2012年1月31日火曜日

少しぱらついているような気がするが、雨は夜更け過ぎには、雪にかわるのじゃないだろうか、最近そんな天気ばかりだし…。

一月の第四週

レポートを書かなくてはならなかったが、ぐうたらな性格のため、本当にギリギリになってしまった。ぼくの友達の谷内くんは、日記で、

僕はぐうたらな人間なので、課題は最後まで残ってしまう人ではある。そのために僕は受けなくてもいいプレッシャーを受けながら、それでもやる気がでずにグ ダグダ過ごすのだが、僕は本当にダメなやつほどダメではなく、つまり常識を持っており、高校生の時は僕は本当に変なやつなのかなぁ、と周りの人たちを見て いるとそんな気持ちになり、恥ずかしいなぁと思いながら過ごしていたのだけれど、周りの人が高校生でなくなった今では僕が一番常識を持ってしまっているこ とに驚き、ああ僕は常識を持っているんだなぁ、と、感服する毎日を過ごしているので、それほどダメなやつではなく、期日までにはやれるのだなぁ、とホッと している。本当に間に合って、良かった…。本当は、間に合わないんじゃないか、と思っていたのだけれど、僕は、良識があるので、ちゃんと間に合うように作 業をすることができたのだ。それも最低限の良識に違いないのだが。だけど、僕に良識があって、本当に良かった…。これで僕は顔を立てることが出来る。でも 僕はぐうたらな人間なので、僕のこの良識で、なんとか僕のぐうたらな人間性をなんとかしたい。借り物でいいから、ぐうたらではなくしたい。借り物という意識がなければ、ぐうたらになることを、ならなくすることは、できないんじゃないか。つまり、人間の本性的には、ぐうたらになりたくないわけではないのであ るのであれば、ぐうたらにならないためには、僕の人間の本性的を使うことは、本性的に効率が悪いので、僕ではない別の人間の本性的なことを装いたい。つまり、僕は、変身したいのです。僕を、僕でなくしたい。僕は誰かになって、何かをしたい。こんなに僕は、たくさんの人にお世話になっているのだから…。
 と、書いているが、僕もこんな気持ちだ。

レポートを始める前に、友達と回転寿しを食べにいった。友達と回転寿しにいくことなんて久しぶりだ。東京にいると、2は回転寿しが好きだから、回転寿しを食べることは良くあるが、たいてい、回転寿しは一人だ。それなので、東京の回転寿しの100円じゃなさを友達に説明していると、お茶が溢れて来た。給湯ボタンを押しながら、話していたのだ。頭おかしいやつやと思われたくないので、これはつらい。どうしようと思っていたら、友達が店員を呼んで来てくれた。店員さんは、ふきんをくれた。友達は、回転寿しやさんで、バイトをしているのだ。なるほど。さすが女の子。ビールでも呑めば良かったかなぁ。

ROVOを聞きながら物を書く。勝井と山本精一が率いている抽象的クラブミュージックの定番であるROVOを聞いていると、仕事が捗る。何事も、グルーブが大切なのだ。そうしていると、なんとROVOが分かってしまった。山本精一の中でも一番分かりにくいグループだったけど、これから鬼聞きそうな気がするな、と思っていると、いきなりゴミ袋が飛んで来て、びっくりしてしまった。玄関を見ると、あのバンバンボリーズのベースをやっている佐伯さんが立っている。また服をくれるらしい、いつも、ありがとうございます。それにしても、佐伯さん、服持ってるねぇ〜おしゃれさんやね〜という話をする。

そのまま、書き物も終わってないまま、飲み屋に行く。京大の西部講堂裏あたりの、いい感じの居酒屋に行く。いい感じというのは、誤解を与えてしまうかもしれないので、説明すると、町家を改装した、たたみがあってアットホームなんだけれど、裏とかあやしげな照明がピカピカしてるし、お手洗いの手洗うところが女体で、女性器から水が出るせっけいになっているのに壊れていて吹き出してしまって下半身がずぶ濡れになった。そこで、いつものメンバーで呑みまくった。今日「ヒズミ」みたで〜、という人がいて、「ヒズミ」とは、園子温の監督作品じゃないか!なんやねんお前…、僕も見ていこうか、みたいな話をした。なにをしたかは覚えているのだが、あまり覚えていない。

朝起きたら、なんかすごい気持ち悪かった。うどんしか食えん、うどん以外食ったら吐くわ、って言っているのに、天下一品に行き出して、閉まっていたので、牛丼屋さんに行くことになった。そこで、佐伯さんは、ハンバーグとチーズ牛丼を食っていたので、それを見ているだけで吐きそうになって、なんやねんお前、くいしんぼうか!と言ってやった。それにしても、そんなに酒弱くないのに、珍しい。確かに胃は弱い。というか、大学生というのは、偏屈な組織の中に入っているので、いろいろ気を使い、胃が痛くなるものだ。大学生をうらやましがってはいけない。どこに行っても、何もないのだ!その後、佐伯さんとなか卯でうどんを食べて、僕は寝た。

