2012年3月23日金曜日

病み上がり

先ほどシャワーを浴びまして、汗を洗い流し、それをもって風邪の収束宣言をしたいところではありますが、未だ鼻からは鼻水とは思えないものが出たりすることがあり、予断は許されません。

僕はこの時期になるといつも風邪をひいている気がする。いきなり訪れてくれた金持ちの慶応の人が彼女を連れ込み僕の家に泊まり、風邪で寝込み、一週間看病をした末にうつされた、というのが去年。そうか、おととしはインドに行っていたのでした。インド行っているということがもうすでに風邪みたいなものだから、やっぱりこの時期にはいつも風邪をひいているのだ。

栄養をつけないと〜と丸二食堂に行き、丸二定食という、日替わり定食に相当するものを注文したら、ハンバーグみたいなものが出てきてびっくりした。黒板を見た時はメンチカツだったのだけれど、デミグラスソース的なものがかかっていたので、もはやハンバーグだ。食感もハンバーグだ。味もハンバーグだ。僕はそこまでハンバーグを食べたことがないからかもしれないが! 小さい時はハンバーグというのは下司が食うものだと思っていたので、外食するときは日本料理店ばかりをリクエストしていた。今では、母がk市に来る時なんかは、イタリア料理店でパスタを頼む。今日もおいしく食べさせていただきました。ありがとうございます。

帰ってきてからの記憶がないということは、すぐに寝たのだろう。風邪だから仕方がない。丸二食堂という、橋の向こうの食堂まで行くことがまずびっくりだ。だけれど、そこにあるのだから仕方がない。起きて、弁当を買いにいこうと自転車に乗ると、ありえない音がするので、うんざりして、下の方をねじってやると、どんどんひどくなる。おかしいなあ、とタイヤの通りが良くなるようにあらゆるところの隙間に気をつけてねじっていくのだが、どんどんひどくなる。これは、すきまとは別の問題系があるのだろうか?錆びたのか?仕方がないから、この自転車はバイクだと思うことにする。道行く人が僕の方を振り向くから僕も顔を見てやったぞ!ナハハハ…。普通の一般市民やっているなのに…。恥ずかしい…。自転車さん、どうしてまともに生きようとしているのに、変な音を軋ませるのですか!?下のバンパーは、ネジで取り出すと、なんぼでもねじれられるので、造形美術家みたいで楽しいと言えば楽しい。総合的にはあんまり楽しくない…。今思ったら楽しいかな、と思えてきたけれど、今思っても、そんなに楽しくはない…。スーパーに着いて、弁当を買おうと思ったけれど、殆ど売り切れていて、思えばそんなにお腹もすいていないことに気がついたので、帰ろうと思うけれど、それじゃあまりにも不毛じゃないか!と思ったので鯖弁を買うという本当に不毛なことをする。いや、考えてみれば僕は何も食べていなかったので、それはそれで良かったのだ。おいしい半額の鯖弁当はとてもおいしかったです。ありがとうございました。

2012年3月17日土曜日

インド行ってきたから酒が飲めない体質になった(シューありもとさん)

明日はおのしほうさんの引っ越しのお手伝いに行かなければならないのだけれど、大丈夫だろうか?ここのところ僕は毎日、とんでもない時間まで寝ているような気がする。朝まで飲み歩いているからだ。それで今日は、梅ちゃんが九州に帰るので、本棚やエレキギターやベットのシーツなどをごっそりもらいに行く予定だったのだが、寝坊したので、梅ちゃんはバンドの練習に出かけてしまった。あさってはマグナム本田と12人の悪魔というアーティストのゲストに出る為に、スタジオに向かわなくてはいけない。起きれるだろうか?そんなことを思うけれど、僕はいつも、約束がある時は、起きることができるので大丈夫なのだ。もしかして本当は、眠っていないんじゃないか。

小島信夫と森敦の対談集『対談・文学と人生』を引き続き読んでいる。たぶんタイトルは適当かと思われる。もちろん、人が対談をする時は、結局のところ、文学と人生についてしか対談をしない、という意味に於いて、別に的外れというわけではない。やはりこの本は面白い。それにしても、今月僕は2冊ぐらいしか本を読んでいないのではないか!?世の中には半日で24冊読んでいる人間もいるそうだが、それは実際どういう現象が頭の中で起こってるんだろうか。僕は元々本を読むのが苦手なので、まどろむようにしか本を読むことができないのである。そのようにして本を読むのはとても楽しいことだと気づいたのは最近のことだ。やっぱり眠っているじゃないか!

お腹がすいたので、スーパーに行くと、ムラカミマイに会ったけれど、人違いだったみたいだ。表情が暗かったので、闇のムラカミマイだった。ムラカミマイさんが残業をし続けるとこんな風になる風であった。家に帰り、ご飯を食べると、小島信夫と森敦の対談集『対談・文学と人生』を引き続き読んでいる。すると、電話がかかってきた。僕の電話は携帯電話であるが、正確にはPHSなので、電話番号しか表示されない時がある。その時、Aさんとメールのやり取りをしていたので、Aさんかと思い、うむうむと思いながら電話をとると、僕は電話で人の声は分からないのだけれど、話を聞いていると、どうやらムラカミマイらしい。梅ちゃんの家に集合しよう!という提案に乗らせていただかせていただいた。現在自分の家にある「レジェンド」というメーカーの作ったアコースティックギターは、いわばそのお土産なのである。北浦曰く、「いい感じにちゃちい、おそらく台湾製のギター」であるこの「レジェンド」というメーカーの作ったアコースティックギターであるけれども、僕はアコーステックギターを持つのが思えば初めてだ。中学校時代の時は、友達の家にギターがあったので、いいなあと思い、弾かせてもらった。ポップスデュオである「ゆず」などが全盛期だったので、よくそういうものを弾かせていただいた。でも、自分の家にはギターがなかった。別に親も買ってくれなかったので、仕方がないからハーモニカを夕方まで吹く毎日を中学校の時に続けた。そうすると、成績が良くなって、学校で一番になった。やった!と思いながら、高校に進学し、ハーモニカを辞めてしまうと、学校でものすごく落ちこぼれてしまった。落ちこぼれてしまったが、そういう中学校時代だったので、恨みを買ってしまった人物が、「おまえ前のテストはどんな感じやった?」みたいな風にいつも聞いてくる。やめてくれ!でも、俺は今、アコースティックギターを持っているので、起きてからずっと、適当に弾いている。 明日はエレキギターをもらいに行くつもりだ。だけれど、明日はおのしほうの引っ越しの手伝いをしなければいけない…。あさってにしよう。だけれど、あさっては、3/30のウーララで、「マグナム本田と12人の悪魔」というアーティストのゲストとして出る為の練習をしなければならない…。まああさって暇を見つけて、とりに行きます。どうせライブハウス「ネガポジ」へ呑みに行くのだし……。

ローソンで待っているように言われたので、ローソンの店内で待っていた。外はまだ寒いのである。春眠暁を覚えないのである。ああ、全然関係がない。春眠暁を覚えないのは僕のいつもの普段の生活だ。春という季節の記憶はいつも全く記憶に残らないが、それはいつも春眠暁を覚えていないからだろうか。 そう言う意味では、春眠暁を覚えていないことがない冬とかの方が気持ちかピリッとしていて良い。だけれど、k市の冬は、命を蝕もうとする節がある。私には逃げ場がない!ムラカミマイさんとOLさんがやってきたので、梅ちゃんの家に向かおうと、自転車をこぎだそうとすると、梅ちゃんの家はローソンの上だった。びっくりした。OLさんにお酒を買ってもらう。

梅ちゃんの家は、マンションではあるが、立派な家で、こころなしか広い。哲学科のD大生の部屋に入れてもらい、そこで飲みパーティをしたことがあるが、同じような雰囲気がした。そういうことか!その時は酔った勢いもあったので、もらった味付け海苔を全部食べてやった。そして、とにかくベットが大きい。ベットが大きいというのは、ベットのクッションが大きいということだ。ベットのクッションに大いに興味を持っていた私は、早速ごろんとさせていただかせてもらった。これが、よく眠れるのである!ああ、気持ちいいなぁ。さてはハイソだな!と直感が働いた。いつも理性的な私であるが、こういう直感に関しては、僕は信じることにしている。

送別会ということで、大いに呑んだ。大いに呑んだので、すぐにお酒がなくなってしまった。発泡酒一本だからだ。梅ちゃんとお酒を買いに行き、OLの子にお酒を勧めたら、呑んでくれたので、ああ、この子は、明日は本物のOLの子とレストランに行く約束をしているんです、と言っていても、やっぱりお酒が呑みたいんだな、バンバンボリーズの佐伯さんはこの様を称して「気だてのいい子」という風におっしゃり、遊び歩いているけれども、さもありなんなぁ〜と思っていると、いつの間にかいなくて、OLは賢い。

