よくアーカイブをとる人だ。
友達の歌の録音はいつも保存している。
そのため、友達の歌が集まる。
写真はパソコンが壊れた時に全て消えてしまったので今はないのだが、それまではもちろん保存していた。
パソコン上にあるデータはラベルをつけやすいので、整理整頓をすることが簡単だ。
ラベルをつけることによってわかりやすくグループをわけることが出来る。
ラベルをつけることによって抽象的にすることができる。
ラベルというぐらいだから、それはパソコン世界だけではなくて、この世界にも応用でき、例えば書類を封筒に入れ、ラベルをつければ、それだけでその書類がどのようなグループの書類なのか、ということがわかり、整理整頓がしやすい。
それだけ、物を抽象的に考えることができ、頭の中で部屋のマッピングがしやすい。
抽象的であるということは、そういう風な意味であるので、きれいな、自分の思う通りに整頓された、抽象的な部屋、というのがある。
本当に、具体でしかないような空間にゴミ屋敷のようなものがあるのかもしれないけれど、ゴミ屋敷は、人の目を引き、ある人は驚き、これはいったい、何なのだろうか、と考えるかもしれない。
ある程度の生活のチエというか、社会性を備えた部屋というのは、ある程度の抽象性を持たなければいけないだろうけれど、抽象的な空間も行き過ぎると私は世界の王になってしまう。
それではまた新しい社会を作ってしまうことになる。
あるいはヒッピーになる。
甘い曲しか作れなくなる人もいる。
歌をCDに音源化する時にかっこをつけすぎてしまうかもしれない。
ゴミ屋敷であるということはしかし、あまりにも具体的すぎて、モノしすぎて、モノしすぎて、というのはつまり、物質物質しすぎて、なにがなんだかわからない。
社会性がない。
それも危険だ。
世界の王は王だ。
いつの世も権力者は領土を広げようとする。
抽象的なところのある権力を持つ権力者は具体的セイカを求める。
やっぱり目に見える物はすごい。
目に見える物を信じようとする。
もちろん目に見えないものをものさしにするので、目が見える訳ではない。
健康に気を使い、子どもの食品に気を配らなければならない。
そういう世の中になってくると、その確かなことにつけ込む人がやってくるかもしれない。
人がいることは確かだ。
健康でいるべきである、ということは確かだ。
一歩一歩定義していってずんずん進んでいく。
まるで前線だね。
そうだよね。
そりゃ前線だよね。
前線でいいよね。
前線のような状況だよね。
自分は確かに一歩ずつ歩いていると思いながらずんずん進んでいく。
そのためにはやっぱり信念みたいなのを持ったり。
暗い過去みたいなのを大切にしたり。
そういう人になめたマネを言ったら、私はすぐにあなたを泣かせられるよ、それぐらいのズバズバは、持ち合わせているよ、と言った。
すいません。
泣くぐらいなら、なんぼでも泣こうと思います。
こだわりません。
ソフィストという職業がギリシアに昔あって、弁論の専門家だったそうだ。
そこでは、対話は勝ち負けで決まっていたのだろうか。
それのほうが具体的なのかもしれない。
ラベリングされているし。
その二人の対話の外側にはその対話をさせた環境があり、人があり、部屋があり、空間があり、様々なかかわり合いがある。
特に耳を澄まさなくても、案外当たり前のことではある。
アインシュタインの部屋は散らかっていたという話しを聞く。
『ユリシーズ』の作者であるジョイスはそこらのチラシさえ拾って引用した。
もちろん、それの方が好都合だから。
部屋の中でなんかようわからんけど手探りでどうやら生きているという感覚はある。
(そういう感覚をもたらすものは、まぁ、肯定するわな。)
(それは別に全肯定ってことちゃうで?)
(その話してる場を肯定しながら意志を伝えるには言葉とは別に行動を考えなければならんでしょ。)
(長生きしよう。)
(余計な力をかけては壊れてしまうということは、ほんの少しの整体の知識が生きました。)
(腰が痛いけれど。)
(本の整理をして腰が痛いです。)
日誌
2013年1月7日月曜日
2012年12月2日日曜日
彼は怒り狂ったその骨はいけないここにあってはいけない桐乃塚峠というところでずっと神のふりをしていた松本という男が一ヶ月かけて集めた自分の吐瀉物で十字架をつくった時その骨を一番真ん中にして十字を折り返したのだ彼は最後の会合という名目で裁判をして裁判官の1人がマッチポンプもう1人がイドという女、カレイドは狂ったように全身をクネクネとひねらせ「言ったな!?ああもうダメだお前は死ぬのだ懲役135年!」と主張した すべてが拍手をした椅子も拍手くつも拍手した私も拍手その建物(千葉高等裁判所)自体も拍手をした鼻と花の隙間にある小さな血管の中に住んでいる巨人津田の相方も拍手をしたその拍手がだんだんと手拍子となりつまり裁判が死に絶えたマーチングとなって郡の人から国の人までお役人をみんな呼んで会食が開かれた美味そうな料理が並び空には光り輝く星が見下ろしていた月はなかった会食は夜半すぎまで続いた人々は裁判の事など何一つ覚えていなかった一体誰が搾取されたのか当事者は誰だったのかそれどころか裁判されるということ自体を忘れてしまった町には犯罪が蔓延した詐欺恐喝押領海賊物価高騰物資不足貧困死亡その結果としての動く死体なとが溢れかえった死体が溢れれば当然異臭も溢れ女子たちはガードレールなくしては心のなかの車を運転できなくなったのでみんな自前のガードレールを用意して臀部に装着し、カマキリのような感じでビョコピョコと連なって行進した 目が見えない人たちだけが助かった大して影響受けなかったからだ、ところがそこで目が見えない人たちはわれしめた!とばかりに助かったことをチマン氏とともに喜び合って独裁をはじめた見える人々を椎茸で叩き打ちのめし奴隷としてクリアな言葉を覚えさせ、小突きまわした 目が見えない者たちはいつもどおり蟻のように並んで行進するのをやめた 本当は目が見えない自分たちではなくて目が見える人々を並ばせて歩かせることを強制するというやり方が正しいのだとついに気づいてしまったのであるそれが全ての間違いだった だって目が見えない人たち以外はみんな困っていたのだから 2人組のろうあ者はとても住みにくい世界になったんだなぁと嘆きながら出かけ、北海に面した崖から飛び降りてその下にあったわずかな出っ張りに両手でしがみついて助かったもののこれでは手話ができない!手話がもうできない!両手が塞がっていては手話はもうないのだから!と叫び合う謎の寸劇を繰り返していた あーもう行くところがないこのままではすることもないそんなふうにシリアスに考えていた人々は裁判をみたび回復させようと目論んだそれらの人々は裁判転じてサイババンドラ派と呼ばれ過激派と穏健派と」に分かれた過激派の筆頭の「消え入るうーごー」という男か穏健派のリーダーだった女教皇を処刑し結局限られた民である3 9人だけが細胞分裂の中に裁判を取り戻して、また裁判の意味がわからない、理由がわからないと泣くのであった(谷内)
2012年11月26日月曜日
一念発起して銭湯に行った帰りにコンビニによりケーキを買う。少し前に誕生日を迎え、ごほうびだ、おめでたいのだ、と思い買う。これで今週買ったケーキは三個目になる。おめでたい気持ちにも締まりがない。締まりがなければあふれてしまう。今週買ったケーキは三個目になる。ケーキを食べる。そこらへんにおいてあったコーヒーを淹れる。ケーキを食べる。今週買ったケーキは三個目になるが、ショートケーキは初めてだったので、わくわくして食べる。おいしい。学食で食べたモンブランもおいしかった。モンブランには栗が入っているものだとばかり思っていたので、びっくりはした。古い校舎で食べた黒いケーキもおいしかった。固かったので、質量があったのだろう。今週から数えて三個目のケーキを食べる。おいしい。イチゴの乗ったケーキを食べることなんていつぶりだろう。しばらくすると、酔ってきた。なんかあんまり気持ちのいい気分ではない。この町の冬は寒い。寒いせいで酔ったんだな。しゃっくりというのは、暖かいのと冷たいのが同時に現れて、筋肉が痙攣することで起こる。
やっぱりケーキのせいなんじゃないかな、と思う。ケーキに多分に含まれている糖分が、僕の心臓を、何らかの作用で、動かしているのではないだろうか。ケーキなんか食べるんじゃなかった。おめでたい時に、わざわざおめでたいことを、三回もする必要はなかったんだ。おめでたいときは、いつも常に、人がいるようなものだ。おめでたい、というのはそういう言葉なような気がする。いつも常に、おめでたくある必要はないはずだが、そういうことは本当に強く訴えかけてもいいと思う。
