自転車がパンクしたので、今、自転車は、自転車屋さんに、置いといてもらっている。そのことは、昨日の『日誌』に書いてある。今日は、その自転車を、とりに行こう、と思う。それにしても、梅雨らしからぬ、天気だ。こういう天気のことを、五月晴れと言う、と思い空を見上げると、なんだか白んできている。夜になると冷えるので、蒲団をかけようか、タオルケットをかけようか、迷う。蒲団にすると、朝、ものすごく喉が渇く。リンゴジュースをごくごく飲ましていただくけれど、リンゴジュースは、ごくごく飲むようなものではないことをその度に気づく。(甘いから)でも、甘さは、水分の吸収に良い、と聞いたことがあるので、ごくごく飲んでしまう。ごくごく飲むと、甘いから、口の中が、リンゴジュースになってしまう。そして、のどの渇きには、案外、きりがない。麦茶でも作ろうかしら。
大事な時期といわれる。たくさんの期待がかけられる。だけれど、いつだって人は人に囲まれているし、支援してくれている。あるいは、自分が成長をする、まさにそのときの、大事さ、それは、衣食住の妨げ、という意味ではなく、精神の成長、内的な成長、という意味ならば、それはどんな立場でも、どこまでも個人の問題だ。そこに対して、周りの人は、不器用に、言葉を投げかけたりするだけだ。だけ、といったけれど、これはすごく大事なこと。問題は、その言葉、投げかける立場、役割に、どれだけ距離をとるか、ということを認識することになる。周りの人の責任はここまで。 そうだとすると、この人のため、このようにしなければならない、このようにふるまわねばならない、ということが、もしかしたら、そうではないかもしれない。もう少し、自分が好きなように生きていけるかもしれない。もしかしたら、この人のため、という言葉が、何かのいいわけになっているのかもしれない。ただ、ぐだぐだと、現状のこだわりで、世界を見る事もなく、維持しているだけかもしれない。嘘をついている。何かのいいわけであるならば、それは素直に自分がしたいことを見つけられるきっかけになるかもしれない。緊急に、言いたかったから、すごく抽象的なことを言っているみたいで、恥ずかしいけれど、このことにだって、具体的なことから考えている。今は緊急に、言わなくてはいけないと思うから、先走りながらも言っている。話す事はまとまらず、いつも駆け足で言う事になる。時間もない。しかも、緊急だ。僕も大事な時期なのかもしれない。だからといって、いつも大事な時期なので、そのことを絶対視してはいけないし、できない。むしろ、大事な時期、と言葉で裁いてしまうことが、いけないのではないか?人を見ても、子どもを見ても、そこには具体的な愛らしさしかない。書いてある事なんかない。そのひとつひとつに、名前は、つけることはできるけれど、具体的な愛らしさから出発していない考えに、何の意味があるのかわからない。ついつい、先走ってしまったけれど、緊急のメッセージ。
こうしている間に、何度もリンゴジュースを飲んだけれど、口の中にリンゴジュースが、やっぱり残っている。今日の陽気のせいで、身体は熱を帯びている。だから飲まなければならないんだけれど。麦茶が飲みたい。麦茶で喉が癒えるのだろうか。とにかく、何か飲まなければ、やってられない。早く、早く。ますます、ますます。 ますます、つのる。ますます、ますます。………自転車屋さんに行ってきます。
2012年6月26日火曜日
2012年6月25日月曜日
パンク
自転車がパンクした。二年ぶり三回目のことである。
たまにはと思い、自転車屋まで、散歩してみることにした。イヤホンを外して歩いていると、イヤホンをかけて歩いているときよりも、猫の数が増えていることがわかる。昼間外から聞こえてくる音は、小学校の時、風邪の時に早退し、一人で寝込んでいる時に聞こえてくる音を思い出す人は多いと思う。このような音はノイズとして、怖さを感じることもあるけれど、ノイズとは、そのまま、現実の途方もない豊かさを示している。そのように豊かなので、このように断定してしまうことが、惜しくて、正しいことを言ったつもりでも、行為としては、間違っている、と言いたくなる。損なわれて、言葉として、曖昧に、理解されてしまうことには、驚きもないし、危機もない。危機がないという事は、何も変わらないことだ。変わらないということは、戯れと、同じだ。
