2012年10月13日土曜日

インド

小説

友達に出版関係の人がいるので、時折本を横流ししてくれることがある。特に落葉書房という出版社が素晴らしい。僕は卒論を書いているのだが、時折引用させてもらう本がある。それとは別に、アルフォンソ・リンギスという人がおり、その人の本はいつも、楽しく読ませていただいている。リンギスは現象学者の諸本を英語に訳しているアメリカ人だ。本も書く。『汝の敵を愛せ』という本は、原題ではデンジャラス・エモーションと言うそうなのだが、そこでは、人間が本来持っている情動を見つめ、それを解放していると思われる諸文化を引用したり描写したりしている。このような本を読んでいると、本来の人間の気分というのはこういうものなのか、と、なんとなくそんな気にもなってきて興奮する。そうなると、僕も自然と自分の生き方を見直そうと思い、より自由に生きようと思う。ここでいう自由とは、なるべくここに書かれているような本来的とされる情動を肯定し、その情動を削がないようにしようということだ。とりあえずそう思うことにして、一年間戦い続けていた。南が三回生の時である。

今は先を急ごう。問題は山積みである。目の前のがれきを一つ一つ片付けて行くことしかできないし、それぐらいしか、発想として、ない。南が三回生のとき、つまり、大学に入り三年目ということだが、三回生の秋ごろ、さくらこからメールが来た。さくらこはしばらくアメリカに留学にいっており、そうでなくとも、メールはしない。電話はした。味の素に就職したいらしい。ご飯が食えるからだそうだ。もう、それぐらいしか覚えていない。私は、これから南がさくらこと食事をすることをこの小説に書こうか、と思ったけれど、やめることにする。私は嘘をつきたくはない。それにそんなことを書いた暁には、谷内君という、私の友達をはじめ、様々な人にバカにされることになる。そんなことは避けたい。もうこれ以上、感情に支配されることはやめよう。メールも、実際はメールアドレスを替えたことを知らせるメールだったのだ。本当に何もない。ああ、懐かしいな、さくらこからメールアドレスを替えた事を知らせるメールだ、と思いながら、僕は学食で、豚汁をすすることにした。学食の豚汁はおいしい。豚汁だけがおいしい。モロヘイヤも基本的に好きだから、五回に一回は、モロヘイヤの小鉢を撮ることにしている。あとの四回は、きんぴらごぼうであるとか、ほうれん草であるとか、小鉢の豊富なメニューをとることにしているが、あくまで、おまけな気がする。そんなに量もない。そのために、豚汁をメインにご飯をかき込む。秋は常に風邪気味で、喉が痛くなるが、豚汁をすすっていると、癒える気がする。お茶でもいい。お茶をすすっていると、佐々木さんから、メールが届いた。奥知さんがアメリカに留学していたのは前から知っていたので、ああ、帰って来たのだな、と思い、会おうと思った。会ってくれた。図書館の前で待ち合わせをすることになった。モスバーガーに行くことになった。