というか、コーヒーのせいなんじゃないだろうか。十二時からコーヒーなんか飲むんじゃなかった。安いコーヒーを。嗜好品は選ぶべきなのだ。どちらかというと魔術的なモノに対しては、注意深くしなければいいと、思っていたのだ。東京で出会った人も、父親が10歳の頃、クサは出会うものではあるがハマるものではない、と言っていた。何事も一心同体になるのはろくなことがない。波乱の予感がする。そんなものが幸せであるのならば、俺は幸せにはならないというパンフレットが配ってある。もう僕はしばらく、まともとは言いづらい生活をしていて、まともとは言いづらい環境の中にいて、つくづく、カタギじゃないなぁ、と思って生きていると、おまえは京都人とローマ人の嫌なところを兼ね備えた人間だ!と友達に言われたことがある。まず僕は顔がヤバい。銭湯に行くといつも顔で遊ぶ。顔でマッサージをしている。そうすることによって、豊かな表情を形成しようとしている。もう言葉なんか誰にも通じないのだから!と思って生きていると、思わぬところにアンテナを持っている人がいて、破局へ向かう。常にイライラしている。言葉を憎むことは、例えば牧師さんの話では、ハワイでは、人が死に、人は悲しむ、その悲しみ方として、神を恨む、どうして私の下に?取り返しのつかないことに対しては、どうすればいいのだろうか?どうすることもできない。そういう前に進まなくては行けない。壁にはケンカできない。本当は全てが壁なんだが。僕らは回り道をするべきなんだと思うけれど、それがみんなわからない。僕もわからない。わからないならわからないなりに歩いていたい。ロベルト=ヴァルザーが好きな友達の一人はそういうことを言っていた。「そういうわけで、文章は日記にもならない。進歩が永遠に止まっているような、もちろん近代なんてなかったのだろうし、しかしとりあえず否応なく進んでいく時間に対して責任を持って行動するぐらいしかなく、雨音を聞いていると、止み、電子の継続音が聞こえる。他の世界に対する想像力を鍛えることは、そこにある一つの言葉の世界があるのであれば、なんでだってできる。皆さんが大好きな音楽にだって、本当は他の世界とつながれる可能性はある。ふと、音楽を聴くことを辞めることができるのなら。なぜ、音楽を音楽だけで考えたがる?豊かすぎる世界には、有限な主体でケンカに勝とうなど、そもそもたとえがおかしいと思うのだけれど、そう思うことは情けないことなのだろうか?それが情けないのなら、その情けなさに対して、責任を持てばいいのではないだろうか?統一的な事実として認識したつもりだったことが何度も裏切られて、それでもまだ気づかない!一つの世界の思い込みは心の支えにもならない!」
友達からの私電
友達からの私電
違う事は本当は楽しいことなんかじゃない限定されることが本当は楽しいことなんかじゃないもし幻が監獄の方だったとしてもその勧告をつくりあげるための自由は私が獲得するのではなく私とあなたの間にある青白い顔をした人間たちがもっていくのかそれが怖いそれが強いと言ったのはあの吉本さん石本さんと言うのはとっても丸い顔をして食べ物の話ばかりしているそれはそれはそうだったつまり私はソーダ水と炭酸水とキリンレモンの間で常に揺れ動いていた後に二万年くらいしたら即興演奏のことを少しずつ考えていきたいと言ったのは不動産だったか私はそんなことも許されないと思ったマンションの値段は常に変わっていくのか
「いつぞやの男は言った罪は太ったね俺は皮肉を返してやった君は霊長類みたいだね霊長類と言うのはゴリラと猿とボノボがいるけれどボノボの他にほのぼのという冊子を編集している霊長類がいていつが壱番恐ろしいんだ君はそいつみたいだねチミはそいつみたいだね君はそいつのこと体中で知っているみたいだね本当は何か朝ご飯を食べたいんだ朝日が昇ってきたから朝日夜を怖いものなんて1つもないけれど朝ごはんよりもだいそれたがまきりを食った山本周助」
*
時計の針は逆に回る人をくるくる回り新宿と都営大江戸線牛込柳町駅にあるCoCo壱番屋の永遠を結んだその永遠から入ったまっは2の建物の蓄積建物にも乳首があるなんて知らなかったでも歌にもお父さんとお母さんがいるだからブルースのお父さんとプルウスの子供はきっとたくさんの乳首を持っていたんだろうなぁ
きゃー死んでいった人が映画にきているそういいか教えているそう私はつまらないと思ったあなたもつまらないと思った彼もつまらないと思ったのに全体では面白いと思ったそれはとても喜びに近い感情だった起伏が激しい女の人は皆不幸だと言う固定観念を捨てされここは天国だここは地獄の垂直の客としてある天国ではなく横滑りになった天国だ
Mama mama Mimi Mimi Newman total put up what are you finished your special but I put you walk which to Pacino come to going to stop until I take with your cheetah contributes to Maria Cadiz to bundle my text so you put us I think she's it was tequila to custody else if so what pussy communication with only a test at Lucky's communication what's into the snake communication with the Kaiser nurse to pick you on equipment or my home to
Or my hometown buffet on my welcome donis how to do a night to them about my welcome Tony text you
10 10 10焼肉の音がするこけたこけたこけたそれはどこにいるんだ私のPCはどこにあるんだ私の鼻は体を通って私の口と耳と目とか40先とそれと崎人空気と空中床のくか部屋全体を支配するそれはくかお知らせするということではなく福岡の中に散文的に自分の体が熱流れ込むということであった本当あのカリヨン橋の上サックス吹いている謎のおじさまがモスバーガーのレシートの裏側に私のメールアドレスをかくように申していただき私はすごくとまどったのか
女のふりをして男襲ったなぜ男殺さねばならないのかという宿命論を語っている人がいるの喫茶店ランブルで小論書いていったジャズはいつも違うところから聞こえてくるフォークはいつも下の方から聞こえてくるブルースはいつもどこからも聞こえてこない沿いの接待にあると思う聞こえてくる芳香亭のが何よりも大事なのだそしてそれが一家に集中するということが何よりも大切なのだ
アライグマ楽しいねゆうこちゃん机の中に何を隠しているのラブレターかな男の娘の首塚かなそれとも自分の恋と愛の奇妙な詐欺の中にある憎しみ以上のそれはもうブロイラーの呪いといってもいいものかな何を隠していてもいいんだけど私はあなたの画しているものを見初めているあなたの隠してる者に惚れている探して出してあはは笑って今出して言葉は常に出して出してあなたのところで正しくなるのです自分の中に言葉を作る人間の最低さはあなたの隠してるものの最低さとそっくりだ
なあなあになった関係を木曜日の語源の強化質してしまう私が悲しいのがそのベイビイが1人いるからではなくその1匹か下の方を向いて死んだ人ばかりのことを考えて挙句の果てにはそれを私の内面に投げ込もうとしてくるからだった私はまるで小さなまるで小さな子供のように。描いてキスをしたキスをするのが楽しいでもキスの地が楽しくない日の月は本当はその3歳の女の子にギターを教えたきたーを教えられた女の子はとても素直にピアノを演奏したそのピアノは黒犬と発見の間にある黄緑色の生生物を叩いて音を鳴らすという技法だったそこにあるのは人と人との関係ではなく人と物質以外の扉を鏡合わせにしてその中にしか生まれない精霊たちとの関係だった
スーサイドという2人組のバンドの株取得性にはあきれる。そのあとにでてきたファうすと彼らは何か陰険なところがあったからレッドクレイオラには勝てなかっでも私はクレイ俺が好みではなかっただからそれに対抗するための措置として由美さんの描いた小さな歌という歌を持ってきた、小さいものは無限に増殖して私の肺の中にピシリとこびりついたそれはまるでフジツボのようで私は鳥肌が立った私の受かった鳥肌の中からさらに鳥肌が立ってその鳥肌の中にもう一つ鳥肌が立ってそこにもどんどん小さな世界というものが立ち現れて私は仕方なく鏡をたくさん集めてそれでとりはだを焼いた焼いた鳥肌は黒い塊となって私に言葉を何か話しかけた、鳥肌は優しい声をしてきた鳥肌の言うことにはあなたのバンドは雨の日にしかはやらない、磨きなさい服の袖を、、、とりつかいだった男に処分させた
野口悪い、顔が悪い透明感がない彼は透明感もない、彼には透明感もないし透明感にもない、背広着ているとしてもその透き通る身体は混入物で埋もれている電導率がとても悪い熱伝導もとても悪い、悪いことずくめだけれどあきらめないできっといいことあるからさ私が保証するからさあなんにもないかもしれないけれどきっと春がある南南南30と言う名前の蝉が飛んできてお前の顔と口とはりつきそこには一体全体どうしていいのかわからないような空間ができあがったあとは鼻からお前のからだを侵略し矢が脳にまでいたり、のっとり、お前の不幸を請け負ってくれる