起きてレポートを書いた。それから二日後、古本屋さんのジュウマントンに行った。二割引のセールをしていた。課題ができた開放感で、いろいろ買う。『大友良英のjamjam日記』 保坂和志さんの『草の上の朝食』、山本直樹『blue』あと笙野頼子特集号の雑誌『文藝』と、水村美苗の「日本語が亡びるとき」や、青木淳吾の「このあいだ東京でね」が入っている号 の雑誌『新潮』、迷ったあげく中村光夫の『風俗小説論』講談社文芸文庫の新刊だったから、高かったけど買い、CDは、想い出波止場のライブ編集版の『live&gigs』とか何とか、名前は忘れたのだけれど、そういうのを買おうと思ったらなくて、困った。狙っていたのだが。仕方ないから町田康の『心のユニット』を買う。この本屋で、大塚という人が、コーヒーショップを開いていた。はぇ〜。なんか女の子の客増えてるし、店主のカジさんも浮かばれる。この人も謎が多い人だ。おないぐらいやと思ってたら、一回り以上違うことを最近発見した。もうなにがなんだか…。

御所の横にある、本格的ハンバーガー屋さんで、ハンバーグを食べた。とてもおいしかった…。店内ではマイケルジャクソンがかかっている。ああ、なるほど、アメリカン、と思っていたけれど、ここのハンバーガーは、どちらかというとオールディーズな感じがするからマイケルジャクソンかなぁ?という気もしなくない。すると、ジミヘンになった。ジミヘンは超越してる節があって、もはやアメリカとは関係ない。ブルースだけどね。そう言うと、ジミヘンはロックで、ブルースとか言っている君は何も聞いていないからやめろ、と諭されて、仰天した。ブルースじゃないのか!そりゃここからあるロックの文脈が始まりはするけどさ、ブルースじゃないんだね。あのときは、心臓が止まるかと思った。ジミヘンは、同じブルースマンからのけ者にされたという話は聞く。白人のマーケットでやっていってしまったからだ。かわいそうなジミヘン!自分はどこに帰属するのだろう?そういう議論をスパッと、分かりやすく、チャート式に、分類して、明白にするのは、すばらしいことだとは、思うけれども、無意味だ。無意味なのに、わかりやすい。元々言葉に意味は特にないけれど、意味がないなら、分かりやすい方がいいよね!

家に帰って笙野頼子の小説を読み、興奮した。興奮して、心臓が止まるかと思った。笙野頼子は本当にすごい。すごかったので、友達に連絡した。

a「あいつはスゴい。小島信夫ー藤枝静男の激しい部分を濃縮したような小説やん!確かに、藤枝静男の「田信有楽」に似ている。ポコポコ生まれ、なんかしらんが関係性が出来、すなわち社会ができてくるとことかはそうだな。」
b「それであいつがすごいところは、それら全部結局ゴミやねん。怒りを感じるけどな、全部クズになってるねん。それがやばいねん。」
a「まぁ、ゴミというところはあるな(笑)。しかし、その怒りがまた政治的な何かを孕んだりするわけで、これはマジですごいな。この人が一番偉いかもしれない。文学という制度を変える人は、こいつしかいないんじゃないか。」
b「いやぁ〜。でもこいつは、あかんやろ(笑)。あかんというところが、いいんやけどな。だから、 中原昌也よりすごい可能性はあるな。まぁ、それでも、こいつが変えたら、ダメだろ(笑)。」
a「確かに、読んでいて、これを評価してもいいのか、と思わなくはないな。あまりにも他者を取り込み、システムを取り込み、自分の感情の流れを取り込み、なんか、執念みたいになってる。でも、それがゴミになってるところが本当に面白いねん。変なユーモアがあるんだよな。」
b「女の酷い部分を濃縮還元した感じはするな。そこから出て来るこのスカムさというのは新しいかもしれない。だから、あんまり深入りしたらあかんぞ!」
a「いや〜、でも、俺はこういう女になりたかったなぁ。」

というわけで、笙野頼子は本当に素晴らしい。三重県民の宝だと思う。

2012年1月22日日曜日

読みこむ

12/21
今日は読書会をした。

読書会ついでにお酒を飲んだ。先輩におごってもらった。正直な所、その居酒屋の酒はとてもおいしかった。だからとても楽しかった。

お酒を飲んだついでに僕の生い立ちを話そうと思う。

谷内くんと会ったのは、保育園の頃だと思う。そのとき、僕は、保育園で、浮いていた。たかちゃんという子供が、保育園が取り仕切っていた。未だに彼とは、距離の取り方がよく分からない。そのときに、2や南くんという人物が、居たのだと思うけれど、よく思い出せない。おそらく、いじめっ子だろう。2の、いじめっ子ぐあいというのは、よく、後に、小学校の時の谷内の話から、よく聞いた。だが、小学校の時の谷内も、相当頭が弱かったようなので、大概かな、と思ったりすることはある。話をもどすけど、僕は浮いていたんじゃないか、と思う。僕は、しゅんくんという、人間と、よく一緒に居たと思う。しゅんくんという人物は、僕が保育園にいくまで、保育園をよく不登校した人間だそうだが、それは後から聞いたことで、詳しくはわからない。そんな彼も、西武百貨店に就職が決まり、尊敬する。保坂和志や、田中りえのように、立派な小説家になってほしい。

