2012年7月26日木曜日

化粧(2)

ものすごく強烈な日差しで目が覚めて、ああ、本当に夏だな、と思いながら去年、大王町という伊勢の町の岬に出かけたことを思い出す。ずいぶん、遠くまで来たものだ。日差しの意味さえ違う。特にこんなところまで来るつもりはなかったのだが…。ちなみにここは、友人の谷内くんの母の実家があるところである。母の実家は漁師で、とてもおいしいお魚を毎日食べてきたために、100円で回っている回転寿司を食べる事ができない。僕はそこでうなぎを食べたが、おいしかった。それよりも、店をやっている双子のおばあちゃんを覚えている。ここには毎年、k大から先生方がいらっしゃって、一週間滞在してくれるらしい。その折りには、この店に、毎年、来るらしい。そんな話しか覚えていないが、この双子のおばあちゃんは、とても良くしてくれた。子どもの頃からの、店の思い出を話してくれた。代々続く岬の料理屋にとって、この双子の子どもは、それはそれは、すばらしい看板娘だっただろう。谷内の母の実家は、漁業組合に(やっぱり農協というぐらいだから、漁協、というのだろうか。)一億円の借金があるらしい。船を買ったそうだ。でも、何も払っていないらしい。金額が金額で、夢みたいな話なので、夢かもしれない。全て夢なら、どれだけいいか。おいおい、全て夢のようになるのだろうけど。

てでふれたてはまたかいだんをくだるあしおとにつられて
うまれかわってあんなにあいたかったものにあえたら
えみをつたえられたら
できそこなったことばを霧の中へ投げろ霧の中へ投げろ

とらえたいものごとがそのみみをふさいで
とりあえずめをとじたらねむってめがさめた
きょうもだれかのあとについてなにかたべにいこう
やりそこねたことばを霧の中へ投げろ霧の中へ投げろ

 この旅行中に連絡をくれた山本さんは、ショートカットにして髪は金に染めていた。先日図書館で会った。最初に出会った時は、大学のゼミの円卓で、僕が座っ ている席の隣に立ち、何冊も何冊も本を積み上げていた。あまりにもどんどん本を積み上げているので、彼女は自分に好意を持っているのではないのかと思った けれど、その通りだったらしい。何の本を積み上げていたのか、覚えていれば、何か意味があったのかもしれないが、全く覚えていないのは、残念だ。確か、ス ラヴォイ・ジジェクの本があって、そのことで何か話したはずなのだが、そんなことを詮索するのは、野暮だろう。ところで、さっきからパソコンの様子がおかしい。カーソルが意図しない方向に動き、一定の周期によって僕の文章を書いては消し、書いては消しする。この文章を書くのも、四回目だ。今再起動をした。再起動をしたら、タイピングと文字が表示される速度が一致しない。遅れるのだ。こんなことで、大丈夫なのか。

こんな不安定なハードウェアで、レポートや卒論は、どうしよう?何回も書き直す事で、どんどん文章のバージョンが変わっていく。書いたかもしれない記述と、今ある記述が並行的に存在する、とか言うと、多次元的世界観で、SFっぽい。また、小説を何テイクか書き出し、そのテイクを採用する、という風にすると、即興ぽい。保坂和志さんなどは、そういう風にしているそうだ。きさくでいい人だ。彼女とはこのような日差しの強い日、図書館で会った。その時には、髪の毛はショートカットで金髪だったので印象に残っている。ジャズバーに行く約束をした。ジャズ喫茶なら、間違えて入った事はあるが、ジャズバーに行くのは、初めてだった。飲み屋と風俗店の間のこじんまりとした古いビルの二階にあった。よくある話しだ。「東京にいこうと思う」と彼女は言った。それもよくある話しだ。東京で、大学の授業をもぐりながら生活するらしい。どこでも一緒だよ、と、知った口を聞いたような気がする。私はよく、知った口を聞く。知った口を聞きすぎて、情けなくなる。なんで僕は、こんなに年の離れている人に、説教じみたことを言うのだろう、と思うといたまれなくなることがある。知ってもないのに、知った口は叩ける。正しい事なら、誰でも言える。そういう気になって、恥ずかしい。最も、彼女とは、一つしか違わない。僕は今、別のことを考えていたようだ。すると、小さな虫がわいてきた。なんか虫が出てきたね、と言うけれど、山本さんは、気づかない。そのまま、バスの時間になったので、帰った。入れ違いで、岡山の農村を舞台にした映画を撮った映画監督とOLが入ってきた。