佃煮をはまぐりと結婚させようそして私はドラマチックという概念と逢い引きしようかやの中で密接に体を捻じ込ませてそれはからみあうというよりほとんどもう無理矢理ねじこんでいくという感じだった辛かったいたかった目が見えなかったオシラサマと言う人形で2人でおままごとした妻は娘を嫌った息子は姑を嫌った姑は親戚のおじさんに逃げた走った俺は空でぬけぬけと洗った
2012年10月13日土曜日
インド
小説
友達に出版関係の人がいるので、時折本を横流ししてくれることがある。特に落葉書房という出版社が素晴らしい。僕は卒論を書いているのだが、時折引用させてもらう本がある。それとは別に、アルフォンソ・リンギスという人がおり、その人の本はいつも、楽しく読ませていただいている。リンギスは現象学者の諸本を英語に訳しているアメリカ人だ。本も書く。『汝の敵を愛せ』という本は、原題ではデンジャラス・エモーションと言うそうなのだが、そこでは、人間が本来持っている情動を見つめ、それを解放していると思われる諸文化を引用したり描写したりしている。このような本を読んでいると、本来の人間の気分というのはこういうものなのか、と、なんとなくそんな気にもなってきて興奮する。そうなると、僕も自然と自分の生き方を見直そうと思い、より自由に生きようと思う。ここでいう自由とは、なるべくここに書かれているような本来的とされる情動を肯定し、その情動を削がないようにしようということだ。とりあえずそう思うことにして、一年間戦い続けていた。南が三回生の時である。
今は先を急ごう。問題は山積みである。目の前のがれきを一つ一つ片付けて行くことしかできないし、それぐらいしか、発想として、ない。南が三回生のとき、つまり、大学に入り三年目ということだが、三回生の秋ごろ、さくらこからメールが来た。さくらこはしばらくアメリカに留学にいっており、そうでなくとも、メールはしない。電話はした。味の素に就職したいらしい。ご飯が食えるからだそうだ。もう、それぐらいしか覚えていない。私は、これから南がさくらこと食事をすることをこの小説に書こうか、と思ったけれど、やめることにする。私は嘘をつきたくはない。それにそんなことを書いた暁には、谷内君という、私の友達をはじめ、様々な人にバカにされることになる。そんなことは避けたい。もうこれ以上、感情に支配されることはやめよう。メールも、実際はメールアドレスを替えたことを知らせるメールだったのだ。本当に何もない。ああ、懐かしいな、さくらこからメールアドレスを替えた事を知らせるメールだ、と思いながら、僕は学食で、豚汁をすすることにした。学食の豚汁はおいしい。豚汁だけがおいしい。モロヘイヤも基本的に好きだから、五回に一回は、モロヘイヤの小鉢を撮ることにしている。あとの四回は、きんぴらごぼうであるとか、ほうれん草であるとか、小鉢の豊富なメニューをとることにしているが、あくまで、おまけな気がする。そんなに量もない。そのために、豚汁をメインにご飯をかき込む。秋は常に風邪気味で、喉が痛くなるが、豚汁をすすっていると、癒える気がする。お茶でもいい。お茶をすすっていると、佐々木さんから、メールが届いた。奥知さんがアメリカに留学していたのは前から知っていたので、ああ、帰って来たのだな、と思い、会おうと思った。会ってくれた。図書館の前で待ち合わせをすることになった。モスバーガーに行くことになった。
「俺、中山と、おいしいものを食いに行こう、と思ってさ、モスバーガーにいったんだよね。らりりながら。何かを吸いながらモスバーガーを食べると、めっちゃうまいのよ。それは、もう、モスバーガーなんかでいいの。もちろん貝とか食べると、すっごくおいしいよ。中山が全部作ってくれるの。一流の食材で。それで吸いながらそういうのを食べていると、もう、うますぎて、笑いが止まらなくなるのね。もちろんモスバーガーでも可。カンズメのさんまとか、僕の家にはあったけれど、中山はそういうのには手を出さなかったな。食品添加物がある、とかなんとかで。中山ってのはそういううところがあるので、例えば、結婚式あるじゃん。結婚式の引き出物にスルメが出たの。やったースルメじゃん!って思うじゃん?うまいじゃん?子供の時食べなかった?50円のやつ。あればっかり食べてた気がする。でも、中山は食べなかった。普通に焼いてるだけの色だったから、別になんもないじゃん、と思ったけれど、どうも原材料みたら、あったんだよね、着色料。おそろしいよね!うん、そういう人がいるの。でさ、モスバーガーなんだけど、受付いったら、もう、笑いが止まらなくなっちゃって、絶対ホモカップルだと思われてたねー。」
「ハハハ」
「アメリカどうだった?」
「アメリカはいいんだけどさ、そんな遠い話しても、面白くないよ。」
「そうかもね。」
「a市の話しない?」
「はあ。」
「a市に行ってたの?」
「そんな時もある。」
「東京とか離脱して、どこか行きたい気はするね。」
「まぁ、分かってるんだけど。」
「a市はとりあえず人が満足して生きているみたいだけど。有機的だし。草木生い茂る国。」
「ゾッとするね。」
「ハハハ」
「それでね、何も考えてないの。みんなヤリまくり。」
「いいじゃんいいじゃん、本来的じゃん。(笑)…ってかさ、a市のどんなところ見に行ってたのさー。」
「本来的?」
「素直でいいじゃん。」
「まあね。欲望持つのは美しいし、欲望に素直なのは、なお美しいよね。…。例えばそういう風潮があるとして、その中で欲望を否定して、もっと社会的に生きようよ!とか、責任もって生きようよ!とか言ったりすると、なんだか、こっちが醜く見えてきたり、ひがんでるような気がしない?」
「それはその界隈が悪いんじゃないの。」
「はあ。」
「どこまでも果てることのないレース…。まぁいつか果てるんだけど。(笑)」
「そんなゲーム降りたい。(笑)私もやって来たんだけど。」
「なんだー。」
「いいじゃん、本来的で。」
「そう、まさしく本来的!ビッチも流行ってるしねー。」
近年では、書店にビッチ論がぽつぽつと出始めている。今年の八月には、『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(松谷創一郎・原書房)が上梓された。また、野田努は『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』(河出書房新社)という本の編集に関わっている。戸川純は、大友良英のジャズアンサンブルに参加し、phewに「諦念プシガンガ」という曲を歌うことを許可している。「諦念プシガンガ」は、このような歌詞である。
「すごい!不良じゃん!」
「それは違う。でも金属アレルギーだったからすごいことになっちゃった。気づかなかったなー…。」なんとなく金原ひとみを思い出した。正月になり、実家に帰ると、いつも金原ひとみをブックオフで、100円ぐらいで売っているので、買い、読む。だから、なんとなく覚えているのである。
「金原ひとみみたいじゃん!『蛇にピアス』とか、そんな世界?いや、案外『アミービック』的なのかもなー。かっこいい!」
「違う。」
「別に何もない。私は特に錯綜などしていない。めちゃくちゃな事ばっかりしてると思うよ?それで人に迷惑をかけてるのかもしれない。それで自信をなくす事だって多々ある。でもいいじゃん。そんなのことはどうでもいいの。私は、これからも生きて行かなくちゃ行けないんだから。」
というような事を関西弁で言った。
友達に出版関係の人がいるので、時折本を横流ししてくれることがある。特に落葉書房という出版社が素晴らしい。僕は卒論を書いているのだが、時折引用させてもらう本がある。それとは別に、アルフォンソ・リンギスという人がおり、その人の本はいつも、楽しく読ませていただいている。リンギスは現象学者の諸本を英語に訳しているアメリカ人だ。本も書く。『汝の敵を愛せ』という本は、原題ではデンジャラス・エモーションと言うそうなのだが、そこでは、人間が本来持っている情動を見つめ、それを解放していると思われる諸文化を引用したり描写したりしている。このような本を読んでいると、本来の人間の気分というのはこういうものなのか、と、なんとなくそんな気にもなってきて興奮する。そうなると、僕も自然と自分の生き方を見直そうと思い、より自由に生きようと思う。ここでいう自由とは、なるべくここに書かれているような本来的とされる情動を肯定し、その情動を削がないようにしようということだ。とりあえずそう思うことにして、一年間戦い続けていた。南が三回生の時である。