谷内氏も、そのうち保育園にやってきた。最初谷内氏を見たとき、背が高い人だなぁ、と思った。でも、彼は、保育園児であった僕にすら、手に負えなかった。僕は、彼が描く人物がが、いつも首がなくて、のっぽであることをバカにした。物凄くバカにして、よくしゅんくんと、あいつの絵は首という概念がない、概念がない、首がない人間を描くから、あいつは、首という概念がないのだ、と、バカにしていたような気がする。そんな僕は折り紙が好きで、だけれど、カメラしか折り方を作れなかったので、カメラばかりつくっていた。たかちゃんは、しゅりけんを上手くつくり、僕に投げつけて来た。次第に、そういうこともしなくなり、僕は、同じ保育園にいながら、たかちゃんと会うことはなくなった。僕はカメラを作りつづけた。そのころしゅんくんはあやとりをしていた。しゅんくんに、俺とお前は、竹馬の友だな、というと、しゅんくんはものすごく、恥ずかしがった。どうしてだろう。ところで、谷内氏は何が得意だったのだろう。僕は、おかしの時間に出てくるクレープが、たまごの味しかしなかったので、嫌いだった。あのクレープは、原宿とかで売っているクレープとは全然違い、卵焼きを味薄くしただけなので、本当にまずかった。だからいつも残した。そのたびに嫌な気がした。だけれど、谷内氏は、そのころ、かぼちゃしか食えなかったらしいのだ。つまり、彼は、どれだけ気まずい思いをしたかわからない。だけれど、食べたら、アレルギー反応が出るらしい。家にあったキュウイを、触っただけで、泡をふいて倒れ、救急車を呼ばれた。そんな谷内だから、得意な物はなかった。谷内はただ、僕が作り続けるカメラを見続けていた。僕が作るカメラに対して、そんなんどうでもいいやん、外の作ってよ、と言われたけれど、僕は、半分谷内を軽蔑していたので、彼は頭が弱かったのだ、カメラを作りつづけたのが、僕の悪い所だと思う。

保育園では、遠足と言う形で、旅行に出かけた。岐阜県に犬山という町があるが、そこへ猿を見に行った。おさるさんは、何も考えてない風で、そこに寝転がっていたが、やけに攻撃的な猿が、時おり叫び声をあげながら、池をなぞるようにうろうろ歩いていた。僕はいつものように、しゅんくんと、じゅんくんと、歩いていた。たかちゃんは、2と南くんたちを引き連れて、猿のマネをして叫び捲し上げていた。南くんは、器用なことに、猿と人との融和を基調とした、適切な動作で、しかし捲し上げているとしかいいようのない叫び方で、やっていた。2くんは、その時は森の中にいたらしい。しんとしゅんとじゅんくんは、近くにあるというモノレールを見に町にくり出したらしい。だから、バスの添乗員さんにずいぶんと、迷惑をかけたと思う。僕の母は、そのことを時折話し、おまえたちは本当に変わっている。おまえたちは本当に屑なのだから、身分をわきまえた行動をするということを考えなければいけない。つまり、それは枠組みを考えて発言することだ。それが社会の中で生きてい生物であるところの、人間の生き方なのである、と言う風のことを、今日の飲み会で聞いたような、ことだ。

後に僕は、遠いところに引っ越すことになる。谷内くんとも別れてしまった。しゅんくんとは、一年に一回ぐらい会うこともあったが、谷内は(谷内の本名は、谷内潤一郎と言う。)頭が悪いので、会うことがなかった。それでも、一度だけ、年賀状は来た。その年賀状は、今でも大切に僕の部屋の引き出しに大切にとってある。そんな彼も、今、新宿区の早稲田大学で、イギリスの憲法について、レポートを書いているということを、風の噂で聞いた。社会というのは、法である。私たちは、法の裁きによって生きている。端的に言うと、言葉の裁きである。もっと、恣意的な言い方をすると、言語を獲得した私たちは、想い出を言語によって解釈して、それによって世間的な価値を組み込み、恥ずかしいなぁと思ったり、おもしろくもあり、フロイト的には、それが今思い返すと暴力や暴行になったりすると、トラウマになる。そのことが、とても愛おしい。

2012年1月21日土曜日

暴行

前回ポーティスヘッドについて述べていたので、それにつながる記述をしようかなぁ、と思っていたら、日誌を書かなくなった。なんかしてやろう、と思って書いても、日誌にはならないので、そういうのはやめようと、何回も何回も思ったのに、どうやら最近は、そういうモードらしい。

デカダンの話をしたと思う。園子はデカダンだし、ポーティスヘッドもデカダンだ、みたいな。でも園子は積極的なデカダンだから、恐ろしい。ひとに迷惑をかけるタイプのデカダンだからだ。ポーティスヘッドが迷惑かからないとは限らないが、少なくとも関わり合いを持たなければ、かかることは絶対ない。幽霊みたいなものだ。同じデカダンでも、この差はとても大きいと思う。この話はとりあえずここまでにしておこう。ご意見お待ちしております。

一月の第三週

一月になって、僕は明らかに無気力になった。どうしたんだろう。曲の趣味も変わった。アニマルコレクティブがとてもよく聞こえる。今までバカにしていたのだが、今聞いてみると、これは、僕がやっていることと一緒だ、と思うようになった。適当さの系譜は、ここにも生きていたのだ。去年は、マヘルだったり、灰野敬二方面、つまり、いわゆる日本のアングラに潜っていたので、アニマルコレクティブあたりを完全に忘れていた。