 そうしているうちに、ムラカミマイへおのしほうさんが電話をかけてきた。そういえば明日はおのしほうさんの引っ越しの手伝いをしなければならない。今現在、一時半であり、僕は遅筆であるから、書き終わる頃には七時とかになっているかもしれない。明日集合場所に間に合うのか…。まあでも、僕はこういう約束に関しては、破ったことがないので、大丈夫と言えば大丈夫だろう、と、自分に言い聞かせていると、あまり約束を破らないで済むのである。

北ちゃん(北浦ちひろ)が来たので、部屋を真っ暗にして、シガーロスをかけて、疑似セカイ系ごっこをした。疑似セカイ系ごっことは、部屋を真っ暗にして、シガーロスをかけ、シガーロスを裏声で歌い、私たちの共感覚を共有し、訴えかける遊びだと思う。ムラカミマイはアイリッシュの子なので(佐伯さんと僕の家に滞在した時も『ダブリン市民』を読んでいた。)さぞかしアイスランドの音楽も好きだろうと思い、アイスランドの音楽にはまったので音楽を始めたみたいなところがある僕なので、アイスランドやぞアイスランドやぞ、と言ってやると、アイルランドとアイスランドは違うぞ、と諭された。

その後、梅ちゃんとムラカミマイは、里芋ほりに激烈な執着を示した。おそらく読者は、訳が分からないと思うかもしれないが、僕も訳が分からない。ただ、現実というものは、訳が分からないものなのだ。だが、私たちは、この訳の分からなさについて、驚くということができる。そういうことが面白いので、ソクラテスしかり、田中小実昌しかり、呑み歩くのである。 その里芋の話が高じて、youtubeで芋掘りの動画を探して見ていた。意外とおもしろいのである。

夜も更けてきて、お腹もすいてきたのだが、うどんしか食えないような腹だったので、近くのなか卯でうどんを食べようとしていると、なか卯にはエゾエさんがいたので、みんなで喜んだ。エゾエさんは、ライブハウスの「ネガポジ」で働いているので、夜になると、このなか卯で食事をすることがあるのだ。僕とムラカミマイは、k市の伏見区にある、向島へ昨日行ってきてん!という話をする。確か僕は、

「佐伯さんとムラカミマイが僕の家に転がり込んできた。僕もまあええか、と思い、一つのベットで一緒に寝た。起きたら佐伯さんがピザを食べたいというので、僕も久しぶりにピザが食べたくなり、ピザを頼んだ。5000円ぐらいした。二つのピザが来て、四つの味が楽しめた。バジルのピザがおいしかった。パインのピザなんかもあった。どれもおいしかった。ありがとうございます。だけれども、佐伯さんはすぐに寝てしまった。ムラカミマイと私も仕方がないので寝た。五時頃に目が覚めた。佐伯さんはいつまでも寝ていた。このままでは、日が暮れてしまうよ!せっかくお仕事を休んだのに!と言った。でも起きないので、ムラカミマイさんと私は、電気を暗くしてビョークやシガーロスごっこをして待った。でも起きないので、仕方がないから二人で御所に行こうとしていると、佐伯さんが起きだした。ああ、なんか御所に行く感じなんだな、と思っていると、佐伯さんはまだグズグズしているので、ああ、日付が変わってしまわれる、と思っていると、OLの女の子がビールを携えて僕の家にやってきた。そこからは、僕の口からは言えないようなグダグダがやってきた。仕方がないので、tくんと主にバンド「羅針盤」の歌詞の普遍性についてパソコン通信でやり取りをしていると、佐伯さんとムラカミマイさんが帰ってきた。そのままみんなで寝た。そんな一日だったので、なんとかしようと思い、次の日は二人がよく話す土地である、向島に行こうという風になり、佐伯さんも、またお仕事を休んでしまっていることもあり、向島にいくことになった。

佐伯さんは『この駅は懐かしいですねえ。あそこにはモスバーガーがありましたが、今は駐輪所になっています。』とおっしゃった。駅前のベーカリーに寄り、佐伯さんは『この○○○○○パン』がおいしいのでいつも買っていました』とおっしゃったので、みんなで買いました。佐伯さんは800円分相当のパンを買っていました。佐伯さんは、『この道をエゾエさんは軽トラで走ってたのです。そこそこ、そのマンションに俺は住んでいたのです。ここで10対10の合コンをし、その模様は映像として残っています。エゾエさんは早々廊下にあるソファーで寝てしまいました。そこをずっと行けば川に出れます。ここの道で○○さんは事故りましたから気をつけてください。』みたいなことをおっしゃった。川でパンを食べた後、フリスビーをした。フリスビーはいい。とても気持ちがいい。天気がいいと、フリスビーである。定番になりつつある。パンもやはりおいしかった。○○○○○パンはやはりおいしかった。毎日食べているだけあるのである。ナン風パンも、おいしかった。ふと周りを見ると、大道芸人が変なものを回している練習をしている姿やノックをしている社会人が目に入る。フリスビーを投げた先によくわからない木があった。ムラカミマイさんは銀杏の木だと思いこみ、実を噛んでみてしまった。渋かった。かわいそうなムラカミマイ!

向島にはベルファというショッピングスペースがあるという。 いつも佐伯さんとムラカミマイさんは、ベルファのことばかりお話しになることがある。『よくな、あそこでな、服屋さんみてな、ウインドウショッピングしてな、いろいろ食べてな、あそこはまさに、もう夢みたいなものですよね!だから向島に住むねん〜』とか言っていたので、僕も機会があればいつか行ってみたいものだ、とワクワクしなかがらそこへ向かった。

ベルファの後、天皇陵を越え、団地を越え、伏見の京極と呼ばれている商店街にたどり着いた。そこから藤森神社まで電車などを使いながら向い、そこで水をくみに行った。水をくむものがなかったので、コンビニのゴミ箱から一リットルのペットボトルを取り出した。それを藤森神社でよく洗い、それに水を汲み、うどんの水にすることにした。藤森神社は、(ふじのもりじんじゃ)と読みます。そういえば、オーネットコールマンの「ロンリウーマン」などを歌いながら行った。うどんおいしかったです。ありがとうございました。」

みたいな話をしたような気がする。いい旅だった。書くなら、もっと掘り下げて書くべき旅だと思うけれど、それはまた、別の機会にしましょう。エゾエさんは、「向島なんかなにしに行ってきてん!ナハハハハハ!」とおっしゃって、一緒に笑いあう。

その後北ちゃんが僕の家に来て、僕が二年前にゴミ置き場から拾ってきたアナログシンセサイザーを、ちゃんとした音がでるように開発してくれた。いやあありがたい話だ。ヘンテコな音しか出なかったので、まあそれはそれで楽しいしいいか、と思いながらそれにしても重いなあと思いながら使っていたけれど、北ちゃんの手に掛かれば、チップ音もパーカッシブな音もエレピな音もお手の物といった感じで音を作れる。僕みたいなぴゅ〜〜〜んといった間の抜けた、屁みたいな音で喜んでいる場合ではない。お礼にPSPを与えた。このPSPは、少し前、友達が大きな段ボール送料3000円分二函ぎゅうぎゅうにつめてきたガラクタ類に入っていた代物であるが、こういうのはあまり使い方が分からない。何か本を貸してくれ、と言うので、佐藤友哉の『千の小説とバックベアード』を貸す。佐藤友哉はイケメンヤクザみたいな顔をしており、ライブハウスでよく肩あたりを噛む絶叫系エモーショナルクラリネッターというような人がいるのだが、その子も好きだそうだ。

2012年3月12日月曜日

???