今は先を急ごう。問題は山積みである。目の前のがれきを一つ一つ片付けて行くことしかできないし、それぐらいしか、発想として、ない。南が三回生のとき、つまり、大学に入り三年目ということだが、三回生の秋ごろ、さくらこからメールが来た。さくらこはしばらくアメリカに留学にいっており、そうでなくとも、メールはしない。電話はした。味の素に就職したいらしい。ご飯が食えるからだそうだ。もう、それぐらいしか覚えていない。私は、これから南がさくらこと食事をすることをこの小説に書こうか、と思ったけれど、やめることにする。私は嘘をつきたくはない。それにそんなことを書いた暁には、谷内君という、私の友達をはじめ、様々な人にバカにされることになる。そんなことは避けたい。もうこれ以上、感情に支配されることはやめよう。メールも、実際はメールアドレスを替えたことを知らせるメールだったのだ。本当に何もない。ああ、懐かしいな、さくらこからメールアドレスを替えた事を知らせるメールだ、と思いながら、僕は学食で、豚汁をすすることにした。学食の豚汁はおいしい。豚汁だけがおいしい。モロヘイヤも基本的に好きだから、五回に一回は、モロヘイヤの小鉢を撮ることにしている。あとの四回は、きんぴらごぼうであるとか、ほうれん草であるとか、小鉢の豊富なメニューをとることにしているが、あくまで、おまけな気がする。そんなに量もない。そのために、豚汁をメインにご飯をかき込む。秋は常に風邪気味で、喉が痛くなるが、豚汁をすすっていると、癒える気がする。お茶でもいい。お茶をすすっていると、佐々木さんから、メールが届いた。奥知さんがアメリカに留学していたのは前から知っていたので、ああ、帰って来たのだな、と思い、会おうと思った。会ってくれた。図書館の前で待ち合わせをすることになった。モスバーガーに行くことになった。
「俺、中山と、おいしいものを食いに行こう、と思ってさ、モスバーガーにいったんだよね。らりりながら。何かを吸いながらモスバーガーを食べると、めっちゃうまいのよ。それは、もう、モスバーガーなんかでいいの。もちろん貝とか食べると、すっごくおいしいよ。中山が全部作ってくれるの。一流の食材で。それで吸いながらそういうのを食べていると、もう、うますぎて、笑いが止まらなくなるのね。もちろんモスバーガーでも可。カンズメのさんまとか、僕の家にはあったけれど、中山はそういうのには手を出さなかったな。食品添加物がある、とかなんとかで。中山ってのはそういううところがあるので、例えば、結婚式あるじゃん。結婚式の引き出物にスルメが出たの。やったースルメじゃん!って思うじゃん?うまいじゃん?子供の時食べなかった?50円のやつ。あればっかり食べてた気がする。でも、中山は食べなかった。普通に焼いてるだけの色だったから、別になんもないじゃん、と思ったけれど、どうも原材料みたら、あったんだよね、着色料。おそろしいよね!うん、そういう人がいるの。でさ、モスバーガーなんだけど、受付いったら、もう、笑いが止まらなくなっちゃって、絶対ホモカップルだと思われてたねー。」
「ハハハ」
「アメリカどうだった?」
「アメリカはいいんだけどさ、そんな遠い話しても、面白くないよ。」
「そうかもね。」
「a市の話しない?」
「はあ。」
「a市に行ってたの?」
「そんな時もある。」
「東京とか離脱して、どこか行きたい気はするね。」
「まぁ、分かってるんだけど。」
「a市はとりあえず人が満足して生きているみたいだけど。有機的だし。草木生い茂る国。」
「ゾッとするね。」
「ハハハ」
「それでね、何も考えてないの。みんなヤリまくり。」
「いいじゃんいいじゃん、本来的じゃん。(笑)…ってかさ、a市のどんなところ見に行ってたのさー。」
「本来的?」
「素直でいいじゃん。」
「まあね。欲望持つのは美しいし、欲望に素直なのは、なお美しいよね。…。例えばそういう風潮があるとして、その中で欲望を否定して、もっと社会的に生きようよ!とか、責任もって生きようよ!とか言ったりすると、なんだか、こっちが醜く見えてきたり、ひがんでるような気がしない?」
「それはその界隈が悪いんじゃないの。」
「はあ。」
「どこまでも果てることのないレース…。まぁいつか果てるんだけど。(笑)」
「そんなゲーム降りたい。(笑)私もやって来たんだけど。」
「なんだー。」
「いいじゃん、本来的で。」
「そう、まさしく本来的!ビッチも流行ってるしねー。」
近年では、書店にビッチ論がぽつぽつと出始めている。今年の八月には、『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(松谷創一郎・原書房)が上梓された。また、野田努は『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』(河出書房新社)という本の編集に関わっている。戸川純は、大友良英のジャズアンサンブルに参加し、phewに「諦念プシガンガ」という曲を歌うことを許可している。「諦念プシガンガ」は、このような歌詞である。
空の彼方に浮かぶは雲
嗚呼我が恋愛の名において
その暴虐の仕打ちさえ
もはやただ甘んじて許す
牛のように豚のように殺してもいい大体このような歌詞であり、大友良英のユニットではphewが歌っている音源を聞く事ができる。 純はphewをリスペクトしているようで、それは戸川純の書いたアーントサリー(phewが昔やっていたバンド)を見ていても分かる。phewはビッチという感じはしない。戸川純はより身体性があったり、危うかったりするので、退屈を埋めようとする多くの人がファンになることがあり、そのファンは少し特徴的な性格を持っているようである。それはそれとして、近頃戸川純を聞き直している。とてもいい。恋をしたからかしら。恋はいい。もうそれぐらいしかすることがないような気がする。そんな気もする。少し前に、『ヘルタースケルター』という映画を見に行ったことがある。まるで戦間期のドイツの、表現主義的な映画、例えばカリガリ博士みたいなの、をまるまるギャル的な装飾にして、満たした映画で、あれはセットや小道具が一番すごい。金もかかっている。やはり私たちは、金やセックスを回し回しして生活していくしかないのだろうか……(絶望)と思って映画館を出ると、偶然一緒に見ていた吉村さんが、「主人公の女の人が水に沈み行く場面で戸川純が流れてたね!」と言ったらものすごい勢いで雨が降って来た。ここで雨宿りをしようよ!と手を引っ張りなんかヨーロッパでブランド展開してそうな雑貨屋さんに入るけれど、全くやみそうにない。「私、耳にピアスしていたの。片耳に、五つ!」
いいのよ我一塊の肉塊なり
「すごい!不良じゃん!」
「それは違う。でも金属アレルギーだったからすごいことになっちゃった。気づかなかったなー…。」なんとなく金原ひとみを思い出した。正月になり、実家に帰ると、いつも金原ひとみをブックオフで、100円ぐらいで売っているので、買い、読む。だから、なんとなく覚えているのである。
「金原ひとみみたいじゃん!『蛇にピアス』とか、そんな世界?いや、案外『アミービック』的なのかもなー。かっこいい!」
「違う。」
「別に何もない。私は特に錯綜などしていない。めちゃくちゃな事ばっかりしてると思うよ?それで人に迷惑をかけてるのかもしれない。それで自信をなくす事だって多々ある。でもいいじゃん。そんなのことはどうでもいいの。私は、これからも生きて行かなくちゃ行けないんだから。」
というような事を関西弁で言った。
2012年8月26日日曜日
ぼん
翌日、遠い町に住んでいる友人が、わざわざ僕の住んでいる町まで来てくれるので、お迎いに行った。そのついでに静岡県の藤枝市に立ち寄った。駅は大きく、周りの建物は大きかったので、都会だ、とびっくりしたのだけれど、蓮花寺池公園あたりまでバスに乗ると、そうでもない。小中学生が入り浸りそうな小さなお好み焼き屋さんがある。マンガなんかにでてきてもおかしくない。こういうのが残っているというのが、偉い。住みやすい。
僕たちは、ある人の墓参りをすることにしたのだった。ちょうど通り道にその人の墓があっただけだ。他意はない。ただ、よく小説などで話題になる墓だったので、愛着はある。西村賢太のように、人の墓を自宅に持って帰る、というレベルではない。ただ、やっぱり、愛着はある。頭を丸めたTシャツのおっさんに墓の場所を聞いて、墓を訪ねた。勝見家之墓、と書いてあったはずだ。真っ黒でつやつやしていた。だけれど、お花がカラカラに乾いていた。お盆なのに、と思い、野花を道で見つけて、献花した。お花屋さんがなかったのである。
藤枝静男の小説には、自分の持つ抑えることの出来ない性欲、そして家族の大半が苦しみ死んでいった結核に対する気持ちがコアにある、と言われることが多いように思う。現実は、彼を観念的な意見から遠ざけた。「私小説」だけが残った。そんな人であるから、野花を根こそぎ持っていってお供えしても、喜んでくれる。墓にバケツの水をかけて、合掌した。野花の根っこは、朝鮮人参のようにたくましかった、ささやかな花、かわいい花。
僕たちは、ある人の墓参りをすることにしたのだった。ちょうど通り道にその人の墓があっただけだ。他意はない。ただ、よく小説などで話題になる墓だったので、愛着はある。西村賢太のように、人の墓を自宅に持って帰る、というレベルではない。ただ、やっぱり、愛着はある。頭を丸めたTシャツのおっさんに墓の場所を聞いて、墓を訪ねた。勝見家之墓、と書いてあったはずだ。真っ黒でつやつやしていた。だけれど、お花がカラカラに乾いていた。お盆なのに、と思い、野花を道で見つけて、献花した。お花屋さんがなかったのである。