岡山の農村を舞台にした映画は、早朝のいい感じの霧がかかったすばらしいフライヤーに載せて紹介され、興味をそそるけれど、その岡山の農村を舞台にした映画は岡山でしかやらないので、それっきりになってしまった。どんどん虫がわきだした。山本さんが帰ってから本格的に虫がどんどんわき出した。こんなので、OLの人は大丈夫なのか、と思ったけれど、大丈夫らしい。みんなが気にしないので、そういうもんなんだな、と思い、焼酎をもう一杯ついでもらった。おすすめのジャズをかけてください、と言うと、「そんなものは自分で考えろ」と言われた。僕はあなたのおすすめのジャズが聞きたいのだけれど。自分のおすすめの曲なんて、自分の家で聞くのでもう、十分だ。そんな気分だった。だからもう一回聞いた。「そんなものは自分で考えろ」と言われた。どうしても自我を強調させないといけないらしい。そんなもんただの、色の違いだろうが。「渋さ知らず」が流れていた。虫はどんどんわき出している。虫に造詣の深い清水アリカの、対談を引用する。

清水アリカ:昆虫がバラバラになっているところを見ても、可哀相だって感情は抱かないんだよね、例の矢ガモは可哀相だって、大騒ぎするけどさ。
椹木野依:なぜ昆虫には悲劇が成立しないんだろう。
清水:なんでだろう(笑)。昆虫はまずやたらと数が多い、既存種だけでも、一五〇万種もいるし、未知種も含めると、その五倍とも五〇倍ともいわれている。毎年、新種が数千単位で発見されているしね。こうなってくると人間が作った分類学の体系なんて、絶えずなし崩しにされてしまうわけでしょう?
(中略)
椹木:(中略)虫ってまさにゴミだよね。ゴキブリとかハエとかが持っている回収不可能性みたいなのがあるでしょ、殺しても殺してもまったく数が変化することなく存在し続けてしまうみたいな。その即物性というか、唯物論的過剰性が、どこかしら「ノー・ニューヨーク」的なものと、あるいはD・ベイリー的なギター音と繋がっているような気がしますね。バロウズも昆虫というのが 結構出てくるでしょ?
清水:ムカデ死刑とか。クローネンバーグが撮った『裸のランチ』にもタイプライターが甲虫に変身するシーンがあった。
椹木:昆虫がなんで悲劇を生まないのかというのは、すごく興味深い気がする。文学でいうと、カフカなんか文体それ自体が悲劇になりようのない昆虫生態学的メカニズムを持っているような気がします。爆発的な笑いの要素があるでしょ。
清水:まさに虫に変身するって話があるものね。
椹木:そう。それに『巣穴(リゾーム)』。わけの分からない生物が巣穴を作って、そのなかをどうしようもなく蠢き歩いているという。
清水:可能性のなさといえば、カフカの小説は本当に可能性のない世界だからね。
椹木:そこがカミュなりサルトルだったりすると、不条理なり、理不尽さがロマンティックに文学化されるというのがあるけれども、カフカにはそういうことができない。
その後、山本さんには会っていないけれど、今はどうしているのだろうか。本当に東京に行ったのだろうか。強烈な日差しの中で、ふと思い出したけれど、忘れている。日差しだけが残るんだろう。あの店に行くと、また虫がわいているのだろうか。さすがにそんなこともないのか。やっぱり日差しだけが、残るんだろうか。

往けど化粧 帰れど化粧
私はあなたを待っているだけ
長い間 目も開けないで
時間がくるまで待っているだけ
話をして身体に触れて
隠したナイフは邪魔になるだけ
泣けど化粧 笑えど化粧
きれいなお顔に色を塗るだけ
ほらを引いて 眉を描いて
まあるい瞳の ふちをとるだけ
好きな化粧 嫌いな化粧
あなたの世界が できあがったら
取れど化粧 眠れど化粧
あなたのお顔はそこにあるだけ
往けど化粧 戻れど化粧
往けど化粧 戻れど化粧
往けど化粧 戻れど化粧
往けど化粧

