2013年1月7日月曜日

よくアーカイブをとる人だ。
友達の歌の録音はいつも保存している。
そのため、友達の歌が集まる。
写真はパソコンが壊れた時に全て消えてしまったので今はないのだが、それまではもちろん保存していた。
パソコン上にあるデータはラベルをつけやすいので、整理整頓をすることが簡単だ。
ラベルをつけることによってわかりやすくグループをわけることが出来る。
ラベルをつけることによって抽象的にすることができる。
ラベルというぐらいだから、それはパソコン世界だけではなくて、この世界にも応用でき、例えば書類を封筒に入れ、ラベルをつければ、それだけでその書類がどのようなグループの書類なのか、ということがわかり、整理整頓がしやすい。
それだけ、物を抽象的に考えることができ、頭の中で部屋のマッピングがしやすい。
抽象的であるということは、そういう風な意味であるので、きれいな、自分の思う通りに整頓された、抽象的な部屋、というのがある。
本当に、具体でしかないような空間にゴミ屋敷のようなものがあるのかもしれないけれど、ゴミ屋敷は、人の目を引き、ある人は驚き、これはいったい、何なのだろうか、と考えるかもしれない。
ある程度の生活のチエというか、社会性を備えた部屋というのは、ある程度の抽象性を持たなければいけないだろうけれど、抽象的な空間も行き過ぎると私は世界の王になってしまう。
それではまた新しい社会を作ってしまうことになる。
あるいはヒッピーになる。
甘い曲しか作れなくなる人もいる。
歌をCDに音源化する時にかっこをつけすぎてしまうかもしれない。
ゴミ屋敷であるということはしかし、あまりにも具体的すぎて、モノしすぎて、モノしすぎて、というのはつまり、物質物質しすぎて、なにがなんだかわからない。
社会性がない。
それも危険だ。
世界の王は王だ。
いつの世も権力者は領土を広げようとする。
抽象的なところのある権力を持つ権力者は具体的セイカを求める。
やっぱり目に見える物はすごい。
目に見える物を信じようとする。
もちろん目に見えないものをものさしにするので、目が見える訳ではない。
健康に気を使い、子どもの食品に気を配らなければならない。
そういう世の中になってくると、その確かなことにつけ込む人がやってくるかもしれない。
人がいることは確かだ。
健康でいるべきである、ということは確かだ。
一歩一歩定義していってずんずん進んでいく。
まるで前線だね。
そうだよね。
そりゃ前線だよね。
前線でいいよね。
前線のような状況だよね。
自分は確かに一歩ずつ歩いていると思いながらずんずん進んでいく。
そのためにはやっぱり信念みたいなのを持ったり。
暗い過去みたいなのを大切にしたり。
そういう人になめたマネを言ったら、私はすぐにあなたを泣かせられるよ、それぐらいのズバズバは、持ち合わせているよ、と言った。
すいません。
泣くぐらいなら、なんぼでも泣こうと思います。
こだわりません。
ソフィストという職業がギリシアに昔あって、弁論の専門家だったそうだ。
そこでは、対話は勝ち負けで決まっていたのだろうか。
それのほうが具体的なのかもしれない。
ラベリングされているし。
その二人の対話の外側にはその対話をさせた環境があり、人があり、部屋があり、空間があり、様々なかかわり合いがある。
特に耳を澄まさなくても、案外当たり前のことではある。
アインシュタインの部屋は散らかっていたという話しを聞く。
『ユリシーズ』の作者であるジョイスはそこらのチラシさえ拾って引用した。
もちろん、それの方が好都合だから。
部屋の中でなんかようわからんけど手探りでどうやら生きているという感覚はある。
(そういう感覚をもたらすものは、まぁ、肯定するわな。)
(それは別に全肯定ってことちゃうで?)
(その話してる場を肯定しながら意志を伝えるには言葉とは別に行動を考えなければならんでしょ。)
(長生きしよう。)
(余計な力をかけては壊れてしまうということは、ほんの少しの整体の知識が生きました。)
(腰が痛いけれど。)
(本の整理をして腰が痛いです。)