藤枝静男の小説には、自分の持つ抑えることの出来ない性欲、そして家族の大半が苦しみ死んでいった結核に対する気持ちがコアにある、と言われることが多いように思う。現実は、彼を観念的な意見から遠ざけた。「私小説」だけが残った。そんな人であるから、野花を根こそぎ持っていってお供えしても、喜んでくれる。墓にバケツの水をかけて、合掌した。野花の根っこは、朝鮮人参のようにたくましかった、ささやかな花、かわいい花。
2012年8月18日土曜日
アーカイブ魔
8・14
みなさんキャンプに行ったようですね!雨降ってるけど、楽しんできてください!昨日とおとついの分の日記を書く。
夜になると、谷内くんから連絡が来る。谷内くんは今、バンド「ガセネタ」や「タコ」などでも活躍した批評家の大里俊晴の弟子のワタナベミホの下でバイトをしている男の子である。彼は歌も歌う。少し前に引用した、「化粧」、「霧」という歌を作った人である。僕はそれをオマージュした文章を書いてみたけれど、あまりうまくいかなかったので消したいが、もう遅い。それに僕はアーカイブ魔なので、そういうのもとっておいて思い出にしたい、どうせ死んだら全部一緒で、
全部おもしろいんだ、と思っていると、パソコンが壊れて、僕が高円寺で急性アル中になってフラフラになり、くたばったり吐いたりしたり救急車に乗っている時に友達(=2くん)が撮ってくれた50枚ぐらいのポートレートや、教習所の合宿が辛すぎて、やけになって撮ってくれた写真がすべて消えてしまって、悲しい。この写真を撮ってくれたのも、2くんだ。2くんのお父さん!どちらかというと、僕は2くんのせいで、ボンクラみたいなチンピラになったのですよ!ところで、谷内くんも、少し頭がおかしくて、頭脳破壊してくれて、取り返しがつかない。
谷内くんの歌は、総合すると僕はどうやら山本精一の次によく聞いているようだ。今一番聞いている人は高橋悠治という人だ。聞いてあげてください。谷内君の歌は、売れないかなぁ。テツオさんとフリージャズレコードを作ったら、谷内くんの歌の全集を作りたいぐらいなのだけれど、買ってくれますかね?とりあえず、普通に東京にあるという、エンバンとかに持っていったら、いいのかな?もし、フリージャズレコードを作って、何か谷内くんのアルバムを作ったとしたら、東京から京都へ、
招聘しなくてはいけないのかな。でも彼はシャイだからなぁ…。jandekみたいに、半分覆面みたいにしても、いいと思うけれど。少しおかしい、と書いたけれど、それは言葉のあやで、彼はだいぶおかしい。欲望の前提が、少しおかしい。少しおかしい、と書いたけれど、だいぶおかしい。彼のおかげで、僕は、よけいな欲望や意思を、抱え込まずにすんだ、という面はあるが、それは僕には欲望の前提がおかしい、ということではなくて、僕は誰よりも普通に、自然に欲望を持っている、と思っている。というか、こんなに谷内くんのことを書いていいのかな…?まぁ、中身がないからいいか。谷内くんと徹夜で会話をしたけれど、すべて忘れてしまった。徹夜で大富豪をした。それは谷内くんが指示した。
8・16
いつもお世話になっている、OLの女の子の住んでいるマンションには、屋上がある。私たちが住んでいる町は、京都市であるので、八月十六日には、送り火がある。その屋上には、大文字、妙、法、船、左大文字、が見え、鳥居だけが見えない。よくこの屋上で、月一でバーベキューをするのだけれど、送り火を見るのにこれほど立地のいい場所というのはない。バーベキューに誘われた。約束の時間に部屋に行くと、OLの女の子と、あーちゃんだけがいた。あーちゃんというのは、和歌山出身の、今東京に在住しており、ライブハウスで裸の女の子を登場させた横でつくねを売って、それが意外と本当にお金になってびっくりした、と言っていた、東京では黒人しか友達がいない、ヤバい男の子のあーちゃんではなくて、女の子である。みかんのかんずめを凍らして作ったデザートを振る舞ってくれた。
「アカネイロヒキ」というバンドのドラムをしているコウジロウさんが、わざわざ京都の台所である、錦市場まで、バーベキューをする場所まで、御所を越え三キロぐらいはあるところをおつかいに行ってきてくれたらしいが、お目当てのサザエはなかったらしい。サザエは何かの貝がねじれて、そのDNA構造が伝達されて、今、存在している生物らしい。詳しいことはわからない。抱きしめたが、汗まみれだったので、汗まみれだなぁ、と思って抱いていると、汗まみれだったので、汗まみれだなぁ、と思いながら抱いていることを悟られたのだろうか、汗まみれでしょ、と言ってくれた。確かに、汗をかいているようだった。
たくさんみなさんが集まって来て、みんなでビールを飲んでいると、「ボックスホール」というライブハウスで働いている、東京の大学に在籍していた関東人であるのにわざわざ京都に来てライブハウスのブッキングや企画などをして活躍しているおのまんさんがいらっしゃった。おのまん、というのは、本名らしい。びっくりした。おのまんさんはどこかで見たことのあるような女の子を連れてきたと思ったら、長尾蕗子さんという、僕が昔、ミニマルノイズパンクバンドでギターを弾いていた時、
対バンをした女の子だったようだ。それは、僕が昔、ミニマルノイズパンクバンドの一員だった時だったので、二年ほど前の話だ。またこうして出会うとは思わなかった。僕が彼女の弾き語りを見て、「祈りがある」と僭越ながら、言ったことがあり、そのことをとても大事にしてくださっていたようだ。確かに、そのようなことを、言ったことを覚えている。ライブを見に行く約束をする。バンドやっているんです!ギターで参加してくださいよ!わめいているのも良かったです!
なんておっしゃる。マジで!?あの悪名高いあの僕のノイズギターを?嬉しい。僕のギターはキレキレだったので、神戸のライブハウスでしか、評価されなかった。京都の人は軒並み、あれは悪ったな、と言う。そういう時は、あれは僕も勘違いしてたんすわ〜、と答えるようにしていて、実際その節はあるのだけれど、あながち勘違いではないのだろうか。いや、勘違いだろうな。吉田寮の祭りの時、山梨出身の元カノ(モモコさん)を呼び、ワンダー3というバンドでキーボードとオシュレーターをしたことがあるが、
最後のオシュレーターソロで、痙攣しながらノイズを出していたら、モモコさんは引きまくって、それから二度とライブに来てくれなかったが、そのモモコさんと一緒に来ていた女の子は評価してくれて、CDを買ってくれた。芦屋に住んでいるクラフトワーク好きの女の子で、名前は確かホウさんと言った。長尾さんはどうやら大阪でも活躍しているようである。OLの女の子は変な果物を長尾さんにお土産として渡して、「ぶつけたら酸っぱくなるから、絶対にぶつけたらダメだよ!」と言っていた。おのまんと自転車を二人乗りをして川辺を走り帰っていった、って、今は条例があるから、こういうことを書いては、まずいのか。まぁ、いいか。日記じゃないし。
たくさん食べて、何も入らなくなった。トントロはおいしい。ほたてもうまい。なにもかもうまい。そういう調子で食べていると、何も入らなくなって、苦しい。あのさぁ、おいしい、ということのために、何か語彙をもって話さないといけないのですかね?気が利かないとかなんとか、言ってますが、そんなことのための頭の良さなら、僕はいらないです!と、二ヶ月前ぐらいのことを今書いていて思い出して良くない。こんなに食べたのは、ビアホール以来であるが、「エンパイアめだか」というバンドの主宰であるエンペラーさんは、まだ市販の唐揚げを食べるそうだ。すごい。そこでエンペラーは、
「唐揚げはお酒にも合うし、ご飯も食べれるし、万能だよね!すごい発明だよ!」
「ハハハハハハ!」
こういう会話をした。OLの女の子のタイに行ったときの写真や、友達の結婚式の時の写真や、大学の卒業式の時の写真や、成人式の時の写真を見させてもらう。あまり変わっていない。京都のバンド界隈の人というのはみんな若くて、みんな僕と同い年みたいに見える。さすがに成人式の時の写真は、ちょっと違った。そういうことを言うと、喜んでいた。四時ぐらいまで居着いた。半身浴をして寝た。
8•17
なんかものすごく寝てしまって、気づけば夕方。これはやばいなぁ。何か食べにいこうと思い、外に出ると、テツオさんと源さんに出会い、そのままつきなみに行く。つきなみは、アレクサンダースやヤングマイルドチャイニーズで活躍されている昆布さんがやっている喫茶店です。今日の昆布さんは取っ付きやすくて、よかった。ご飯ものをしばらく自粛している、というので、コンビニで焼き肉弁当を食べる。何も食べていなかったのだ。源さんは今日は特に調子がいい。雷が鳴りだした。雨が降られると、困る。テツオさんと元田中のうどん屋で飲んでいたそうだ。そのうどん屋なら、僕はある人と何回か行ったことがある。なので、安くておいしい店だな、ビビンバうどんがあるんだな、という風な話も、僕は分かる。あそこにソバがあるということや、店主がおやじロックフェスティバルで関西地区一位通過であるということは、知らなかった。「おやじロックフェスティバル」というフェスの名前は、もしかしたら違うかもしれない。