日記を書き出すにあたって、自分の『日誌』を読み返してみる。
  ところで、もうすっかり春ですね!雨がシベリアあたりの寒気団を持っていっちゃった。谷内くんは、早速花粉に苦しみ、夏がくるのを恐れている。あまりに 気が早すぎるのであきれているけれど、確かに季節の変わりめというのは、アンニュイだ!どうにもならないことを思い、どうにかなればいいと願うわけです。 ちょうど図書館で借りてきたシオランの『崩壊概論』が手元にあったので適当に開いてみると、
われわれが周囲の事物におしつぶされないでいるのは、何といってもそれに名前をつけるからでありーこうしてわれわれは、万事をうまくやりすごすのである。
という所に線が弾いてあるのを見る。
 ということが書いてあるけれども、季節というのは、パッと新しい場所に移行するのとはまた違う。今日も起き抜けに半額のお惣菜を買いにスーパーのフレスコに行きましたところ、雪が降っている。とにかく今日は寒い日だった。去年もそんな感じだった。去年の三月一日はとても暑くて、汗をかいて汗をかいて大変だった。僕が汗をかくと、僕の汗はおそらく酸性なのだろうか、皮膚が痒くなってしまう。だから、僕はできるだけ汗をかくまいと、夏になると気をつけている。僕が自動車の教習所で袋井市というところに行ったときは、あまりにも暑く、あまりにも汗をかき、そのためあまりにも皮膚がよくないので、散歩する時など、日光を避ける為に、日傘を買って対処した。黒くてひらひらしているけれど、その日傘は、まだ僕の家にあるのである。 袋井市とは、遠州三山のあるところで、徳川由来の旧跡が残っているということを、僕は藤枝静男の小説を読んで初めて知り、行けば良かった。今思えば、トヨタ崩れのイケメンな教習官も、そういえば、そんなことを言っていたような気がするのである。とにかく、季節というのは、気付けば過ぎているもので、気付けば過ぎるということは、気付けば過ぎるという時が季節が変わっているということの意味だと思う。事態というのは、気付けばそうなっていたという風に進んでいくので、人間が何をしていても、そんなにすごいことはできない。

フラフラと三条まで下り、ジュンク堂という本屋さんに行くと、新しい『群像』が出ていたので見出しを見ると、小島信夫の小説について保坂和志と青木淳悟と奥泉光が合評していたので、つい立ち読みしてしまう。おもしろいメンバーだ。保坂和志と奥泉光は同じ年に全く違う作風で芥川賞を取ったので、静の保坂和志、動の奥泉光、と言われていた時もあったらしい。青木淳吾は一見変な小説を書く小説家だけれど、青木淳吾は人間というよりも、人間のいる空間やシステムに興味がある人で、そのことに関しては態度は真摯なので、ちょくちょくフォローしている。同じ号に、高橋源一郎が、吉本隆明の親鸞について語ったDVDを引用して「戦後文学」について語っている。親鸞の教えを伝えた歎異抄という本のこの部分を引用していた。
 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」
 つまり、人間というのは、殺す時は、イヤでも1000人ぐらい殺す時もあれば、やりたくても殺さないこともある。 正しさにのっとろうとしても破ろうとしても、そんなことは、あまり関係がない。やろうとしてやるというよりも、この世の中はやってしまった/起こってしまったことばかりである。ことばでできた私たちの「思想」や「正しさ」というものは、現実を前に大きく断絶してしまっている。現実はことばを失わさせる。その失われてしまったことば、そもそもことばを持つことのない存在、についてどのように考えていこうか、というのが高橋源一郎が大筋で言っていたことで、思えば高橋源一郎は、このようなことに一貫して取り組んでいる、と感じる。思えば青木淳悟も、ことばを持たない、環境的なところをどうやって言葉をつかって書ききるか、ということに興味があるのでした。見ないうちに顔も、凛々しくなっている。

昨日は、デリダの『グラマトロジーについて』のレジュメを夜の一時から朝方まで作っていたので、徹夜みたいなものだ。クタクタになりながら、マラソンみたいだ。だけれど、それは3/9だったから、別に昨日という訳でもないのかも知れない。今ちょっと手が離せないので、確認することができない。3/9だった。朝方まで作っていたから、3/10なのだけれど。 クタクタになったので、今日は久しぶりに銭湯に行く気持ちになった。最近よく見かける、OLの子がよく行く銭湯で、OLが言うには、あの銭湯は、朝風呂をする日、お風呂につかり、お風呂を出て、夜お風呂に入りにいくと、番頭のおばちゃんが同じおばちゃんであった場合、さっきお風呂入ってたし、ただでいいよ!といってくれるらしい。もう一つ言っておかないといけないが、僕がナカネさんのことをOLの子というのは、バンバンボリーズの佐伯さんが最初の紹介の時にOLの子と言ったからだ!吉田山の節分の祭りのときに、燃え上がる炎の中、結婚の報告と同じように、佐伯さんはおっしゃった。そのことは、よく覚えている。銭湯では、僕は銭湯のお風呂が好きなので、長湯することにしている。そんなに広い銭湯ではないのだけれど、二時間ぐらい入ることもあり、よくあきれられることがある。しかし、僕のお風呂の入り方は極めて理にかなっていて、お風呂に入る、髪を洗う、サウナに入る、水風呂につかる、お風呂に入る、ひげをそる、サウナに入る、水風呂につかる、お風呂に入る、外に出てリラックスする、お風呂に入る、というワンセットを繰り返している。こうすると、とても充実したお風呂を過ごすことができる。でも今日はサウナに入ると、いつもよりも心拍数の動きが速くて、すぐに出てしまった。なんだか心が弱くなっている。いつもドキドキしているようなものだ。それでも、二時間ぐらい銭湯で過ごしたみたいだ。炭酸が飲んでみたくなったので、緑のデザインの炭酸飲料を飲みながらマガジンを読む。緑のデザインの炭酸飲料だけでなく、炭酸飲料を飲むこと自体が久しぶりだ。一年は飲んでいないのではないか。やはり、夏は飲んでいるのか。

そういえば、下書きとして、ここまで日誌が書いてあった。

夜想というライブハウスで僕は弾き語りの飛び入りという企画に出ることになった。その企画は、しの山さんに誘ってもらった。夜想に行くのも久しぶりだ。
先 についていると、水野さんが来てくださった。水野さんも弾き語りをやるらしい。今日はすごいな、と思っていると、関戸さんも来ていた。しの山門下が集まる 感じになるなぁ、と思ってワクワクしていると、しの山さんが、おつまみを携えてやってきた。本当に、しの山さんは、いい人だなぁ。そして、センスがいい。 青魚を持ってきてくださったのだ。これはおいしいに決まっている!いい話だ。
もうこういう風に時系列に物語風に語るつもりもないけれどいうけれど、ネガポジで佐伯を見た瞬間に靴でも投げれば、良かったのだ!
なんで佐伯に靴を投げたのか僕には忘れてしまった……。この夜は後にモルグモルマルモのメンバー全員が僕の所に来てくださって、本当に嬉しかった。

家に帰ると、たばこのにおいがしたのでドキッとしたが、銘柄から、ああ佐伯さんが来ていたのだな、と思う。僕はそんなことも、分かるのだ。おもてなしできればよかった、と思っていると、いつの間にか寝てしまっていた。最近は、京都の人たちが出てくる夢をたくさん、たくさん見る。今日も、ライブハウスまで御所を走ったり、往復したりする夢を見た。時々、生命の危機のように、ドキドキする場面にも出くわした。

読書会は無事成功した。今までで一番、すっきりした読書会になった。読書会の日は、やっぱり難しい上に、共通の言葉を持つことが難しい攻める内容の本なので、いつも緊張するので憂鬱なのだが、読書会のメンバーに会うと、なんだか嬉しくなる。嬉しくて、むかつくことがあっても、どうでもよくなってしまう。そのことはいいと言えばいいのだけれど、悪いと言えば悪い。たちが悪い。でも、そんなこともどうでもよくなってしまう。人を好きになるということは、そういうことなので仕方がない。そのような、自然の働きのようなものに、どのように自分は身構えるのか、ということを、考えるしかないのである。


或る意味では、「思惟」とは何ものをも意味しない。あらゆる開示性と同様、この指標も自身のうちにもつ明らかな側面によって過去の時代の内部に属している。この思惟には全く重さがない。まさしくそれは、体系の戯れの中にあってけっして重さのないものなのだ。思惟すること、このことがこれまで着手されたことがなかったということを、われわれはすでに知っている。つまり思惟するということは、書差作用というスケールで測れば、ただエピステーメーの内部でのみ開始されているにすぎないのである。
 
 書差作用ということばは訳が分からないので、とりあえずここでは自然(の流れ)という風に置き換えましょう。エピステーメーということばもわけがわからないので、とりあえずここでは、(可能)世界という風に置き換えて読もう。ここで言われていることというのは、例えば私たちは、抽象的なことばを用いて何かを考える。「愛」だとか、「平和」だとか、「復興」だとか、「発展」だとか、「勝利」だとか「神」だとか「ミューズ」だとか。こういう抽象化されたことばというのは、意味というよりも、位置を示すことになる。つまり、とある(可能)世界の体系内での位置によって言葉の性質、アイデンティティが決まる。この抽象化されたことばというのは、他の言葉との区別によってしか、成り立たない。このようなことばというのは、そういう性質がある。だからそのようなことばを使って考えても、何の重さもないのかもしれない。僕たちはもう一度普遍的にものを考える為に、その(可能)世界外のことを考えて、他の、パラレルワールドの住民とも理解ができるように、ことばを常に問い直さなければならない。ここで考えられているパラレルワールドの住民というのは、むしろ、そこらへんにいる人々のことかもしれない。素朴に他者を理解するということだ。私と同じことばをもたない他者と理解し合う、ということだ。