「俺、中山と、おいしいものを食いに行こう、と思ってさ、モスバーガーにいったんだよね。らりりながら。何かを吸いながらモスバーガーを食べると、めっちゃうまいのよ。それは、もう、モスバーガーなんかでいいの。もちろん貝とか食べると、すっごくおいしいよ。中山が全部作ってくれるの。一流の食材で。それで吸いながらそういうのを食べていると、もう、うますぎて、笑いが止まらなくなるのね。もちろんモスバーガーでも可。カンズメのさんまとか、僕の家にはあったけれど、中山はそういうのには手を出さなかったな。食品添加物がある、とかなんとかで。中山ってのはそういううところがあるので、例えば、結婚式あるじゃん。結婚式の引き出物にスルメが出たの。やったースルメじゃん!って思うじゃん?うまいじゃん?子供の時食べなかった?50円のやつ。あればっかり食べてた気がする。でも、中山は食べなかった。普通に焼いてるだけの色だったから、別になんもないじゃん、と思ったけれど、どうも原材料みたら、あったんだよね、着色料。おそろしいよね!うん、そういう人がいるの。でさ、モスバーガーなんだけど、受付いったら、もう、笑いが止まらなくなっちゃって、絶対ホモカップルだと思われてたねー。」
「ハハハ」
「アメリカどうだった?」
「アメリカはいいんだけどさ、そんな遠い話しても、面白くないよ。」
「そうかもね。」
「a市の話しない?」
「はあ。」
「a市に行ってたの?」
「そんな時もある。」
「東京とか離脱して、どこか行きたい気はするね。」
「まぁ、分かってるんだけど。」
「a市はとりあえず人が満足して生きているみたいだけど。有機的だし。草木生い茂る国。」
「ゾッとするね。」
「ハハハ」
「それでね、何も考えてないの。みんなヤリまくり。」
「いいじゃんいいじゃん、本来的じゃん。(笑)…ってかさ、a市のどんなところ見に行ってたのさー。」
「本来的?」
「素直でいいじゃん。」
「まあね。欲望持つのは美しいし、欲望に素直なのは、なお美しいよね。…。例えばそういう風潮があるとして、その中で欲望を否定して、もっと社会的に生きようよ!とか、責任もって生きようよ!とか言ったりすると、なんだか、こっちが醜く見えてきたり、ひがんでるような気がしない?」
「それはその界隈が悪いんじゃないの。」
「はあ。」
「どこまでも果てることのないレース…。まぁいつか果てるんだけど。(笑)」
「そんなゲーム降りたい。(笑)私もやって来たんだけど。」
「なんだー。」
「いいじゃん、本来的で。」
「そう、まさしく本来的!ビッチも流行ってるしねー。」

近年では、書店にビッチ論がぽつぽつと出始めている。今年の八月には、『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(松谷創一郎・原書房)が上梓された。また、野田努は『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』(河出書房新社)という本の編集に関わっている。戸川純は、大友良英のジャズアンサンブルに参加し、phewに「諦念プシガンガ」という曲を歌うことを許可している。「諦念プシガンガ」は、このような歌詞である。
空の彼方に浮かぶは雲
嗚呼我が恋愛の名において
その暴虐の仕打ちさえ
もはやただ甘んじて許す
牛のように豚のように殺してもいい
いいのよ我一塊の肉塊なり
大体このような歌詞であり、大友良英のユニットではphewが歌っている音源を聞く事ができる。 純はphewをリスペクトしているようで、それは戸川純の書いたアーントサリー(phewが昔やっていたバンド)を見ていても分かる。phewはビッチという感じはしない。戸川純はより身体性があったり、危うかったりするので、退屈を埋めようとする多くの人がファンになることがあり、そのファンは少し特徴的な性格を持っているようである。それはそれとして、近頃戸川純を聞き直している。とてもいい。恋をしたからかしら。恋はいい。もうそれぐらいしかすることがないような気がする。そんな気もする。少し前に、『ヘルタースケルター』という映画を見に行ったことがある。まるで戦間期のドイツの、表現主義的な映画、例えばカリガリ博士みたいなの、をまるまるギャル的な装飾にして、満たした映画で、あれはセットや小道具が一番すごい。金もかかっている。やはり私たちは、金やセックスを回し回しして生活していくしかないのだろうか……(絶望)と思って映画館を出ると、偶然一緒に見ていた吉村さんが、「主人公の女の人が水に沈み行く場面で戸川純が流れてたね!」と言ったらものすごい勢いで雨が降って来た。ここで雨宿りをしようよ!と手を引っ張りなんかヨーロッパでブランド展開してそうな雑貨屋さんに入るけれど、全くやみそうにない。「私、耳にピアスしていたの。片耳に、五つ!」
「すごい!不良じゃん!」
「それは違う。でも金属アレルギーだったからすごいことになっちゃった。気づかなかったなー…。」なんとなく金原ひとみを思い出した。正月になり、実家に帰ると、いつも金原ひとみをブックオフで、100円ぐらいで売っているので、買い、読む。だから、なんとなく覚えているのである。
「金原ひとみみたいじゃん!『蛇にピアス』とか、そんな世界?いや、案外『アミービック』的なのかもなー。かっこいい!」
「違う。」
「別に何もない。私は特に錯綜などしていない。めちゃくちゃな事ばっかりしてると思うよ?それで人に迷惑をかけてるのかもしれない。それで自信をなくす事だって多々ある。でもいいじゃん。そんなのことはどうでもいいの。私は、これからも生きて行かなくちゃ行けないんだから。」
というような事を関西弁で言った。