八時ごろになると、林拓さんと鴨川でセッションをする。最近「ユリシーズ」というアシッドフォーク?の雑誌や、ガケ書房などで取り上げられていて、話題沸騰しているような気がする。ケイブンシャという京都ではわりかし有名で東京の人までその名前を知っている人がいて困るが、本屋である。その本屋の近くの町内会の掲示板に林拓さんのポスターが張ってあって、なんだか風景が違う。僕は誇らしい。名古屋の「ブラジルコーヒー」という喫茶店で、僕はアレクサンダースに混じってハーモニカやドラを演奏した。一緒に呼ばれた林拓さんが、どうやらその僕の演奏を気に入ってくれたみたいで、セッションをすることになった。どうやらそのときの動画があがっているみたいで、形になって嬉しい。
雷が鳴っていたこともあり、セッションは叙事詩の中みたいだった。なんかこのようなことをどこかで書いたような気がするが、どうやらツイッターでそのようなことをつぶやいていたみたい。大澤信亮(おおさわのぶあき)は、著書『神的批評』に於いて、柳田國男という人を論じる程で、歌についてこう述べている。
みなさんキャンプに行ったようですね!雨降ってるけど、楽しんできてください!昨日とおとついの分の日記を書く。
夜になると、谷内くんから連絡が来る。谷内くんは今、バンド「ガセネタ」や「タコ」などでも活躍した批評家の大里俊晴の弟子のワタナベミホの下でバイトをしている男の子である。彼は歌も歌う。少し前に引用した、「化粧」、「霧」という歌を作った人である。僕はそれをオマージュした文章を書いてみたけれど、あまりうまくいかなかったので消したいが、もう遅い。それに僕はアーカイブ魔なので、そういうのもとっておいて思い出にしたい、どうせ死んだら全部一緒で、
全部おもしろいんだ、と思っていると、パソコンが壊れて、僕が高円寺で急性アル中になってフラフラになり、くたばったり吐いたりしたり救急車に乗っている時に友達(=2くん)が撮ってくれた50枚ぐらいのポートレートや、教習所の合宿が辛すぎて、やけになって撮ってくれた写真がすべて消えてしまって、悲しい。この写真を撮ってくれたのも、2くんだ。2くんのお父さん!どちらかというと、僕は2くんのせいで、ボンクラみたいなチンピラになったのですよ!ところで、谷内くんも、少し頭がおかしくて、頭脳破壊してくれて、取り返しがつかない。
谷内くんの歌は、総合すると僕はどうやら山本精一の次によく聞いているようだ。今一番聞いている人は高橋悠治という人だ。聞いてあげてください。谷内君の歌は、売れないかなぁ。テツオさんとフリージャズレコードを作ったら、谷内くんの歌の全集を作りたいぐらいなのだけれど、買ってくれますかね?とりあえず、普通に東京にあるという、エンバンとかに持っていったら、いいのかな?もし、フリージャズレコードを作って、何か谷内くんのアルバムを作ったとしたら、東京から京都へ、
招聘しなくてはいけないのかな。でも彼はシャイだからなぁ…。jandekみたいに、半分覆面みたいにしても、いいと思うけれど。少しおかしい、と書いたけれど、それは言葉のあやで、彼はだいぶおかしい。欲望の前提が、少しおかしい。少しおかしい、と書いたけれど、だいぶおかしい。彼のおかげで、僕は、よけいな欲望や意思を、抱え込まずにすんだ、という面はあるが、それは僕には欲望の前提がおかしい、ということではなくて、僕は誰よりも普通に、自然に欲望を持っている、と思っている。というか、こんなに谷内くんのことを書いていいのかな…?まぁ、中身がないからいいか。谷内くんと徹夜で会話をしたけれど、すべて忘れてしまった。徹夜で大富豪をした。それは谷内くんが指示した。
8・16
いつもお世話になっている、OLの女の子の住んでいるマンションには、屋上がある。私たちが住んでいる町は、京都市であるので、八月十六日には、送り火がある。その屋上には、大文字、妙、法、船、左大文字、が見え、鳥居だけが見えない。よくこの屋上で、月一でバーベキューをするのだけれど、送り火を見るのにこれほど立地のいい場所というのはない。バーベキューに誘われた。約束の時間に部屋に行くと、OLの女の子と、あーちゃんだけがいた。あーちゃんというのは、和歌山出身の、今東京に在住しており、ライブハウスで裸の女の子を登場させた横でつくねを売って、それが意外と本当にお金になってびっくりした、と言っていた、東京では黒人しか友達がいない、ヤバい男の子のあーちゃんではなくて、女の子である。みかんのかんずめを凍らして作ったデザートを振る舞ってくれた。
「アカネイロヒキ」というバンドのドラムをしているコウジロウさんが、わざわざ京都の台所である、錦市場まで、バーベキューをする場所まで、御所を越え三キロぐらいはあるところをおつかいに行ってきてくれたらしいが、お目当てのサザエはなかったらしい。サザエは何かの貝がねじれて、そのDNA構造が伝達されて、今、存在している生物らしい。詳しいことはわからない。抱きしめたが、汗まみれだったので、汗まみれだなぁ、と思って抱いていると、汗まみれだったので、汗まみれだなぁ、と思いながら抱いていることを悟られたのだろうか、汗まみれでしょ、と言ってくれた。確かに、汗をかいているようだった。
たくさんみなさんが集まって来て、みんなでビールを飲んでいると、「ボックスホール」というライブハウスで働いている、東京の大学に在籍していた関東人であるのにわざわざ京都に来てライブハウスのブッキングや企画などをして活躍しているおのまんさんがいらっしゃった。おのまん、というのは、本名らしい。びっくりした。おのまんさんはどこかで見たことのあるような女の子を連れてきたと思ったら、長尾蕗子さんという、僕が昔、ミニマルノイズパンクバンドでギターを弾いていた時、
対バンをした女の子だったようだ。それは、僕が昔、ミニマルノイズパンクバンドの一員だった時だったので、二年ほど前の話だ。またこうして出会うとは思わなかった。僕が彼女の弾き語りを見て、「祈りがある」と僭越ながら、言ったことがあり、そのことをとても大事にしてくださっていたようだ。確かに、そのようなことを、言ったことを覚えている。ライブを見に行く約束をする。バンドやっているんです!ギターで参加してくださいよ!わめいているのも良かったです!
なんておっしゃる。マジで!?あの悪名高いあの僕のノイズギターを?嬉しい。僕のギターはキレキレだったので、神戸のライブハウスでしか、評価されなかった。京都の人は軒並み、あれは悪ったな、と言う。そういう時は、あれは僕も勘違いしてたんすわ〜、と答えるようにしていて、実際その節はあるのだけれど、あながち勘違いではないのだろうか。いや、勘違いだろうな。吉田寮の祭りの時、山梨出身の元カノ(モモコさん)を呼び、ワンダー3というバンドでキーボードとオシュレーターをしたことがあるが、
最後のオシュレーターソロで、痙攣しながらノイズを出していたら、モモコさんは引きまくって、それから二度とライブに来てくれなかったが、そのモモコさんと一緒に来ていた女の子は評価してくれて、CDを買ってくれた。芦屋に住んでいるクラフトワーク好きの女の子で、名前は確かホウさんと言った。長尾さんはどうやら大阪でも活躍しているようである。OLの女の子は変な果物を長尾さんにお土産として渡して、「ぶつけたら酸っぱくなるから、絶対にぶつけたらダメだよ!」と言っていた。おのまんと自転車を二人乗りをして川辺を走り帰っていった、って、今は条例があるから、こういうことを書いては、まずいのか。まぁ、いいか。日記じゃないし。
たくさん食べて、何も入らなくなった。トントロはおいしい。ほたてもうまい。なにもかもうまい。そういう調子で食べていると、何も入らなくなって、苦しい。あのさぁ、おいしい、ということのために、何か語彙をもって話さないといけないのですかね?気が利かないとかなんとか、言ってますが、そんなことのための頭の良さなら、僕はいらないです!と、二ヶ月前ぐらいのことを今書いていて思い出して良くない。こんなに食べたのは、ビアホール以来であるが、「エンパイアめだか」というバンドの主宰であるエンペラーさんは、まだ市販の唐揚げを食べるそうだ。すごい。そこでエンペラーは、
「唐揚げはお酒にも合うし、ご飯も食べれるし、万能だよね!すごい発明だよ!」
「ハハハハハハ!」
こういう会話をした。OLの女の子のタイに行ったときの写真や、友達の結婚式の時の写真や、大学の卒業式の時の写真や、成人式の時の写真を見させてもらう。あまり変わっていない。京都のバンド界隈の人というのはみんな若くて、みんな僕と同い年みたいに見える。さすがに成人式の時の写真は、ちょっと違った。そういうことを言うと、喜んでいた。四時ぐらいまで居着いた。半身浴をして寝た。
8•17