お酒を飲むと、さらに楽しくなる。みんなでお酒を飲むこと以上に、いいことはないのではないか、という気にはなるし、実際そんな気はする。みんなでお酒を飲むこと以上に、これ以上楽しいことはないのではないのか、と思うことがあり、ドキドキする。読書会の人たちと飲んだ後、吉田寮の寮食堂に行き、テツオさんに会いにいく。すると、昆布さんがいた。昆布さんはインドに行っていた。昆布さんがインドから帰ってきて、ますます世界が本腰を入れて頑張っている。テツオさんは旅人なので、もちろんインドには行ったことがある。ところで、吉田寮の寮食堂のお祭りに、僕はまた出させてもらえるかもしれない。ありがたい話だ。ドキドキしながら、テツオさんの中国南西部の国境近くの町で、食堂のバイトをしていた話を聞いたり、昆布さんが習っていたヒンディー語の話や、ガンジャバッドトリップ話を聞く。

気になっていたので言おうと思うけれど、つい最近、おぼろ月の夜、橋を渡りデルタ(三角州)になっているところを渡っていると、見える筈のない時計台が光っていた。あれは一体どういうことなのだろう? いつの間にか、僕は、新しい場所に来てしまったのではないのだろうか…。飲み屋でヒゲを生やしたお兄ちゃんが、今夜は満月だな!という風なことを言っていて、確かにこのおぼろ月は満月である。

2012年3月7日水曜日

お酒を呑みすぎてお金がないのだが、お腹がすいたので、スーパーで半額の弁当を買いにいこうと思い立ち、自転車に乗り、半額の弁当を買いにいこうとしたのだけれど、スーパーの半額の弁当は、チキン南蛮の弁当だったので、朝から半額のチキン南蛮の弁当を買い込むのは、いくら半額とはいえ、胃に悪いのではないか、と思い立ち、半額の弁当を買うことを諦め、もしお腹がすいたらなか卯で、半額の弁当の値段ぐらいの牛丼を食べよう、それで、半額の弁当ほどの満足さは得られるだろうと思いながら自転車に乗り、家に帰る途中、何かたくさんの思念のようなものが入り込んできて、とても自分が強い人間のような気もし、よし、これで一本何か書こう!と思ったが、忘れた。まぁでも、こういう風に忘れることというのは、脳が起こす電気信号みたいなもので、非常にケミカルに解釈することができるのかもしれない。つまり、リンパ腺あたりから何か変な物質が出ていたのだと。そんなこと言ってしまったら、言語的/意識的な世界もケミカルだろうけれど、そういう世界というのは、言語/「意味」に置き換え可能だから、覚えているし、その世界から一旦切れているというところから、別の世界からその世界を見ることができる、という意味で、客観的にもなれる。「私たちが覚えている夢」というものは、極めて言語的「解釈」を通じて現れるものだし、つまり言語から逸れるような得体のしれないものというのは、忘れてしまっている。出会ったはずの、いるはずのない人や動物、景色や建物というものは、忘れてしまうものだ。「私たちが覚えている夢」の世界は言語によって出来上がっているのだが、それは翻訳みたいなものだ。逆に言うと、その言語記述のイレギュラーさによって、別の世界を垣間みることは、できるかもしれない。出会ったはずの、いるはずのなかった人を見つけるためにも、僕は書き進めようと思う。

ついでだから言っておくと、ガールズノイズバンドのにせんねんもんだいの『ディスティネーション トウキョウ』、いいじゃないですか!ダンスークラブミュージックに接近、というかあれは擬態だと思うけれど、一段と、新たな、音楽の手触りが出現されて、とてもいいと思います。ここでいう、音楽の手触りとは、やらされてる感のようなある種のアホっぽさを意味するのかもしれませんが、それが明確になった上で、それでもなお音楽として妙に生き生きしているという、意味不明な融合具合が実によく出ているような気がします。少しカッチリしていて、繰り返しのフレーズがあらかじめ与えられ、固定されている風なので、確かにギターさんの、そういう風になるんやったらとりあえずワタシはこうしておこう、という絶妙かつなげやりな精神の動きみたいなものがないのは、欠点ではあります。そうなってくると、エアロビクスの授業では、カニのようにしか踊れなかったTくんにとって、ダンサブルな楽曲は、擬態にしろ何にしろ、不感症のようになってしまうのかもしれません。つまり、Tくんにとっては、ダンスミュージックは、快楽でも脅威でもなんでもないのです。そのような人は例えば、
「音楽」に対して意識的である事。それは、過去のバンド、ティポグラフィカにおける実験や、現在のバンド、デートコースペンタゴン・ロイヤルガーデン(DCPRG)で菊地がポリリズムを採用している事からも明らかだ。「ポリリズム」とは簡単に言うと「複合拍子」の事であり、要は「一曲(あるいは限られたフレーズ)の中で、複数の拍子が同時に演奏されている」という事だ。(例えばDCPRGの「プレイメイト・アット・ハノイ」という曲では四拍子と三拍子が同時に打ち鳴らされており、ライブのフロアではバラバラの拍子でノっている客が実際目に見えて複合的なリズムを刻んでいる)。ロックやフォークが、基本的には四拍子や三拍子といった比較的単純なリズムで成立するものであるのに対し、菊地の作り出す音楽は複合的でケイオシックだ。そこには、音楽における「数学/建築」の側面を注視し、決して「音楽における無意識状態」を作り出すまい、とする姿勢が垣間見えはしまいか。そうした目で、今一度辺りの音楽を見渡すに、いかにそのような「無意識状態」を作り出している音楽が多いかに気付く。クラブのフロアでは、ひたすらシンプルな「四つ打ち」が鳴らされ、ロックはスリーコードをかき鳴らす。そうした「シンプルさ」は確かに心地良い。だが、その「心地良さ」は、「一〇〇人いたら一〇〇人とも心地良い」という状態を目指して作られた、いわば「心地良さの最大公約数」としての「心地良さ」である。(だからこそ画期的な発明たりえたワケだが、問題はその発明を無意識に使用してしまう事である。)菊地は、そうした「自意識過剰」ならぬ「無意識過剰」な状態の手前で、常にストップをかける。(林拓身「菊地成孔の意識/無意識 あるいは初心者にとっての菊地成孔ガイド」)
というような文章があった場合、まずその「無意識」の状態がわからないだろうし、「心地良さの最大公約数」という意味も分からない。一〇〇人の中に入らないのだ。こういう人間の場違いな在り方が新たな変革を促したり、新たな前提を提供したり、人々を不安がらせたりするかもしれないが、とりあえず、菊地成孔がここで頑張っている闘争については、全く無縁になってしまうのだろうな。もちろんどちらも「心地良さの最大公約数」というものがイヤだなぁ、と思う気持ちは一致しているかもしれないが。とにかく、このような縁遠さが、T氏と『ディスティネーション トウキョウ』の間にもあるのだろう。このアルバムは、パロディのように、ディスコの心地良さを異化するものとしてはたらくのだろう。

それにしても、この菊地の闘争というものは、音楽の「無意識状態」の状況をどうやって記述していくか、という意志とも関係するよな。そういう意味では、常に別の、存在しなかった世界について思いを馳せる山本精一と近いような気もするけれど、やっぱり全然違う。菊地はこの世界に留まり続け、意識されなかった事象を掘り続けているのに対し、山本精一はそもそもパラレルワールドに意識が向かっている。水子になった物語を思い続ける山本精一と、無意識に潜り込み新しい意識(快楽)を手に入れ続ける菊地成孔とは、もしかしたら真反対かもしれない。お化けみたいな山本と、AVみたいな菊地さん。