具体的なことを言えば、アニマルコレクティブは、多声的である。たくさんの人が鳴らす「声」があるのである。それをごちゃまぜにして、フォークの肉付けにしてしまうことが、多元世界の扉を開くのであって、そういう意味では、ポーティスヘッドのdj的なループを使った一元的で冷めたデカダンの世界とは反対である。ただし、どちらも極めてワンコード的であり、アシッドフォーク的であり、すなわち曲の進行が適当にどんどん進んでいく。だから、元は同じような気がする。元は同じで、方法論も同じなのだが、導き出す結論だけ違う。結論などというものは、どんなにあがいても大した差はない、数学なんかそうだ、だけれども、導き出す結論で、気持ちは変わる。すなわち、どういう物語を描きたいか、ということだろう。何かトラウマでもあるのかもしれない。そういう差というのは、結局のところ、あまり差になれないのだけれど。つまり、例えば、暴行にあったから、こういうことを伝えたい、と思い、司法に行かず作品に昇華させるとしても、その思いは、そんなに差にはならない。そもそも、「その思い」とは、思いではなくて、言葉であることが多い。写真とか。そういうのは、想い出かもしれないけれど、トラウマみたいなものだ。そのトラウマで、例えば人間不信になれば、必然的に音楽製作は少人数で作ることを余儀なくされ、そこに方向性が生まれる、ということが、あるかもしれないし、それは大きい。もがいた故の方向性は、存在を大きくする。それは、音楽を別の場所に連れて行くだろう。

さくらこさんとまた姫についてのお話をしたのですが、今日はあまり触れません。またゆっくり話す機会があるのではないか、と思われます。

2012年1月18日水曜日

デカダンス

 一月の第二週

先日私の家に2くんが来たのである。2くんというのは、年末に私の家に段ボール二箱パンパンの荷物を代引きで3000円分ぐらい、送ってきて、その荷物が、予想以上にゴミばかりだったので、二、三日寝込んだ、というのは、日記に書いたと思うので、確認してみる。

12/6付けの日記(引用)

友達から段ボール二箱、着払いで郵便物が届けられた。

友達から大量のゴミが送られてきた。日本人形、よくわからんスプレー、菓子くず、大量の一円玉、ようわからんビデオ、dvdデッキ、psp、い みわからん形状のレンズなしカメラ、壊れたMac Pro、変なバービー人形、写真現像に使う液体、チューナー、ふりかけ、ようわからんケーブル…。(ツイッター)
これは立派なテロである。読売アンデパンダンの担当者は本当に大変だったろうな。日本人形がやっかいで、2、これは僕の友達の名前であるが、2はやっかい で、めちゃくちゃな人間なので、包装の仕方も知らないため、ケースがわかれてしまって、ぐちゃぐちゃになっていた。そういえば、2は渋谷系の末裔みたいな 顔をしている。

このモノたちは、実は、まだ家にある。どうしたらいいんだろう、と思いながら、放置している。大量の一円玉は実は結構使っている。ようわからんモノは完全にほったらかしにしている。pspは、つかえたらおもしろそうだろうなぁ、と思いながら、何もしてないのが、気になるといえば気になる。 まぁ、ゴミというのは、そういうものかもしれない。日本人形に関しては、ゴミとも言えない。人の形をしているだけでなく、人の顔もしているので、気味が悪いからだ。ケースが割れて、もうどうしようもないので、処分したいような気がするが、ゴミとして出すことが出来ない。呪いなどというものを信じているわけではないし、そういったものは、全て気持ちの問題だ、ということは分かっている。むしろ、気持ちの問題だからこそ、捨てられない。よって、人形は、しばらく、部屋の高い所から、何かを見続けている。座禅を組むとき、目は閉じない。目を閉じると、考え事をしてしまうので、むしろ、目を開けて別に何を見るでもなく視線を泳がせておくのが、いいそうだ。人形は、目が閉じられないので、状況としてそれに近いのだろうが、それは何も見ていない、ということにはならないだろう。

その2くんと鍋をした残りの白菜があったので、思いきって朝から鍋をすることにした。早速、ネギとキノコを買ってきて、白菜とネギとキノコの水炊きをすることにした。カツオだしを入れて、白菜を入れまくる。3巡ぐらいはして、三時間食べまくったから、体質が変わる程食べたことになる。そういえばこのごろ便が違う。

ところで、先週は、さくらこに何となく似てるような女の子と何となく飲みました。さくらこというのは、もう三年ほど前になるのだろうか、私が東京に居た時に、友達と一緒に、その中に2もいました、酒飲みながら中央線沿いを走り回ったあげくに酔っぱらいまして、さくらこの部屋で豆腐を投げつけたりしたことがあります、と出来事を説明しても、仕方ないよね。何かパーソナリティを説明できるような言葉を探すけれども、ま、いいか。2の説明にしても、パーソナリティに立ち入って説明しているわけじゃないですからね。ちなみに2はカメラマンです。さくらこはアメリカに行ってしまいました。石井裕也監督に『ハラがコレなんで』という新作映画があるけれども、あれも、女の子がわけ分からないうちにアメリカに行っていて、黒人の子を孕んでしまっているところから、映画が始まっていたなぁ。さくらこはそんな、どこでもホイホイついて行くような人ではないし、何もかも、粋だねぇ〜、で済ませる人でもないのだけれどね。