なんかものすごく寝てしまって、気づけば夕方。これはやばいなぁ。何か食べにいこうと思い、外に出ると、テツオさんと源さんに出会い、そのままつきなみに行く。つきなみは、アレクサンダースやヤングマイルドチャイニーズで活躍されている昆布さんがやっている喫茶店です。今日の昆布さんは取っ付きやすくて、よかった。ご飯ものをしばらく自粛している、というので、コンビニで焼き肉弁当を食べる。何も食べていなかったのだ。源さんは今日は特に調子がいい。雷が鳴りだした。雨が降られると、困る。テツオさんと元田中のうどん屋で飲んでいたそうだ。そのうどん屋なら、僕はある人と何回か行ったことがある。なので、安くておいしい店だな、ビビンバうどんがあるんだな、という風な話も、僕は分かる。あそこにソバがあるということや、店主がおやじロックフェスティバルで関西地区一位通過であるということは、知らなかった。「おやじロックフェスティバル」というフェスの名前は、もしかしたら違うかもしれない。
八時ごろになると、林拓さんと鴨川でセッションをする。最近「ユリシーズ」というアシッドフォーク?の雑誌や、ガケ書房などで取り上げられていて、話題沸騰しているような気がする。ケイブンシャという京都ではわりかし有名で東京の人までその名前を知っている人がいて困るが、本屋である。その本屋の近くの町内会の掲示板に林拓さんのポスターが張ってあって、なんだか風景が違う。僕は誇らしい。名古屋の「ブラジルコーヒー」という喫茶店で、僕はアレクサンダースに混じってハーモニカやドラを演奏した。一緒に呼ばれた林拓さんが、どうやらその僕の演奏を気に入ってくれたみたいで、セッションをすることになった。どうやらそのときの動画があがっているみたいで、形になって嬉しい。
雷が鳴っていたこともあり、セッションは叙事詩の中みたいだった。なんかこのようなことをどこかで書いたような気がするが、どうやらツイッターでそのようなことをつぶやいていたみたい。大澤信亮(おおさわのぶあき)は、著書『神的批評』に於いて、柳田國男という人を論じる程で、歌についてこう述べている。
すでにあった歌は協働のなかで複雑化していく。そして声が生まれる。声を発せられる者が歌うのではない。逆だ。歌が先にある。いや複数の歌がある。それが協動作業の中で声へと一元化されていく。(略)たとえばルソーは、音声言語の誕生について、神が人間に話すことを教えたとか、神の摂理が人間同士を近づけたと言った。神かどうかは知らないが、家族的に歌われていただろう初期の人類の歌は、他者との出会いのなかで声へとかたちを変えた。より正確には「歌」と「声」に分かれた。しかし、かたちを変えたところで、私たちの情動を激しく揺さぶったり、安堵させたりする言葉の力は変わらない。歌は声に先立ち、歌の情緒性が、人への働きかけ(ex労働)を発達させた、と言っている。そしてそのような叙情性を秘めて出来た、言葉はどこへ向かうのか。
言葉は「私」のためにあるものでも「社会」のためにあるものでもない。ちっぽけで、どうやっても、お金も、楽しみも、人も、車窓の風景も、結局ほとんど何も所有できず捕われてしまっている「私」 が、生まれ変わるために必要な協働とは、何か。私が決して所有できないものに対して向かっていくのか。それが、「永遠」であったり、「大地」であったり、「普遍性」だったりするのではないのか。イスラームの神すなわちアッラーは、無数の贈り名があり、無数の属性があるが、それは「永遠」であったり、なんだったりする。まぁ全てなんだが。そういう圧倒的他者に対する想像力として、神という概念はもしかしたら、役に立つのかもしれない。神は私たちと共にある。まぁ、何を言ったって、圧倒的な「自然」や「現実」には、ちっぽけな私にはかなうはずかない。僕は何を言っているのだ?何となく、昆布さんが、「批評家の言ってること違うねん!林拓の歌にはもっと生活から出てきた歌っちゅうのがあんねん!」って言ってたことを思い出す。林拓さんのアルバムは『オデュッセイア』と言う。普段は林業や農業をしたりして働いており、子供がいる。歌ってのはとてもフランクで、神は別に神秘的なものでも何でもないのかもしれない。歌のことばかり考えていても、仕方がない。そんなことしなくても、生き方に、歌は勝手についてくる。流れるだけ。他者を所有しようとしても、所有できない。ただ、俺には歌しかない!だとか歌のために死ねる!だとか、歌のために何もかも捨てる!だとか言っていると、必死にもなれ、歌を量産するモチベーションにはなるかもしれないので、したければすればいい。だが、それは特に善であるわけでもないし、特別満ち足りる道である訳でもなければ、音楽をしている人の使命でもない。(坂口安吾は、おもしろいと思うけれど、人を頓死に向かわしているように見える。)そう思っているので、自然や生活に従いながらなんかすごい歌を歌う林拓さんには、勇気をもらうのだ!
神のためにある。それは「私」や「社会」による所有を超えて永遠に開かれている。(略)
しかしそれでも彼(注、柳田)の原理には限界があるのかもしれない。
なぜなら現実を覚醒させるためには「他者」が不可欠だからだ。
目の前の他者との協働 が、すでにそこにあった歌を「声」に変えた。
文字という他者との協働が、すでにそこにあった声を「言葉」に変えた。
資本という他者との協働が、すでにそこにあった話し言葉と書き言葉を一つの個体の内部に統合し、それによって一人の人間を近代的主体としての「私」へと変えた。
それでは、今ここにいる私が生まれ変わるための協働とは何か、他者とは何か。
我が青春は淪落だ、と僕が言った。然して、淪落とは、右のごときものである。即ち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家族とは相容れぬ。破滅か、然らずんばーー嗚呼、然し、破滅以外の何物が有り得るか!何物が有り得ても、恐らく満ち足りることが有り得ないのだ。(坂口安吾「青春論」)そんな青春は僕はいらない。だが、何かを量産するエンジンにはなるかもしれないので、そういう考えもありだとは思う。…。うわぁ、僕何か、ヤバいこと言ってない?
2012年8月14日火曜日
屯風
8•12
東京から来た友達を見送りに京都駅までついていく。京都駅で何か珍しモノを食べようと、オムライスを食べる。最近では、子供のときに避けていたものを食べるのが快感になりつつあり、こないだも、ハンバーグを作ったのだった。こころなしかぐしゃぐしゃで不格好になってしまったが…。おいしいんだけどな〜!ソースも作って、しかも豆腐ハンバーグなのだ。豆腐は偉大だ。僕の住んでいる町は、豆腐がおいしいことで有名であり、この半年で、いろんなものを食べさせてもらい、変に舌が肥えた僕は、カップラーメンのかわりに、豆腐一丁を食べることにしている。友達はヨーグルトストロベリーワッフルなるものを食べた。
友達がいなくなり、手持ち無沙汰になったので、テツオちゃんに電話をかける。ちょうど飲んでいたみたいだ。はっはーん。百万遍へ。百万遍には、牛丼屋の上に妙なビルがあり、そこは飲み屋でひしめき合っている。いいビルだ!そこの三階に、屯風という店がある。泡盛を飲んで、ベロベロになった昆布さんを、ここで見かけたことがある気がして、この店を思い出した。そうそう、島尾の『死の棘』の読書会していた店主の店だ!たどり着くと、日本文学を研究をしにハンガリーからやってきた大学院生であるジュジと、テツオさんのバンド「風の又サニー」においてチューバを吹いていらっしゃる柴田さんがちょうどついたところらしい。早く頼め、と言われて、
テツオさんと同じサケロックというものを試してみる。これがまたいいんですね〜!要するに日本酒のロックな訳なのだが、これが意外に合う!っていうか、サケロックって普通にバンドのみの存在なのだと思っていた。いますよね、サケロックってバンド!出てくる料理も一級品で、きゅうりのたたき、であるとか、おいしいのである。柴田さんが、西京漬を頼もう!と言うと、テツオさんは、西京漬は、世の中で一番おいしい料理だからな!とおっしゃる。果たして出てきたカレイの西京漬は、やはりおいしかった…。なんてったって、世界で一番おいしい料理だからな!とおっしゃる。サケロックがすすむのである。
酔いも回り、柴田さんにおもいっきり絡む。肩とか組んだりする。柴田さんはそういうのが割と好きだったみたいで、盛り上がる。テツオさんはそれを見て、バットグルーヴだ!とかなんとか。…なんだか僕の周りの人どんどんチンピラ化していないか!?柴田さんは吹奏楽部のコーチをすることもあり、よく女子校になんか言っちゃったりするみたいだが、そのあたりのいろいろな話を聞かせてもらう。話し合わん!とか。まぁそうだろうな〜。僕なんかおないでも怪しい。なんか見た顔がいるな、と思ったら、吉田の寮祭で会ったことがある
地質学の研究をしている島根県出身の男の子にテツオさんが絡まれている。この子は実は今事業を起こしたらしく、社長さんだ。社長さんが、社員さんを引き連れて飲みにきている、が、全然そんな風には見えない!寮祭のノリだ。ディープキスなどして盛り上がる。
8•13
ところで、牛丼を食べに自転車走ってきたけれど、子供が多いね!少子化なんか嘘なんじゃない?吉野家に行き、牛丼にネギ玉頼んで、食べてきました。寒い!空調機器過ぎじゃない?ガケ書房もついでによってみて、小島信夫の『小説家の日々』があったので、これから買ってこようかな。あそこらへんは、いい銭湯もあるしね!なんかすごくお金がないんだけども…。昨日そんなに飲んだのかな?