 今日はバンバンボリーズの佐伯さんが大きな黒いビニール袋を携えてやってきた。大きな黒いビニール袋には、服がたくさんつまっていた。ありがたい話だ。ありがたい話っていっても、佐伯さんはいっつも僕の服やパンツを破り、パンツに至っては毎回のように破るんだぞ!どういうことだ!でもこうやって大きな黒いビニール袋を携えやってくるところを見ると、佐伯さんは義理人情の厚い人間なのだなぁ、としみじみした。所詮僕のような人間は、何もできずどこにもいけないので、チンピラになるしかないのだが、チンピラならチンピラなりの、矜持を持っていきたいと思うのです!人は繰り返し、どうしようもなく人情に落ち、囲い込まれてしまい、だがそれに対する埋め合わせとして、義理を持って対応するのだ。繰り返し、繰り返しだな!そういえば森敦は『対談・文学と人生』の中で、こういうことを言っていた。
僕は僕なりの言葉でいえば、道というのは、二つの原理によってなっているんですね。それはダムなんかつくるときに道をつくっていましたんで考えたんですが、道には絶えず直線でありたいと請い願いがあるわけですね。
それからもう一つ。できるだけ等高線に沿ってつくらなければならん。つまり曲線への請い願いがあるわけですね。それをその矛盾をいかに切り抜けるかというのが技術ですが、それにもかかわらず道というのは根源的な矛盾をもっているんです。ただ歩いていけば矛盾もなにも感じませんけども、それを設計したり、つくったりしようとするとすぐそこにぶつかるのです。あるいは注連寺、ひいてはこの七五三掛けというむらにこれだけ栄枯盛衰があるのも、ひとえにこの道のためですね。
そうしてみると、道というものに根源的な矛盾があるなら、実は関数関係にありますから、世界というものも根源的な矛盾をはらんでいなければならぬ。その矛盾をどう解決するか、これは小説のうえでも大変なことだと思うんです。
だから歌舞伎なんかみんな矛盾にもってくるでしょう、義理と人情のからみ合いに。義理というのはお金ですね。人情というのは色ですね。それとこれとのからみ合いにもってくる。(中略)小説というのは実際は道をかいているんじゃないですか。それが世界になっているわけでしょう。

 ところで、もうすっかり春ですね!雨がシベリアあたりの寒気団を持っていっちゃった。谷内くんは、早速花粉に苦しみ、夏がくるのを恐れている。あまりに気が早すぎるのであきれているけれど、確かに季節の変わりめというのは、アンニュイだ!どうにもならないことを思い、どうにかなればいいと願うわけです。ちょうど図書館で借りてきたシオランの『崩壊概論』が手元にあったので適当に開いてみると、
われわれが周囲の事物におしつぶされないでいるのは、何といってもそれに名前をつけるからでありーこうしてわれわれは、万事をうまくやりすごすのである。
という所に線が弾いてあるのを見る。図書館の本に線を弾くのは、あんまりよくないんじゃないか。このセンテンスは続けて、
 だがいかに恣意的なものであれーー恣意的であればあるほど気持ばかり先走って認識が追いつかないだけに危険なのだがーー何らかの定義を通じて物事を受け入れるということは、とりもなおさずその事物を拒否し、味気ない皮相なものたらしめ、抹殺することに等しい。ぐうたらでからっぽなーーこの世に生きているのも夢うつつといった調子のーー精神は、ものにやたら名前をつけてまわり、ものの中身を抜き去ってかわりにその形骸だけを残す以外、どんなことができようか。それから彼は、ものの残骸の上でのさばりはじめる。もはや感覚はなく、あるのは思い出だけである。名前という定式の下には、かならず死体が横たわっているのだ。
もういい!休め!シオラン! 線を弾いたやつには、僕がなんとかしてやるから!

昨日はシルバーウィングスのライブを見に行った。そこで結構呑んでしまったなぁ。オープニングアクトの、いつもお世話になっているモルグモルマルモの深田さんは、沖縄修行で会得したタム叩き語りなど、度肝抜かれたゾ!初めての弾き語りだそうですが、これは是非長尺でみたいです!平成生まれのハンノくんの歌は、若さの中に確固として生まれ続ける魂があって偉い!魂というのは、ここでは社会があって人々がいてそこから立ち上がる意味に対して、どのような埋め合わせをしていくかを考える責任のことかも知れないね!そう、今日はキャプテンパニックが出ていたんですね!キャプテンパニックとは、バンバンボリーズの佐伯さんのことであります!エエ曲つくんねんなぁ〜。つい一緒に歌ってしまった。まるやまさんもよかった!ここにきて今日も神ブッキングであることが証明されてしまった…。まるやまさんのうたはうたに対して本当に真摯だ!うたに対して真摯ということは、そのうたの持つ世界に対して真摯だ、ということであり、そのうたの持つ世界に対して真摯だ、ということは、そのうたの持つ世界の持つ感情・情感・出現してしまう物語に対して真摯だ、ということなのだろう。その歌は人情味溢れるうたで、リリックのつながりも上手く、うたもしっかりしていたので、そういうところはうたとして義理がたく、強いうたうたいだなぁ、と思わされました!そういうのは佐伯さんと一緒だ!だから自然にある種の色気が出てくるんだな!そして最後は登山さんやがな〜!登山さんは本当にブルースマンだなぁ。登山さんのほんまもんの声は本当に場が締まる!それがアットホームな緊張感を生むのが魅力やがな〜!本当にいい話だ。途中で東京から来たという友達のギタリストが参加し、これもまたいいブルースのギターを弾くのです。ソロ合戦なんかやっちゃったりして!登山さんはブルースハープ(ハーモニカ)を取り出すけれど、マイクの線が抜けちゃった!だけれど、ブルースハープ(ハーモニカ)も、渋い音を出すなぁ。ブルースマンの音になっているんですね!なんでやろ?最後に中島らもの「いいんだぜ」をやっていた。

いいんだぜ
いいんだぜ
いいんだぜ
いいんだぜ
君がドメクラでも
ドチンバでも
小児マヒでも
どんなカタワでも

いいんだぜ

君が鬱病で
分裂で
脅迫観念症で
どんなキチガイでも
いいんだぜ

君がクラミジアで
ヘルペスで
梅毒で
エイズでも
おれはやってやるぜ
なでであげる
なめてあげる
ブチ込んでやるぜ
 これでもかこれでもかと、羅列されていく言葉はゲスさを通り越してどこまででも行ってしまう。それを登山さんの声で歌われると、参ってしまうわ!時々「いいんだぜ」が、「ええがなええがな〜」になったりして、ええねんわぁ〜!「ええがなええがな〜」とは、僕の口癖みたいになっている言葉で、そういえば僕も中学校の時はよく中島らもを読んだものだった。筒井康隆とかも読んだっけ。アンコールで、登山さんの渾身の一曲を聞くことができて僕はもうびっくりしてしまった。全力を尽くした追悼の歌は、あれこそうただと思う。何よりも、登山さんの人格を目の当たりにした気がする。うたっちゅうもんは、なんなんやろな?

ネガポジに行き、梅ちゃんとも呑みました!梅ちゃんはネガポジでバンドのラストライブをやっていたので、 こっちも見に行きたかったのだ…。どうやら、ドラムの女の子の迫真の演技(「梅ちゃん戻ってきて!」)に彼氏が帰ってしまったそうだ。波乱やがな!ほんまや!戻ってこい!佐伯はパンツを破るな!

今日バンバンボリーズの佐伯さんと御所を散歩した。夜である。夜の御所は明かりも少ないので、暗いのである。こういう暗さは僕は大好きだ。こういう夜の暗さは、人間の見る世界を広くさせますよね、と言うことだ。だから御所には鵺(ぬえ)が住むのである。看板に書いてあった。御所には鵺(ぬえ)が居るのだと。御所には鵺がいるでいるで!と再三言っていると、本当に変な鳴き声が聞こえてきた。すると変な木が出てきた。佐伯さんはアイフォンをもっているので、暗い夜でもわりかしちゃんとした写真がとれる。とってもらった写真を見ると、これは夢の中のよくわからない生物みたいだ。昔の人は鵺の声を聞いて、すごい怪物がいるぞ!と、思い、いろいろ想像していたみたいだが、どうも想像はこのような自然のよくわからない存在に回り込まれてしまうみたいだ。こうなると、夢みたいなものだ。でもそれは存在するから、忘れへんがな〜!言葉の獲得はこうして起こるんだな!

モモ
そこらへんでこの前佐伯さんが見つけてきたこれもまた変な木とも再会した。別れた一本の大きな枝のみが生きているというような木で、やっぱりケッタイだ。よく先端の方を見てみると、花が咲いている。夜だったのでよく見えないけれど、時期的にこれは梅の花だろう。この木は梅の木だったのか!春だなぁ。ムラカミマイはライブハウスネガポジにいきなり桃の花を持ってきて、これどうしたん?と聞いたら、拾った、と言っていた。意味分からん。こんな枝みたいなやつ落ちてるわけないやんか、ということはどっかから折ってきたんやな!と思ったけれど、こんなところに桃なんかあるんかなぁ、とずっと考えていたのだけれど、どうやら花屋に売っているらしい。 そんなんやからそんなんやねん!今日部屋の模様替えしたらイヤリングと雑誌あったよ〜!よかったな!それにしても部屋の隅がこんなにほこりだらけだとは思わなかったな!辛いな!でもこれで安心や!そういえば佐伯さんとごはんを食べにいこうと、うどん屋を探していたとき、OLの子が、赤いシンセを背負いながら、颯爽と三条の街へ、消えていきました。僕もそろそろバンドしたいね!ミニマルノイズバンドみたいなやつしたいけれど、そんなんないか。つくづく僕は根がノイズミュージシャンなんだろうな、と思うけれども、そんなこともないな!