  待っているのは、あなたの化粧なのね。あくまでもね。かんちがいしないでね?…でもそういうことももう、どうでもいいから、仲良くしよう。僕はただ飲みたい。お願い。言葉なんかもう、どうでもいいです。聞き流して。話半分で聞いて。そのことが、少し怖い。勝手だな〜僕は。

2012年7月24日火曜日

化粧

友達の大学生の女の子と哲学のテスト勉強をしにミスタードーナッツに行ってきた。歴史哲学でしょ〜、それなら私去年、とってたよ、なんか知らないけれど、無事いい成績をおさめることができました。先生はスペイン人で、こんな日本のk市で教えているところを見ると、西田だとか、河上だとかを勉強しているのだろうか(あまり知らない)。ロボット工学を学んでいると、哲学をやる必要性が生じて、哲学の道に行った、という、理系からの先生だったことを覚えている。逆に言えば、それしか覚えていない。あれも覚えている。歴史は英語ではhistoryと言う。物語は英語でstoryと言う。確か、フランス語では、区別がつかなかったはずだ。フランスでは、シルブプレと言えば、100通りも意味があるので、とりあえずシルブプレと言っておけばいい、ということを聞いたことがある。フランスへ修行に行く、お世話になった、きりっとした顔を持つ、尺八の奏者に、教えてあげれば、良かった。

歴史哲学のプリントをごっそりなくしていたらしいので、あげる。ありがとう!でもなんかちょっと違う…。後期の方のプリントを見せて!去年の後期は一体、何をしていたのだろう…。どこまで遠いところにいってしまったのか。ミスタードーナッツでは、コーヒーがおかわり自由なので、利用するが、コーヒーを飲み過ぎると、くちびるが血っぽくなる。「私、痔なんだよ!」というと、同情してくれて、それは生理みたいなもの?と聞いて、生理の話を話しはじめた。生理の状態になると、人それぞれ違いがあり、彼女は少し元気になるらしい。「保母さんに、なろうかな」と言うけれど、保母の時給は800円程度らしく、そのために資格をとる気が凪いだ。君は転部して、転部試験に受かり、単位もとれているので、賢いんだろうけれど、そういう種の賢い人って、どうしようもなくなるよね、と言われた。いやぁ!賢いだなんて!どうしよう…。そうやって、周りのみんなはみんなヒモみたいになり、キャバ(キャバクラ)ではなくても、ラウンジで働いている(ラウンジの意味がよく分からない)。公務員のところに転がり込んでいる人もいるようだ。そういう女の子は一様に独特のオーラを発していて、昼か夜か、で言うと、夜だ。そういう人しか見ないが、全体としてそんなことはなくて、たぶん公務員の人は昼、なんじゃないのかなぁ、と思う。古井由吉の小説に出てくる、養ってくれる女の子も、なんかまじめそうだし。実際にまだ、見た事はない。勉強もせず、話ばかりする。お父さんの話に移る。

お父さんは、家のことをなんでもする。家事があれば、それをして、家事が終わっても、何かすることを探し、何かする。先日家に帰れば、台所のテーブルにガチャガチャのプラレールが立派に組み立てられていて、ジオラマと化していた。自分の部屋にはたくさんシールが張ってあり、カーテンやふとんも変わっていて、なんだかすごく「女の子の部屋」になっていたそうだ。 父は教職員なのだが、そんな風なので、妻はやることがなく、疲れた目で動きまわる夫を見ている。いつの間にか、料理も作らなくなった。娘は寝たきりになった。

川辺に行き、勉強しよう、ということになったけれど、寝転んだ。友達はドイツ語の勉強をしている。あまりにも気持ちがいいので、川ばっかみていると、空がとてつもなく大きくて、パノラマ写真とか、そういう類いのものが吹っ飛ぶような大きさで、なおかつ確かな質感をもって目に飛び込んできたので、世界が大きくなった、と思い、「すごい空だね」と言ったけれど、伝わらなかった。今考えても、とてつもなく大きくて、世界が急に大きくなって見えた、と思うのだけれど、そういうことを伝えるのに言葉はあまり向いていなくて、この文章を書く事もずっと躊躇していたけれど、まあいいや。書いちゃった。