現実は、否応無しに変わる!自転車がパンクしてしまった!平田オリザはこのようなことを言っている。
先を急ぐようで悪いけれど、あまりに時間がないので言うけれど、途方にくれるのは、何か言葉だとか役割だとかわかりもしないのでついつい観念的に考えがちな未来のことだとかに入れ込んでいる時で、現実に、今、開放的に向き合っていると、つまり、現実の側についていると、救われる、というか、よく見えるようになって、幾分、深刻にはならなくなる。生きる事の豊かさを見るようになると、思う。それは、つまり、どんどん生まれていっている、ということだと思う。そういうことを、ずっと言っていきたい。ずっと言っていく為に、日誌を書いているして、書いてきた。最近は、サボっていたけれど。日誌は、特に考えて書いている訳ではないから、何か考えに貫かれているわけではありません。普段と同じ、特に何も考えていません。利益だとか、得だとか、「なにか面白い話」を供給するために、僕は現実にしゃべっているわけではなくて、ただ、一緒にいて、楽しいから、お話をするし、一緒に生きるのが、わくわくするから、生きる訳です。それにしても、あまりに時間がないです。今日、この今、は、あまりにも時間がないです。とりあえずここまでに、します。
たまにはと思い、自転車屋まで、散歩してみることにした。イヤホンを外して歩いていると、イヤホンをかけて歩いているときよりも、猫の数が増えていることがわかる。昼間外から聞こえてくる音は、小学校の時、風邪の時に早退し、一人で寝込んでいる時に聞こえてくる音を思い出す人は多いと思う。このような音はノイズとして、怖さを感じることもあるけれど、ノイズとは、そのまま、現実の途方もない豊かさを示している。そのように豊かなので、このように断定してしまうことが、惜しくて、正しいことを言ったつもりでも、行為としては、間違っている、と言いたくなる。損なわれて、言葉として、曖昧に、理解されてしまうことには、驚きもないし、危機もない。危機がないという事は、何も変わらないことだ。変わらないということは、戯れと、同じだ。
現実は、否応無しに変わる!自転車がパンクしてしまった!平田オリザはこのようなことを言っている。
演劇とは、リアルに向かっての無限の反復なのだ。その無限の反復の中で、ゆっくりと世界の形が鮮明になっていく。この混沌とした世界を、解りやすく省略した形で示すのではなく、混沌を混沌のままで、ただ解像度だけを上げていく作業がいま求められている。『演劇入門』現実がそのようなものであれば、そのように対応するのが、僕たちができるだけ、不条理に、なんでこんなことが起こるんだろうと、途方にくれないようにして、過ごすための知恵になるのだと思う。とか思ったところで、自転車がパンクしてしまったことは、しょうがないのだけれど!自転車屋さんも閉まっていたしね〜。また明日行きます。自転車を、置いといてください。メモも入っています。
先を急ぐようで悪いけれど、あまりに時間がないので言うけれど、途方にくれるのは、何か言葉だとか役割だとかわかりもしないのでついつい観念的に考えがちな未来のことだとかに入れ込んでいる時で、現実に、今、開放的に向き合っていると、つまり、現実の側についていると、救われる、というか、よく見えるようになって、幾分、深刻にはならなくなる。生きる事の豊かさを見るようになると、思う。それは、つまり、どんどん生まれていっている、ということだと思う。そういうことを、ずっと言っていきたい。ずっと言っていく為に、日誌を書いているして、書いてきた。最近は、サボっていたけれど。日誌は、特に考えて書いている訳ではないから、何か考えに貫かれているわけではありません。普段と同じ、特に何も考えていません。利益だとか、得だとか、「なにか面白い話」を供給するために、僕は現実にしゃべっているわけではなくて、ただ、一緒にいて、楽しいから、お話をするし、一緒に生きるのが、わくわくするから、生きる訳です。それにしても、あまりに時間がないです。今日、この今、は、あまりにも時間がないです。とりあえずここまでに、します。
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