2012年3月5日月曜日

けんばん

そうか、今日マットレスが届いたのか…。あまりにも快適すぎてずっと寝てたゾ。さらに、マイルスのアルバムの中で一番暗黒舞踏感の高い『アガルタ』を聞きながら寝そべってたりしたので、どこかに行ってしまった感がある。『アガルタ』がどんなアルバムかを説明する為には、恐らく新しい言葉を発明しなければならないだろう。暗黒舞踏だからな!とりあえず言えることは、
  1. みんなヤク中
  2. マイルスはヘロヘロである
  3. トランペットあんま吹いてられないから適当にシンセ鳴らしてるだけなのにかっこいい
  4. ギターがおかしい
  5. ダーク☆リズム隊  
(イメージ↓)                  
さまざまな要素が溶け込むということは、それはそれはイヤらしいことだと思う。やっぱりお盛んでそこらの人とみんなでセックスとかしたら、淫らでしょう。それだけに生のエネルギーがみなぎるものがある…、といえば何か変な団体みたいだけれど、ジャンルレスにジャズロックファンクが渾然一体となってもはやどれがどの要素かわからない、しかも今までのマイルスの曲の引用までしてしまうなんて、もうそれはそれは、淫らだ!淫らすぎて夢の世界まで突き抜けていくという意味でも、やっぱり暗黒舞踏だ。

ついに見に行きましたよ!ベリーブー!話題のOLの女の子がシンセ弾いているバンドです。私OLじゃないもん!って言ってたけれど、私社長にいっつも怒られんねん!ってやっぱりOLじゃないか(憤怒)。ひなまつりのひなあられを持ってきてくれて、ほんとは優しい子だなぁ〜ナカネさんは。なんかビンタされた気がするけどな!その日は女の子の日みたいだったので、ムラカミマイさんは桃の花を持ってきたみたい。風流だなぁ。バンバンボリーズの佐伯さんがワインをボトルで頼んだから珍しいことするなぁ、だとか、太っ腹やなぁ、とか思っていたら、どうやら桃の花の木をそこに挿すことがしたかったみたい。 風流やな!今日は誰も彼も来ていたので、さながらオールスターみたいなものだ。しの山さんも来ていたしあの森上唯さんも来ていた。梅ちゃんという九州人も来ていたし、チエさんも来ていたし、そうなってくるとチハルちゃんも来ていた訳です。チハルちゃんは、あれは何歳だ?かわいらしいヘルメットをしていたので、ワタシはいつもヘルメットを褒めます。服もバラの刺繍がしてあってお花で溢れていたので、その服も褒めます。チハルちゃんも笑ってくれます。ありがたい話だ。子供はええなぁ。僕の存在まで許されてしまう気がする。子供こそがライバルだと思うのだ。そんな満たされた気持ちでいたから、ベリーブーの演奏はあっという間に終わってしまった。今日の時の経ち方は基本的にこんな感じだ。

地図
ネガポジのヤンキー神田さんのソロに僕は完全に打ち負かされた。彼の田舎である島根県の佐田という所には、私も行かしてもらったことがある。大阪から出雲まで、夜行バスで五時間揺られ、さらに出雲駅からバスで一時間山に入っていく。途中、川辺に大きな大木があり、街道のなごりのような道に向かって家が並ぶ集落を越え、トンネルをくぐり、川沿いにある旅館を端に見えればもうすぐバスの終点の小学校だ。佐田の中に入っていくには、レンタサイクルでもう少し踏み入れなければならない。川辺を沿って自転車を走らせ、川がだんだんと細くなる。途中五階建てはあるような大きな家具屋さんの跡地が見える。今は集会所になっているのだろうか。そのような風景を越えさらに奥に進んでいくと、須佐神社が見えてくる。この神社は、オーラ鑑定士のエハラさんによると、日本で一番のスピリチャルポイントだそうだ。僕もその噂を聞いてはるばるここまでやってきた。そこの大きな大木は、人間が両手を大きく広げたその長さの20倍はあろうかというほどの巨木だ。お昼からマダムたちはこの巨木にあやかろうと、巨木の根っこをなで回し、ちょとした歓声をあげたり、光悦したりしている。さらに奥に進むと、水が湧き出ているところにたどり着いた。八雲風穴ってところですよね?覚えてますよ〜神田さん!そこで広島から水を汲みにきたというファミリーに挨拶をした。休日は大体一ヶ月に一回汲みにくるそうだ。なんともいい話だ。レンタサイクルだったので、あらゆるところを見回っていると、こんにちわ〜、と子供の声がしたので、見てみると、子供がいた。ええ子供や!挨拶ができる子供はええ子供や!すくすくと育って欲しい。そして、そうやって育ってきてくれた子が、神田さんなのだ。田舎から都会に出てきた人が思う都会への違和感というのが、とてもゆるふわな雰囲気でやさしく歌われて、私たちは包み込まれるんです。「やりたいことがたくさんある」という曲は、僕がやりたいミニマルゆるふわうたものが僕の想像よりはるかに洗練されて歌われていたので、悔しい!すごいいいよ!ピアノの弾き語りがこれほどまで羨ましいものだとは思いませんでした…。


最後の人は僕は見るのは二度目であります。この人もいいうたを歌います。わらったり聞き入ったりしてあ〜楽しいなぁとホッピーをグビグビ呑んでいたらあっという間に時間が経ってしまった。ええ気持ちでライブ後もホッピーをグビグビ呑んでいたけれど、そこらへんになるともうあんまり覚えていないや。佐田に行ったのも、あれは夢の光景だったかもしれない。バスから見る風景なんか、本当にそう思う。あの大木は、昔から知っているような気がするから、僕の故郷の大木の記憶かもしれない。大木って、集落の大木ですよ?さすがに須佐神社の巨木のような木は僕は見たことがない。しの山さんと、弾き語り飛び入り行こうぜ〜!みたいな話をする。しの山さんの彼女の弾き語りも楽しみだ。同じゴミさを共有している!と言われたので、期待も高まるばかりだ!着床している女の子にも会った!もうそれだけで僕は嬉しいね!元気な子供を産んでください!頼みます!森上さんとその友達と話しもする。『砂の女』嫌いやねん、あいつは家庭のことをなんやと思ってるんや?と言ったら、二人は安部公房が大好きで、デヴィットリンチ嫌いやねんと言ったら、リンチのボックス持っているとおっしゃり、黒沢清は本当の映画だというと、あんなものは残業帰りのOLが見る映画だと言われ、「ダンサーインザダーク」なんか見る気もしない、そもそもビョークが主演とか、と言ったら、ビョークが大好きだとおっしゃる。そんな僕たちだけれど、こころざし的には同じことを共有しているような気がする。やっぱり、うたで世界をズラしていきたい。方法も考え方も全然違うけれど、いいのだ!ふと見ると、神田さんとOLの女の子がビートルズを連弾している。
つれてっちゃうよ?だって僕は苺畑にいくんだもん
リアルなものはなにもないし、気にとめるようなものはなにもない。
苺畑は永遠だもん!
なんやねん!

2012年3月3日土曜日

茶わん

クルア〜ンクルアンクルア〜ンクルアン


551の肉まんを食って朝ご飯とする。


今日はいい天気だネ☆マジ春の訪れパネェ

窓を開けてみて空気を入れるよ!

きもちいいなぁ〜☆

おふとんが、あたたかいよぉ(><)

出れないよお(><)

そんなワタシはphewでも聞いて頑張ろう!

phewカワイイ〜(><)

まえ袋みたいな服着てたの見たヨ☆

カワイイ〜!

phewの歌詞
飛ぶひとは落ちる
落ちるひとはさらに落ちる
さらに落ちていつか沈む
しずんでしずんでやがて埋もれる

ロボットドンドコドン
ロボットドンドコドン
昔は音楽が好きだった
今は髪の毛が大好き

カワイイ…!