娘は寝たきりになった、と言ったけれど、それは本当に寝たきりになったことがある、ということです。本当です。娘は病弱な所があるので、学校も休みがちで、あまり単位もとれていない。ただし、お酒を飲むのは大好きで、よく飲む。よく、医学部の友達の話をしてくれる。「紹介しようか?」

先日、朝方に川を見に行ったら、川はものすごい流れで、濁流だった。土手は、濁流で埋まっていた。流木が流れていた。木材も、流れていた。ラッコみたいな動物が親子連れで川をじっと見ていた。鴨が川をじっと見ていた。 とてつもなくでかく、みたことがないぐらいでかいカエルが、いた。妻子持ちの友達にそのことを言ったら、「それは、ユートリアだよ」と、教えてくれた。川はものすごい流れで、自転車が、流れていた。

女の子が、にんにくが食べたい!と言うので、イタリア料理店に行き、ペペロンチーノ片手に、ワインを飲んだ。こんなオシャレな店に来るのも、久しぶりだ。すごく大きな鏡が後ろにあり、キッチンが見える。町家を改装したレストランは、k市にはよくある。このレストランは、少し高いのだが。最近できたレストランだそうで、このように、最近できたレストランが何件かあり、全て麺類だそうだ。大学の近くなのだから、このように学生街ができればいいと思うが、少し高い。ワインがとてもおいしい。でも、こんなにでかい鏡が正面に置いてある。鏡で自分の顔を見るのは少し照れくさいが、女の子が正面にいるので、女の子の背後にある鏡は、僕の顔を映さずに、木造の、町家の建築を映し、空間を広く見せ、ああ、そういうことがしたかったのだな、と、今、書いている途中で気づいた。女の子はレズビアンバーの話をする。あまりにもモテないので、自分の性を疑うことがあり、ほら、誰しもさ、こういう年代なら自分を見つめたりするじゃない?あまりにもみんな若くて、女性ホルモン過多なのかな?いつまでもキャピキャピしてる人たちばかりだったから、ダメだったけれど。君も女装して行ってみたら?どうやら、そういう日があるらしい。

往けど化粧 帰れど化粧
私はあなたを待っているだけ
長い間 目も開けないで
私はあなたを待っているだけ

できそこねた ものを並べて
私は明日を捨てていくだけ

往けど化粧 帰れど化粧
あなたができたの見届けるだけ

隠したのは誰の顔
惜しいところで寝違えた
愛情でほしいものならいつも通り知らない食べ物

往けど化粧 帰れど化粧
私はあなたを待っているだけ
長い間 目もくらむ程
あなたの世界を見届けるだけ
往けど化粧 帰れど化粧
往けど化粧 帰れど化粧

もう一つ引用

土砂降りの中、何も出来なくて、せっかく街に出たというのに、何も出来なくて、イライラしていたあなたにまたいらだち、本棚を蹴ってしまうと、本がこぼれてきた。いっそ、燃やそうか?捨てようか?食べようか?投げようか?焼こうか?そんなことばかり考えて絶望し、うちひしがれていても、急ににっこり現れて、あさりの酒蒸しをごちそうになり、つい溜息をもらし、「なんやねん辛気くさいことばかり」と言われ、またムッとするけれど、そうもばかりいってられない。もうじき笑ってしまう。

2012年7月6日金曜日

写真vs愛(交換小説)

 小説(冒頭)