話は自然と、姫の話になりました。僕の周りには変なやつが多いみたいで、小説に、なるんじゃないか、いつでも、小説になるんじゃないか、と思っている。物語というのは、作ること以前に、滔々と流れていくものだとすれば、即興、インプロゼーションで書いた小説、撮った映画、絵画の場合は、ライブペインティングとかはむしろ劇に近いのかもしれないけれど、それでも、何かそこに物語が出現してしまったりして、それに驚きながら私たちは日々暮らしているのだけれど、物語を語る人というのは、その滔々と流れるもの、ここで物語素とでも名付けることにします、を制御して、汲み取って、方向づけたりだとか、することが上手で、それを生かす人だと思う。姫はそれが上手だよなぁ、と言うと、女子は元が物語みたいなもので、生きてるだけでなんか幸せみたいなところがあるみたいね〜、とさくらこが言うから、ふんふんと、聞いていました。そういえば、やけにセンチメンタルで、話が通じなかったりする男の子は多いな、と思う。センチメンタルは語ることの放棄みたいなものだもんな、仕方がないな。そうだとしても、物語を統制するような人間というのは、もはや女も捨てて、違う何かになろうとしているんじゃないか、と思う。それが、例えば、チヤホヤされたい、と思って始めた、物語の統制力だとしても、なぁ、物語を統制しようと思ったら、自分まで犠牲にしないといけないんじゃないかなぁ。花の命もなんとやらみたいな話ではないけれども。そう思うと、ふと坂口安吾が、「いわば、僕の小説それ自身、僕の淪落のシムボルで、僕は自分の現実をそのまま奇跡に合一せしめるということを、唯一の情熱とする意外に外の生き方を知らなくなってしまったのだ。(青春論)」と言っていたのを思い出し、無頼派だ!無頼派!と町を回りたくなったものです。僕なんかは、無頼派にならないようならないよう、歩んでいるつもりなんだけれど、怪しげな本だとか映画だとかを見ているから、毒がまわってきちゃうのかな。こういうことをおおっぴらに、開き直って言ってると、デカダンというか、完全に無頼な感じはするので、長生きしたい僕は、そんなのは嫌だ。ところで、無頼はお水と関係があるのか。ファム・ファタールになるのは痛快な気もするけれど、上手くやれよ!教養を持つのだ。

今週は『エロス+虐殺』を見ました。60年代の悪ノリみたいな映画で目眩がしたけれど、もう、本当に酷い。自由を謳歌しよう!という風な匂いで突っ走ってもそれははき違えてる。だから結局凡庸な愛憎劇でグダる。グダグダしたまま四時間もある。同じ象徴の多様でも、石井克人の『茶の味』は本当に良かった…。突飛なCGがあんなに出て来て、泣かせるんだもんな、新しい語法を完全に編み出しちゃってるよ!いわゆるジョン・フォードから黒沢清に至る映画の系譜とは全然違うところで自活できる土壌を見たような気がします。そういう意味では、『おれは園子温だ!』を見ましたが…。まぁ処女作の小品だからこれを園子だ!として見ちゃうとダメかもしれませんが、あ、別に悪くはない!彼の映像もものすごく新しくて、度肝を抜かれました。ああいう暴力的かつスピードや勢いのある演出はとてもいい!とてもいいことが問題だ。こんなことで説得力を持たせて、どうする!と言いたいけれど、説得力を持ってしまうのだから、仕方ない。園子は何か強烈な磁場を形成して、物語を統制していくが、映像がいわゆるストーリーの筋のような物語をぶち壊していることもニクい!ストーリーをぶち壊せ、とは私もよく思うのですが、なんだろうなこの違和感、と思ったら、これはもしかして無頼派かもしれない!「僕は自分の現実をそのまま奇跡に合一せしめ」ているのであるね。そんな死に急ぐようなことやめようよ〜と何回も何回も思ったのだけれど、デカダンの新たな形式というのはどんどん更新されてやまない。

最近ポーティスヘッドすごいな、と思い聞き直しているのです。あの、ループを回しただけの適当さに僕は参ってしまっている。適当さは、マヘルのようなミステイクだけでなく、dj文化にもあったのです。ループだけに単線的な世界ではあるけれど、うん、つまり、それが、あの退廃美というか、デカダンスな感じを生むんだろうな。 なんでこんなのを好きになっちゃうんだろう。

2012年1月16日月曜日

一月の第一週



この二週間をまとめてみる。

1/2

滋賀県には立派な神社がある。
地元の神社は先日燃えてしまった。
初詣は、厄よけの神社に行った。厄年というわけでもないのだが、滋賀県に行った。珍しいところに行くのが好きだ。初詣といえば、昔は京都に行ったものだが、滋賀県に行った。珍しいといっても、僕の住んでいた居住地では、厄払いに伝統的に滋賀県にある神社に行くことが慣習みたいなところがあるらしい。私は厄年ではないのだが、変わったところに行くのが好きなので、滋賀県に行った。つまり、バカバカしい私の気まぐれなので、本当はそんな所に行く必要はなかったのかもしれない。だけれども、私は昔そこに来たことがある記憶がおぼろげながら残っていて、先日その光景が夢にまで出てきた、ような気がする。疲れているのかもしれない。デジャブという現象がある。来たことがない筈なのに、そこに来たように錯覚してしまう現象であるが、それは疲れによる錯覚であるということをどこかで読んだことがある。ドッペルゲンガーというのは、死の直前に見えてしまうものである、という噂があるが、それも同じことで、精神が追いつめられて魂が病むと、自分がもう一人見えるようになるというだけの話である。つまり、ドッペルゲンガーを見て死ぬのではなく、死ぬからドッペルゲンガーが見えるだけのことで、怖がる必要はない。このことを頭に入れておくと、黒沢清の映画は、そういう意味で、本物の幽霊を撮ろうとしていることがわかり、僕の友達のカメラマンの2くんが、心霊写真を撮ろう、といって、一緒に廃旅館に潜り込んだこともわかる。僕たちは、幽霊を捉えるために、生まれてきたのかもしれない。滋賀県に行ってよかった…。多少雪が積もっていて寒かったが、滋賀県に行ってよかった。僕は滋賀県が大好きであるということが、また確認できた。僕は本当に滋賀県に行ってよかった…。名物のカラフルなモチを食べて帰った。厄よけのお守りは、お財布に入れることにした。

