかもしれない。日本人形に関しては、ゴミとも言えない。人の形をしているだけでなく、人の顔もしているので、気味が悪いからだ。ケースが割れて、もうどうしようもないので、処分したいような気がするが、ゴミとして出すことが出来ない。呪いなどというものを信じているわけではないし、そういったものは、全て気持ちの問題だ、ということは分かっている。むしろ、気持ちの問題だからこそ、捨てられない。よって、人形は、しばらく、部屋の高い所から、何かを見続けている。座禅を組むとき、目は閉じない。目を閉じると、考え事をしてしまうので、むしろ、目を開けて別に何を見るでもなく視線を泳がせておくのが、いいそうだ。人形は、目が閉じられないので、状況としてそれに近いのだろうが、それは何も見ていない、ということにはならないだろう。
その2くんと鍋をした残りの白菜があったので、思いきって朝から鍋をすることにした。早速、ネギとキノコを買ってきて、白菜とネギとキノコの水炊きをすることにした。カツオだしを入れて、白菜を入れまくる。3巡ぐらいはして、三時間食べまくったから、体質が変わる程食べたことになる。そういえばこのごろ便が違う。
ところで、先週は、さくらこに何となく似てるような女の子と何となく飲みました。さくらこというのは、もう三年ほど前になるのだろうか、私が東京に居た時に、友達と一緒に、その中に2もいました、酒飲みながら中央線沿いを走り回ったあげくに酔っぱらいまして、さくらこの部屋で豆腐を投げつけたりしたことがあります、と出来事を説明しても、仕方ないよね。何かパーソナリティを説明できるような言葉を探すけれども、ま、いいか。2の説明にしても、パーソナリティに立ち入って説明しているわけじゃないですからね。ちなみに2はカメラマンです。さくらこはアメリカに行ってしまいました。石井裕也監督に『ハラがコレなんで』という新作映画があるけれども、あれも、女の子がわけ分からないうちにアメリカに行っていて、黒人の子を孕んでしまっているところから、映画が始まっていたなぁ。さくらこはそんな、どこでもホイホイついて行くような人ではないし、何もかも、粋だねぇ〜、で済ませる人でもないのだけれどね。
話は自然と、姫の話になりました。僕の周りには変なやつが多いみたいで、小説に、なるんじゃないか、いつでも、小説になるんじゃないか、と思っている。物語というのは、作ること以前に、滔々と流れていくものだとすれば、即興、インプロゼーションで書いた小説、撮った映画、絵画の場合は、ライブペインティングとかはむしろ劇に近いのかもしれないけれど、それでも、何かそこに物語が出現してしまったりして、それに驚きながら私たちは日々暮らしているのだけれど、物語を語る人というのは、その滔々と流れるもの、ここで物語素とでも名付けることにします、を制御して、汲み取って、方向づけたりだとか、することが上手で、それを生かす人だと思う。姫はそれが上手だよなぁ、と言うと、女子は元が物語みたいなもので、生きてるだけでなんか幸せみたいなところがあるみたいね〜、とさくらこが言うから、ふんふんと、聞いていました。そういえば、やけにセンチメンタルで、話が通じなかったりする男の子は多いな、と思う。センチメンタルは語ることの放棄みたいなものだもんな、仕方がないな。そうだとしても、物語を統制するような人間というのは、もはや女も捨てて、違う何かになろうとしているんじゃないか、と思う。それが、例えば、チヤホヤされたい、と思って始めた、物語の統制力だとしても、なぁ、物語を統制しようと思ったら、自分まで犠牲にしないといけないんじゃないかなぁ。花の命もなんとやらみたいな話ではないけれども。そう思うと、ふと坂口安吾が、「いわば、僕の小説それ自身、僕の淪落のシムボルで、僕は自分の現実をそのまま奇跡に合一せしめるということを、唯一の情熱とする意外に外の生き方を知らなくなってしまったのだ。(青春論)」と言っていたのを思い出し、無頼派だ!無頼派!と町を回りたくなったものです。僕なんかは、無頼派にならないようならないよう、歩んでいるつもりなんだけれど、怪しげな本だとか映画だとかを見ているから、毒がまわってきちゃうのかな。こういうことをおおっぴらに、開き直って言ってると、デカダンというか、完全に無頼な感じはするので、長生きしたい僕は、そんなのは嫌だ。ところで、無頼はお水と関係があるのか。ファム・ファタールになるのは痛快な気もするけれど、上手くやれよ!教養を持つのだ。
今週は『エロス+虐殺』を見ました。60年代の悪ノリみたいな映画で目眩がしたけれど、もう、本当に酷い。自由を謳歌しよう!という風な匂いで突っ走ってもそれははき違えてる。だから結局凡庸な愛憎劇でグダる。グダグダしたまま四時間もある。同じ象徴の多様でも、石井克人の『茶の味』は本当に良かった…。突飛なCGがあんなに出て来て、泣かせるんだもんな、新しい語法を完全に編み出しちゃってるよ!いわゆるジョン・フォードから黒沢清に至る映画の系譜とは全然違うところで自活できる土壌を見たような気がします。そういう意味では、『おれは園子温だ!』を見ましたが…。まぁ処女作の小品だからこれを園子だ!として見ちゃうとダメかもしれませんが、あ、別に悪くはない!彼の映像もものすごく新しくて、度肝を抜かれました。ああいう暴力的かつスピードや勢いのある演出はとてもいい!とてもいいことが問題だ。こんなことで説得力を持たせて、どうする!と言いたいけれど、説得力を持ってしまうのだから、仕方ない。園子は何か強烈な磁場を形成して、物語を統制していくが、映像がいわゆるストーリーの筋のような物語をぶち壊していることもニクい!ストーリーをぶち壊せ、とは私もよく思うのですが、なんだろうなこの違和感、と思ったら、これはもしかして無頼派かもしれない!「僕は自分の現実をそのまま奇跡に合一せしめ」ているのであるね。そんな死に急ぐようなことやめようよ〜と何回も何回も思ったのだけれど、デカダンの新たな形式というのはどんどん更新されてやまない。
最近ポーティスヘッドすごいな、と思い聞き直しているのです。あの、ループを回しただけの適当さに僕は参ってしまっている。適当さは、マヘルのようなミステイクだけでなく、dj文化にもあったのです。ループだけに単線的な世界ではあるけれど、うん、つまり、それが、あの退廃美というか、デカダンスな感じを生むんだろうな。 なんでこんなのを好きになっちゃうんだろう。
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