昨日は大阪に出向いた。久しぶりの大阪とタイプしようとしたけれど、そういえば最近ゑでぃまぁこんのライブを見に大阪の扇町に行ってた。なんばで十時の待ち合わせだったけれど、僕は家で九時に起きたので、三十分程遅刻した。だからめちゃくちゃな服でなんばにきてしまった。まぁいつも通りといえばいつも通りなんだけれど、ビビットグリーン(エメラルドグリーン?)の服に暖色系の、これはなんていうのだろう、大きなひし形のモザイクかかった服を重ね着していたので、ガラスを見てさすがに僕も少し恥ずかしかった。電車の中で本を読むと思い、「ワインズバーグオハイオ」と小島信夫と森敦の対談集「対談・文学と人生」を持ってきたけれど、 もっぱら対談集を読む。

なんばでは母が待っていた。母は「化粧品屋の子がおってな、かわいい子やねんな?色白で。あれどこっていってたかなぁ?吹田の方やったかなぁ、通勤に40分ぐらいかかるねん。そんなんやったら名張(三重県の地名)と変わらんやんかなぁ、だからあそこにぎょうさん家が立つんやなぁ。それでな、それでかわいいからな、彼氏いやんの?みたいなことを聞いたらな?いやそれがもうぜんぜんできないんですよぉ〜っていうからな?うちの息子はどうですか、みたいなことをいってんわ!ハハハハハハ!でもそんな服はあかんわ!なんやねんそれ!」えらい話しやなぁ。

母は、僕のニトリのベットがデコボコで、骨格が 浮き出ていることを知っていたので、新しいベットを買ってやるから大阪へ来い、といったのだ。さすが母親。母はカタログハウスというのが好きで、全然買わないけれど、見るのがすきやねん、と言っていた。これで買った実家の炊飯器の米は確かにおいしい。まるでかまどでお米を炊いているみたいだ…。なんば駅から直結して建っているショッピングモールである難波パークスに、カタログハウスの持つ店があるというので、そこに行ってみる。そこには、折り畳みベットがあった。低反発で、ええ折り畳みベットや!これやったらなんでもできるわ!最高!と思ったら、四万もしたので、これはさすがに悪いわ〜と思い、お茶飲んで帰った。

人類の夢
あそこいこ、ビックカメラに枕売ってたやろ?あそこになんかあるど、ということで、なんば駅を横断してビックカメラに向かう。そこでいい感じのマットレスが8000円ぐらいで売っていたのでそれを買ってもらう。これで僕も腰痛に悩まされずに済むわ!ありがたい話だなぁ、と思ってブラブラそこらへんのもん見ていたら、円盤形のなんかを目にする。それはどうやらお掃除ロボットらしい。すげえ!SFやん!と思い早速作動させてみると、すごい!自分で動く!なんやこれ!ドラえもんの世界が実現しとるじゃん!うわぁますます21世紀やなぁ、と言うと、母は、鉄腕アトムの空飛ぶ車は高速道路を先取りしたんだとか訳が分かったようなことを言う。 それにしても、このロボットは起動させればいつまでも動く。マヌケだ。こういう感じで機械が暴走してドラえもんの大長編の世界が出現することになるがそれは後のお話。

寿司をごちそうしてもらった。回転寿しである。当たり前だ!僕は金持ちは許さんぞ!そこでカキや赤貝やなまこを食べた。おいしかった…。一人でいくようなチェーン回転寿しとは全然違う!おいしいもんなんだなぁ。

水掛地蔵と言っているけど、四天王に見える
早速大阪での用は済んだので、適当に歩こうと思い、夫婦茶碗みに行こう!と言い出したけれど、それは町田康の小説の方で、本当は夫婦善哉でした。そのことを嗜まれた。ナハハハ…。織田作之助の「夫婦善哉」という小説は、ゴミでグズな落語家が道楽の極みを尽くし女の子かわいそう!みたいな小説だと思っていたけれど違ったかな。とりあえず許すまじ無頼派!というわけで、舞台の法善寺横町に行く。この横町だけ本当に別世界で閑静なんだなぁ。ちょっとしたところなんだけれど、人がビャー行くあの大阪と一緒とは思えない。石畳でなぁ、料理修行みたいなことしてる人間が道に水まきしてんねん。ええ話や。そういう道を通っていけば、法善寺の水掛地蔵が出現する。ここに来るのも、十何年ぶりかわからない。そんなになんばにいかない訳ではないのだけれどな。その内にお地蔵さんは、ますますコケに覆われていっている気がする。お堂には猫がいい感じにくつろいでいて、よく見ると人も寝てる。???

母に大阪駅がめちゃくちゃになり、山みたいになり、風水的にも変わったんじゃないか?というようなことを言ったが信じてもらえなかったので、歩いてなんばから梅田の大阪駅まで行くことになった。途中ブックオフがあったので、保坂和志のエッセイ集『アウトブリード』高橋源一郎の『文学じゃないかもしれない症候群』笙野頼子の『二百回忌』を買う。東急ハンズのあるところをどんどん行くと、そこは問屋街みたいになる。問屋が近いので、服も安くなるわけだ。客層も変わってきた。昔おばあちゃんと一緒に問屋のところに入ったことを思い出す。あれは大阪だったのか。立てた年相応の、団地みたいなコンクリートの使われ方がなんだか秘密基地みたいだなぁ、と今思い出すけれど、問屋だから、そんなこともないような気がする。それは和歌山の海中トンネルの話かもしれない。そこからどんどん進むと、メガバンクが乱立するところに出た。また客層ががらりと変わる。客層ちゃうな。変なサラリーマンがうろうろ歩いている。信号は無視する。変な裸婦像が道沿いに建っている。そんなところに馬鹿でかいお堂が建っている。どうやら本願寺のお堂だそうだ。ありがたい話だ。

セーヌ川
やっぱり大阪駅は、すごいじゃないか!と言ってみたけれど、母はポーカーフェイスだ。それでも屋上までついてくるとこを見ると、やっぱり本当は大阪駅はスゴくなっているんだなぁ、と感服していることなのだろう。といっても母はマジメで普通の市民なので、大阪駅自体はそんなに興味がないのかもしれない。高校のときに友達を家に招くとき、友達は母を見て驚くことがある。そういうところはある。そういうところは偉い。大阪駅のビルの結構見える上のほうに立てば、すぐそこに、建設中のビルが見える。ガラスが中途半端に埋め込まれて、さながらアンダーストラクチュアというやつであり、屋上に、寄生しているような大きなクレーンが動いている。そのガラスは駅ビルの光を映し出し、水みたいだ。大阪は水の街だからな!セット3000円もする高級ドルチェの店にいる端正で上品な人の顔を見ながら私たちはいい感じの和食料理店に行く。パチンコをやっている人の顔とこういう店の人の顔を見るのは、楽しいことだ。そんな気がする。そんな気がすると言うと、女の子はお金を貯めて予定日を決めてこういうところに食べにいくことはあるらしい。和食料理がとてもおいしく、あまり食欲がないと思っていたのだけれどついついご飯をおかわりしてしまった。食後、551の肉まんを買ってもらい、母と別れた。551の肉まんを、今日の朝は2個、食した。朝?
会社でビラまきしてたら家に電話がかかってきた
あんたの息子さんはアカですぞ
母さんおちつきさわがずオイラにこう言った
あんたの思う通りにやればいい

俺はものすごく太っ腹で大胆な男なのだ   (想い出波止場)

2012年3月2日金曜日

拾う人

僕の保育園からの友達である谷内くんは、確かにまともな人間の擬態をして生きているのかも知れないが、ヤバい狂気的な人間からまともなフリをして、さらに狂気的なフリというか、そこらへんはポエジーとなって例えば音をキャッチしたりリリースしたりするのだろうけれど、とにかく、自分にはまともなフリをするという運動が自分の意識にあるので、結局自分はまともな人間になるのです、と、大体そのようなことを今日は言っていた。僕は、その運動のことはまともであることは疑いはないけれども、それはその運動の話であるので、実際にあなたのエキセントリックな内実はかわらないじゃないか、例えば、まともな人間になろうとして努力し頑張るということは素晴らしいことだけれども、それはまともな人間になることと常に同時に現れてこなければそれはまともな人間ではないという意味のことを言った。努力し頑張るということ自体はまともなことだけれど、それは方法論の問題であって、このスケール練習をしたらギターが弾けるようになる、みたいな話だ。それ自体は正しい。だが、まともな人間というには、まともな人間にならなければならない。それとは別に、努力し頑張る人間と言うのは、それだけで価値はあると思う。というか、そこにしか価値はない。まともな人間になろうという意志だけで十分いいことだし、それだけで十分面白い。人が何かをしてしまう、ということが十分面白い以上、工場廃液でも何でもいいけれど、何か気になりそれを気が済むまで見てしまう、という行為そのものがそれだけで面白い。エキセントリックな人間がまともな人間になろうとすることは、そういう目標を立てそれを実行することすべてが面白い。もう一つ、やっぱり社会性に向かって進んでいくということは、意味が豊富だと思う。どんどん開いていきたい。そうなってくると、もはや悲しいことも、嬉しい。もはや嬉しがっても居られないけれど。もう嬉しがる暇もない。嬉しがる場合でもない。なんかそういうことを言ったら、まともというのは体裁のことだから、立てといたらまともになるんや、あれや、「実存は本質に先立つ」とか、そういうことや、と言っていた。ウィキペディアで言うと、
 例えば、人間性という例を挙げ、人間性というものは存在するかもしれないが、その存在は初めには何をも意味するものではない、つまり、存在、本質の価値および意味は当初にはなく、後に作られたのだと、この考え方では主張される。
ということらしい。まぁでも、お前はハリボテみたいな実存主義やから、結局謙虚やねんな、例えば恋人の誕生日はするけど何かクールで祝う気が薄いから恋人にひんしゅく買うし。まぁだから君はええんかも知れないな、フェアやし、という風なことが結論みたいになった。こいつがよくヒューマニズムの権化を自称する意味がやっとわかった。こいつは全的な法みたいなものに則った世界観、現実の流れに向き合っている!