1/3ー4

谷内くんはすでに東京に帰ってしまっていた。2くんはなぜか名古屋にいる。私は彼らに出会ってから彼ら以外の友達となおざりになってしまったので、手持ち無沙汰だ。映画を見る。1黒沢清の『降霊』2イーストウッドの『チェンジリング』3ヴェスビンダー『ベルリン天使の詩』を借りてきた。

相変わらず黒沢清の映画はホラーなのかホラーじゃないのかよくわからないが間違いなく怖い映画を作るのがうまくてとてもおもしろく鑑賞した。2もとてもよかった…。僕も社会からくだされた決断に立ち向かい、真実に向かって歩んでいける人間になろうと思う。3はおもしろかった。

 今更であるが、正月の期間には、僕は昔の居住地に帰っていた。僕の住んでいた所では、最近たくさん温泉がわき出したので、温泉天国になりつつある。僕は温泉が好きである。温かいお風呂につかると、とても気持ちがよくなる。のぼせると、水風呂に入る。温かいからだで水風呂に入ると、とても気持ちがいい。少し体が震えてくると、サウナに入る。サウナも気持ちがいい。汗は、体にとって悪い成分を吐き出してくれるので、汗をかくことは、とてもいいことだ。サウナも水風呂も、入りすぎる、という程度まで入ることにしている。そうすると、サウナから水風呂に入ったり、水風呂から温泉やサウナに入ったりする時に、とても気持ちがよくなるからだ。そういうことを繰り返していると、自然と長湯することになる。だいたい僕は、二時間ぐらいお風呂に入るようだ。

1/5

シューさんの家で、マリオゲーム大会が開かれるらしいので、バンバンボリーズの佐伯さんと一緒にシューさんの家に向かった。ゲームは久しぶりだったが、マリオカートなので、僕もよくやったことがあり、なんとなく操作を覚えていた。ストリートファイターもやった。ストリートファイターも、買った覚えはないが、なんとなく家にあったので、多少やったことがあるが、やり方を全く忘れていた。忘れていたが、チュンリーという中国人の女の子のキャラで僕がやると、割と強かった。キックが強いからだろう。僕は個人的にソ連の男の顔が好きだが、全く使えなかった。

1/6

2くんが昼に来るとのこと。へぇ、と思っていたら、本当に来た。ゴロゴロを持って来た。クラシックギターを携えている。どうしたの、と聞いたら、妹が使っていないから貰った、と答えた。2くんの妹は高校時代ギターマンドリン部だった。僕も知っている。

早速何曲か吹き込んだ。どうしようもない曲がどんどんできる。そういうのがいい。

だが、僕もやることがあるので、途中で、発表用の資料を作ることにする。即席だ。三時間ぐらいしか時間は残されていない。

夕ご飯は鍋を作った。

1/7

2くんは古本屋めぐりをしたい、と言う。2くんは古本が好きだ。なので、古本屋を案内した。だけれども、今日は僕に何か憑いていたようで、おもしろい本が行く店行く店にあるのだ。最初に入った店で、サドの『ソドムの百二十日』の全訳が1500円で手に入った。その時点で、何かおかしかったのだ。

ガケ書房まで歩き、善行堂に寄り、バスで三条まで下り、ジュウマントンに寄り、ありの文庫に寄った。ジュウマントンには、今日はカジさんはいなかった。ジュウマントンからは、錦通りを歩いていった。2くんが、黒豆茶のもうのもう!と言い出すので、普段はこういう人ではないのに、珍しいなぁ、何か嬉しいことでもあったのかなぁと思いながらお茶を貰う。2くんは、あまり人と触れ合うことが得意ではない。試飲を人との触れ合いというのもおかしいか…。とにかく、あまり人と触れ合うことが得意じゃない。その割にフェイスブックやミクシーを駆使したあげく、何人も友達がおり、カメラマンビジネスを成功させ、先日は自殺未遂の子がいきなり家に来たと言うから、人と触れ合うことが得意ではないことはないのかもしれない。人と触れ合うことが苦手であるような風でありながら、特にそんなことはないのかもしれない。そんな彼が黒豆茶を飲もうと騒ぐので、僕まで嬉しくなって、お茶を貰いにいくと、2くんはそのお茶で薬を飲んでいる。なんだろうと思ったら、精神薬だった。ほんとにもう〜!こいつは手に負えないなぁ。ありの文庫の店主は、よくイベントでよく会い、友達である。だいぶ年は離れているみたいだけれど…。ありの文庫のことは、また後に出てくると思う。コーヒーまで頂かせてもらって、本当にいい店だ。本の品揃えもすばらしい。長居してしまう。