ところで、といえば、僕の論文の草稿を先生が読んでくださったのだけれど、「ところで」という接続詞は、こうこうこうなってこうなることが証明できる、という道筋をたどる論理的思考をしなければいけない、という論文に於いては説得力に欠ける、とおっしゃった。確かに突然な接続詞だと思う。突然なことしか起こらないが!
昨日カジさんから買った、保坂和志さんの『カフカ練習帳』をポロポロ拾い読みする。まさに、この本は、拾い読みするための本である。断片集だからね!こっそり拾い読みをするのが、好きなので、この本は本当に楽しい!『カフカ練習帳』と、ある人から借りた、リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』を交互に読む。その間に手紙も書く。
今日は楽しみにしていた、カレルさんと昆布さんの弾き語り対決が見れるというので!ライブハウスのネガポジに行ってきた。もういっぺん言うけれど、僕、そんなに飲みましたか?六千円ぐらいは、持ってきたはずなんだけど!
カレルちゃんがイカすシャツをくれた!黒く、混沌としていて、よく見るとヒョウ柄の、シャツで、イナセだ。自慢げにネガポジの店員に見せたら、チンピラやん!って言われた。ネガポジの店員ってのは、生意気だな!今頃、福井県でキャンプをしているみたいだけれど、雨降ってないといいね!ナハハハハ!今日のブッキング良かった!!ネガポジにしては、実は珍しいブッキングなんじゃないか。カイトさんは色気があってよかった。
いつの間にか来たテツオさんが、夜やね、と言うていた。サザンオールスターズの「サウダージ〜真冬の蜃気楼」を歌詞を変えてカバーしていたり、イナセだ。「普通でやるとかなわんから」と言うている船田はじめ(昆布)。二番目だ。ステージの上であぐらをかいて、しかもエレキを飄然と持っているので、思わず笑ってしまった。しつこいぐらい緑の
照明に当てられている。エレキギターの特性を熟知しているようなエレキギターを弾いていた。出てしまった音を、大切にするという、そういうの好きだ!(ちょっとエラッそうかね?)三番目の山元大造さんも素晴らしかった。一曲目は言葉を疑う歌を歌っていた。二曲目に映画館が消えた歌を歌っていた。最後のフレーズがすごく良くて、
これだけは覚えておこう、と思ったのだけれど、忘れてしまった。「おっさん」という、選挙に出て負けてしまった、なんか家にいたおっさんの歌を歌っていた。カレルさんはトリだった。今回のカレルさんは、なんだか鬼気迫っていたように思える!テツオさんは、PA遊んでるな〜!と感心していたので、その相乗効果なのかもしれない。とにかく迫力があった!うぬ〜。えぐり出すなぁ。声も歌も!
これは、ケンカだ!すっごい力を持ったケンカだ!聞かしてやりてぇよ!あの人によ!
ネガポジのみんなは、海にいっていたらしく、ナンパの話などをしているのを聞いていると、いつのまにか寝てしまった。朝目が覚めたら、ネガポジで、昆布さんはソファーで寝ていた。外は雨だった。ナハハハハ!傘借りて帰る!
東京から来た友達を見送りに京都駅までついていく。京都駅で何か珍しモノを食べようと、オムライスを食べる。最近では、子供のときに避けていたものを食べるのが快感になりつつあり、こないだも、ハンバーグを作ったのだった。こころなしかぐしゃぐしゃで不格好になってしまったが…。おいしいんだけどな〜!ソースも作って、しかも豆腐ハンバーグなのだ。豆腐は偉大だ。僕の住んでいる町は、豆腐がおいしいことで有名であり、この半年で、いろんなものを食べさせてもらい、変に舌が肥えた僕は、カップラーメンのかわりに、豆腐一丁を食べることにしている。友達はヨーグルトストロベリーワッフルなるものを食べた。
友達がいなくなり、手持ち無沙汰になったので、テツオちゃんに電話をかける。ちょうど飲んでいたみたいだ。はっはーん。百万遍へ。百万遍には、牛丼屋の上に妙なビルがあり、そこは飲み屋でひしめき合っている。いいビルだ!そこの三階に、屯風という店がある。泡盛を飲んで、ベロベロになった昆布さんを、ここで見かけたことがある気がして、この店を思い出した。そうそう、島尾の『死の棘』の読書会していた店主の店だ!たどり着くと、日本文学を研究をしにハンガリーからやってきた大学院生であるジュジと、テツオさんのバンド「風の又サニー」においてチューバを吹いていらっしゃる柴田さんがちょうどついたところらしい。早く頼め、と言われて、
テツオさんと同じサケロックというものを試してみる。これがまたいいんですね〜!要するに日本酒のロックな訳なのだが、これが意外に合う!っていうか、サケロックって普通にバンドのみの存在なのだと思っていた。いますよね、サケロックってバンド!出てくる料理も一級品で、きゅうりのたたき、であるとか、おいしいのである。柴田さんが、西京漬を頼もう!と言うと、テツオさんは、西京漬は、世の中で一番おいしい料理だからな!とおっしゃる。果たして出てきたカレイの西京漬は、やはりおいしかった…。なんてったって、世界で一番おいしい料理だからな!とおっしゃる。サケロックがすすむのである。
地質学の研究をしている島根県出身の男の子にテツオさんが絡まれている。この子は実は今事業を起こしたらしく、社長さんだ。社長さんが、社員さんを引き連れて飲みにきている、が、全然そんな風には見えない!寮祭のノリだ。ディープキスなどして盛り上がる。
8•13
ところで、牛丼を食べに自転車走ってきたけれど、子供が多いね!少子化なんか嘘なんじゃない?吉野家に行き、牛丼にネギ玉頼んで、食べてきました。寒い!空調機器過ぎじゃない?ガケ書房もついでによってみて、小島信夫の『小説家の日々』があったので、これから買ってこようかな。あそこらへんは、いい銭湯もあるしね!なんかすごくお金がないんだけども…。昨日そんなに飲んだのかな?
ところで、といえば、僕の論文の草稿を先生が読んでくださったのだけれど、「ところで」という接続詞は、こうこうこうなってこうなることが証明できる、という道筋をたどる論理的思考をしなければいけない、という論文に於いては説得力に欠ける、とおっしゃった。確かに突然な接続詞だと思う。突然なことしか起こらないが!
昨日カジさんから買った、保坂和志さんの『カフカ練習帳』をポロポロ拾い読みする。まさに、この本は、拾い読みするための本である。断片集だからね!こっそり拾い読みをするのが、好きなので、この本は本当に楽しい!『カフカ練習帳』と、ある人から借りた、リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』を交互に読む。その間に手紙も書く。
カレルちゃんがイカすシャツをくれた!黒く、混沌としていて、よく見るとヒョウ柄の、シャツで、イナセだ。自慢げにネガポジの店員に見せたら、チンピラやん!って言われた。ネガポジの店員ってのは、生意気だな!今頃、福井県でキャンプをしているみたいだけれど、雨降ってないといいね!ナハハハハ!今日のブッキング良かった!!ネガポジにしては、実は珍しいブッキングなんじゃないか。カイトさんは色気があってよかった。
いつの間にか来たテツオさんが、夜やね、と言うていた。サザンオールスターズの「サウダージ〜真冬の蜃気楼」を歌詞を変えてカバーしていたり、イナセだ。「普通でやるとかなわんから」と言うている船田はじめ(昆布)。二番目だ。ステージの上であぐらをかいて、しかもエレキを飄然と持っているので、思わず笑ってしまった。しつこいぐらい緑の
照明に当てられている。エレキギターの特性を熟知しているようなエレキギターを弾いていた。出てしまった音を、大切にするという、そういうの好きだ!(ちょっとエラッそうかね?)三番目の山元大造さんも素晴らしかった。一曲目は言葉を疑う歌を歌っていた。二曲目に映画館が消えた歌を歌っていた。最後のフレーズがすごく良くて、
これだけは覚えておこう、と思ったのだけれど、忘れてしまった。「おっさん」という、選挙に出て負けてしまった、なんか家にいたおっさんの歌を歌っていた。カレルさんはトリだった。今回のカレルさんは、なんだか鬼気迫っていたように思える!テツオさんは、PA遊んでるな〜!と感心していたので、その相乗効果なのかもしれない。とにかく迫力があった!うぬ〜。えぐり出すなぁ。声も歌も!
子供のままじゃ僕らは楽しい遊びも知らずに
砂の城を作り続けるだけ
テーブルの上でじゃれあう二人はいつも子供のまま
楽しい夢だけ見ているんだね
悪い子供いい大人あともうちょっとだけ、引用、させてください!
大人になれば誰もが正しい判断を見繕うのさここで見れる!
欺瞞に満ちた不都合な利己心を取り繕うために
テーブルの上に並べたおもちゃはやはり子供のまま
楽しい夢さえ見られないんだね!
これは、ケンカだ!すっごい力を持ったケンカだ!聞かしてやりてぇよ!あの人によ!
ネガポジのみんなは、海にいっていたらしく、ナンパの話などをしているのを聞いていると、いつのまにか寝てしまった。朝目が覚めたら、ネガポジで、昆布さんはソファーで寝ていた。外は雨だった。ナハハハハ!傘借りて帰る!
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