それにしても谷内、おまえは一元論的なのかもなぁ、つまり、おまえは適当なことをしゃべり適当なことをしたとしても、何か一つの世界観に貫かれてそういうことをしているんだなぁ、と言ったけれど、まぁ俺は逃げることはしないし、疲れるからなぁ、みたいなことを言った。僕なんかは、SFとか、山本精一とかに毒されてる節があるので、多元的世界というか、パラレルワールドみたいなことを考えたりしてしまう。まぁ、別の世界のことを考えることは、オカルトに生まれ、宗教に殺されることになるのかもしれないな。でも、僕としては、世界などありあまるほどあると思っている。人はそれぞれの物語を背負っている訳だし、それを元にあふれでるものがあるから歌を歌う訳で、そういう歌はいくら反復した主題を歌っていても、素晴らしいものは素晴らしい。説得力がある。むしろ、反復と向き合っているほうが素晴らしい。自分が抱く物語と歌にすることへの対決や!

ところで、七尾旅人がしみる…。こんなはずじゃなかったのだが!なんとなくそういう気分になったので、七尾旅人を聞き直してみたのだけれど、これがしみるんです。こんなはずじゃなかったのだけれどなぁ。七尾旅人がしみるなぁ。どうしてだろうなぁ。しみるなぁ。今まであまり聞いてこなかった、1stを聞きました。

七尾旅人が一貫して行っていることは、人々のすべての歌を集めることなんじゃないかな、と思ってしまう。現時点での最新アルバムの「ビリオンボイスズ」なんてのは、十億の声、っていう意味ですよね。そういうさまざまな声、さまざまな物語、さまざまな歌を、旅人ちゃんが処理して、旅人ちゃんが歌う、とこういう風にうたを作っていくことは、このアルバムだけではなく、全ての作品の通奏低音になっていると思います。そういう歌い手だから、キャリアを進めるにつれてプロテストの様相をもつことは当然ですよね。 さまざまな声を聞く為には、社会運動の様相を持たなければならない…。といっても、そういう物語にがっちり取り組みながらも、他の世界のことも持っているから、そこにある種の相対化が生まれて、強い説得力を生むんですね。そこには強い意味と確信を持って、その物語の「描写」を徹底するわけですから。「意見」じゃないです。それは原動力だけど、作品にするためによく考えられていて、よく勉強している。

「ビリオンボイスズ」というのは、本当に生の声のような歌だ。さまざまな声をそのまま吸収して、それを歌にした、という態だ。 生活の中でほんの少し思う夢を生で音にして、生活が問い直されるようなうたたちがここにはあると思う。それに対して1stはあまりにもドリーミーすぎるかもしれない。聞いていて、あまりにも気持ちが良すぎるんじゃないか、と思うことがある。歌は人を踊らしたり、眠らすこともできる。それは旅人さんも考えていることだと思うし、それは例えば後に彼が殺人鬼が歌っているという態で、ものすごくドリーミーでスイートな弾き語りの曲をやったり(「おやすみタイニーズ」)、音楽の暴力性のパロディみたいな曲(「BAD BAD SWING!(punk jazz)」、「世紀の爆笑」)などに現れているんだと思う。こういう曲が暴力性を十分に自覚させた上で、それでいて美しくて楽しくてすごく良質の音楽になっていることがやはり驚きだし、脈々と受け継がれていたうたがまさに書き換えられる瞬間を見る気がする。そういう意味では、1stはあまりにもドリーミーで、無我夢中な具合に切実で、危険だけれど、それだけに天使が降臨しているように思える。でも、それはもしかしたら、新しい宗教みたいになっているということでもあるかもしれない。別世界なのだ。
だけれど、そこには七尾旅人に一貫して流れる、うたを歌うことに対する責任を一手に引き受ける性質がここにも見いだせる。ここでもキーワードはたくさんの人の声であり、歌だ。ここにある歌たちは、何かの物語の破片を集められて作られたものだ。曲名を見ていても、そう思う。「『男娼ネリ』第19夜 シーン8」、「ガリバー2」だとか、そういえばアルバム名も「雨に撃たえば...! Disc 2」だった。これらの曲は、あらかじめ散逸しているし、そういう風に見せている。そのことは、あり得なかった世界、もしもの世界、もしこれがこうなっていればこうなっていただろうという世界、もし生き残っていれば…、というような世界に対しての弔いのようだ。そして奇跡的にここに掻き集められた楽曲が、ここにある…。だが、これらの曲も、分裂的で、散逸している。

灯りが綺麗だった。灯りが綺麗だっつあんだ。
(こんな日に限って、ヨケイなことおぼえるんだ・・)
(アドリブがきかないもんでカンペ握って。。いいだろ?)
暴こうか?(おっととっと)しゃべり好き。
(君が父親に慰められたかなんてことは聞かないよ。)
精いっぱいの笑顔が。精いっぱいの笑顔が、ほら。
精いっぱいの笑顔精いっぱいの笑顔がくずれたならば
君をベランダからひっぺがせないままなら・・・そう
帰る場所を”・・・。
”全ての君の君のとなりの部屋でパーティをやるんだよ。
パーティをやるんだよヲ〜〜〜。色んな音。
知ってた?振動はいつだって・・・・。      (「コーナー」)

歌詞だけ見ると、こんな曲を、どうやってやるのか分からない!徹底的に分裂しまくっている。自分から湧き出る言葉がセキをきってどうしようもなく溢れ出し、どうしようもなくさまざまな世界が生まれ出してしまうそのこと、その瞬間を、一気に「描写」しているような気がする。アクションペインティングみたいに…。だけれど、これをどうやってやるんだ?そう思って曲を聴いてみると、完璧に血肉になってうたわれている。魔法みたいだ。

七尾旅人はさらに、変身する。それぞれの楽曲がミュージカルの破片として捕らえられるような風でもある。このような性質は、分裂的な歌と関係がある。溢れんばかりのたくさんの声をできるだけ取り入れることが、意図だろう。その声たちをキャッチし、うたにするために、七尾旅人は入れ替わり立ち替わりしている。自分ができる、拾える世界は、全て拾う…。拾えない世界はもちろんあるし、自分ができないうたもある。うたには限界がある。すべてのうたを歌うわけにはいかない。その、失われた、あったかもしれないうたの鎮魂のためにも、拾わなければならない、と旅人さんがうたと向き合うとき、旅人さんは全的にうたに対する責任と向き合っている。

できるだけ拾おうと思い作られた歌詞は、やはり無意識的で、つまり意識的な文章になっていない。意識されている一つの世界の外を見て、その別の世界の言語で書いている風だ。それはもしかしたら狂気かもしれないが、ウィスパーボイスやスイートな曲調、ストレンジな展開に、奇跡的と言って良いぐらい、よく合う。普段意識されることのない世界が現れるようになっている。

だが、それはあまりにも奇跡的すぎる。あまりにも全世界のことを拾い、すべてのうたを歌おうとするあまり、うたに力を持ちすぎる。そして、力を持ちすぎたうたというのは、あまりにも、この世から遠いものになってしまう。つまり、そのうたが、人の心の逃げ場所になりすぎる危険性がある。 そうなってくると、うたの外の世界があまりにも、理不尽に見えてくるだろう。七尾旅人は以後、世界を変える、ズラすためにさまざまの声に裏打ちされたうたを歌うことになる。だが、人は時に、音楽に救いを求めることがある。うたは、闘ってばかりも、いられない。このようなアルバムがあってよかった…。(引用元)
ところで、谷内くんは、アポトーシスを目指すらしい。ウィキペディアを見ると、
アポトーシス (apoptosis) とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死(狭義にはその中の、カスパーゼに依存する型)のこと。
 だそうだ。これが病的になったのがガン細胞で、谷内くんは会社に入って社会のガンになって闘うらしい。それって、入った会社を潰していくってことじゃん!