スティールパン
タージマハル旅行団の小杉がスティールパンの中に
小麦粉を入れて手を突っ込み、ボコボコと
音をひたすら音を立てる話を聞く。



ありの文庫の店主さんの紹介で、砂の書という古本屋に行かせてもらう。国道一号線沿いの建物とは思えないような、古びた、それこそ黒沢清が使いそうな、古ぼけた、2くんが心霊写真を撮りにいこうぜ、と招き、行きそうな、ビルがそこにはあった。店の中もすごい。あの妙に落ち着ける空間は、何かの怪しげな研究室のようだ。本の品揃えが本気で、僕なんぞまだまだ勉強不足だなぁ、と思わせる。店主さんもすごい人で、底が知れない。ベジタリアンだろうか。少し気が狂っている、変な合唱曲をたくさん聞かせてもらう。

夕ご飯は鍋を作った。デレクジャーマンの映画を見ながら食べたが、これは果たして映画なのだろうか?続けてマキノの映画を見たが、2くんは途中で寝てしまった。

1/8

2くんと一緒にダラダラと、一日を過ごした。こういうやつとダラダラ一日を過ごすということは、本当にダラダラしている、ということだ。とりあえず、古本屋に行った。カライモブックス、というところでは、まさに家庭的な古本屋で、あかちゃんが居た。イケメンの店主は、あかちゃんの世話をしながら、店番をしている。妻であるような女の子は、年賀状の作成だろうか、デザインの話をしていた。年賀状のそういうことを話していたから、年賀状の作成の話で間違いないと思う。

2くんと久しぶりに飲むことになった。飲むということは、いいことだ。ただし、2くんがマッコリ好きだとは思わなかった。マッコリは、僕はそんなに好きじゃなかったが、今も冷蔵庫にある。もう一度飲んでみると、おいしく感じられるだろうか。

1/9

2くんは今日帰るそうだ。

仕方がないので、お見送りをする。なか卯で、映画監督の話をする。園子いいよ、といっていたので、びっくりした。おまえ『愛のむき出し』ゴミやん、っていってたやんけ、と言うと、びっくりしていた。おかしいなぁ。園子には、部屋を探し歩く映画があるらしく、ひたすら部屋を探し歩くだけの映画があるらしい。それはおもしろそうだとは思った。園子の映画を、僕は見たことがないが、あの人はなんか嫌だ。あの人の映画を見て、それが良くても、それはそれで問題だ。自己を強く打ち出すような詩人が撮る映画なんか良くないだろう、と思っていたが、どうやらいいらしい。おもしろいことには目がないので、今日『冷たい熱帯魚』借りにビデオ屋さんに行った。どうやら一つだけあったようなので、さすがに園子は人気だなぁ、と思いながら、石井裕也の『川の底からこんにちは』も借りようとすると、なくて、なんでいつもないねん、誰かなくしたんかい、と思ったけれど、仕方がないので、園子の『部屋』という映画を借りようと思ったけれど、それもないようで悲しい。おまけに、『冷たい熱帯魚』だと思って抜き取ったDVDがなぜか『さや侍』で、いくら松本人志でも、やっていいことと悪いことがある。

2くんと喫茶店に入ろうとして、京都駅をうろうろするけれども、アホみたいにてっぺんまでいくけれども、微妙に高かったりして、入りたいようなところはなくて、結局二階の、お茶屋さんみたいなところにガラにもなく入り、一服千円のおいしいお抹茶を頂く。僕は抹茶が好きやねん。

フラッグ

昼下がり、という言葉にはふさわしくないような、底から冷える寒さがいやらしい町を薄く桃色がかったママチャリで走り出し、牛丼屋で食べたくもない牛丼を食べた後、お金を下ろしにいくことを思いつき、近くの町家にある小さな郵便局の方まで戻ることにすると、割と高層なマンションと住宅が何かの塩梅をもって立ち並んでいる通りのところにある中学校の校庭でカラフルなつぎはぎの大きな旗を振る女の子が見えた。旗はピンクと青と黄色が基調となっていて、割とすっきりしている。よく子細を見ると、ごちゃごちゃしている部分もあるが、マジックによるシミなのであろう。普通はそんなことは気づかないほどには、すっきりしている。長方形の旗として結果的に提示されていたが、デザインとしては正方形のつぎはぎで、黄色、青、ピンク、の順で重ねられていた。といっても、ピンクの色に青の滲みがあったわけではないので、おそらくつぎはぎなのではなく、そのようなデザインなのだ。マジックで書いてあるような色なので、例えばピンクは、マジックを想像してもらえば分かるが、きつめの色と言っていいだろうが、全体的に暖色系のこの旗は、目に温かく、励まされているような気がする旗だ。このような正方形のつぎはぎのようなデザインは、何となくモダンな気がするのだが、この際いいかもしれない。シンプルなデザインだが、目を引くには十分だ。例えば、戦場の連絡は、赤と白の旗で行うことがあると思う。旗というのは、それだけで十分なのだ。旗に最低限の自己同一性を呼び覚ますものがあれば。これからさまざまなことに巻き込まれることになるだろうが、強くなれ、旗よ。