気づけばまた、指を動かしている。何かと褒められることの多い指だが、この指にどのような特徴があるのかはわからない。生まれた頃から、あまり何の疑問もなく、この指と共にしてきたため、それが褒めるものの一つである、という認識に慣れていなかった。それよりも、自分そのものに対して疑問を持っていて、自分はなんで生まれてきたんだろう、生きていていいのだろうか、とか思ったりはするが、それではあまりにも観念的すぎて、何も考えていないのだが、それは暇で暇で何もする事がない時に発生したりする。じゃあ、細部から、具体的なものから疑っていけばいいのか、という話でもない。東ヨーロッパにはそういう小説もあるようだけれど、指からこの文章は始まってしまっている。あれほど、時間外の労働はしない、と決めていたのに。責任はとる。責任を持って、それは生活のため、仕事はする。だが、世の中の作りが、なにもかも、労働になっている風に見えることがある。笑わせたり、面白い話を要求したり、沈黙を埋め尽くそうとしたり、将来を言葉で考えたり、人のせいにする理路を作ったりする。あいつらの言葉では、世界は変わらない、と、山下澄人の新刊の帯に書いてあったように思う。ただ、約束の為だけに、書き続けよう、と佐田は思った。それにしても、指は動き続けている。指には噛み付かれた跡がある。それは腕にも残っている。足には何度も革の靴で蹴られた痣がある。ここまで書いていて、この描写はなんだかグロテスクというか、虐待的というか、ショッキングというか、現代社会の暗部というか、なんとなく気の滅入る描写になっているのではないか、と思わせてしまうものかもしれない、と思うかもしれないけれど、別にそういうことはなくて、もっとハッピー、でもないのだけれども、笑えるエピソードがあるわけでもなく、考えてみれば、何の話もなく、ただ蹴られていただけの話は何を孕むこともできない。街は鋼鉄のビルであふれ、夜にはピカピカが湿る地面に写る。適当にその日を生き、適当にたのしみを楽しみ、とりあえずの明日をくるのに準備する人の中には、日常の厚みに耐えきれずにモノを軋ませ、自由に向けてコルクを放ち、噴出する水滴がまた地面を照らす。いつの日か来る絶望が来るまで、どんどんと閉鎖されていく回路を、持ち前の頭の良さでどんどんくぐり抜けていくラットは、動物愛護団体の反感を買うこともあるだろうが、科学者はこのような実験動物を供養する良識を持った人物がほとんどであるため、安心して欲しい。前進につぐ前進をはじめ、どこまでも一人でガケをぴょんぴょん渡り歩いている人がいる一方で、山の中でうずくまって、助けを求めている人がいるが、それは身体が動かないからである。もちろん、どっちがいいわけでもない。どっちがいいわけではないが、どっちも現象としてはある。むしろ、現象としてしかない。鋼鉄の壁をノックする。ノックする。鋼鉄であるが、反復することで何か得ることができると思っているのだが、それは合理的思考とは若干ずれるのではないか、と思っても、どうすることもできず、どこにもいけず、ノックする。ノックしつづける。ノックしても、鋼鉄であるので、何か得れるのか、全く分からないけれども、ノックする。別に好き勝手にノックしているわけでもない。反復を楽しんでいるわけでもない。ノックをしているのだから、何か反応があるほうがいいに決まっている。当たり前だろうが。何か、呼び声があった方がいいに決まっている。こう考える時、すぐに、鋼鉄の壁を崩したがるやからみたいなやつがいるに決まっているが、あ、でも崩れるのかもしれない。でも、まあそんなことは、鋼鉄であるし。どこまでも、どこまでも、鋼鉄であるし、科学的事実であるらしいし、客観的に保証されているらしい。証言もある。鋼鉄であるし、ノックしてもいいのかなぁ。ノックして何かあるのかな。自己を鍛える、とか、そういう話には、本当にうんざりします。すべての事には意味がある、だとか、その人がすべてではない、だとか、そういう言葉が出回り我々の感情をさらにさらにさらに鈍らせ、周りの人とコミュニケーションしないように、しないように、する、ようになっているけれども、屈しない。もう、本当に、取り返しのつかないことをしてやりたいと思うのだ。(佐田)

2012年7月1日日曜日

!?

 
 彼はしばらく前に、ヘンリイ・ミラーの選集のうち最初の作品を含む『黒い春』を送ってくれて、その中で、青年であった作者自身が叔母を市電に乗せてニューヨークのある精神病院に入れに行った。そういう役を青年が引き受けさせられたのだ。青年の家は洋服の仕立屋であるが、なかなか新しく仕立の注文がなく、たいていは直しであった。彼は貧しい人の多い街を歩くとき小説の一つぐらい出来上がっていた、と書いてある。しかしこの日は違っていた、ということが書いてあったかどうか忘れた。*