俳句

旗振って おめかししてる おんなのこ

2012年1月5日木曜日

謹賀新年明けましておめでとうございます

1/1
ガキの使いはおもしろかったけれど、バラエティー番組と化してるような気がする。こう見えても、僕は長年ガキガキしているので、最初に見たのは中学生の頃で、ダウンタウンの松本が命を張るぞ!命を張るぞ!命を張るぞ!っといいながら、タオルを頭に巻いて、危険なことをやろうとするが、やっぱりお子様の前で命を張るような危険なことできへん、と言ってやめる、という内容の放送をしていており、僕は度肝を抜かれた。このような、事故みたいな衝撃が、やっぱり僕は好きだ。僕は放送事故が大好きだ。できることなら、作品は事故の結果生まれるものでありたいと思う。このくだらなさが愛おしい。七尾旅人も歌の事故とか言って、歌っている。ということはやっぱり事故なんだと思う。くだらない、しょうもない、という結果を得て、ああこれは本当にしょうもないから、ええわぁ〜と、言う人もいるが、そういう人は跡が残らず清清した地平を見て、ああ全ての価値判断が捨てられてなお作品として自足していてすばらしいといっているようなもので、ニヒリストと変わらないからやめろ!作品には魂が宿るのだ。

事故といえば、ガキの後に見た、黒沢清の『ドレミファ娘の血が騒ぐ』も、あれは事故だ。黒沢清の映画はどれも事故と言えば事故なんだが、それだけに、圧倒的に映画だなぁ、と僕は本当に、黒沢清の映画が、好きだ。あれだけちぐはぐさを意識的に出来る人もいないし、あのふざけた、もしかしたら悪意のある編集は、映画でしかできないだろう、というような映画を取る。そして女の子がめちゃくちゃかわいく/怖く撮れている。HAHAHA。

中学といえばブルースハープ、すなわちハーモニカのようなものをし始めたのは中学の時だということが僕にはある。自分で最初に買ったCDはリトルウォーターというブルースの黒人のCDを、友達である中森くんのお父さんにアマゾンで手続きをしてもらって買った覚えがある。実家に居り、久しぶりに聞きました。友達である谷内くんに、ブルースは最高ですね、とメールみたいなものを打つと、若干引かれたのだけれど、ブルースの「うた」の適当さが、何か未知なる恐ろしいものをキャッチすることができる要素になるのだなぁ、と返る。先日久しぶりに中森くんと遊びまして、競馬に行くことになりまして、最終レースで、キオウエルヒトという馬がいて、なんやねんこの馬!と笑っていると、この馬が一着取りよって、ああ、このネーミングに賭ければ良かった。子供に馬券を買わせたらなんか当たるというのも聞くので、力というのはどこに宿るかわからない。

2012年1月4日水曜日

謹賀新年あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

12/30ー31
たぬきうどん 
バンバンボリーズのライブがあったので、向かう。途中で、丸二食堂でご飯でも食べようか、と思ったのだが、ここは29日にすでに今年度の業務を遂行していたらしいので、その近くにある、後輩の菊田くんから教えてもらった、とてもおいしいうどん屋さんにて、たぬきうどんを食べる。あいかわらず非常においしい。そして、たぬきうどんはあたたまる。この店に出入りする前まで、たぬきうどんというものが存在することを知らなかったが、たぬきうどんとは、刻んだ油揚げの上から葛餅をかけたものであり、だから内からあたたまる。汗まで出てくる。

バンバンボリーズだけでなく、僕としても、ライブ空間で楽しむのは今年で最後だなぁ、と、しみじみしながらライブハウスに行く。今日出ていたラインナップは個性的な人たちばかりで、何もかも間違っているバンドに度肝抜かれたり、ボーイッシュなメジャーデビューの中学生デュオが尾崎豊を歌っていたりしていた。二次元ロマンチッカーさんは、いつもながら素晴らしいバンドで恐れ入る。コンドームを投げていた。前みた時はオナホールを投げていた。バンバンボリーズは、夜用セットだったので、黒ずくめ棒立ちスタイルである。(クラフトロックを意識している…?)アンコールで、僕も舞台に上がり、ラップをやらせていただいたが、申し訳ない。

ライブ後は、いろいろとおしゃべりをした。 二次元ロマンチッカーさんには、いろいろあるようだ。いろいろ頑張って欲しい。

その後、中華料理屋さんにいく。バンバンボリーズの佐伯さんが適当に大量に頼んだごはんがおいしくてびっくりした。四川料理は辛いのが売りみたいなところがあり、とてもおいしかった。そこで、ハサンさんやしゅーさん達に久しぶりに会う。年末はいろいろあって素晴らしい。ライブのお知らせ送らせていただきます!

佐伯さんと彼の中学校からの同級生で今はゲーム会社に勤務しているちゃたんさんを私の家に招く。そしてすぐ寝る。



せっかく起きたので、北野天満宮に行くことにする。年末に詣でをすることは、締まる。だけれど、大晦日にもかかわらず、行列がすごかったので、やめて、牛をなで回し、近くのお堂を参り、一本締めで締めた。僕は、こういうことをすることが、大好きである。

せっかくなので、近くのビデオ屋さんで、黒沢清『ドレミファ娘の血は騒ぐ』ブニュエル『ブルジョワジーの密かな愉しみ』リンチ『カラバッギオ』を借りる。

 正月も近いので、故郷に帰る。

実家は暖房設備が整っているので、温たくて、いい。気候的にはそんなに変わらない気もするけれど、京都では、さっき雪が降っていたので、やっぱり京都の方が寒いのだろう。京都は風土から意地悪である。京都はバカだ!でも故郷の地域は、何もないので、それもバカだ!行政は何をしているのだ!?